おれにまかせろ第四章 逃亡計画
第四章 逃亡計画
「時期だよ。ものごとには時期というものがある」乞食は言った。「今、君ら二人がいっしょにいなくなって、トロイがそれを知らないと言っても、あまりに不自然だ、無理だ。信じろと言ったって信じられない」
「でしたら…」パリスはせきこんで聞いた。いつの間にか敬語になっている。
「これが、あとひと月かふた月、あるいは半年ほどして、ふっと君がいなくなったら、どうだろうか。それも鯛でも釣りに海に出て、小舟だけ浜に打ち上げられていたとか、猪狩りに山に行って、崖のあたりで見えなくなって、馬だけとことこ帰ってきたとか」
「僕が死んだことにするんだね!?」パリスは声をはずませた。「それ、山の方がいいなあ」
「どっちでも君の好きな方を選ぶさ。きっとお父上と兄上が盛大な葬式をあげて下さる。まあ、君の死を認める悲しみに耐えきれず、いつか帰ってくると信じて、そのままにしているというのでもいいが」
葬式をあげてやる、とヘクトルは心の中でののしった。うれし涙を流してやる。
「もちろん、これは君が誰にも知られず、一人きりで身分もかくしてこっそりと森の奥で暮らせるとしての話なのだが」
「僕できます、そんなの平気です!」パリスは小躍りせんばかりだった。「森が好きなんです。実際にそうやって暮らしたこともあるし、ずっとそうしたいって思ってたから!」パリスの声がちょっと曇った。「でも、それであの…王妃は?」
「彼女にはスパルタにいったん帰ってもらう」乞食はきっぱり言った。「それも、一人で。兄上の言う通りだ。君がいっしょについて行ったのでは、まとまる話もまとまらない」
「でも、メネラオスが…」パリスの声がとたんにおろおろしはじめた。「彼女にひどいことをする」
「私にまかせておけ」乞食は堂々とうけあった。「男心ならわかっている」
「僕だって男だよ」パリスは言い返し、ヘクトルは頭をかかえようとした拍子にヘレンと目が合い、思わずわけもなくものすごく共感しあったまなざしを交わしてしまったような気がした。
「夫の心と言い直そう」乞食は言った。「こういうことは夫としては、なかったことにしたいものだ。一番いいのは、何ごともなかったように、すまして妻が戻ってきて、いなくなったときっちり同じその時から、まったく変わらないように生活をつづけることだ。それで夫は安心する。何があったか問いただせる勇気のある者などめったにいない」
「メネラオスは残酷だよ」パリスは言った。「人を殺すことなど何とも思っていないし、弱い者をおどかして、もてあそぶことだって平気だ。妃の弱味をにぎったら勝ちほこって彼女をしたいようにする。それに、誇りを傷つけられて怒っている。その怒りをそのまま彼女にぶつけるだろう」
「堂々としていればいいのだ」乞食は言った。「おびえていても、それを見せるな。むしろ、決しておびえるな。卑屈になったらおしまいだ。それだけの者としてしか扱われない。自分を高く売りつけろ。相手をどれほど愛しているのか憎んでいるのか、決して相手に悟らせてはならない。おまえには屈服しない、すべてをあけわたしも、ひきわたしもしないという気迫を見せれば、それがあなたの魅力となって、尊敬も、愛情も、かちえるだろう」
「あの人は嫉妬しますわ」王妃は沈んだ声で言った。「実は自信のない人なのです」
「願ってもないことではないか」乞食は言った。「嫉妬深くて自信のない人間ほどあやつりやすいものがこの世にあるか。やつに、自信をつけてやれ。王子のことを聞かれたら、冷たい目をしてあざ笑え。あんな若い男、遊びの相手にでもすぐあきるわという顔をしてみせろ。わからない風だったら口で言え。あなたの方がずっとましよと。本当に彼があなたの言う通りの人間なら、それでもう彼はすべてを許す。あなたの思うようになる」
乞食は身を乗り出し、強い目で王妃を見た。「力がないなら頭を使え」彼は言った。「相手の自尊心をくすぐりながら、言いたいことは皆しっかり言え。謎めいて自分の心をつかませるな。価値あるもののように見せ、自分を高く売りつけろ。これまでだって、あなたはそうして自分を守ってきたんだろうが。もう少しだけ、それを続けろ。もう少しだけ、愛のために」
