おれにまかせろ第六章 走り去る船

「私はもう弟を愛していません」ヘクトルは言った。「彼を見ても、何ももう感じられない。生まれて初めて彼などどうでもいいという気持ちになりました。自分の身体の一部のように、変わらないと思っていた愛なのに」
「それは弟君が初めて本当に人を愛したからか?」メネラオスが聞いた。「私の妃を、あなた以上に」
「ちがいます」ヘクトルは首をふった。「そういうことだったら、これまでも彼はその時々で、いつでもいちずに、私以上に恋する相手を愛してきていた。今度もそれは同じことです。ただずっと私は不安だったのです。いつからか。でも見まいとしてきていた。目をそらし、つぶってきていた。でももう、今度はごまかせない。はっきりと今日、知ってしまった。あの弟は、他人の苦しみ、回りの悲しみをまったく考えようとしない。気づこうとさえ、見ようとさえしない。世の中のことも。未来のことも。考えるのはいつもただ、自分のことだけ。それも、つかの間の快さ、楽しさだけ。そのために周囲にどれだけ害毒を流そうと、そのことを考えて見ようともしない。それが彼です。そんな人間を作るために、命をかけて、人を殺して、町や都を滅ぼして、私は戦いつづけてきた」
「泣くな」メネラオスは静かに言った。「我々がどれだけ愛しても、愛した相手がこちらの期待したようになるものではない」
「せめて本人が幸せなら」ヘクトルはつぶやいた。「まだ笑えるでしょう。自分の愚かさを、甘さを。それで忘れてしまえるのかもしれない。でも彼自身も、幸せではない。あれだけ欲しいものを与えられ、人に愛されていても、満たされていない。手にしていないものを貪欲に自堕落に求め、あなたの奥方までも奪う。その愛を育てるでも守るでもなく、自分が死んでみせることしか、この世でしたいことはないという」
必死で整えようとしても、息づかいが乱れ、声がつまった。
「いったい、その彼の命を生かすために、どれだけの人間が死んだと?どれだけの人間を、私がこの手で殺したと?彼らのあげた悲鳴も血の色も一人一人、私は思い出せるのに」
全身がふるえはじめていた。歯をくいしばっていても、涙だけはもうとまらなかった。
「そんなにしてでも彼にだけは、美しい世界を与えてやりたかった。楽しいことだけをさせていたかった。そうやって豊かさと愛に包まれていれば、人間はきっと神に近づける、そう信じていたかった。彼が苦痛も恐怖も知らず、幸せそうに笑っている顔を見るのが、私はどんなに幸福だったことでしょう。自分の息子の時代には、その子どもたちの時代には、すべての人間がこうなるのかもしれないと思えばこそ、どんな無惨な戦いにも耐えられた」
メネラオスが前にいることはもう忘れていた。「どこからか、どこかで、私はまちがってしまった」涙とは裏腹の、乾いた声でへクトルは続けた。「気がついたら目の前に、愚かで恥知らずの生き物がいたのです。あさはかでからっぽで、残酷で鈍感な、自分を哀れむことしか知らない、人の苦しみを感じられない人間が。こんなものを育てるために戦ってきた私の戦いとは何だったのでしょう。私は何をするためにいったい生きてきたのでしょうか。あんな弟のために、あんな弟を作るために、あんな弟…」
「弟君は妃を救ってくれたではないか」メネラオスは静かにへクトルをさえぎった。「私から。運命から」

