疾走2-疾走

走りながら思う。彼女と会ったあの日の夜を思う。彼女とひきはなされて一人で過ごした夜を思う。私の足は宙を飛ぶ。見知らぬ街の石だたみを蹴り、先へ先へと私を運ぶ。どこか彼女がいる、この街の奥へと。どこでもいい、そこに走りつくまでは私の足はとまらないだろう。
あの夜に感じた怒りがよみがえる。悲しみが、淋しさが、空しさが、まざまざと思い出されて胸を焼く。私は混乱し、とまどって、絶望の中にいた。生まれて初めて味わう胸の痛みが、出口の見つからない檻の中にいるようないらだちが、獣のように私を狂わせていた。
だが思う。今は思う。あの夜に帰りたい。あの瞬間に、あの長い闇に、あの痛みと苦しみのただ中に。思えばあの時私はまだ、何と希望にみちていたろう。豊かな未来があったろう。混沌とうずまき、先が見えなくても、まだ何も失われてはいなかった。まだ何も始まってはいなかった。
今はすべてが朽ち果てた。灰になった。しんと静まる廃墟しか、白く広がる燃えつきた灰と冷たい瓦礫の山しか私の中にはない。それは、この都の姿だ、もう少し先の。この都の失われた未来から、私は滅んだ町の残骸を自らの中に抱えて、今に向かって逆走している。時の中を。
だが、時を戻せない。あんなに不幸と思っていた、あんなにまだ幸福だったあの夜に、私も、誰も、もう二度と帰っては行けない。

私と彼女をひきはなしたのは王だ。私は彼女を見つめたまま、あの王子との関係をどうやって聞こうかとっさに迷っていた。なぜかそんなに彼に興味を抱いているのが、恥ずかしい後ろめたいことのような気がした。自分の彼に対する気持ちを彼女に見抜かれたくなかった。そうしたら、彼にも知られてしまう気がした。なぜか、そう思った。
ほんの数秒、そうやって私が彼女を見てぐずぐずしている時に、副官が私を呼びに来た。王がお召しですと言って。行ってみると王はテントに、他の小国の王たちを集めて悦に入っていた。緒戦の勝利を祝っていたのだ。私の友も、そこにいた。
王は私を見ると、他の者を下がらせた。私たちはいつもやるように、皮肉にみちたやりとりをかわした。千隻の大船団の先頭をきって上陸し、敵の弓兵隊の強固な防衛線をずたずたにしてアポロン神殿を占領した私と部下たちの戦いと、それが全軍の兵士たちに与えた勇気と影響を彼は認めまいとしていた。だが、私にも彼にもわかっていた。あの友にも、誰にも。この大軍勢を目に見えぬ糸でつかんで指揮したのは私なのだということが。私の戦いに兵士たちは力づけられ、この戦いを戦うのは正しく、この戦いには勝てるという信念を抱けたことが。理屈ではない。目のあたりに見る私の姿が彼らに力を注ぎ込む。彼らに信じさせるのだ。この戦いを戦う価値を。
王はそのことに、いらだっていた。彼は私のテントに人をやり、彼女をひきずって来させた。勝利したのは自分だから、彼女は自分のものだと言って。

彼女が王家の者だということを、王が気づいていたとは思えない。私が彼女よりもあの王子のことを気にかけていたと同様、王にとっても彼女より私の方が問題だった。私を征服することが。私の心を自分に向けさせ、彼の意向を気にするようにしむけることが。彼女はその手段にすぎない。彼女のことを思ってというより、むしろ王の、そうやってまで私を自分の支配下におこうとする、その私への執着と、いじましさとが私を怒らせ、私はとっさに剣を抜いた。この気の毒な娘をそんなことのために使わせるのは理不尽に思えた。もしかしたら、彼女を守ってあの王子に返してやろうという楽しい計画がじゃまされるのにも腹をたてていたのかもしれないが、どちらかというと、それは小さいことだったように思う。

しかし、私と、私をとりまく兵士たちの前で、彼女はいきなり兵士たちの手をふりはらって、すっくと立った。男のように足をふみしめ仁王立ちになって、彼女は私たち皆を、とりわけ私をどなりつけた。今日はもう山ほど人が死んだ。もうたくさんだわ。あなたは殺すしか能がないの。私のために戦わないで!
呆然とした。彼女が何に怒っているのか私はとっさにわからなかった。怒りを向けられているのが自分であるということにさえ。わかってもまだ、何かのまちがいと思った。どう考えていいのかわからなかった。

