疾走3-疾走
友があとで、その直前にあったことを私に聞かせてくれた。王と、その弟は、二人の王子と対面し、王は兄王子に、弟王子が連れて逃げた王妃を戻し、以後、自分の属国となるように要求したが、兄王子はきっぱりはねつけた。「最初は育ちがよくておとなしそうな王子と思っていたんだが」と友は言った。「一人の支配者の強欲のために戦わされている五万の兵士たちを見て、恐れて震えろとでも私に言うのか、と言い返してきた時の冷やかさと言ったら、おまえ以上の迫力があったぞ」と。
会談が物別れに終わるかと思われた時、弟王子が提案した。自分と、王の弟が一騎討ちをして、勝った方が王妃を自分のものにすることにすれば、いくさはしなくてすむはずだと。王と王弟は、それを受けた。
「兄弟ともに美しい王子たちだったが」と友は話した。「特に弟王子ときたら、まるで娘のように可憐だった。なるほど妃が迷ったわけだ。その顔のわりには腕だってなかなかだったが、しょせん王弟の敵じゃなかった。肉でもさばくように人を殺すやつだからな。追いつめられて剣をたたき落とされて、これまでと皆が思った時、弟王子は何と背を向けて逃げ出した。兄王子の足もとに身を投げ出して、その足に両手でしがみついたんだ」
「おれも驚いたが、皆も驚いたよ」友は語った。「王弟は追っかけて行って、兄王子にどけと言った。弟王子に立って戦えとわめいた。二人の王子がどちらも動かないから、こっちじゃ王が、これで戦えると大喜びで全軍に戦闘体勢をとれと号令した。兄王子も王弟に、一騎討ちはこれで終わりだと言った。だが王弟は承知しない。もともと、あの坊やを殺したかったのさ。むろん、その後戦いを始めて都も奪うつもりだったろうが。やれやれとおれは思った。困ったものだと思って見てた。王弟はとうとう剣をふり上げて、弟王子を刺そうとした。その時さ。兄王子が目にもとまらない早業で自分の剣を抜くがいなや、王弟の胸に、背に通るまで貫いたのは」
「これにも皆また呆然とした。やられた王弟そのものも、弟王子も、王も、多分、兄王子本人も。だが、おれは驚かなかった。あれしかなかった。おれだってそうする。王と向かいあって、つまりおれたちと向かいあっている時からずっと兄王子を見てて、おれは、こいつはおれに似てると思ってた。とことん、現実的なやつ。そのくせ、現実的でないものを、自分にないものを持ってるやつを、大切にして、守ろうとして、愛して、動きがとれなくなってしまってるやつ。それを守るためならば何でもすると決めているやつ」友人はため息をついた。「かわいそうにな」
「自分を哀れむのはよせ」と私が言うと友人は笑った。「おれはおまえの足なんかにしがみつかない」と私が続けると、「そう思ってろ」と友人は言った。
ゆうべ、浜辺で私は、友人の足にすがって泣いた。
それともそれは、幻だったか?
花園を抜ける。橋を渡る。庭園を走る。頭上では星が降るようだ。昼間は店が並ぶ通りか、酒の匂いや甘いパンの香りが夜の空気の中にかすかに漂う。もうすぐすべて消え去る、人々の生きた証し。それが闇のそこここに散らばって、流れる。もうすぐに死ぬ人たちの最後の眠りの中を私は走っている。最後の夢の中を走っている。
弟を殺された王の絶叫は、そのまま突撃の命令となった。丘の上から私が見た時、我々の側の全軍はもう動き出していた。狂ったように飛び跳ねて突進する王の戦車を先頭に、のたうつように波打って、大きな黒い雲のように城壁めがけて押し寄せていた。
ばかな、と私は思わず叫んだ。引き返せ、と声に出した。聞こえないとはわかっていながら。
敵の軍は少なく、戦列は薄い。突進して敵とぶつかりあうためには、城壁のすぐ下まで行かなければならない。今、その城壁の上には、浜辺でもさんざん私たちを苦しめ、一時はさしもの私の部下たちをさえ上陸を不可能にするのではないかと思わせた、この都の弓兵隊がずらりと姿を現わした。
背筋が寒くなり、胸が凍った。
