おれにまかせろ第五章 帰港

パリスは目をまん丸くし、かすかに身体を引くようにした。
「そうすればメネラオスは安心する」乞食はパリスを見つめ続けていた。「君と妃が離れていることで、いざとなれば君をどうでもできることで。両国の信頼関係も見せつけられるし、彼も周囲に顔が立つ。理由などは何とでもつく。和平交渉の続きとでも、同盟国の視察とでも。ともかく妃を連れて行く代わりに君が当分残るというのだ」
パリスは目を閉じ、深く息を吸った。
「でも、それはいつまで?」妃が聞いた。
「そんなに長い間にはならない」力づけるように乞食は言った。「とにかく当座を切り抜けて、次の手を考えるのだ。心配するな。彼は絶対安全だ。あなたの安全のためにも、自らの誇りのためにも、メネラオスは彼に手を出せはしないよ、ヘレン」
「手を出さなくても、彼は、メネラオスは…」ヘレンはあえいだ。「恐怖を人に与えるの。まして…まして、罪の意識があったなら、彼の前に出るだけで…」
「僕は罪などおかしていない」パリスが目を開いて、また大きく息をついた。「だからメネラオスなど恐くない。大丈夫だよ、ヘレン。僕は行く。本当に、その方がいい。君を彼のもとに残すより、この方がずっと…僕には楽だ」

「あなたを一人で行かせられない」ヘレンはパリスの手をとった。「そんなことできない」
パリスは笑った。晴れ晴れと、幸福そうに。
「ずっと、心配だったんだよ」彼はつぶやくように言った。「君はただ、メネラオスから逃げるためだけに、僕について来たんじゃないかと思ったり、君は本当にメネラオスが好きで、彼の気をひくために僕を利用したんじゃないかと思ったり、君の気持ちがわからなかった」
ヘレンの目に涙が浮かんだ。彼女は身をのり出してパリスのまぶたに口づけした。「心をそのままあらわすことに慣れていないの」彼女はささやいた。「好きなものほど、好きと言えない。メネラオスに、その大切なものが傷つけられるのが恐いから。笑われたくなくて、汚されたくなくて、だから自分が何を好きか、どれだけ好きかを言えなかった。そうしている内に、だんだん自分が何を好きかもわからなくなり、少しづつ、少しづつ、生きながら私は死んで行った。笑い方も、泣き方も、苦しみ方さえも、いつか忘れて行った。あなたが私をいつか捨てても、私を忘れてしまっても、その苦しみを感じさせる私にして下さったことで、きっとあなたに感謝する。生きていて、よかった!」
「僕もだよ」パリスはヘレンの金髪に顔を埋めるようにして目を閉じていた。「世界がどうなっても、トロイが滅びても、後悔しない。幸せだ」
ヘクトルは立ち上がって、船の方に行った。
「テクトン」彼は声をかけた。「船はどうだ?」
「被害はほとんどありません」甲板からテクトンが叫び返してきた。「すぐにでも帆を上げられます」
「よろしい」ヘクトルはちらと背後をふり返り、口づけをかわしている弟たちと、立ち上がって犬を呼びに行っている乞食を見た。「スパルタへ直行する」

***

見覚えのあるスパルタの山のかたちが、青く水平線に浮かんだ。テクトンに、自分たちが船を下りた後のことを指示しながら、へクトルは後甲板から聞こえてくる、きぇーっ、きぇーっ、という不思議な鳥のような声と、金属的な笑い声に、何度も思わず首を固くこわばらせた。かたわらのパリスも近くの兵士たちも気になるらしく、何度もそちらをふりむいていた。
乞食がヘレンに、メネラオスが船に調べに来た時のための、狂気の演技を教えているのだ。二人とも妙に嬉々として熱心で、見れば見るほどヘクトルはげんなりした。「目はもうちょっとうつろに」だの、「花の種だと言って塩をばらまけ」とか、乞食が細かく指導すると、ヘレンも真剣にうなずき、「毎朝、海に身を投げたいと思って沖を見ていた時の気持ちを思い出せばいいのかしら」などと言っている。ヘクトルの気持ちは沈んで行く一方だった。
もっとも、そんなことに気を散らしている場合ではない。
打ち合わせが終わってテクトンが去ると、乞食がやってきた。パリスはうれしそうに、すぐヘレンの方に行き、二人はそこに残された。