それでも、ただ一つわかったことは、彼女の怒りの激しさだった。どす黒いとも言いたいぐらい、暗い激しい強い怒り。あの王子の澄んで静かな、まっすぐで透きとおるような怒りに比べて、その怒りはどこかねじくれて、ゆがんで、しかもそのまま、のたうつような力強さで私に向かって押しよせてきた。
私は剣をおさめた。天下一の勇士が奴隷女に黙らせられるかと、あざける王の声を聞きながら。おまえは何もわかっていないと、怒って王を見つめながら、しかし私も何もわからないと、私は自分に怒っていた。彼女の気持ちが。何を考え、感じているかが。
私がその時、剣を下ろしたのは、王子の時とちがって、彼女のその怒りにどこか見覚えのある気がしたからだ。そんな怒りは一度も見たことがなかったのに、それでも私は彼女のその声に姿に、これまで抱いた数知れない女たちの、しばしばわけもなく私に見せた、いらだちや、気まぐれの陰に見えかくれしていた何かを見た。母の、なぞめいたことばやしぐさの下に、いつも押し隠されていた何かを見た。それがあることを知っていて、けれど決して見たことのなかったものが、いきなり目の前に出現したようだった。
王は彼女を抱き寄せて、私にいやみを言いつづけた。今夜この女をわがものにすると。わかっていた。王がほしいのは彼女ではない。傷つけたいのも苦しめたいのも、彼女ではない、私だった。自分には寄せられない信頼や愛を全軍の兵士たちから、国民から向けられているこの私を、そういうかたちで彼は辱め、征服したがっていた。私はその時、自分の身体が彼女の一部になって王に抱き寄せられているような嫌悪感に震えた。王にひきよせられたまま、目を伏せて冷やかに超然と、何も感じていないような無関心な表情を作っている彼女の、深い怒りと悲しみのただよう顔が、まるで自分を見ているようだった。
だがそれはまた、私も同じなのではなかったか。縛られた彼女の姿に、あの王子の姿を重ねていた私も。激しい動揺と混乱の中、私は剣を王に向け、おれは必ず死ぬ前におまえの死体をあざ笑ってやる、と言い捨てて、そのままテントを飛び出した。

傲慢なようで小心な王だった。小心はすなわち細心さでもある。彼が人心をそれなりに掌握するのは、その卑屈な気づかいのためでもあることは否めまい。
そのようなおのれには予測もつかない、計算を度外視した私の思いがけない激情を彼は何より恐れている。だから私にそれだけ脅かされたら、おそらく彼女に手は出すまいとの予測はあった。
だが、その一方、王が彼女に手を出すかもしれないと思って、それならそれでいいという気もどこかにあった。
自分の助けを拒絶した彼女に私は腹を立てていた。助けようとした私に、あんなにまじりけのない、あからさまな怒りを向けてきたことにも。ひどい目にあえばいい、今まで考えたこともない屈辱や恥ずかしさを味わえばいいと思った。
だが、王に抱きすくめられ、その脂ぎった巨大な腹の下でのけぞってのたうつ彼女の顔を想像しようとしていると、それはいつか自分の顔になり、あの王子の顔になった。
彼女は自分をしいたげられ、汚されることを通じて、私や、あの王子を汚そうとしているかのようだった。

どこかで、あの王子と私とが、今度は重なって行くのだった。彼女の中で私たち二人が一人になっていくようだった。

あの時、彼女が私に向けた、ねじくれたような奇妙な怒りは、実は王子にも向けられていたのではなかったか。あの時、彼女の視線の先にいたのは、私だけではなく、あの王子でもあったのではなかったか。

あの夜、誰もいないテントの中でただ一人酒をあおりながら、私は自分の心の中の、まだ一度も見たことのない暗い底まで下って行った。そこにうごめく、たくさんの無気味なものを見るために。目をつぶってきたものと向き合うために。

恐ろしかったが快感もあった。大きな危険な戦いに臨む時のように。

彼女はあんな暗い怒りを、王子に向けたことがあったのだろうか?
私を守らないで。
私のために人を殺さないで。
そんなことは言っていない気がした。
あの澄みわたったひとみの王子に、そんなことが言えるだろうか?
あんな怒りや憎しみを向けられて、それでもまだあの王子は、あんな水のように静かで、光のように明るくまっすぐなまなざしを持ちつづけていられるだろうか?
私と同様、何かあるとぼんやり気づいてはいても、それ以上にはっきりとしたかたちでは、王子はそれを見ていない。見せてもらってはいない。
ならば、今はもう、王子より私の方が彼女に近い。
王子に預けられない何かを、彼女は私に預けてきた。