二人の王子は王弟の死骸を後に、味方の方へと走り、馬に飛び乗って城門まで一気に馳せ戻ったが、弟王子だけを中に入れて、兄王子はすぐ馬を返し、よくとおる声で弓兵隊に呼びかけたのが、この遠くまではっきり聞こえた。彼はそのまま指揮官の位置につき、兵士たちに向かって何か叫んだ。戦闘を宣する声だったにちがいないのだが、彼は全軍を動かさず、そのままの位置で我が軍を待ち受けた。
弓兵隊の矢が我が軍に降り注ぐのに充分な位置で。
死の雨が、我が軍の上に降った。麦が嵐にたたきつけられるように、ばたばたと兵士たちは倒れた。愚かな王はまだ退却命令を下さない。次々に交代して矢を放つ弓兵たちの動きは手慣れて寸時の無駄もなく、それをくいとめるすべはなく、なすがままに兵士たちは地上に折り重なって行く。悪夢のような光景だ。戦闘ではない。虐殺だった。
だが、そのような中でも最前線どうしはすでにぶつかりあっていた。活路も勝機もそこにしかないと、祈る思いで目をこらした。我々が浜辺でやったように、前進し、敵の中までくいこめば、味方を射るわけにはいかず、矢の嵐はやむ。そうすれば、こちらの数がものをいう。今は一刻も早く敵味方を入り乱れさせてしまうしかない。圧倒的な人数の我々を押し返して、それ以上進めさせずにくいとめている前線兵たちがいるから、弓兵隊が思うさま、我らをえじきにできるのだ。
押しつ押されつぶつかりあう最前線の敵の一角にようやく、ほころびが見えた。猛勇で知られる、巨人のようなサラミスの王が、あたるを幸いなぎたおし、周囲に死者の山を作っている。くいこめ、くいこめ、そこから敵の中に入ってしまえ、突破しろ、とかたずを呑んで見つめた時、敵の兵士たちがさっと左右に分かれて、一人の騎馬武者がまっこうから巨人に向かって馬を進めて来た。馬上からとは思えぬ強さで巨人めがけて投げられた槍を見て、私はそれが兄王子と気づいた。
巨人は槍をよけ、横なぐりに斧をふるった。受けきれずに兄王子は地面にころげおち、兜も飛んで長く波打つ黒い髪が肩に乱れた。
馬はあがいて、かけ去った。その時私は驚きとともに、王子が馬を楯にすればよけられたのに、しなかったことに気づいた。馬をかばって自分からなかば地面に飛び下りたのだ。
彼はすぐ起き上がり、別の兵士に襲いかかろうとしていた巨人に斬りかかった。巨人はふり向き、兵士もまた、転がるようにその場から逃れた。
私の胸に奇妙なざわめきが起こった。神殿の時もそうだったが、この王子は部下をまるきり頼りにしない。無謀なまでに、一人で相手の手もとに飛びこんでくる。よほど自分に自信があるのか。そうするものと思っているのか。魅入られたように彼を見つめながら、また彼女を思い出していた。
王子は背が高い。だがサラミスの巨人は彼より頭ひとつ大きい。それほど巨大な体躯をしていても、彼の動きは敏捷で、それに負けずに身をかわしては襲いかかる王子の動きもまた、恐ろしい力と技をふるっていながら、そうは見えないほど軽やかで、小鳥が鷲の前ではばたいているように優雅でけなげにさえ見えた。そのせいもあって、まるでそこで戦っているのは、彼女のように見えたのだった。
巨人は王子をつかまえて両腕でしめつけた。一瞬、王子の背の高い身体は巨人の腕の中にすっぽりとつかまれ、へし折られそうに見えた。黒い長い豊かな髪をつかまれて苦しげに彼はのけぞったが、荒々しく頭をぶつけて何とか巨人の手から逃れた。たたきつけられて地面に転がりながら落ちていた盾をつかんでかざして巨人の矛を防いだその様子は、あいかわらずどこか彼女を思わせる。彼の戦い方はそれほどすさまじいのに、どこか端正で冷静で、女が嫌いではない男に逆らっているような甘い悲しみがただよっているから、そう見えるのだ。盾をはねのけ、それも落ちていた槍をつかんで巨人の腹に突きたてた時も、その槍をたたき折って切れ端で彼をなぐり倒した巨人に再び剣を突きたてた時も、それでもまだ倒れない巨人の大きな手でのどもとをつかまれ、宙に持ち上げられてしめ上げられた時も、そうされながらなお剣を離さず、ついに力尽きた巨人が大地にどうと倒れて一人地上に残された時も、彼はまるで殺したくなかった恋人を殺してしまった娘のような、夢中で呆然とした様子をしていた。彼の周囲で味方の兵士が歓声をあげ、崩れかけた前線が再びしっかり閉ざされる。