「そうしていたら」妃はつぶやいた。「そうしていたら、どうなるの?」
「これまであなたに、明日はなかった」乞食は言った。「これからの日々は、それがちがう。あなたは明日を待てる。そうやって半年か、長くても一年すぎれば、彼と同じようにあなたが消えても、もうメネラオスはあなたとパリスを結びつけない」
「そうか?」ヘクトルは思わず言った。
「そうさせるためには、君の役目もある」乞食はヘクトルに向き直った。「その半年か一年で、トロイとスパルタの結合を磐石にしろ。たかが妃を失ったぐらいどうということもないぐらい、君の国とのつながりの、うまみを彼に思い知らせろ。同時に彼を忙しくしろ。弟君に聞いたらきっとわかるだろうが、戦っているのと同じぐらい、平和な日々もまた忙しい。祭りに、行事に、宴会に、会議に、彼をかり出し、走り回らせ、妃のことなど忘れさせろ」
「そして半年か一年したころ」乞食は言った。「王妃もまたいなくなるのだ。これまた舟が沈んでもいい、野遊びにお出かけ遊ばした時に山賊たちにさらわれたということでも。もちろんその山賊たちは、こちらが雇わなくてはなるまいが、まあそのへんはゆっくりと考えるとして。それまでに、あるいは君の侍女の中で、野心ある気のきいた女をせいぜい言いふくめて着飾らせて、メネラオスの回りをちらちらさせておけ。君がいなくなっても彼が、それほど悲しまないですむように」
「そして僕たちは…」パリスが声をはずませた。
「そして君たちは、どこかで落ちあい、手をとりあって森の中へ消える」乞食は両手を軽く広げた。「そして皆が末長く幸せに暮らす」
そううまくいくものだろうか、とヘクトルは思った。
「うまく行きそうだね」パリスはヘレンをふり向いた。「君はどう?それで、うまくやれそう?」
ヘレンは目を伏せ、注意深く考えてみているようだった。「そうね」と彼女はやがて、うなずいた。「そうね…そういうことだったら何とか」そこで彼女の視線がまた、おびえるようにゆれた。「でも私…」
「彼が恐いか?」乞食はのぞきこむように彼女を見た。「では、とっておきの秘策を教えるよ。メネラオスを愛してしまえ。愛しているつもりになれ。その気持ちの趣くままに、ふるまって、語れ。特に彼がどうにもこうにも手におえないと思ったらな。命がけで、ほとばしる強さで、彼への愛を告白するのだ。彼が喜ぶよりも、とまどっておびえて、やがてうっとうしくなるほどにだ。ずっと、愛していたと言え。あなたの愛がものたりなかったと怒ってののしれ。放っておかれたのが淋しかったとめそめそ泣け。どうでもいい男と逃げて、あなたの気をひいたのだ、そんなこともわかって下さらないのかと訴えろ。あなたがそれで私に怒り、殺してくださるのなら、これ以上の幸せはない、あなたの愛を確認できたのだから…そう言って、その美しい唇に天上にほほえみを浮かべるのだよ」
妃は目を丸くして、息をのんだ。「私が…?」
「肝心なのはだ」乞食はおどけて眉を上げた。「あなた自身がそう思いこんでしまうことだ。冷たい、なぞめいた仮面を彼に見せてはいるが、誰も知らない心の底では自分はこの人を火のように愛している。そう思い込め。そうなりきれ。計算しつくされてボロの出ない最高の演技を、手っ取り早く確実にやってのけるには、それが一番簡単なんだよ。自分で信じ込むことが。そうすれば、絶対に恐れは消える。のびのびと彼に何でも言える。それが相手を圧倒し、萎縮させ、否応なしにあなたに一目おかせることになる」
ヘレンの目がきらきらと少女のようにいたずらっぽく輝いた。「私に…できるかしら?」
「できるとも」乞食は強くうなずいた。
「危ないことはないかしら?」