「弟と二人だけで、船を下りようと思う」ヘクトルは乞食に言った。「どうせ我々の船が入ってきたら、メネラオスに報告の兵士が走るし、この船も見張られる。その前に二人で小舟で海に下り、相手が気づいて対応する前に、メネラオスの館の門前に行って案内を乞う。テクトンには、夜まで我々が戻らなければ、囲みを破っても船をトロイに戻せと言ってある。あなたは、ここで下船するなり、最寄りの港で上陸するなり、トロイに行くなり、好きにして下さい。本当にお世話をかけました」
乞食は目元を笑わせた。「よくよく兵士を犠牲にしたくないのだな」
「計画が失敗して逃げるにしても、弟と二人の方が身軽です」
「君の腕なら、そうだろう」乞食はうなずいた。「だが、あせることはないよ。船で待っていればいい。我々が引き返してきただけで、メネラオスたちを驚かすには充分だ。当惑、混乱するにしても、基本的にはそれほど悪い印象は受けないはずだし、こちらの出方をむしろ知りたがるだろう。だから、どっしりと落ち着いて、船で待て。きっと早々に向こうから接触がある。おそらくきっと、向こうから要求するさ。君たち二人だけで来いと」
「妃を連れずに?」
「まず君たちと話したがるだろう」
ヘクトルはうなずいた。

空の色はかすかに夕暮れの光をにじませはじめている。兵士たちは甲板のそこここでざわめいていたが、二人の近くには今は誰もいなかった。乞食はゆったり船べりにもたれて、ヘクトルをじっと見て、またかすかに目で笑った。
「君はわかっているだろう」彼は言った。「この計画が危険なことを」
ヘクトルはほほえんだ。「ああ。成功の見込みは甘く見積もっても五分五分だろう。私がメネラオスなら信じない。でも、他に方法はない。それは何度も考えてみた」
二人はしばらく黙って、船の両脇を流れて行く緑の波のうねりを見ていた。
「君は嘘をついたことがあるのか」乞食が不意にそう聞いた。
ヘクトルはうなずいた。「弟をかばって、幼い頃から何度も」
「そうか」乞食はほのかに笑った。「うまく行くかい?」
「うん」ヘクトルはうなずいた。
「だろうな」乞食はじっとヘクトルを見た。「君は嘘をつきそうにないから」
ヘクトルはかすかに唇を動かしたが黙っていた。乞食は吐息をついて空を見上げ、「重荷だな」と言った。
「何が?」ヘクトルは低く聞いた。
「それだけの信頼は」乞食は言った。「人は神ではない。なのに、神になりつづけなければならないのは。誰にも信じてもらえる人間は、嘘をつけなくなるものだ。世界を壊す気がするからな。相手の心、回りの絆を。なのに君は、それでも…」
乞食は首をめぐらして、まともにヘクトルの目をのぞきこんだ。
「君の心を見てみたい。何があるのか、不思議でならない。絶望なのか、希望なのか。愛なのか、嘲笑なのか」

ヘクトルは元気なく笑った。「私は単純な人間だ」
「かもしれないが」
「メネラオスも」ヘクトルはぼんやり言った。「そんな気持ちになるのかな」
「どんな気持ちだ?」
「私の…本心を知りたいと」
「思うだろうさ」乞食の甘くかすんでいたような目がまた厳しくなった。「彼には、それは切実だ。君の考えや望みを知ることで、態度を決定しなければならないのだから」
「彼を信じさせることが…私にはできるだろうか」
乞食はちょっと黙っていてから、低く声をたてて笑った。「できるさ。君のその顔と声なら、何を言われても大抵の人間は信じるよ。あり得ないことでも、そういうこともあるかもしれん、と。君のまなざしや声音には、その力がある。弟君が女たちをとりこにするのと、おそらく同様の一種の魔力のようなものがな。こういう人間が嘘をつくようなら、もう世の中はおしまいだ、こんな男を疑ったら、もう自分はおしまいだ、と誰もが思って、君にだまされ、身をまかせ、手玉にとられてしまいたくなる、そんな力が君にはある」
「はげましてくれているのか」ヘクトルは苦笑した。
「真実さ」乞食は言った。「それにな、この世には絶対に起こらないことなんてない。どんなにあり得ないように見えても、起こる時には起こるのだ。妃が狂った話だってそうさ。メネラオスは、その話は信じたくなくても、まず確実に、君のことは信じたがる。君にこれまでだまされた、他の多くの人間のように。それが、この計画のたった一つの、そして絶対最高の勝因なのだよ。だから、自信を持ちたまえ。君はただ、心をこめて語ればいいのだ。そのまなざしで、その声で」