私にはわかった。この戦いは負ける。
見渡す我が軍の一角はすでに整然と後退を始めていた。あの友人の部隊だろう。まもなく彼が王に接近し、否応なしに軍をひかせるにちがいない。それまでにどれだけの味方の兵士が無駄死にするかはわからないが。
無念さと苦々しさにきりきりと胸が痛んだ。私は黙って戦場に背を向け、一人で丘を下りた。
あの王子が憎かった。
おまえとともに戦えて光栄だな、と言って昨日浜辺で私の手を握りしめた、あのサラミスの巨人、あの愛すべき好漢を倒したからではなかった。
我が軍の兵士たちを彼の弓兵隊が、豚か羊の群れのように死肉の山にしたからでもなかった。
私に自分を憎ませるから、あの王子が憎かった。
なぜ、あの日の朝、戦いに出ないと決めたのか。私は何を期待したのか。
皆が私に従って、戦いに行かず王を困らせることか。
それがだめなら、こうなることを私は望んでいたろうか。私のいない軍勢はどんな大軍でも烏合の衆にすぎないと、皆に、あの王に思い知らせるために、これだけの兵士を空しく死なせることを私は望んでいたのだったか?
私のその望みはかなえられたのだろうか。彼によって?
あまりにも明らかに示されたこの結果を、もちろん王は認めたがるまい。私がいない味方の弱さを認めるぐらいなら、あの王子のすばらしさ、みごとさを認める方がずっと彼には楽だろう。
だが、兵士たちはどうだろう?
私がいない戦いで完膚なきまでに敗北し、仲間の多くが殺されたことで彼らは私を恨むのか。それとも王をか?どちらをより、彼らは憎む?
こんなことを考えている自分が何かひどく、うとましかった。
こんなことを考えなくていい、あの王子がうらやましかった。
そう、彼は考えまい。
自分の意見が通らないから、自分の価値が正しく認められないからと言って、戦場に出ず、味方の兵士を見殺しにするようなことは、あの男なら決してしまい。
黒曜石のように濡れて輝いていた黒い目が、私をじっと見つめる。静かな怒りに満ちた声が言う。「罪のない兵士たちを」と。
なぜか、腹は立たない。うなだれて、彼に叱られていたかった。私はひどく恥ずかしく、ひどく悲しい思いがした。
そのくせ、私にはわかるのだった。
彼に叱られて、うつむいていた目を上げた時、私の目が凶暴な野獣のように光っていることを。まっすぐに私を見つめて、あたたかい怒りをたたえていた彼の目がそれに驚き当惑して見張られる間も待たず、とびかかって彼をとらえ、獅子が獲物をくわえて走り去るように彼をさらって行くことが。
おそらくは私の故郷へ。それでなければどこか遠くへ。彼のような人間が誰にも傷つけられない場所へ。
そこで彼を守りたい。彼を愛するすべてのものから。
私にはわかっている。彼のような人間に人がどんなにあらゆることを要求し、求めつづけ、奪いつづけ、喰らいつくすかを。
彼のような生き方の末路を私は知っている。そうは決してなりたくないから、私は今のように生きている。
巨人の抱きしめる腕の中で、苦しげにあえいでいた、あの王子。相手を傷つけたくないのに、ただ自分を守るために、必死で相手をふりはなし、相手の身体に槍を突き刺し全力で押し込んでいたあの姿。そうやって相手にとどめをさしてそれでようやく自分に手を出さなくさせる、あの戦い方は、彼がふだん回りの人々にしようとしてできないでいる戦いなのではなかったか。
彼のその姿は彼女より、むしろ私に似ていなかったか。
なぜ戦いに出なかったのか。あの朝に、私は。
人々の前からいなくなることで、人々から自分自身を奪うことで、いつも他人を罰してきた。
あの王子なら絶対にしないことを、いつから私はしはじめた?