「これが本当の愛なら危ないさ」乞食はすましてそう言った。「君は嫉妬に狂い、不安におののく。彼の愛を失いはすまいかとか、彼を不幸にしないかとか、いろいろな雑念が入って判断が狂う。愛ゆえの欲目で相手をかいかぶるし、甘くもなる。しかし、手段として、お芝居のための愛だから、君は冷静さが消えていない。計算をまちがえることなく、我を忘れて溺れることなく、正しい態度がとれるはずだ。いいか、愛はうまく使えば最高の武器だぞ。ほどよく、自分の役にたつ程度にだけ、危険な毒薬を調合するように、きっちり量をはかって愛するのだ。そうすれば、完璧にあやつれるのさ。どんなに強い相手でも」
ヘレンは声をたてて笑った。子どものように生き生きと。「やってみるわ」
「よし、いい子だ」乞食は満足そうにうなずき、にっこり笑ってヘクトルの方に向き直った。「そうと決まればもうここに、ぐずぐずしている必要はないな?」
ヘクトルはうなずいた。「そうだ。船を出そう」
言いながら、また軽い目まいがしていた。本当にこれでいいのか?うまくいくのか?だがもう、船を出すしかない、と彼は思った。
***
風向きは順調だった。
飛ぶように船はスパルタめざして走った。
少し風が強すぎる。はためく帆を見上げながらヘクトルがそう思っていると、乞食もそばで空を見上げて「嵐になるな」とつぶやいた。「この季節だし、長くは続かないだろうが」
次第に激しさを増す風に、朝にはなかった、ひやりとする冷たさと水の匂いがまじっている。そして、かなたの青い空にぽつんと小さいしみのように黒い雲が現れたかと思うと、それがたちまち、うさぎほどの大きさになり、ついで羊に、牛ほどになり、みるみる空全体をおおった。
テクトンに命令し、帆がずたずたにならない前に、小さい島を見つけて、その岩かげに船をとめさせた。さっきアキレスに会った島とはうってかわって、ごつごつと黒い岩と砂しかなく、それも歩けば数分で横切ってしまえそうなほどの小島だった。
風はますます荒くなり、雨がたたきつけるように落ちてきた。海いっぱいに、獣のつめのような白い波頭が一面に現れてきた。王妃と弟をどこか島の安全そうな場所においたら戻ってくるとテクトンに言いおいて、ヘクトルは、ばちばちと音をたてて砂にめり込む強さで降りはじめている白い雨の中を、巨大な岩の重なり合う方へ向かって走った。今はその、ゆらぎもしないどっしりとした黒い岩のかたまりが、いかにもたのもしく見えた。乞食も、雷はきらいだとか何とか言いながら、犬を連れて、いっしょに走ってきた。
ヘレンに手を貸して雨の中を走らせながら、パリスは心なしか元気がなかった。計画を頭の中でじっくり検討している内に、不安になってきたのかもしれない。当然だとヘクトルは冷やかに思っていた。さっき、雲が出てくる少し前の甲板で弟は乞食とヘクトルに、妙に淋しげな心もとない声で、「一年も二年も離れていて、自分たちの何かが変わってしまわないかと思うと、胸が苦しくなる」と打ちあけた。「こんな、今、彼女に対して抱いているような気持ちは本当に生まれて初めてだから、どうなるか、自分でも先のことがわからなくて、それがとても恐くて」
「それは君たちが今日から毎日、閨をともにして朝から晩までいっしょにいても、まったく同じことだろう」乞食がさとした。「そうしていたって、消える時には愛は消える。逆に、離れていることで、ますます確かに燃えつづける愛もある。君たちの愛だって、そうなるさ。自信を持つんだ」
パリスは、すがるような黒い目で乞食を見て、「そうだね」と自分に言い聞かせるようにうなずいて、それきり何ももう言わなかった。
だが、その顔は晴れてなかった。今もそうだ。淋しげで不安そうな影はますます濃くなっているようだった。逆にヘレンは落ち着いている。雨にぐしょぬれになって走りながらも、その顔は少しもおびえておらず、むしろ明るく晴れ晴れとしていて、ヘクトルの目には彼女は、これまで一番美しく見えた。
稲妻が空を切り裂き、雷鳴がとどろいた。あたりはもう、夜のように暗くなっている。乞食と犬がすばしこく、岩から岩へと移動して、人の入れる乾いた洞穴をさがしている。間もなく彼はこっちだと手招きしたが、ヘクトルたちがかけよって行くと、あらためて頭を穴の中へつっこみ、片手でヘクトルたちを制しながら「失礼した」とあわてたように声をかけた。「誰もいないと思ったものだから」