***

かかげたままのトロイの旗が、夕暮れの風にゆるくふくらむ。彼らの船が入港した時、最初に目についたのは見覚えのあるメネラオスの大きな船で、兵士たちを甲板にのせ、出港準備をととのえたまま波にゆられていた。ヘクトルは、とりあえずほっとした。メネラオスは、アガメムノンのところへはまだ行っていないのだ。
乞食が言っていたとおり、すぐに兵士たちの乗った小舟が数艘漕ぎよせてきた。甲板に上ってきた中年の士官の顔は、それとわかるほど緊張していた。明らかに王妃の失踪は彼らの知るところとなっている。それがトロイと関係があることも。
王妃と弟を乞食とともに船底にやり、ヘクトルは士官と対面した。沈痛な面持ちで彼は静かに、メネラオスに内密に話したいことがあるので、弟と二人でお会いすることをお許しいただきたいと告げた。士官は自分で事態を判断する必要がなくなったのにほっとしたようで、急いで引き上げて行った。
部下の兵士たちが緊張して背後にひかえているのを感じながら、ヘクトルは黙って静かに船べりにもたれて海をながめていた。心の中には何もなかった。不思議なほどに落ち着いていた。大きな戦いの前にはいつもそうであるように。
思っていたよりも早く士官は戻ってきた。「王がお会いになります」と彼は固い表情でヘクトルに告げた。「お二人だけで、お越しいただきたいと」
「私は、そう言わなかったか?」ヘクトルはほほえんだ。
士官は顔をかすかに赤くし、一礼して下りて行った。
船底から上がってきたパリスと、ヘクトルは小舟に乗った。梯子を下りる直前に、弟が自分を呼んだような気がして、へクトルはふり向いた。だが、気のせいだったらしい。パリスは心もとない悲しげな、どこかうつろな表情で、じっとこちらを見つめているだけだった。
こうやって見つめあうのも、これが最後になるのかもしれない。ヘクトルの心の中で、何かがやわらかく溶けて行った。夕日の中の弟は愛らしく、美しかった。悲しそうにしていてもなお、明るくて、華やかだった。トロイの都そのもののように。
「呼んだか?」微笑してヘクトルは聞いた。
パリスは無言だった。小さくうなずいたようでもあり、首をふったようでもあり、どちらともとれるしぐさを彼はした。下の小舟の中からスパルタの兵士たちが見ている前では、それ以上の会話も動作も二人はできなかった。手をにぎってやることも、抱いてやることも。
「おまえを信じている」ヘクトルははげますように笑いかけた。「行こう」

メネラオスはよろいの上に赤と金の衣を羽織り、むっつりとした表情で玉座の前に仁王立ちになっていた。二十人近い重臣が左右にずらりと居流れている。いずれも滞在中に知り合って、親しく話を交わすようになっていた顔ぶれだが、どの顔も今はよそよそしかった。
ヘクトルは、メネラオスの前まで進んで、一礼した。まっすぐに彼を見て、「お人払いを願います」と落ち着いた、ゆったりとした声で言った。
メネラオスは無表情にヘクトルを見返した。「妃はどこにいる?」
「お人払いを願います」ヘクトルはメネラオスを見つめたまま、穏やかな声でくりかえした。
メネラオスの唇がめくれあがるように、つり上がった。「人前では言えぬことかね?」
ヘクトルは、姿勢も視線も動かさなかった。「そう思います」
メネラオスは腕組みをして、ヘクトルをじっと見つめた。「お国の恥になることか」あざけるような口調だった。
ヘクトルは一瞬目を伏せ、すぐまた上げた。「それは、お聞きになって、ご判断を」はりつめた声で彼は言った。