呆然とヘクトルは目を上げた。
「妃の気持ちに私はまったく気づいてなかった」メネラオスは言った。「聞かされても理解はできなかったろう。予想がつくよ…弟君に会っていなければ、妃は年とともに私のそばで生きたしかばねになるか、海に身を投げたろう。死んでいたら私にはその理由がわからないまま、やがては忘れてしまったろう。生きていたら、妃は本当はどれだけすばらしい人間で、それを自分が生きながら殺してしまっているのか、死ぬまでわからないままだったろう。妃自身も、おそらくな。弟君と会ったから、妃は自分に気づいたのだ。今の自分とちがう自分に」
ヘクトルは首をふった。「あなたの気持ちはどうなるのです?そんなことは私には許せません…認められない」
「たしかに、つらい」メネラオスはあっさり言った。「だが、自分のつまらなさを自覚させられるのは、これが初めてというわけではないからな」
彼は立ち上がり、窓のそばに行って、しばらく空を見ていたが戻ってきて、落ち着いた声で「弟君をここに残す必要はない」と言った。「妃も。二人を連れてお帰りなさい。世間には妃が私の名代で、アポロン神に捧げ物をしに行ったとでも言えばいい。それきり滞在が長引いて、帰って来なくても誰も気にはしまい」
ヘクトルは前より大きく首をふった。「世間は信じません…噂が広まります。そしてあなたが傷つきます。名誉を何より重んじるあなたのお名が汚される。そんなことは耐えられません。私はあなたを傷つけたくない。あなたに恥をかかせたくない。今度のことで、ほんの少しも」
「人間は、どんなことでも、まったく恥をかかずにすむことはできない」メネラオスは答えた。「名誉にこだわって生きてきた私だから、そのことはよく知っている。そして、私の心境を言えば、あなたのような方にそう言っていただいただけで、すでに充分私の名誉は守られている。誰も、そのことを知らなくても。そういう名誉もあるということを教えていただいただけでも、私は感謝しています」

「あなたがこれまでしてきたことは」言うべきことばをもう何も思いつけず、ただ息をのんでいるヘクトルに、メネラオスはあいかわらず落ち着いたおだやかな声で続けた。「まちがってはいなかったと思う。弟君にたしかにいろいろ問題はある。だが、これだけはたしかだろう。あなたが彼に与えつづけたものの数々は、彼の中に何かを育てた。それが悪いものばかりだったと私には思えない。それは妃をひきつけた。妃を救った。妃と、そして私とを」
ヘクトルが首を振ろうとしたのをメネラオスは手で制した。
「我々のとはちがっても、彼には彼なりの強さも賢さも、優しさもあるのだ。我々にはよく見えないが、彼もまたいろいろなものに耐え、何かと必死で戦っているのだ。せめて、あなたは信じてやれ。彼の力を。何があってもあなたは彼を愛することをやめてはいけない」

気がつくと、声をあげて泣いていた。
メネラオスが肩を抱いて、なだめるように背中を何度もたたくのを、ぼんやりと感じながら。
「あなたはいずれ、王になる」メネラオスの声が聞こえた。「神々の恩寵があるなら、私の治世もそうそうはまだ終わりはせぬ。ならば、互いのこの信頼をゆらがぬものとし、対等の立場で互いを敬う両国の和平を更に末長く続く固いものとしようではないか。それによって生まれる平安と豊かさを、ギリシャ全土に広めて行こうではないか。それが、口さがない世間への、おのずからの我々の返答となろうから」
メネラオスはヘクトルの肩をつかんで、軽くゆすった。「さあ。潮の変わらない内に、船出を」
「別れる前に、どうか一度、お妃さまに会われて下さい」ヘクトルは懇願した。「お気持ちを、話してあげて下さい。あの方は、あなたがどんな方か、知る権利がおありです…知る義務も」
メネラオスはちょっと考えていてから、「やめておこう」と首を振った。「妃は知らない方がいい。その方がこれから幸せになれる。苦い思いや迷いを少しでも与えて、あれの重荷にしたくない。それでなくても、あれは不安でいるはずだ。これでよかったのか、これでいいのかと。いいか、私の言ったことはひと言も、あなたも彼女に伝えるな」
また涙があふれてきて、口がきけなくなった。「あなたは私の弟より百倍も立派な方なのに」と、やっとのことでヘクトルは言った。「それなのに、こんなこと、私は認められません。許せません」