「かまわん。入れ」雨と風の音をついて、朗々たる声音がヘクトルたちの耳にまで届いた。「おれ一人しかおらんし、場所ならたっぷりある」
雨はすでに、滝のようだ。沖を照らして青白い稲妻がつづけさまに光る。首をちぢめて一同は、さらさらと乾いた砂があたたかく広がる洞窟の中へと足を踏み入れた。
奥に行くほど洞穴は、驚くほどに広い。その奥まった場所に小さいたき火が燃えていて、ゆらゆらと金色の光を岩壁に投げかけている。腰布だけの裸の大男が栗色の髪を肩に振り乱し、その火の前にどっかりと座って、手にした木の枝で炎をつっついていた。
「ずぶぬれだろう」男は言った。「もっとこっちに来て、火にあたれ」
ヘクトルたちは近づいた。男は耳をすませ、鼻をうごめかすようにして、「女がいるのか」と洞穴の中にこだまを返すような、底力のある太い声で聞いた。
「ああ」乞食がヘレンを火のそばに座らせながら、あっさり聞いた。「目をどうかしたのかね」
「毒矢にやられた。ついこの間の戦いの時だ」男はからからと笑った。「だが、舟はこげる。風の匂いで方角はわかる。だから、あちこち旅をしている。だいぶ目も治ってきた。片方はだいたい元に戻ってきた」男は乞食をじっと見た。「君をどこかで見たような気がする。声もどこかで聞いた気がする」
「おれもあんたを知ってる気がする」乞食はくつろいだしぐさで火の前に足を投げ出していた。「名前は何だ?」
男はまた豪快に笑った。「こんな姿で名乗りたくはないな。君たちは皆、勇士らしい。戦場であいまみえた時、あらためて名を告げあおう。それまでは名もないどうしということに」
「いいでしょう」乞食が言うと、男は心地よげに笑った。
それにしても巨大な男だった。大抵の男よりは背の高いヘクトルを両腕ですっぽり抱えてしまえそうなほど、上背があり肩幅も広い。手や足は松の木のように太く、筋肉が隆々と盛り上がっている。一人でいると、その大きさがあまり目立たないのは、よくつりあいのとれた身体つきだからだ。その手足にも胸板にも数知れない白い刀傷や矢傷の痕が残っている。脇腹の青黒く光って爛れた新しい傷は、さっき話していた毒矢の痕だろう。それももう肉が盛り上がって回復しかけていたが。
「いくさの話を聞かせてくれ」男は楽しそうに言った。「しばらく戦っていないと、世の中のことが何もわからんから、退屈でたまらん。ギリシャの情勢はどうなっているのだ?勇士アキレスは活躍しているか?トロイの王子ヘクトルは、また新しい武勲をたてたか?」
細くのぼる煙の向こうから、パリスがちらとヘクトルを見た。小さい頃からずっと、こうやって兄の名をあげて人がほめそやす時にいつも見せる、尊敬と誇りのまなざしで。ヘクトルは黙って弟の視線をはずし、ぱちぱちと小さい音をたてて燃える小さい黄色い炎を見つめた。
ずっと、弟のこんなまなざしを受け、自分は戦ってきた。ささやかな、でも強い喜びに、心を支えられて。
でも、その結果がこれなのか。
***
「アキレスは最近テッサリアで、かの地の最強の戦士ボアグリアスを倒したらしい」乞食が言っていた。「身体がすれちがった一瞬で、首筋を刺して、ただ一撃で確実に」
「向かうところ敵なしだな」男はすっかり感嘆して、のどを鳴らさんばかりだった。
「それでテッサリアもアガメムノンと同盟を結ぶらしいな。そのようにトリオパス王が誓約していたものだから」
「むむむ」男はうなった。「またしても、長い歴史を持つ国がアガメムノンの軍門に下るか」
「おぬし、アガメムノンに恨みでもあるか?」乞食がくつくつ、のどで笑った。
「恨み?いや、ない」男は腕組みしていた腕をほどき、ぴしゃっとひざを平手で打った。「アガメムノンは立派な方だ。尊敬している。あの方のおかげでギリシャ全土がまとまった。国々は豊かになり、国どうしの争いも止んだ」
「だが、困るんじゃないのかね?」からかうように乞食は聞いた。「戦いがなくなれば、君は?」