メネラオスは、かすかに眉を寄せた。いらだっているようだった。彼はしばらく黙っていてからいきなり、「あなたの船は、わが港にある」と言った。「周囲はすでに固めてある。逃げ出すことは不可能だ。あなたがどれだけ話さぬと意地をはっても、我々が船に乗り込んで調べれば、真実はすぐ明らかになるだろう」
「御意」ヘクトルは言い返した。「あなたがそれを望まれるなら」
「それでは何か不都合があるか?」
ヘクトルは一礼した。「これ以上はもう何も、私はお答えできません」
「弟君もか?」メネラオスの射るような視線が、ヘクトルのわきのパリスに向いた。
「御意」ヘクトルが予想したよりずっと強く、りんと涼しいパリスの声が響きわたった。

メネラオスは、ヘクトルに目を戻した。どこか疲れたように、彼は玉座にもたれかかった。
「話すがいい」少し投げやりに彼は言った。「今、ここで、すべて」
黙って見返したヘクトルに彼は挑むような目を向けた。「私は何もかまわない」
「お妃さまは、私の船にいらっしゃいます」ヘクトルはメネラオスを見つめ返したまま、静かに口調を変えずに言った。「今朝、そのことに気がつきました」
メネラオスは黙っている。ヘクトルも黙っていた。
長い沈黙のあと、ようやくメネラオスがあごを突き出すようにして、顔をそらした。「あれはいつ、船に乗ったのだ?」
「弟の話では、昨夜お一人で、船をごらんにおいでになったとのこと。船出の支度で忙しく、私は気がつきませんでした。弟は船をお見せし、妃は戻って行かれました。そのように思っていましたが、その後でまた、船に戻られていたようです。昨夜は人の出入りが多く、誰も気がつきませんでした」
「妃は一人で来たというのか?供もつれずに?」
「船の下に待たせてあると仰せでした」ヘクトルは答えた。「私がいれば確かめましたが、弟はしばしば自分もそのような気まぐれをするので、おかしいと思わなかったようです」

メネラオスは冷たい目でヘクトルを見た。「何のために妃は船など見に行ったのだ?」
ヘクトルは首をふった。「わかりません」
「妃は何と言っているのだ?」
ヘクトルはしばし黙っていてから答えた。「これを、この場で申し上げてよいのかどうか、私はわかりません」
「かまわぬ。申せ」メネラオスはそっけなく言った。「ここにいるのは皆、私の腹心の部下たちだ。妃以上に心を打ち明けあっている。かくすことなど何もない」
声にならない吐息が回りで起こったようだった。感動と満足の。メネラオスは家臣の心をつかむすべをよく知っている。
ヘクトルはかすかに一礼して、静かに続けた。「おたずねいたしましたが、お返事はいただけませんでした」
「何も言わなかったのか?」
「意味のあるお言葉は、何も」
メネラオスはしばらく黙って考えていた。
「恐れながら、お妃さまは…」ヘクトルは口ごもった。「お妃さまには、こちらにお連れできる状態ではありませんでした。港や街中で、人々がお姿をごらんになるのは、好ましいとは思えないご様子でした」

メネラオスの唇に冷やかな笑いが浮かんだ。「あなたは妃が、狂っていたと?」
「そうは申しておりません」ヘクトルは真剣な目で首をふった。「ただ、アポロンが自分を呼んでいる、とくり返しておいででした。アポロン神は、しばしばそういうことをなさいます。人の心を奪っては神殿に呼び寄せられる。逆らうと、災いが下ります。神殿にお連れして、しばらく祈っておられると、もとに戻ることがよくあります。今度もそうするしかないと思いましたが、ともかくお知らせし、ご説明してお許しをいただかねばと、急ぎ戻ってまいりました」
メネラオスの返事は、またなかった。
小さいが鋭い目が、じっとヘクトルを見つめ続けていた。眉すじひとつ動かさないが、その頭の奥ですさまじい勢いで彼が今、さまざまなことを思いめぐらしているのがはっきりわかって、ヘクトルは背すじが冷たくなるようだった。
「あれがそうなった原因は何だ?」低い声でやがてメネラオスは聞いた。
「神のみ心はわからない」ヘクトルは言った。「弟の話では、妃殿下はよく弟をへやに呼ばれて、アポロン神と神殿と、そこでの儀式や信仰の話をお聞きになり、弟は知る限りの話をしてさしあげたとか」彼はかすかに吐息をついた。「トロイの若者は皆そうですが、弟も神々の話となると、見境がなくなる。熱心に語りすぎたのでしょう。それが妃のみ心を惑わせたとしか思えません」
「弟君の責任というわけか」
ヘクトルはうなずいた。「その責任をとって、妃がトロイに滞在している間、弟をこの国に残して、これから妃殿下をどうすればすみやかに元に戻られるか、両国の相談をする際の仕事にあたらせたいと存じます」
重臣たちの列に、はっきりと、声にならないざわめきが走った。