罰というより、しかえしだった。しかえしというより、せめてもの抵抗だった。
私を愛して傷つける、愚かな周囲の人々に対する。
母、亡くなった父、あの友人、そして従弟。
私が心から愛した人々は、決して私を愛しすぎなかった。
冷たいと見まがわれそうな優しさで、いつも私にそっと距離をおき、私の中に踏み込まなかった。
私に近づきすぎる者は、いつも私を傷つけた。
あの王子は、まるで無防備な私自身のように見えた。私の心の奥底に、ひっそりと暮らしているもう一人の私のようだった。
月光が家々や塔や神像の影を、涼しくくっきりと地表に落としている。通りの角々に夜っぴて燃えるかがり火の赤い光がゆらゆらと、その影の上に影を重ねる。もう、あちこちの建物の窓や扉が開きはじめた。一人二人と外に歩み出してきている者もいる。かがり火が金色の火の粉を風に散らせる。私は走りつづけ、石段を下り、また上る。
私はいつ、そんな戦い方を知ったろう?自分がいなくなることが、人を苦しめるかもしれないという力を、いつどうやって意識したろう?
…おまえは今日は行くな。あの友人がそう言った。
まだ幼いある日、ひなげしの花が咲いている夏の日だった。
何で?と口をとがらせた私に友人は笑いかけた。そしたら皆がつまらないから、皆が困るから。
僕がいないと?
友人はうなずいた。だから、困らせてやろうや。
同じことを少し成長してからも彼は言った。君には魅力がある、とささやいた。その金色の髪、その青い目。神にもまがう剣さばき。君を見てると誰もが楽しい。いなくなったら皆が悲しむ。だからさ、それを使えよ。
友人の言ったことが私にはよくわからなかった。
だが、どこかで、毒が回るように、その言葉は私を支配し、そして私を守ってくれた。
彼がいなかったら、私は今、あの王子のようになっていたろうか。
あの王子のように生き、そして死んで行ったのだろうか。
すべてをうけいれ、許しつづけて。すべてをうけとめ、認めつづけて。
副官がととのえてくれた夕食をテントで一人でとったあと、外に出るのがうっとうしかった。
兵士たちは私を、どんな目で見るのだろう?見当もつかなかった。責めるのか、避けるのか。
びくびくしている自分がばかばかしくなって外に出ると、もう日は暮れて、遠く、死者たちを焼く煙が薄青の空にたなびいていた。
負傷者の数も昨日とは比べ物にならない。テントに入りきれず、砂浜にしいた敷物の上に放置されてうめいている者たちもあちこちにいた。
その者たちの中から、喜びにみちて私の名を呼ぶ声がおこった。瀕死のけが人も、それを介抱している者たちも、目を輝かせて私を見上げ、汚れた布を顔にまきつけ、目もなかば見えない者が空をさぐるように手をこちらにさしのべていた。
あんたがいなきゃだめだ。口々に彼らは言った。あんたでなけりゃだめなんだ。
あんな王じゃだめだ。あんたになら皆がついて行く。
あんたなら、あの王子に勝てる。あんたなら、この都を落とせる。
指揮してくれ、明日は。
あんたと、あんたの部下たちが、おれたちの先頭をかけてくれ。
声は次第に大きくなり、人は次第に増えてきた。私が姿を現わしたのを聞いてか、兵士たちが続々と浜辺をこちらへかけてくる。
暗がりの中に波のよせる音がひびいていた。
彼らの輝く目のひとつ一つを私はじっと見つめていた。
兵士たちの向こうに、テントのわきに、私の従弟が立っていた。両脇に下ろしたこぶしを固くにぎりしめて、兵士たちと私の姿を目に刻みつけようとするかのように、くいいるように私たちをながめていた。
その時にまた、誰かが叫んだ。
王が、あの巫女を兵士たちによこしたぞ。好きにしていいそうだ。
大きな笑い声があちこちで起こり、はじかれたように次々に、彼らの頭が向こうを向いた。その頭のひとつ一つに、獣のような耳が生えて動いたのを、嘘ではない、この目でたしかに見たと思った。
彼らの顔は醜くゆがみ、唇は期待にみちて、だらりと開いた。
おしまいだ、と私は思った。
王の醜い、そして愚かな反撃だった。
誰も勝つことのない卑しい攻撃だった。
私が娘を救わなければ、王に屈服したことになる。救えば、兵士たちと対立する。