「戦いはなくならんさ」男は楽しそうに言った。「ギリシャがまとまれば、次は海を越えてトロイだ。トロイの次はヒッタイトだ。その次は?名もまだ知らん、そのもっと東の国だ。戦う敵に、際限はない」
乞食は笑って火を木の枝でつっついた。「トロイが、そう簡単に落ちるかな?」
「落ちまい」男はまた腕をくんだ。「へクトルは豪勇で、指揮官としても最高に優秀な男だ。海戦にも騎馬戦にもすぐれている。射手隊もみごとだ。やつの海軍に負けた軍船の群れが波間にただよっているのを見たことがある。帆柱という帆柱に、まるで飾りのように兵士たちが鈴なりに矢で射止められて、はりつけられていた。やつは、帆と楫をあやつって敵船の間を機織りの糸のように縫って走り回り、死の風のように矢の雨がふりそそいで甲板にいる者を皆殺しにすると言う。そして、あの城壁!騎馬隊!」男はわくわくしたように身体を左右にゆすった。「かの地での戦いは長びこうよ。手強い敵だ。だが、だからこそ楽しいのだ」
男の声は力強く生き生きとはずんでいる。片方の目は見えていないはずなのに、ここにいる者たちの中で彼が一番生気にあふれ、明るく力に満ちていた。どんよりとヘクトルの心にかかって、閉ざしていたぶあつい霧のような迷いを、その堂々と太くよくひびく声が、突風のように吹き払って行く。乞食の顔にも、いつもただようけだるさはなく、ほおはかすかに赤みを帯びて熱っぽくなっているようだった。この男も戦士だったのだな、と何となくヘクトルは思った。パリスの目までがきらきらと輝いて炎の光を受けて燃えている。洞穴の外では激しい風の音がしていた。
男が言っているのは、どの海戦の時のことだろう?ヘクトルは思った。何度か、そういういくさがあった。霧の中や朝もやの中、一気に相手の陣をついて、死をもたらす嵐のように、自分の船は船団の先頭を、波を切って進んだ。かじ取りも漕ぎ手も雄叫びを上げ、射手たちは、ゆれる甲板で落ち着いて弓に矢をつがえ続けた。敵も応戦してくる。次々と味方が倒れる。右へ、左へ、と声をからして指示しつづけるヘクトルのわきで、ついにかじ取りも胸に矢をうけてどうとあおむけに倒れた。それを足でわきに押しやって、ヘクトル自身がかじをつかむ。その腕に矢が刺さったが痛みはまったく感じない。船べりをこえて飛びこんできた敵がへクトルに向かって剣をふりおろすのを、まだ少年のような兵士がくいとめて、たがいに刺し違えて組み合ったまま甲板に倒れながら、ヘクトルを見上げてにっこりと笑う。二人の鎧が甲板にぶつかって激しい音をたてて鳴る。
次の敵が襲いかかるのをヘクトルは片手の剣で応戦する。誰かがはねとばした敵の首が目の前をごろごろを転がって行く。片手でつかんだかじを離さず、帆にうける風の力と戦いながら、うけ流しながら、自分は船と一体になる。兵士たちのすべてと、ひきつづいて波をわけてくる船団のすべてと一体になる。痛みも恐れも感じない。
戦いは長びくだろう。敵は手ごわい。だからこそ楽しい。
つんざくように誰かがあげた激しい悲鳴を、ヘクトルは聞いた。
それがヘレンの声だということを、ヘクトルはとっさに気がつかなかった。顔を上げてヘレンを見た時、それが彼女だということも、とっさにはわからなかった。
ヘレンの目はつりあがり、口は大きく開かれて、意味のない怪鳥のような声をそののどからつづけさまにほとばしらせていた。髪をふり乱して彼女は立ち上がり、衣の乱れもかまわずに、洞穴の外へかけ出そうとして、ひきとめるパリスに抗っていた。押しすえられると、獣のように四つんばいになって砂をかきむしり、這ってでも入口の方へ行こうとする。その間も、とだえることなく唇からは、あの意味不明のぞっとするような絶叫が上がりつづけている。
「何だ?何だ、どうしたのだ?」男までもが、たじたじとして座ったまま後ずさりし、両手であたりを手さぐりした。「誰か来たのか?おまえたち、女に何をしている?」
「何もしてなんかないよ!」パリスが息を切らせながら抗議した。「何もしてない、彼女がいきなり…」