メネラオスはまた、完全に表情を消していた。「弟君は承知なのか?」と彼は聞いた。
「承知いたしております」
「ご本人に聞きたい」
「承知いたしております」きっぱりとパリスは答えた。けんめいすぎて声がうわずり、それがいかにも心もとなく、へクトルは頭をかかえたくなった。
重臣たちの中にもかすかな笑いに似たものが広がった。メネラオスその人がおかしそうに唇をゆがめた気がした。へクトルの気迫でもなし得なかったことを、パリスの弱々しさが果たしたのかもしれなかった。こんな子どもに何ができる?妃が心を奪われるわけがない。そんな空気がどこかに流れ、あたりの緊張がわずかにゆるんだ。
「妃をここに連れて来れないとあなたが言うなら」メネラオスが言った。「船に人をやって、様子を見てこさせたい」
ヘクトルはうなずいた。「おいで下されば、いつでも乗船いただけるよう、部下には申しつけてあります」
メネラオスは家臣の一人にちらと目をやり、彼はすぐ、すべるようにへやを出て行った。

メネラオスはよりかかっていた椅子から身を起こした。ものうげに手招きして数人の家臣を呼び、何かを耳打ちしている。それから、ヘクトルに向き直った。「よろしければ二人だけでいささか話をしたいのだが」
承諾のしるしに、ヘクトルは頭を下げた。
「弟君にはしばらく、あちらのへやで、おくつろぎいただこう」メネラオスはパリスに言い、とまどった顔のパリスは重臣の数名にとり囲まれるようにして、否応言わさずすばやく別のへやへとつれ去られた。
あっという間のことだったが、連れ出される直前にパリスの目が強くヘクトルを見た。彼がそうやって別れを告げたのをヘクトルは感じた。
メネラオスが手で、奥のへやの方を示している。ヘクトルは黙ってそれに従った。

思ったよりも狭いへやだった。壁際に立っていた兵士はメネラオスの目くばせを受けて、足早に去った。さっきまでいた隣りのへやからも人々が出て行く気配がして、あたりは深い静けさにつつまれた。波の音さえ窓の外から、かすかに聞こえてくるほどの。
椅子をすすめられてヘクトルは座った。黒っぽい毛皮をかけた、いかつい椅子で、座り心地はよくなかった。窓から見える海の色も黒ずんで、荒々しい波しぶきが上がっていた。
「正直に教えてほしい」メネラオスはさぐるようにヘクトルを見た。「妃はもとに戻ると思うか?」
「全力をつくします」ヘクトルは言った。意識して苦しげに、目をそらしながら。メネラオスがだまされているのかいないのかはまったくわからず、こうして話している間にいきなり重臣の一人が入ってきて、切り落とした弟の首を床に投げ出すのではないかという思いがずっとヘクトルの頭に浮かんでは消えた。
「時々、こうなるような気がしていた」メネラオスはぶっきらぼうに言った。「あれはどこか、今にも消えてしまいそうな、何を考えているかわからないところがあったから」
ヘクトルは沈黙を守った。つらそうに目を伏せながら、いきなり襲いかかられた時の用意に、剣の柄にすぐ手をかけられる位置に腕をおいていた。
長い時間が流れたようだった。兵士が一人入ってきて、メネラオスに何かささやき、彼はへやを出て行った。
パリスはまだ生きているのだろうかとヘクトルは思った。船はまだ無事だろうか。悲観的になるのはよせと自分に言い聞かせながら、ともすれば生まれるのはよくない空想ばかりだった。