正直言って私は、娘のことなど忘れていた。
あれだけ脅かしておいたことだし、王は彼女に手をつけられまい。万一彼女をわがものにしても、しばらくは手もとで大事にはするだろう。そう思っていた。
たしかに王には、私の意志にさからって我が手で彼女を犯す勇気はなかった。だが、そうやって私を恐れるそのことが、彼には我慢できなかった。今日の敗北で思い知らされた私の力、そのことで生まれる兵士たちとの絆。そのことも王は恐れ、憎んだ。
我が手を汚す勇気はなく、兵士たちにそれをやらせようとした。何が起こるかには目をそむけて、無雑作に彼女を投げこんだ。敗北に打ちのめされ、あの王子に対する怒りのはけ口を探している狂気の男たちの中へ。
そこまで考えてはいなかった、と王は言うのだろう。
またしても、ただのうかつな、愚かなふりをするのだろう。
実際何も考えてなかったのかもしれないが、なかば無意識にでも的確に私と兵士の信頼にくさびを打ち込む最高の手段を選択する、このぬけめのなさはどうだ。
その小ざかしい猿知恵を私は憎んだ。
それほどまでに私が憎く、それほどまでにねたましいか。
そこまで卑しい人間と、こんな愚かな兵士たちの寵を奪い合うほどに自分を貶めたくはない。
剣をとり、ざわめきの聞こえている方へ大またに私は足を運んだ。
あんな女は放っておけ、と負傷者の一人が低い悲しげな声で言ったのが聞こえた。兵士たちにしたいようにさせておけ。我らを見捨てないでくれ。王ではこのいくさは負けるのだ。兵士たちと対立しないでくれ。王の思うつぼだ。
私は黙って前を見て進んだ。心のどこかで思っていた。
あの王子なら、放っておかない。
あの王子なら、見逃さない。
彼女をとらえて、衣をひきはごうとしていたのは、王子に殺された王弟の国の兵士たちだ。憎しみもあらわに彼らは燃えるたき火から引き出した鉄の棒で彼女の腕を焼こうとしていた。私は無言でそれをもぎとり、真っ赤に焼けた先を、持っていた男ののどにねじこんだ。男が倒れ、兵士たちが唖然と私を見つめる中、私は彼女をすくい上げるように両手に抱いて、その場を離れた。
私の腕の中で彼女のあたたかい、若々しい身体が怒ってもがくのがわかった。テントに入り、ぼろ布に近くなった衣もろとも、寝床の上に下ろしてやると、座り直して私をにらんだ。その荒っぽい生き生きとした表情には何の翳りも見えてはなく、王は彼女に手をつけてないことを私はとっさに確信した。
ほっと心がゆるむのがわかった。彼女が傷つけられてないのに安堵したのではなく、彼女がそこに座って不機嫌に私をにらみつけているのが、ひどく見なれた、なじんだ風景のようで、まるで故郷に帰ったようだった。私の実際の故郷とはちがう、もっとにぎやかで土の香りのする、それでいて見たこともない不思議な場所に。たった一度しか会っていなかったのに、もう私には彼女のいる場所がひどくなつかしい、よく知っている世界になっていたのだ。それに自分でびっくりした。
彼女の顔にはなぐられた痕があり、鼻や唇から流れた血で首や胸は汚れている。兵士たちにもみくちゃにされながら抵抗して暴れていたのを思い出し、「よく戦ったな、勇気がある」と言ってやると、ほのかな灯皿の光が輝きを増したかと思ったぐらい、まぶしい笑顔になって彼女は「襲われたら犬だって戦う、勇気なんかと関係ない」と言った。
また私は、あの王子と話しているような気がした。不敵なように見えて、どこかひどく傷ついていて、つらそうで、震えるような繊細さをたたえているその笑顔も、王子が私のまだ見たことのない笑顔で私に笑いかけているようだった。
水にひたしてしぼった布で、のどもとを汚している血を拭いてやろうとすると、けわしい目でつきのけられた。一瞬また彼女があの王子に見えて、そこはかとなく私の手がひるむと、いっそう激しくつきのけられ、思わず私が布をぶつけると、つかんでぶつけ返してきた。
自分の心が、優しさと腹立たしさの間でゆれるのが、くすぐったくて落ち着かなかった。ことさらゆっくり、布を拾って腕をのばして金だらいの中におとしてやると、彼女は私をにらんだまま、おびえている風のない不敵な様子で布をつかんで自分でゆっくり胸や顔の血をふいた。まるで兵士のようなしぐさで、私がすすめた皿の果物にも一顧だにもくれないままで。