「実のところ」メネラオスはおかしそうにまばたきした。「私も不安でならないのだ。夢を見ているような気がするのだ、さっきから。これが本当の私かと。自分はこんなに立派な人間だったはずはないがと」
ヘクトルはとまどった目でメネラオスを見た。
「私の兄のアガメムノンは人が悪い。口も悪い」メネラオスは言った。「トロイと和平交渉をすると言ったら反対はしなかったが、何度もしつこく念を押された。あの国の外交術は芸術の水準を越えて魔術の域に達している、ゆめゆめ、してやられないようにせよ、と。最終兵器はかけひきなしのかけひきだ、相手の胸元に飛びこんで、心をかきみだし、こちらを自分でも知らなかったちがった人間にしてしまい、終わってみれば結局おのれの要求をすべて通している、と。相手に完璧にいうことをきかせながら、なおも相手を幸福な快い気持ちにさせてしまうのは、まるで手だれの商売女…いや、お気を悪くめされるな」メネラオスは豪快に笑って、どしんとヘクトルの肩をたたいた。「なるほどそれはこのようなことであったかと、先ほどからつくづく感じ入っておった」
「私はそんなつもりでは」ヘクトルは情けない顔をして、情けない声を出した。「そんなことは考えたこともなく…」
「わかっておるとも」メネラオスは鼻で笑った。「これは計算でできることではないからな。それにしても、この話を聞けば、兄は私をさんざん笑おう。やはりおまえは、かの国の手管にはまったな、妻をとられて幸福な気分になっている底抜けのあほうだと」目を伏せてしまったヘクトルのひざを、メネラオスはこづいた。「かまわぬ、私は兄に言おう。だまされたのかもしれないが、これほどよい気分なのだから、損をしたとは思わないと。手練手管というのなら、またとない、よいものを見せてもらったから満足だ、と」
ヘクトルは目を上げ、立ち上がり、メネラオスとまっすぐに向かいあって立った。
「弟たちを国に送り届けたら」彼はあらたまった口調で、きっぱりと言った。「私はすぐにまた、ここに戻ってまいります。今回のおわびと今後の処置、それとは別に両国の今後の絆を深めるためのいろいろの方策を、充分にご相談するために」
「望むところですな」メネラオスも真剣な顔に戻ってうなずいた。「まだまだ話し合わねばならぬ問題が山積しておる。だが、そのことでなくても、どうかいつでも、この国を訪れて下さい。わが国の港とわが館は、あなたのために常に開かれておりましょうから」

***

「いったい、あんたは何をしたんだ?」乞食は狐につままれたような顔で、またそう聞いた。
夜は明けかけている。すみれ色をした空のあちこちには金色の星がまだ残って、またたいている。ゆうべ、船が港を出るが早いかぐったり眠ってしまったヘクトルのそばで、乞食はいろいろ聞きただしたくてしかたがないように、うろうろと歩き回ってヘクトルの寝息をうかがっていたようだった。そして夜明け、まだ寝ぼけまなこのヘクトルを引き起こすようにして甲板に連れ出したのだ。興味しんしんといった顔だった。
ヘクトルは首をふった。「自分でもよくわからないんだ」
「ふうん」乞食は不満そうにうなった。

「昨夜港に、あんたたちを送ってきた時のメネラオスのあの様子じゃ、何か魂胆や策略があるようにも思えないし」乞食はあきらめきれないらしく、一人で首をひねっていた。「それどころか、やつは、まるで憑き物が落ちたように、これまでおれが見た中で一番、清々しい顔をしていたな。それこそ、アポロン神でもとっついたみたいに」
「実際私にも、そうとしか思えない」
ヘクトルはつぶやく。なかば本心だった。夜の港に立ってこちらを見て笑っていたメネラオスの顔も身体も、ずんぐり四角で太っていかつかったにもかかわらず、神のように威厳に満ちて気高く見えたのだった。

どこかまだ、わりきれない表情のまま、乞食は一応喜ぶことにしたようだった。「とにかくこれで、また一つ」と彼は言った。「何とかいくさが回避されたな」
「また一つ?」
「起こったいくさと同じくらい、起こらなかったいくさもあるのさ」乞食は言った。「神々と、人間たちの手によってな。だがそれは、いくさのように輝かしく後世に語りつがれることはない。そのために苦しみ、もだえ、涙し、血を流したたくさんの人々のことも、皆、語られぬまま忘れられて消えてゆく。『百年の平和が続いた』、そのひと言でかたづけられる」
「『百年のいくさが続いた』…そのひと言で終わるいくさだってあるさ」ヘクトルは言い返した。「あなたがいてくれなかったら、そうなっていたかもしれない。今ごろ私はトロイに帰って、父と戦いの準備をし、メネラオスはアガメムノンのもとへ走り…そして、いくさは始まって、多くの人の血が流れ、私の国も滅びていたかもしれなかった」
「またまた、君の悲観主義だな」乞食は笑った。