まもなくメネラオスが一人で戻ってきた。「失礼したな」と彼は言った。「船に行かせていた者たちが戻ってきた。妃はかなりひどい状態のようだな」
夕日を浴びる船の甲板で、髪をふり乱して奇声をあげるヘレンの姿が目に浮かび、ヘクトルはわけもない嫌悪で思わず顔をゆがめた。
メネラオスはそれを黙って見ていた。しばらくして彼は、「ひとつ、あなたに頼みがある」と、あらたまった口調で言った。
「何か?」
「出かける前に、わずかな時間でよいのだが」メネラオスは言った。「妃と話をさせてほしい」
それは、どちらかというと好都合だった。妃は喜んで、最高にみごとな狂気の演技をすることがわかっていたから。だがヘクトルは悲壮になりすぎないように注意しながら悲壮な顔を作って、「でも、お気持ちが傷つくだけではないでしょうか」と、しめっぽく言った。
「一目、あれを見ておきたいのだ」メネラオスはこちらを向いた。「笑われるかもしれないが、この目に姿を焼きつけておきたい」
「でも、あのようなお姿を?」ヘクトルはひとり言のようにつぶやいた。
メネラオスが黙った。迷っているのがわかった。こうやってさんざん、もったいぶった上で、実際の妃を見せれば、きっと効果は倍増する。そう乞食が言っていた。その通りになりそうだった。

***

何度恋をしても、別れる時には同じようにがっくりしおれるパリスにあきれるヘクトルが、同じように何度嘘をついても、いつも決して慣れることのできないのが、この瞬間だった。
どうやらうまくいったらしい、とほぼ確信できそうになる瞬間が。
うまく相手がだまされるほど、圧倒的な不快感と虚脱感とが襲ってくる。幼い時には微熱や吐き気、それに目まいがはっきり襲ってきていた。歯をくいしばって、ここをやりすごせば、後は何とか乗りきれる。くりかえす内にそれがわかってきていたから、大人になってからはどうにかやりすごせるようになってきていた。
今、まるで幼い昔と同じに、激しい嫌悪感が一度に押しよせてきた。
何というおぞましい汚らわしいことを、自分たちはしているのだろう。
メネラオスは被害者だ。その人物を更にまた、もてあそんで、だましている。

メネラオスは見た目ほど愚かでも人がよくもありませんぞ。乞食の声が頭の中で聞こえた。実際に彼がそう言ったのだったか、自分の心の警告なのか、それもよくわからなかった。現実も、そうでないことも入り乱れて、記憶も予測も混乱している。
ひと月近い滞在の間、この男をいやというほど見てきた。がさつさの陰の鋭さ、のんびりとしているようで容赦ない果敢さ、ずるがしこさ、したたかさを、ひやりとしたり、寒々としたりしながら、幾度思い知らされたことかしれない。見えすいたはったりをかまされたこともある。あからさまな脅しをかけられたこともある。本心なのか混乱させる狙いなのか、女を扱うような粘っこい目を向けられたことさえもあった。
人間の愚かさ、弱さ、汚さを、余すところなく持っている男。気高さや強さや大らかさもかいまみえるが、それはおそらく、この男の本質では決してあるまい。
だが、だからこそ、そんな人間をこのように扱うのは、獣のようにもてあそぶのは、してはならないことではないのか。相手のいやしさに自分も染まり、ともにみじめな存在に変えて行く第一歩を、踏み出してしまうことに他ならないのではないのか。
ささやかな気高さや優しさで、広大な世界は支えられている、と父は昔、幼いヘクトルに語ったことがある。秘密めかすように、ほほえんで。小さな、本当に小さな、良心や信頼でよい。それが世界を守るのだよ。
だが、愚かさや甘さも世界を滅ぼす、とヘクトルは思った。それを山ほど自分は見てきた。
そしてすぐまた、激しく思った。
それがどうだというのだろう。
世界はすでに充分にもう、こわれているのに。