その力強い清々しさに見とれていると、彼女が腹立たしげに「男は皆同じよ」と言った。「ちがう」と言い返すと、「兵士は戦いしか知らない。平和だとどうやっていいのかわからない」と言った。「哀れよ」
「君らのために死んでるのに」と私は言った。「哀れむだけでは悪かろう」
何で私が兵士の弁護なんかしてるんだろう?自分以外の誰のためにも戦ったことなどなく、むろん死のうなどと思ったこともない、この私が。
私はとまどう。この娘の前では私もただの一人の男、ただの兵士にすぎないのか。彼女の目には私はどんな風に見えるのか、私は突然気になり出す。これまでたくさんの女が私を見てうかべた、うっとりするような、ひるむような表情を、彼女はまったく浮かべていない。
彼女の目がまっすぐに私を見る。品定めされているのを私は感じる。外見ではなく、心の底を。私はつつましく、じっとしている。ふと思う。この娘がそばにいたから、こうやっていつもじっと見つめられていたから、あの王子はあんな、つくりかざりのない、つつましく自然な無防備さを身につけたのかもしれないと。彼に向けられ、浴びせられていただろうかもしれないまなざしを受けて、そこにそうしていることは私を妙に緊張させ、興奮させる。神々のようにたくましく、そして高貴な好奇心が彼女にはある。相手を少しも不愉快でなく裸にしてしまう力を、そのまなざしは秘めている。
「何でそう決めたの?」彼女はかすかにためらって聞く。
「何を?」私は聞き返す。
「戦士になるって」彼女は低く無心な声で聞く。
「何も決めなかった」私は言う。「生まれたら、こうなった」
彼女はじっと私を見ていただけ、表情を変えたわけではない。それでもその時、彼女から、あたたかい哀れみに似た何かが私に向かって押し寄せたのを感じた。それに包まれるのは快く、でも少ししゃくにさわって、私は言い返す。「君だって、何で神に自分を捧げるって決めたんだ?どうせ片思いなのにさ」
「怒らせる気?」と彼女はくってかかる。
そう言われて、怒らせたかったのに気がつく。彼女ににらまれるのが、とても楽しいのがわかる。
自分が信じたくても信じられずにいるものを、信じている人間を見るのが。
「君は最高神のゼウスとか知恵の女神のアテネとか、いろんな神に仕えてるんだろ」私は言う。「だったら、殺した敵の皮をはいで敷いて寝る戦いの神アレスはどうなんだ?彼にも仕えてるんじゃないのか?」
彼女は生まじめな、しかつめらしい顔になって首をふり、議論を打ち切ろうとする。私が面白がって、楽しんでいるのがわかったらしい。前かがみになって、水の中にまた布をつけながら、「神々はちゃんと敬うものよ」と、少し悲しげにきっぱりと言う。またふっとあの王子の声がそれに重なってくる。君には何でもが遊びなんだな。
そうさ。生きていることそのものだって。
遊びだって、それが真剣なら、信仰にもひけはとらない。
私は身をのり出して、彼女を見つめる。
「秘密を教えよう。神殿では教えないことを」
炎のゆらめきの中で彼女はまっすぐ顔を上げ、じっと私を見返していた。傷ついて、血に汚れ、誇りにみちて、無心に、私を見つめていた顔。今もこうして走りながら、闇の中、夜空の中に、浮かび上がりよみがえる、あの瞬間の彼女の顔。
「神々は人間に嫉妬している」私は言う。「人に寿命があるからだ。いつも最後の瞬間だから」
彼女は私を見つめている。そのゆらがないまなざしに向かって今私が走りつづけている、その顔。
「散るものは何より美しい」ひとりでに、ことばは私の唇から生まれる。「今ほど美しい君はない」
ゆっくりと私は続ける。「この瞬間はもう二度と我らの上には訪れない」そして大きな悲しみに似た満足が、私の心に広がってくる。
長い沈黙。彼女がかすかに息を吐く。その手がゆっくりのばされて、さっき私がさし出したままの皿の果物をひとつ取る。何かの契約のように彼女はそれを口に含む。冥界の食物を口にして再び地上へ帰る望みを断ったペルセポネーのように。彼女は何を捨てたのか?何をうけ入れたのか?無心な、奇妙に幼い顔で、ひとり言のように彼女はつぶやく。「ただの野蛮な人殺しと思っていたけれど」その目がふしぎな光をたたえる。「そうではなかったのね」