太陽が上ってきた。海の面は金色の光に染まった。ヘクトルは乞食の方に向き直った。「トロイに来て下さるのでしょう?」ていねいに彼は聞いた。「父がきっと、お礼を申し上げたがると思います。私からも、あらためて。こんな申し出は失礼かもしれませんが、領土でも地位でも、何でもお望みのものをさし上げたい」
声をたてて乞食は笑った。「これはまた気前のいい」
「わが国と私どもにして下さったことの大きさを思えば、何をさし上げても多すぎるということはありません」
乞食はいたずらっぽくヘクトルを見た。「ゆうべはあなたが、外交術の天才かと思ったが、そういうお言葉を聞くとまたわからなくなりますな。神々にであれ、人にであれ、軽々しくそのような発言をなさるものではありません。私が、絶対与えられないものを所望したら、どうなさる?あなたの奥方の口づけ、あなたの子どもの命、いっそ、あなたご自身などを?」
ぎょっとヘクトルが目を見はった時、船尾の方であわただしいざわめきが起こった。

朝の、ばら色の光の中を、一隻の船が信じられないほどの速さで背後から迫ってきている。大きく広げられたまっ黒い帆が無気味だ。海賊船か?と、ヘクトルは緊張してそちらへ行こうとした。
乞食は笑ってそれを止め、「放っとけ」と言った。「あの帆と、あの船足の速さ、きっとピティアのアキレスの船だ」

黒い帆の船は、蝶が舞うようにたちまちヘクトルの船に並び、そのまま横づけになった。乗り手たちと同様に、恐れを知らぬ大胆さで。アキレスはへさきに立っていた。船べりごしに部下たちが名乗りあい、あいさつをかわすのもろくに待たずに、ひらりと手すりを躍り越え、まるで獲物をめざすようにまっすぐに、ヘクトルめがけて近づいてきた。
人なつっこい笑みを浮かべているものの、どうせ狙った相手を倒す時もこんな顔をしているのだろう。黒い革のよろいを着て、陽に焼けて白っぽくなった金髪をむぞうさに肩に乱している。耳のそばの一房だけを美しい色の紐で編んでいた。
その後ろから、彼によく似た、まだ少年のような、はしっこそうな若者が、それもアキレスそっくりのしぐさで手すりを飛び越え、続いてくるのを、ヘクトルはほほえんで見守った。弟なのか従弟なのかわからなかったが、幼い時から自分について回っているパリスが、ときどき見ていてこちらが苦笑したくなるぐらい、自分と同じ動作や表情をするのと、それはそっくりだった。
きっと、この若者もアキレスの一挙一動を目で追い、いつかは彼のようになることを夢みているのにちがいない。

「あれ、今日は楽しそうじゃないか」ヘクトルの前に立つなりアキレスは、あいさつもなくいきなり言った。「でも泣いたのか?目がはれぼったい」
「寝不足で」ヘクトルはへどもどした。この男といると、いつも何を言うかするかの先が読めず、快い目まいとも疲れともつかないものを感じさせられる。
「ふうん」アキレスは気をつかったのか興味がなかったのか、話を変えた。「おまえ、魚、食べるか?」
「魚?」
「夜明けに船が、魚の群れに突入した。取り放題の大漁だった。おかげで船が沈みそうで、船足が遅くなってかなわない」
それであの速さか?と舌を巻いていると、アキレスは返事もきかず、後ろの若者に「パトロクロス!」と呼びかけた。「エウドロスに言って、一番大きな魚、もらって来い!」
若者はうなずいて、勢いよく走り去って行った。
見送るアキレスの目は、はっとするほど優しかった。「おれの従弟なんだ」と彼はヘクトルに説明した。「さっき、この船を見つけたのも彼だ。トロイの帆だから、おまえが乗ってるんじゃないかと思った。彼がおまえを見たがったから、追っかけた」
「私のことを話したのか?」
「おれが話さなくったって、おまえの名ぐらい誰でも知ってる」アキレスは言った。「でも、おれも話した。島で会ったってな。すごく強いけど、おれよりちょっとだけ弱いって」
「あの時はな」
「またやるか?」アキレスは楽しそうに、軽くこぶしでヘクトルをつついた。