乞食もヘクトルも、あまりのすさまじいヘレンの形相に恐れをなして口も手も出すことができない。弟は勇気がある、とヘクトルがこの際変な感心をしたそのとたん、ヘレンは恐ろしい力でパリスをふりはなして炎のそばにつき倒し、狂った狼のように入口へ…嵐の中へとかけ出して行った。
***
そこでようやくヘクトルの手足が反応して、はじかれたように彼はヘレンを追って飛び出した。
「女を苦しめてはいかんぞ!」男が背後で叫んでいるのが聞こえたが、すぐにすさまじい嵐の音にかき消された。
風も雨も、どうやら今がたけなわらしい。白く横なぐりにたたきつける雨に、一寸先もろくに見えない。海はまっ黒に荒れ狂い、壁のように高い波が浜辺に向かって押し寄せている。
ぱっと光った稲妻の中に、ヘレンの金髪がちらと見え、一瞬のためらいもなく彼女がその波の中にまっしぐらに走って行くのが見えた。
「待て!」声を限りにヘクトルは叫んだ。聞こえるわけもないとわかっていながら。そして彼も妃の後を追って海の中へと突進した。
すさまじい力で波が彼をたたき返し、よろめいた足をすくいあげ、さらって行こうとした。塩辛い水をがぶりとのんで彼はむせた。ヘレンをつかまえたとちらと思ったが、衣がさけて手に残っただけだ。波の間をヘクトルは空しく手さぐりした。
耳を聾する波と風の音の中に、激しくほえる犬の声がした。乞食の犬がヘレンの衣をがっきとくわえて、ヘクトルの方にひき戻そうとしている。ようやくヘクトルの腕がヘレンの肩にかかって、身体をかかえた。
それでもなお、彼女は沖の方へ行こうとしている。何の迷いも恐れもなく、まっしぐらにそちらへ進もうと全身でもがき続けている。
「ヘレン!」雷鳴にまじってパリスの泣くような声がした。乞食もいつの間にかそばにいた。男三人と犬一ぴきでひき戻しても、なおもずるずるひきずられるほど、ものすごい力で王妃は沖へ行こうとしつづけた。
どうやって浜辺に戻ってきたのか、ヘクトルは覚えていない。
風は少しだけおさまっていた。雨はまだ激しく降りつづけ、波も高く打ちあがりつづけている、その前の浜で、衣も半ばちぎれた半裸のまま、金髪をべったりと白い肌にはりつかせて、ヘレンは一人で立っていた。疲れはてて、周囲にぐったりはいつくばったヘクトルたちを見下ろしながら、彼女はしぼり出すように叫んだ。
「あそこへは帰らない。私は帰れない」
「別の洞穴を見つける」乞食が顔を手でぬぐった。「だから…」
「彼女は洞穴のことを言ってるんじゃない」パリスがうめくように言った。
ヘレンは激しく何度もうなずいた。「スパルタへ戻るなら、ここで死ぬ!」
「狂ったのか」乞食が息をきらせながらなだめた。「落ち着け…」
「私は狂ってなどいない。狂っているのは皆よ!世界が狂っているのだわ!」ヘレンは絶叫した。「人を殺した話を、皆で楽しそうに!人を、人を、殺した話を!自分に何もしたことのない、知らない人を殺した話を!得意そうに!うれしそうに!うっとりとした顔で!」
彼女は挑みかかるように海の方へと目を向けた。老婆のように肩をこごめて、獣のような憎しみをこめて。
「あそこでも、そうだった。毎晩、毎晩、そうだった。あの通りだった。さっきの通りだった。どうして平気で話せるの!?知らない人を殺した話を!?どうして誰もそんなことを、おかしいとも思わないの!?」
「そんなのは…」乞食がこぶしで砂をたたいた。「それが世の中だ。何を今さら、子どもじみたことを!」
「そう思っていたわ」妃は足を踏み鳴らした。「そう自分に言い聞かせていたわ。あきらめていた。これ以外の世の中はないと。人を殺さない男などいないと。殺したがらない男などいないと。パリスに会うまでは。この人を知るまでは。でも、もう会ってしまったわ。知ってしまった。もう、あそこへは戻れない。もといた場所にも時間にも。メネラオスに指一本、この身体にふれられたら、それだけで私は気が狂う。そんなことされるぐらいなら、ここで死ぬ!」
乞食は憤然と、立ち上がり、ヘレンと向き合って立った。