ほろびようとしている町も、遠い海からのざわめきも、夜空の星も、足の下の石だたみも、すべてが遠のき、消えて行く。私の身体は再びあの日の、あの瞬間のテントの中に横たわる。あの会話をかわしてから程なく、彼女と少し離れた砂の上の敷物に身を横たえて眠ったあの夜の私になる。気がつくと、短刀の冷たい刃がのどに押し当てられ、私の上に彼女がかがみこんでいた、あの瞬間に戻ってゆく。
刃は、いつまでも動かなかった。氷の糸のように、私ののどにかかっていた。
身体を動かさず「やれ」と低く言うと、彼女は身じろぎをしたようだったが、刃の方は微動だにしなかった。人を殺したことはまだないにしても、この娘は武器を扱いなれている。おそらく武芸のたしなみもある。
「恐くないの?」はりつめた声が、いぶかって聞いた。
「人はどうせ死ぬ。今か、五十年後か」私は目を開いた。「どっちだって同じだ」
私のそばにひざをついたまま、彼女は私を見下ろしていた。
「やれ」私はくり返した。
「生きていれば、あなたは」彼女の声は私か、自分か、その両方に確認を求めているようだった。「また人を殺すのね?」
「山ほど」私は言い返した。
彼女は、ためらっていた。
神々が、ためらっていた。
人間を、うけいれようかと。
私を、うけいれようかと。
私はゆっくり、手をのばした。
私ののどに刃を押し当てている、美しい女神に向かって。
運命に向かって、人生に向かって、限りない未来に向かって。
そのやわらかく、あたたかい両腕の肩の近くに手をかけて、刃ごと引き寄せてゆくと、生きているという実感が、のどもとから全身にみなぎって、流れわたった。
これが私の生き方だ。
最も私を理解した者が、私を許さないのなら、生きている価値などはない。
彼女が人を殺すのを恐れないのはわかっていた。
自国の民を蹂躙し、自らの仕える神を汚した敵の男たちを私が殺すことを許さなかった彼女なら、たとえ愛している相手でも、それが世界のために必要と思えば、そうすることが正しいと思えば、ためらいもなく殺すことが。
生きることをつかの間の遊びと感じ、人を殺しつづけることを公言している男の中に、それでも何か、正しいもの、真剣なもの、豊かで、気高く、美しいものを、彼女は見出すのだろうか?
私にも、はっきりとはわからない、それらのものの存在を。
あの時にわからなかったことが、今の私にはわかる。
あの時に求めていたものが、今の私には見える。
私がそれを手に入れて、すぐにまた失ったものが。
私が求めていたのは、自分が許され、うけいれられることだけではなかった。
自分が彼女に勝つことではない。彼女が私に勝つことだった。
彼女が私に示した新しい世界が、本物になることだった。
自分とちがう考え方と生き方を選んだ者。それがどんなに危険でも、それを殺さない世界。どんな救いようのない恐ろしい存在の中にも、わずかな希望を見出して、許し、うけいれてゆく世界。
私を理解し、その危険さを知った時、自分もその魅力に酔いそうになった時、彼女は私と同じになることで、それを防ごうとしたのだった。
私を殺すことで。
生き抜くために、人はさまざまな方策をさぐる。あの友人も、あの王子も、そうやって何かを捨て、何かに汚れた。自分をゆがめた。私もまた私なりに。彼女は?何を捨て、何を選ぶのか。人を殺しつづける私を殺すことで彼女が自分の未来を守り、築いて行こうとするのなら、そんな退屈な未来に用はない。私はもうすでに充分、生きることに疲れていたから。
けれどもし、彼女がもしも。
私のような人間の中にも何かを見出し、私のような人間も許すなら。生きていてもいいと言ってくれるなら。
世界にとっても私にとっても、新しい日々は生まれると思った。
そんなことまでその時に、私にはわかってなかったが。
少しづつ、だが動きはとめないで、私は彼女をひきよせて行く。彼女が私ののどに押しつけた刃は私の肌に軽くめりこんだまま、くいいりもしないが弱まりもしない。全身の力を指にこめて、その位置を彼女が保ちつづけているのがわかる。