世界が、ゆらめくようだった。
それは、私の腕の中にむずかる赤子のように手渡されてきたようだった。
やわらかく小さな赤子と見えた何かは、たちまちみるみる巨大になり、誰もが面と向き合ったこともない、その大きすぎるものをうけとめて、ぐらぐらとよろめきながら、強い風に吹かれて私は虚空に立っていた。限りなく広がる、誰一人、何一つ見えない闇の中に。
このことの答えが何か見つかれば、解決のいとぐちだけでもつかめれば、失ったもののすべてを再び取り戻せそうな気がした。
あの友人との幼い日々も。

何のために殺すのか。
誰のために戦うのか。
何を求めて生きるのか。
失いたくないものは何だろう?

今はもうその答えが私にはわかっている。
失いたくなかったもののすべてを失ったから。
まだ手にしてもいない内に。

高い建物のはるか上の方で、窓が一つぱたりと開く。そこから誰かが身をのり出す。足音につられるように、ひと気のない道を走る私の方を見下ろして、それから顔をふり上げて、海の方、城門の方を見る。そして高い叫び声をあげる。煙を見たのか。それとも火か。私はたちまち、その窓の下もかけ抜け、一瞬の間に叫び声は背後へ遠ざかってゆく。

あの王子が私にとって何であったのか、それが今でもわからない。
この手にかけて殺した今でも。
私は確かに彼女を愛した。そのことに疑いも不安もない。そして王子を愛したかというと、そもそもそれほど、彼を知らない。
ただ、彼女さえも含めて、すべての人間が私の中で、いつもどこか彼になる。あるいは、すべての人間の中で、私たち二人が入りまじる。
あらゆる人を、ものさえも、彼を通して見ている気がする。すべてが彼とからまってくるのだ。
私たちは似ていたのか?親子より、兄弟より、夫婦より、恋人より、どこか激しい引力と反発力を彼に感じた。彼の方でもそうだったろうか?
あるいは、ただ単に彼がそういう人間だったのだろうか。私だけでなく誰もが、彼を見ると、その中に自分が見え、世界が見える、彼はそういう人間だったのだろうか。
あれほどに重厚な実在感がありながら、彼はいつもどこか幻のように稀薄に見えた。透明で、純白で、どんな色にも染まりそうで、どんなものをもその向こうに透かせて見せてしまいそうだった。どこかで会った、昔知っていた、そんなことを誰もに感じさせてしまう、とらえどころのなさが彼にはあった。あまりよく知らなくても、ずっと前から親しかったと人に思わせてしまうような。
神はしばしば人間の友人に姿を変えて、人の中にあらわれるという。そういう時の神々は、どこか彼に似たたたずまいだったのではないか。
私から彼女を奪った翌日に初めて彼と対面した、あの王もまた、彼に対してそんな思いを抱いたろうか。

生きていれば、こんなことを彼と話せただろうか。
日常のことを話せば、彼もただの戦士、普通の青年だったのだろうか。
もう、それを知るすべはない。
私が死んで、この世ではないどこかで再び彼に会うまでは。
いや、死後の世界があったとして、そこにも彼はいない気がする。
また、私の見知らぬ誰かに姿を変えていて、この男には、あるいはこの女にはどこかで会ったと私を悩ませそうでならない。

眠れぬ夜をすごした、上陸二日目の朝、都の城壁に向かって進軍が始まった時、私は参加しなかった。部下たちもとどめた。何事にも忠実な私の副官は黙って従ったが、従弟は私がまだ何か言うのではないかというように、テントの中で私を見つめて黙っていた。上陸前に船の中で、戦う準備をしていた彼に私は槍をおかせ、船にとどめた。そのことも彼は納得いかなかったのだ。

「戦争なのに」と、船の上でその時彼は抗議した。戦わないなら何のために自分は来たのか。そう言いたかったのだろう。だが、あの時は特別だ。非常識と言われる果敢さで奇襲してこそ勝てる戦いがある。無謀に見えても私には誰より緻密な計算がある。それに基づき行動するのだ。部下たちはそれを知り抜き、私の手足のように動き、火の中にでもためらわず飛び込む。砂粒ほどのわずかな夾雑物が混じって、それが狂えば統制は乱れて命とりだ。彼がいかに若いながらに天才的な剣の使い手でも、それとこれとは別だ。慣れない最初の戦いで彼の動きに気をつかい、気を散らされる余裕はなかった。自分の一部のような部下たちとともに、全神経はただ敵に集中していたかった。そうやって、針の穴のような突破口を突き破り、糸のように細い活路をふみはずさずに突進するしか勝てない戦いだった。