「そんな顔をなさらずともよい」メネラオスはヘクトルの考えつめた表情に、むしろ意外そうで、とりなすような口調になって笑った。「無理にということではない。その方がよいとお考えなら、会いますまい」
「メネラオス」ヘクトルはしぼり出すように言った。「弟と妃殿下は愛しあっているのです。心も、身体も結ばれて、固く一つになっている。いつからかは知らないが、我々が、この館に客として滞在していた間から」
メネラオスはヘクトルをまじまじと見た。笑いは消え、その小さく丸い目に宿っている光からは、彼が何を考えているかは読みとれなかった。
「二人は今も、心から愛しあっています」ヘクトルは言った。「どうか、わかってやって下さい。こうなった責任が誰にあるのかわからないが、殺すならどうか私を殺して下さい。それでも気がすまないのなら弟も。けれども妃殿下は許してさし上げて下さい。あの方のせいではないのだから」
「そんなこともなかろう」メネラオスはやはりまったく感情の読みとれない声で言った。

ヘクトルは首をふった。「弟はいつも、たくさんの恋をして、いろんな女の人と愛しあってきました。そのたびに今度の恋はこれまでとちがうと言い、いつも夢中で、真剣でした。それでなのか、どうなのか、女たちは皆、彼に心を奪われる。人妻とて例外ではありませんでした」
「あなたの奥方もか?」
メネラオスは冗談を言っているのだろうか?こんな時に?
ヘクトルは首をふった。
「そら」メネラオスは言った。「誰でもというわけではなかろう」
「でも悪いのは弟です」ヘクトルは言いはった。「あなたの奥方に罪はない。あなたにだって責任はない」
「あなたは、どうするつもりだったのだ?」メネラオスは少しけげんそうに、用心深く聞いた。「これは…あなたが今していることは、最初の計画ではなかったのだろう?」

最初の計画って何だったろうとヘクトルはとっさに混乱したがすぐ、それはつまり最後に決めた計画のことだと気がついて、首をふった。
「ちがいます。計画では、妃はアポロン神のお目にとまって気が狂ったことにして…」
「それは聞いたよ」
ヘクトルはうなずいた。「しばらくトロイに滞在させる。弟はここにとどまって、あなたを安心させ、そうやってともかく時をかせぎ、二人の愛がさめるなり、あなたの妃へのお心がさめるなりするのを待ちながら次の方法を考える。それが当面の計画でした。とにかく、とっさに考えた」ヘクトルはまっすぐ目を上げてメネラオスを見た。「戦いだけは何としても避けたかった。それに、あなたの兄上…アガメムノンの介入も」
「その思惑はよくわかる」メネラオスはうなずいた。「だがなぜ、そういうことならば、妃でなく弟君を私のもとに残すことにしたのだ?」
「おかしいですか?」
「いささか人の意表をつくやり方に思えるのだが」メネラオスは首をふった。「何となく、あなたの思いつきそうなことに思えない」
ヘクトルの背筋に戦慄が走った。たしかに、そうだ。

「最初は…最初はそれも考えました。いったんは」彼はどもった。
「そうだろうな」メネラオスは言った。「さりげない顔で何ごともなかったように戻ってきて、私の心の変わるのを待つ…妃なら、そのくらいのことはやれるだろう」
ヘクトルは黙っていた。追いつめられたと感じながら。
「弟君が拒んだのか?メネラオスは聞いた。「それにしても、そんなに愛している男を私の所へ残すような危険なことを、妃が承知するのだろうか?」彼は牡牛のようにがっしりとした頭を左右に振った。「どうもよくわからない」
嘘をつきとおせばよかったとヘクトルは激しく後悔していた。言わずにすませられることと、そうでないことを、きっちり検討しないまま始めてはいけなかったことを、自分は始めてしまっている。
涙がほおを伝い落ちたのがわかった。「妃は…あなたが…」と言いながら声がつまった。「あなたのそばにはいたくないと…絶対に戻りたくないと…なぜか、なぜなのかわからないが、あなたが嫌いでしかたがなくて、もう一度戻ったら、本当に気が狂ってしまうと…許して下さい」
「その最後のも妃のことばか?」メネラオスは言ってすぐ首をふった。「いや、いい。そうでないことはわかっているから」
「初めは自分でもお気づきにならなかったのです。戻るつもりでおいででした」ヘクトルは弁明した。「でも、途中の島で嵐を避けていた時に、突然狂ったようになられて、私はあそこに戻れないと叫ばれた。あそこではいつも少しづつ死んでいっていた、生きながらの亡霊だった、いつかは海に身を投げただろう、自分でもなぜかわからないままで…そんな自分にもう気づいたから、あそこには戻れない、絶対に生きていられない、あの人のそばでは生きられない…そうおっしゃったのです」
メネラオスは苦笑いした。