パトロクロスが息せききって、両手に大きな魚を一匹ずつ下げて戻ってきた。「エウドロスは、これが一番大きいって言うんだけど、僕はこっちだと思うんだ」と、しかつめらしく彼は言った。「あんたはどう思う?」
本当はヘクトルにも聞きたいのだとわかった。何か話しかけたいのだ。それでも遠慮して決してヘクトルを見ようとしないのがほほえましかった。
「ふむ」アキレスは見比べていたが、すぐに首をふって、二匹とも受けとり、へクトルにさし出した。「とっとけ。うまいぞ」
「ありがとう」
「あ!」
ヘクトルがテクトンを呼んで魚を渡している間に、アキレスはもの珍しそうにあたりを見回していたが、ヘクトルが昨日積荷のかごの中に置きっぱなしたまま、すっかり忘れていた、彫りかけの木の獅子を見つけたのだった。彼はうれしそうにそれを取り上げ、手のひらの中でころがした。「これは?」
「ああ、私が彫ったんだ。息子の土産にしようと思って」
「息子がいるのか?」
「生まれたばかりの」
アキレスはうなずいて、夢中で木彫りに見入っていた。「獅子は大好きだ」と彼はうっとりして言った。「強くて、いつも一人で戦う」
ヘクトルは笑った。「それでよければ、さし上げる」
「本当か?」アキレスは目を輝かせた。「でも、子どもには?」
「また何か彫るよ」
アキレスは何か言いかけたが、ふと船尾の方で動いているものに目をとめた。
乞食だった。なぜだか彼はさっきから、そこで人の間にまぎれていたのだが、ちょうど漕ぎ手の交替にまきこまれて、犬を連れてまごまごしている。アキレスの鋭い目がそれにじっと注がれた。獲物を狙う鷹のように、彼は軽く身体を曲げて、首をかしげた。「あれは?」
「ん?」ヘクトルはふり向いた。「スパルタの港で乗せてやった乞食だ」そして「いろいろ、世話になっている」と、つけ加えた。
「ふうん」アキレスは乞食から目を離さず、ちょっと冷やかに唇をゆがめた。「そりゃそうだろうな」

***

乞食はこちらの様子をうかがっているようだったが、何となくあきらめたような笑顔になって、犬を片手でからかいながら、のろのろ、こちらにやって来た。
「おい、おまえまた、そんなかっこうで」アキレスは近づく乞食に、あきれたように首を振った。「こんなところで、いったい何をしてるんだ」
「何と言ってまあいろいろと」乞食は照れ隠しのように片手で顔をこすり、「君こそ」とへクトルの方に軽く首を振ってアキレスに聞いた。「彼と知り合いなのか?」
「ああ、友だちだ」アキレスはこともなげに言い切った。「仲よしだ」
そうかな?と自問しているヘクトルにはかまわずに、乞食は「らしいな」と言った。「どこがそんなに気に入ったのか知らんが」
「おまえよりわかりやすい」アキレスは言った。「こいつの方が」
「それは私も同感だ」乞食は深くうなずいた。「彼は君より、わかりやすい」
ヘクトルは頭が痛くなってきた。どっちに何を聞いていいのかわからなかったが、とりあえずアキレスに「彼を知ってるのか?」と聞いてみた。
「こいつをか?」アキレスは乞食に目をすえたまま言った。「知らいでか。イタカの王、オデュセウス。アガメムノンのふところ刀だよ」

ヘクトルは目を丸くして乞食を見つめた。
次の瞬間、完全に意識が飛んだ。

目を開けた時には、テクトンの坊主頭が上からのぞきこんで、明るい太陽に大きな丸い影を作っていた。「あ、お気がつかれましたか」と彼は心からほっとしたように言った。
ヘクトルは片ひじついて、まだくらくらする頭をどうにか持ち上げた。
「二人とも行ってしまいました」テクトンが背中を支えてくれながら言った。「風向きがよくなったので、この風は逃せないと言って、アキレスの船に乗って」