「がまんできると思っていたんじゃなかったのか、そんなことは何もかも?」
「忘れていたのよ、あの人がどんなにきらいか!」こぶしをにぎってヘレンはわめき返した。「大きらいだから、ひどい嘘をついてだましてやるのも面白いって思っていたけど、そんなことをするのさえいやなほど、きらいだってこと忘れていたわ。さっき、洞穴の中であなた方の話を聞いていて、何もかも思い出した。戦いの話をするからだけじゃない。あの人のすべてがきらい。顔も姿も声も話も、キスのしかたも何もかも!そしてパリスのすべてが好き、髪の毛の一筋、身体のすみずみ、心のすべて、この人のものなら何もかも。この身体も心も彼のもの、それをメネラオスにもう一かけらも与えたくない!私のすべてはパリスのもの、彼には何も渡せない!」
横目でついヘクトルが見てしまった、砂の上に両手をついてヘレンを見上げているパリスの顔は、幸福の絶頂で酔いしれて、もうたった今死んでもいいと思っている、すでに半分恍惚として意識を失いかけているような人間のそれだった。「ヘレン…」と彼はささやいた。「僕は…僕…」
「それ以上言うな」歯をくいしばってヘクトルはおどかした。「せめて、二人だけの時にしてくれ」
乞食は片手で髪をつかみ、片手でこぶしをにぎりしめて、砂の上に突っ立っている。しかしヘレンがよろよろとまた波の方に歩き出そうとすると、片手をのばして、「待て」ととめた。「何とかするから、ちょっと待て」
皆が一度に彼を見つめる。「おれにまかせろ」と乞食は言った。「とにかくな…時間をくれ」
「おうい、どうしたんだ!?」洞穴の入口に、あの大男が現れて、心配そうにこちらに向かって叫んでいる。「大丈夫か、女は何ともなかったのか!?」
「すぐ戻る」乞食は雨の中から叫び返した。「すぐそっちに行く…心配するな」
足をひきずりながら、とぼとぼと洞窟の方にひき返して行く一同の背後で、青黒い波はなおもすさまじく荒れ狂い、白いしぶきを暗い虚空に投げつけていた。
ヘクトルと乞食は、雨でぐしょぬれになってふるえながら、洞穴の外の岩壁によりかかっていた。パリスとヘレンは中にいて、たき火で身体を乾かしている。
「もうだめだな」両手で腕をかかえて、ヘクトルは雨の落ちてくる空を見上げた。
「まあ待て」乞食はぽたぽたしずくの垂れる前髪をかきあげて、うなった。
「だってもう、あれじゃ妃は帰らないだろう」
「うん、まあな」乞食はふうっと息を吐いた。「まず無理だな」
「どうするんだ?」
「計画をねり直すしかあるまい」
ヘクトルはうつむいて、深々とため息をついた。
「そう気を落とすな」乞食がなぐさめた。「まだ望みがまったくなくなったというわけではない」
「うまく行くと思っていたから」ヘクトルはしょげた。
「まあ、こんなのはよくあることさ」乞食は片手であごをなでた。「いちいち、がっくり来ていたのでは、とても身がもたないよ」
「君は本当に立派だ」ヘクトルは正直に言った。「どんな大国の王になったって、やっていけるだろう」
「おほめの言葉はありがたいが、それを言うなら、どんな小国の王になっても、だ」乞食は笑って訂正した。「大国の王なんか誰だってなれる。おや、これは失礼、君はおっつけトロイという大国の王になる身だったな」
「それまで国があればの話だ」
乞食はヘクトルの方に向き直った。「アキレスやさっきの男や、君の弟君の能天気もどうかとは思うが、君のその悲観主義も何とかならんのか?」
「生まれつきだよ」ヘクトルは悲しげなため息をついた。「それに私でなくたって、この状況から普通希望は見出せないぞ」
「まあ、こうやって雨に打たれていてみろ」乞食は心地よさそうに目を閉じて、顔をあおむけた。「悩みも過去も次々に洗い流されて、新しい知恵と力が泉のように身体の奥からこんこんとわいて来る気がしないか?」
「骨まで冷えて風邪をひきそうなだけだ」
「まったくもう」乞食は首をふった。「そんなにがっくりきている君がかわいそうだから教えてやるが、実はひとつ、名案がある」