「すみません」ヘクトルは流れつづける涙をぬぐう気にさえならなかった。「これを言う気はなかったのです。私が愚かだった。あなたを傷つける気はなかった。言わずにすむかと…さっきは思った…さっき…」
「本当のことを話しはじめた時は」メネラオスはうなずいた。「だが、それもわからぬな。うまく行きかけていたのではありませんか。あなたの計画は?なぜ自分の手で、それをこわすようなことを?」
「そんなことを言われても私にもわかりません」ヘクトルは言った。「きっと私も、今日一日、いろんなことを見たり聞いたりしている内に、生きているのがいやになってきたのでしょう。何のために生きているのかわからなくなったのかもしれない」
メネラオスは不思議そうにヘクトルを見た。「このたびの問題は、あなたにはまったく何の責任も、関係もないと私は思うが。私だけではなく、誰が見てもそう思うだろう」

「ちがいます」ヘクトルは首をふった。「メネラオス、私は弟を愛していました。幼い時から、誰にもまして、今までずっと。もしかしたら妻よりも。彼のすべてが好きで好きで、何を犠牲にしても守ってやりたかった。望まれることは何でもかなえてやりたかった」
「それは見ていてわかります」メネラオスは言った。「弟君もそのことはよくわかっておいでだろう」
ヘクトルは首をふった。「今はもう、きっとそうではありません。妃を連れてきたとわかった時、船の上で、部下たちの皆が見ている前で、私は彼をなじりました。この和平のために父も私もどれだけの苦労を重ねたか、おまえはそれをぶちこわしたと。弟は、それを認め、妃とともに自分もスパルタに行き、戦って死ぬ、と言いました」
メネラオスの目がかすかに輝いた。賞賛するように、面白がるように。「彼が?」
ヘクトルはうなずいた。「私は彼をののしった。おまえは戦ったこともない。人が死ぬのも見たことはない。それがどんなことか知っているのか。私は殺した、死ぬのも見た。それは栄光でも詩的でもなかった。おまえは死も愛も知らない。愛のために死ぬなどとわかりもしないことを言うな、と」
「弟君は何と?」
「それでも僕は彼女と行く、あなたの助けは求めない」
「ご立派ではないか」
「そのずっと後で、こうも言いました。死をいくら見たあなたでも、死んだ経験がないのは僕と同じだ。その点で、生きている人間は皆同じだ。自分が彼女のためにできることがメネラオスに殺されることしかないのなら、それが自分がこの世でしたいたった一つのことだ、と」
メネラオスは感心したようにうなずいた。「なるほど」

「私にはわかるのです」ヘクトルは言った。「弟は私が彼に言ったことを許してはいません。私が弟でも許しません。彼がこれまで戦わなかったこと、人の死を見なかったことは、すべて私がしたことです。私が彼に、そんなことをさせなかった。させたくなかった。人を殺させたくなかった。自分が戦場で見たことを見せたくなかった。そこでしたことをさせたくなかった。彼にだけは、絶対に。死ぬまでも、絶対に、そんなことは。たとえそのために、自分が首まで血につかって戦っても、弟には絶対にそんなことを味合わせたくなかった。そんなことがこの世にあるということさえ私は彼に教えたくなかった。その私が彼にあんなことを言ってしまった。自分がそうしておきながら、そのことで弟を責めた」
「あなたがそう言わずにいられなかった気持ちぐらい、彼にもわかっているだろうよ」メネラオスは言った。「あまり自分を責めるのはよすがいい」
「自分を責めているのではない」ヘクトルは首をふった。「私が何より悲しいのは、死んでしまいたいほど悲しいのは、弟がもう二度と自分を許してくれないだろうと思っても、少しも悲しくないからなのです。何も感じられないのです。心の一部が突然石に変わってしまって、冷たく固くなったように、それとも、ぽっかり穴があいて、もうそこに何があったか、どんなに考えても思い出せないように」

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