その船の中の時のことと、その朝のことを結びつけてほしくなかった。あの王子と娘とに、会う前と後のこととを。それを説明したかったが、どう語ればいいのかわからなかった。戦わなければならないから戦ってきた。殺されたくなかったから、ふみにじられたくなかったから、国を、民を、守りたかったから、世界をあの愚かな王の手に渡したくなかったから。けれど、そうやっている内に結局、王を抑えるために脅かすために、自分の存在の大きさを知らしめるために、私は王の戦いに手を貸し、王の手先となって人を殺しつづけるしかなかった。この救いようのない図式、逃げられぬわな。そしてついに、あの王子や娘の国まで私は手にかけようとしている。

私には、あの王の魅力がわからない。なぜ彼があんなに人を支配し、いうことを聞かせられるのかが。本当にわからない。けれども、わからないなりに、あれほどに人々や国々を従わせる王の力が恐ろしい。私にはない、私には見えない、私にはわからない、人の弱さや汚さや暗さを王は知り抜き、つかんでいるようだ。私には結局、そういうことがわかっていない。
王に従う人々の多くは王を憎んでいる。そして私を愛する。まるで、王にへつらう取り返しをそうやってつけるかのように。そんな私とはいったい何なのだろう。時々、彼らが憎くなる。王が嫌いならなぜ従うのか。従う腹いせや言いわけで私を愛するのなら、そんな私は彼らの何だ。
私にはわかっている。私が王に反旗をひるがえしたとしても、誰も私に従うまい。どの国も、どの王も。私にはわかっている。人々は皆、愛している私よりは、憎んでいるあの王に近い。
私には人間が理解できない。その弱さも、愚かさも。
そんな私を人間は、決して本当には愛しはしない。遠巻きにして、あこがれ、あがめ、恐れても。
憎みながら、恐れながら、自分たちに似ている、自分たちに近い、あの王に従っている方が人々は安心なのだ。彼らが本当に愛しているのは、いつだって私ではなく、あの王なのだ。

だが、従弟だけはそうであってほしくない。
どこか、皆とちがっていてほしい。私のように。
だが、それがよくわからない。たしかめるのが恐ろしかった。
今ならば、話せるだろうか。
もっと勇気が持てるだろうか。

あの朝、従弟が出ていった後、眠れなかった疲れが出てしばらくうつらうつらしながら、五万の大軍が城壁に向かって進んで行く、地鳴りのようなひびきを聞いていた。まもなくそれも遠ざかった。
いくらあの王でも、今日はいきなり攻撃はかけまい。あの王子も黙って城壁の中で待ちはすまい。戦いを何とか避けようとするから、二人はきっと会見する。ということは、王は今ごろ王子に会ってる。間近に彼を見ている。

その時、奇妙に王の気持ちがわかった。
喜んでいるだろうと思った。

一目見て、王子が手ごわい敵と知り、口をきけばもっとわかる。王子はかぶともかぶってはいまい。王が私より先に彼の顔を見ると思ったら少しくやしかった。とにかく王は彼を見る。見て、まず私のことを思う。満足するだろう。私にひけをとらない男を見つけて。私にまさるかもしれない男を見つけて。
王は私を嫌いなのだが、私に勝つ力が自分の中にないと知っている。だから、それを持っている男を見つけて狂喜する。
ゆうべの酒のせいか、ぐらりと頭がゆれた。奇妙な感覚が私をとらえた。
王もまた私と同じに、あの王子の名声にひかれ、彼に会い彼を得るために、この戦いに来たのではないか。私が手に入らず、私が恐ろしいから、私を征服できる男を求めて、彼は戦いを続け、異国を征服するのではないか。
かつて、あの友人を、そうやって私から奪ったように。

なぜ目をつけられたのかわからない、と自分の領土である小さい島に、王が船団を乗りつけた時、友人は嘆いていた。やせた土地で、財宝も軍隊もろくにない、こんなちっぽけな国なのに。
君そのものが価値なんだろ、と私が笑うと、友人はからかうような目で私を見て、君の友だちだからか、と返した。
どちらも冗談のつもりだった。だが私たちの冗談は、小さい時から、おたがい、それと気づかず、真実を言いあてていることがよくあった。

もし、あの王がいなければ、彼が友人の国を支配下におき、彼を相談役といってもいいぐらいの側近として扱うようにならなければ、私と友人の間はまだ、昔とそんなにちがっていなかったかもしれない。これほどまでに私が淋しい思いをすることもなかったのかもしれない。