ヘクトルは疑わしげに乞食を見た。「これまでのとはちがうやつか?」
「もちろんだ」
「さっき、計画がだめになったばかりだぞ。なのに、そんなに早くすぐ次を思いつくのか?」
「そんなに不信にみちた目をするな。君のそういう目で見つめられると、相手はひるんでしまうだろうが」
ヘクトルは肩をすくめた。「君にそういう心配はあるまい」
「君の心配性をなだめるために言っておくと、この計画は実は最初から考えていたんだ」乞食はヘクトルのびしょぬれになった肩を抱いた。「でもな、無理だと思ったんだよ。あの上品で無表情で人形のような妃を見ているとな。だが、さっきのお姿を見てひらめいた。私の芸術家魂が燃え上がった。この計画をあの妃で実現したい。ぜひともやって見たいがどうだ?」
「まだ聞いていない」ヘクトルは乞食の手をふりはらった。「いったい、どういう計画なんだ?」
「アポロン神にとりつかれて、妃が気が狂ったことにする」
ヘクトルは呆然と口を開けた。「神罰が下る」と思わず言ってしまってから、日頃父に信仰がたりないと説教されることが多い自分も結局トロイの人間だなあとうんざりした。乞食がくつくつ笑った。「トロイの都を守るためだ」と彼は言い聞かせるような口調になった。「守護神アポロンはきっとお許し下さるさ」
「妃が狂って、こっちが気づかない内に船に乗ったとメネラオスに説明するのか?」
「どうしてもトロイに行き、神殿でアポロンにお目にかかると口走って聞かないと言うのだ。船底にひそんでおられるのを発見した時は、すでに正気を失っておられたと。一応引き返してはきたが、とにかくトロイにお連れして神殿で祈っていただくのが、一番正気を取り戻すよい方法と思いますと。そして、数か月、できれば半年、妃をトロイに滞在させる許可をもらう。あとはその滞在をずるずる引き延ばし、その間に次の手を考えるのさ」
「私がメネラオスだったら」ヘクトルは力をこめて言った。「まず絶対に了承しない」
「ほうう」乞食は自信ありげに目を細くして笑った。「この計画を最後まで聞いてもか?」
降りはじめた時と同じように、突然に雨は上がった。海の上には大きな淡い虹が孤を描いて、灰色の空に浮かんでいた。
その美しい彩りに目をやる暇もなく、テクトンたちが船の被害を忙しく調べている近くの砂浜で、乞食は三人を前にして新しい計画を説明していた。例の大男は洞穴から出て来て、ふりそそぐ太陽のもと、心地よさそうに砂浜をぶらぶら歩いては、乞食の犬に木切れを投げて拾って来させたり、時には力試しのつもりか、そのへんに転がっていた大石を両手でかつぎあげては、海に放りこんで高い水柱をたてている。犬はそのたびに驚いてかけ回っては吠えていた。
「神々にとりつかれて、いきなり狂気に陥った男女の話は腐るほどある」乞食はパリスとヘレンに言った。「君たちだって、これまでに一人や二人は見たことがあるだろう。彼女は上陸する必要はない。王子たちがメネラオスに説明に行く。ただしもちろん、メネラオスやその家臣は船に確認しに来るだろう。そこがあなたの腕の見せ所だ。アポロンが私を呼んでいるとか何とか、後はもうなんでもいいから、ひたすら意味のないことを口走れ。鳥のことでも花のことでも、思いきりみだらなことでも。そして衣をひきちぎり髪をかきむしって、叫び声をあげろ。さっき洞穴と浜辺であなたがやった、あれで充分だ。あの迫力を忘れずに。細かいことは私が教えてあげるから」
「メネラオスが信用するかな?」パリスが不安そうに言った。「信用したとしても、そう簡単に彼女がトロイに行くことを許すだろうか?」
「彼女をトロイに行かせるだけなら、おそらく彼も承知はすまい」乞食はうなずいた。「きっと二の足を踏むだろう。そこで君の出番だ、パリス。彼女を愛しているのなら、彼女のためなら何でもするのなら、君にしかできないことがある」
「何です?」パリスは真剣に目を輝かせた。「どうか、言ってみて下さい」
「君が一人でスパルタに残れ」乞食はパリスをじっと見て言った。「彼女の代わりに、メネラオスのもとに」