おまえがびっくりさせるからだ、何を言うか、おまえのせいだ、とアキレスとオデュセウスが言い争っている声を、遠くで聞いていたような気がする。
そして誰かが、自分の首に手を回し、首飾りをはずして、またつけたような。そうしながら笑って抱きしめ、口づけしたような。
ヘクトルは喉もとをさぐった。首飾りはまだそこにあった。だがすぐに、形がちがっているのがわかった。いつもつけていた、銀板と碧玉のものはなくなって、かわりに淡い虹色に輝く、大きな丸い白い貝の首飾りがかかっていた。
「彼の母が作ったものだそうです」テクトンが教えた。「あの若者がつけていたのを、また作ってもらってやるからと言って、はずさせて、あなたの首にかけていました。獅子のお礼だそうです」
ヘクトルは思わず笑った。「あれを持って行ったのか?」
テクトンはうなずいた。「倒れる前に、くれるとはっきり言っていたから、もらってもいいよな、と従弟に念を押していました。そして、ただでもらうわけには行かないからと…。私は魚をいただいたからもう充分と言ったのですが」
「私の首飾りも彼が?」
「いや、それはあの乞食…イタカの王です」テクトンは急いで言った。「首飾りがぶつかりあってるのを見て、こちらは私がもらっておこう、これがお礼ということにすれば、彼ももう私に何を要求されるかと心配しないですむだろうから、と。他にも伝言を頼まれました」テクトンは、ちょっとかしこまって口調を改めた。「まちがいなく伝えよと言われました。こうです。…イタカの王は、たしかにアガメムノンのふところ刀だが、心も魂も売ってはいない。自国のためにも望むのは、美しい戦争より腐った平和。あなたが私と交わした言葉のすべては、イタカの王の言葉だと思ってくれてさしつかえない。…こう伝えよとのことでした」

指先に、なめらかなあたたかい白い貝殻が触れる。
誰の血にも涙にも欲望にも染まらない宝玉はない。そんな装身具を王族の習いとはいえ、つけなくてはならないのがいやでたまらず、美しい木の実か貝殻の首飾りでもあったらと、夢のように願った少年の日々があったのを思い出した。初めて戦いに出て、血まみれの死骸や、中にはまだ息がある者の指や手足が斬り落とされて、まぶしい宝石が掠奪されるのを見た頃のことだった。
いつかしっかりと手のひらで、貝の首飾りを押さえている自分に気づく。アキレスの母がこれを作った思いをうけとめようとするように。
「そうか…」彼はつぶやいた。「もう、行ってしまったのだな」
「ついさっきです」テクトンが言った。「船はまだ、あそこに見えています」
ヘクトルはふり向いて、はねおきるように立ち上がって、船べりに走った。
こちらの船と斜めにすれちがうように南に向かって行くアキレスの船は、思ったよりもまだずっと大きく、波の向こうに見えていた。

甲板に亜麻色の髪の、ほっそりとした姿が立っていた。あの従弟だった。彼はヘクトルを見るとうれしそうに手を振り、後ろを向いて何か叫んでいた。するとすぐ、帆の向こうから、アキレスとまだ乞食姿のままのオデュセウスとが走り出てきた。ヘクトルの姿を見つけた二人は大喜びで手を振り、子どものように飛び上がり、跳ね回り、突き飛ばしあって、また、こちらに手を振った。アキレスが獅子を高く持ち上げて見せていた。オデュセウスが首にかけたヘクトルの首飾りを指にからめながら、頭を下げた。
ヘクトルも貝の首飾りを手で押さえながら、笑って二人に一礼した。
みるみる船は遠ざかる。向こうの二人がうれしそうにへクトルの名を呼んでいる声も、風に乗ってかすかに聞こえながら、次第に小さくなって行った。

船が、まっ青な海のかなたの小さな黒い点になって消えてしまうまで、ヘクトルは見守っていた。
彼の背後では、部下たちが今度こそ気がねない大声で、笑ったりどなったりしながら、忙しく動いていた。
弟たちを船底から呼び上げないと、と思ってヘクトルは、もう少しそっとしておこう、と思い直した。今朝、二人とも抱き合ってぐっすり眠っていたようだし、きっとまだしばらく二人きりでいたいだろう。
空を仰いで、雲の動きを見た。このまま天気が変わらなければ、明日の夜か次の日の朝にはトロイに着くだろう。
アキレスが持って行った獅子のかわりに、息子の土産に何を彫ろう。馬かなんかがいいかもしれない、とヘクトルは考えていた。
海風が彼の髪を吹き乱し、藍色の衣のすそをひるがえす。
神々の陽気な歌声と笑い声が、輝く海からどよもすように、わきおこりそうな真昼だった。

( おれにまかせろ・・・・・終     2005.2.3.12:30 )

※どうしても気になっていた、ヘクトルとメネラオスの最後の対話の部分を一部修正して、これで完成!です。これ以後は誤字脱字以外のもう訂正はいたしませんので、ご安心下さい(笑)。それにしても、今「疾走」を書いていると、こちらを読むのが切なくて、あらためて、こっちの未来にしなきゃいけないなあと、つくづく思います。

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