ころあいをはかって一気に、私は彼女を引き倒し、二人の位置を反転させて彼女の上からのしかかった。それでも彼女の手の刃は吸いつくように私ののどから離れない。下から押し上げ、力をこめて横に引けば私ののどを切り裂けることを、彼女も私も知っている。それを充分感じながら、私は彼女の衣のすそをたくしあげ、なめらかな両足と腰をあらわにした。彼女は震えももがきもしない。ただ、ひたと私を見つめ、刃を押しつける手に神経を集中している。
私は彼女におおいかぶさる。許されるか。許されないか。うけいれられるか。そうでないか。世界から。未来から。運命から。それをかけて、彼女の熱くすべすべとした下半身に自分の身体を押しつけてゆく。刃にかまわず唇をよせ、顔と顔とを重ねあわせ、重心のすべてを彼女とその手の刃に預ける。
どこかで重い金属が落ちてかすかな音をたて、彼女の手にもう短刀はない。彼女の身体が私の動きに反応する。腕が私を抱きしめる。口が私の唇をさぐる。
そして世界は、ひとつに溶ける。投げ出された短刀は、近くの砂の上に落ちていても、はるかな、はるかなかなたにある。私たちは抱き合う。あらゆるものを許しあって、あらゆるものをたしかめあって。波のように激しく、夜のように深く。
思い出の鮮やかさが私のひざを震えさせ、私は一瞬、足をとめる。そしてすぐまた、ふりきるように走り出す。彼女とすごした翌朝、まだ彼女が眠っている時、あの友人がテントに私を訪ねてきた。王に代わってわびを入れ、戦いに加わってくれと頼んだ。私は断り、副官に帰国のしたくをするよう命じた。仲間を見捨てて帰るのかと抗議する従弟にも耳を貸さずに。
一日が過ぎ、また夜になる。彼女と私は抱き合って眠った。仲間をおいて帰国できるの、と彼女が聞き、故郷を捨てていっしょに来れるか、と私が聞き返すと、彼女は黙って、得も言われない優しい深いため息をついた。
彼女の決心がつかなければ、いったん家族のもとに返し、私は故郷に帰ろうと思っていた。私がいなければ、この戦いは早晩終わる。王はあきらめ、何か面目を保つ理由をつけて兵をひきあげるか、あの友人が仲介して王子と和平を結ばせる。もはや王弟が死んだからには、さらわれた王妃の件は半ば以上かたづいている。この戦いは長びいてもひと月はかからない。私はそう踏んでいた。その後で、きちんと彼女を迎えに来ようと。
けれども彼女は、私といっしょに来てくれる気がしていた。それが私を力づけ、この地から確実に遠ざけて和平を一日も早くもたらすことにつながると思えば、私と彼女の故国との絆が王に脅威となるのは必至で、そのことも王のこの都へ対する野望をくじくことにもなると思えば、ためらわず彼女はきっと、私といっしょに来てくれると私は信じていたのだった。
だが、その夜明け、従弟が死んだ。
私の鎧と兜をつけ、私になりすまして部下をひきいて戦場に出て、あの王子に殺された。
大規模な攻撃が夜明けにあったことはテントの中で気づいていた。だが、部下たちには夕刻から何があっても兵を出すなと伝えておいたし、私は出ても行かなかった。
王子の率いる敵の精鋭はすさまじい勢いで砂浜まで押し寄せ、動転していた我が軍の将兵たちは、夜明けのおぼろな光の中で、私の武具に身をかためて現れた若い従弟を私と信じた。勇みたった我が軍と王子の軍が激突し、私と同じに先頭きってつっこんだ従弟は王子と一騎討ちになり、のどを切られて倒された。
まるで、その前夜の私と彼女の、残酷な戯画のように。
倒れた従弟の上にかがみこんで顔から兜をはずすまで、王子はそれが私であると信じていたらしい。他の者たちも、すべてが。
従弟はまだ少年といっていい若さだった。敵も味方も呆然とし、その日のいくさは、そこで終わった。
だから、副官が従容としてそのことを私に告げに来たのは、ようやく日が高くのぼったころだった。浜辺は明るく、波がいつものように寄せていた。
彼の話を聞いて何が起こったか理解した時、私は彼をなぐりつけ、とめに入った彼女ののどをつかんでしめあげて、砂の上に放り出した。