私は成長してからは、友人と真剣に剣を交えたことはない。そもそも、私以外にも、友人は誰とも戦おうとしない。
かなうわけがないと公言する。命が大事だからと笑う。
だが本当か?彼は私より少し年上だが、それをさしひいても、幼いころの手あわせで彼はいつも誰より手ごわい剣の使い手だった。豪快で柔軟な剣さばきには、ふだん人前では見せない、彼のまっすぐで大胆な性格がよくあらわれていた。
私にだって勝てるかもしれない。そのことを彼は決して人に見せない。もとより王には、うかがわせない。
もし、王が気づいたら、何とかして彼と私を戦わせるにちがいない。いや、すでに王は今、ことあるごとに彼と私を対決させようとしむけている。彼が自分のものであることを、いつも私に見せようとする。
おそらくは王自身、そのことには気づかずにだ。

あの王子を見て、王がまず思うのは、私に勝つ男を見つけたという満足。それゆえに、彼をほしいと思う。私のかわりに。私と戦わせるために。その思いをこめて同盟を強制し、王子はむろん拒絶する。
王は怒り狂うだろう。彼が私と同じように、自分に屈服しない男と知って。だが、その瞬間でさえ、きっと、王の心の奥底には屈折した熱い満足がある。私のような人間が一人ではないことで、私の価値が下がったと思って。見ろ、おまえと同じことのできる男がいるぞ、と心の中できっと私に勝ち誇って毒づいている。おまえより見事な。おまえよりすぐれた。
奇妙なあせりに似たものを感じて、私は寝床から起き直り、砂の上に両足を下ろした。
…あの王子を見たい。
忘れていた喉の渇きのように、その感情がまた押しよせた。入口の垂れ布を払って、私はテントの外に出た。
曇り空の下、砂浜にはほとんど人影がない。昨日の戦いの負傷者たちが、足をひきずってのろのろと歩いている。
私は城壁を見渡せる、小高い丘の方へ歩いて行った。遠目でもいい、あの王子をもう一度見たい。彼が王にどう対するか知りたかった。
陣営のどこかにとらえられている彼女のことは忘れていた。忘れようとしていたのかもしれない。

はっと私は少しだけ足をゆるめる。おどおどとした少女が一人、肩掛けに身体をすっぽりおおって、ふらふらと通りを横切ってくる。私を見ても恐れずに、前に立ちふさがるようにするものだから、やむなく私も更に足をゆるめなければならない。あの、と彼女はおずおずと聞く。何かあったのでしょうか。海の方の空が明るいから、女主人が恐がって、見て来いと言われて。亜麻色の髪の、色の白い、淋しげな顔の少女だ。私は首をふる。早く逃げろ。そう言いすてて、走り去る。彼女がぼんやり立って私を見ていた、大きなうつろな目がいつまでもまぶたから消えない。夜が明けぬ前に、彼女も女主人も、この街路へとひきずり出されて、息たえるまでくりかえし、兵士たちに犯されるだろう。

今はもうずっと背後にある城壁が、あの朝は視界のかなたにあった。見渡す限り、それは左右に長く延び、高くそびえて、王子の都を攻める者を拒絶していた。きらめく兜と鎧の列が、その城門の前に幾重にも並んでいたが、やや広い空間をはさんで向き合ったわが軍に比べれば、その数は半分にも満たなかった。灰色の兵士たちの列がびっしりと重なりあったわが軍は、しかし奇妙に生気がなかった。戦う前から彼らの上を、死の雲の影がおおっているようだった。

兵士たちを愛さない指揮官にひきいられた軍はしばしばこうだ。殺されるために追われる汚れた羊の群れに見える。
胸が痛かった。責任と、自分の無力をひしひしと感じた。怒りもあった。私が戦いに参加しないことは、誰にも何の影響も与えなかった。私に続く者はなく、私が何を考えているか知ろうとする者もなく、属国の王たちは、私のあの友人も含めて、唯々諾々と王に従っている。自分の目的を果たすためならいくらでも兵士を使って死なせていいとしか考えていない、あの王に。そして私も結果として、そのような王の手に兵士たちをひきわたしてしまった。私のように戦いを拒否して逃げ出すすべを持たない兵士たちを。
私が丘の上に姿を見せてそれだけのことをとっさに見てとり、そこで見物していた従弟や部下たちが私に気づいてふり返った時、王が化鳥のように鋭い叫び声をあげて突撃を命じ、そして、いくさが始まった。

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