疾走4-疾走

私は立ちどまる。ほんの一瞬。道をまちがえたのか?そんなことはない。だが、ずっと前方に、夜空を背にしてそびえていた、白く高い王宮の建物が、ずっと近づきつづけていたそれが、微妙に左にずれてきている。
気づかない間に、道が曲がってきていたのか。迷路とは見えない迷路に、いつの間にかからめとられていたのだろうか。
ままよと私は走り出す。王宮を正面に見る方向に向きを変え、狭い小路におどりこむ。そこでももう、ほとんどの建物で、人の起き出す気配がしている。窓と窓からかわされる声。何だ?けんかか?火事か?大きな声はやめて。坊やが目をさますから。おまえたちは寝てなさい。私が見てこよう。私は走り抜ける。間もなく殺される男たちと子どもたち、犯される女たちの声の中を。地獄を前に、この町は、何と優しいあたたかさを、そのすみずみまであふれさせていることか。それらの建物の小さいへやのひとつに、あの男が家族と住んでいるような気がする。彼が暮らしていたのは王宮のはず、今はそこにもいないはずなのに。別のどのへやかに、私と彼女が住んでいるような気がする。赤子を寝かせたゆりかごを、へやのまん中において。私は起き上がり、外を見る。何かあったのかな。王子が子どもを抱き上げて口づけする。目をさましてしまったな。王子の妻はほほえむ。彼女もほほえむ。
幻は過ぎ去る。私は走る。あたりのざわめきは高くなる。遠くで鋭い誰かの悲鳴。潮鳴りのように近づいてくる四万の兵の足音。
「敵襲か!?」誰かが叫ぶ。
「だが、鐘が鳴らない」別の声が答える。不安そうに、祈るように。
城壁の上、鐘のそばで、そこを守るこの国の兵士たちはもうすべて、今は斬り伏せられていよう。城壁はまっ先に占拠され、そして城門は中から大きく開かれたはずだ。私の友の手によって。あの友の率いる兵士たちによって。
私は走る。どこまでも続く、くねくねと細い迷路のような小路から、また小路へと。

走りながら、自分の心の中を走りつづけている気がする。先が見えないまま。何も見えないまま。

あの若者。あの従弟の若者と彼女とを、私は自分の心の中のどことどことに、それぞれに住ませようとしていたのだろう。なぜか何もそのことを心配してはいなかった。とにかく帰れば。二人を連れてとにかく帰れば。それから先の未来が私には限りなく広がっていた。故郷の輝く青い海、白い建物、緑の草原、青いアネモネ、赤いひなげし。
私と彼女が住む世界に、自分のいる余地はないと従弟は思っていたのだろうか。私が彼女に目を奪われて彼のことを忘れていると?彼女の故国に心ひかれて、自分の味方を見捨てると?
私はあせっていたかもしれない。まばゆい未来の大きさにかえって不安で、だからこそ、先を急ぎすぎたかもしれない。何かに目をつぶったかもしれない。自分にも他人にも、説明を省いたかもしれない。いつも、勝利を確信しながら、そのことを人には話せなかったように。信じてもらえるはずのない、だが成功するとわかっている計画を、人に話している間に自分でも疑い出して失敗するのを恐れたように。

それでも私は知っていた。彼女を愛し、彼女とともに生きることは、そうすることであの王子と彼の国とにつながることは、もう一人の愛する者、私の従弟を切り捨てることなどでは決してなかった。彼とともに生きようと私が選んだ世界を、崩すことでも塗り変えることでも決してなかった。それを守り抜くためにこそ、私は彼女を愛したのだ。彼女と生きる道を選んだ。
誰も信じてくれなくても、誰もわかってくれなくても、私には確信があった。語れというなら、あの若者に、私の従弟に、そのことを、何日も、幾晩も、私は語りつづけられた。彼と彼女と私とで築き育てる未来について。あの王が支配するのではない、新しい世界について。
しっかりとまだ、ことばにはできなかった。それでも私はわかっていた。自分の勝利が。自分が作りあげる世界が。実際に目にするまでは、誰もがわからなくても、信じなくても、いつも私がこの腕で見せつけてきた勝利のように。奇跡のようだ、と人がのけぞる、だが私にはいつだって当然だった勝利のように。

走りながら目がかすむ。くやし涙が風に飛ぶ。もう通りに走り出してきている人たちの間をぬって走りぬけて行きながら、叫びたい、足踏みをしたい、手をふり回してわめきたい。
どうして私を信じなかった!?
私がいかにわけのわからぬことをしようと、自分を失ったように見えようと、狂ったように、老いたように、呆けたように見えようと、最後の最後には必ず私は私であったと、人にわからせてきたはずだ。なすことはした。要求には応えた。果たすことはすべて果たしてきた。勝利を、成果を与えてやった。私にはいつもわかっていた。自分にそれができることが。たとえ、他の誰にも不可能でも、私には、私だけには、それができることが。
今度だって、そうだった。
どうして私を信じなかった!?
私の良心を、私の賢さを、私の力を、私の愛を、どうしておまえが、信じなかった!?

他の者はいい。世の愚かな者たちは。私を人殺しと呼んでさげすみながら利用する者、天才だ、子どもだ、世間知らずだと面白がって、私を理解したつもりでいる者、私を英雄、神の子と呼んで、あこがれ、近づき、何ひとつ私のことを知らず、知ろうともせず、それでいて知ったつもりになって愛していると公言する者、私を理解できないと恐れながら憎む者、そんな者はいい、まったくどうでもいい。どう思われようと、さげすまれようと、笑われようと、させておけ、私は平気だ。そうすることであらわになる、彼ら自身のいやしさ、愚かさ、貧しさを私は笑ってやるだけだ。
だがおまえは、おまえだけは!私がこれまでただ一人愛し、私の生き方も、私の心も、悲しみも、恥も見せてきた、私の従弟!
ここまで私を見せていても、私の生き方を教えていても、それでなお、おまえは私を信じなかったのか。私がわからなかったのか。
なぜ、私のすることを、信じようとしなかったのか。なぜ、世間並みの物差しで、私を測り、断じてしまったのか。なぜ考えてみなかった?そんなものにあてはまる私ではないかもしれないと?なぜ、たったそれだけの勇気すら、おまえは持てなかったのだ?

あたりで悲鳴が上がっている。人々は皆、町がはらんだ異常に気づいた。叫び声。呼びかわす声。その中を私は走る。私も叫んで、わめいている。やりばのない怒りに身をまかせて、あらん限りに絶叫している。

彼すらが、あの従弟すらが私をわからないでいたのなら、もう他の誰が私を理解するというのだろう?
誰も、この世の誰ひとり、私のことを知らなかった。私のことをわからなかった。
部下たちでさえ。あの王子でさえ。
王子。兜に顔をおおわれていようと、おまえの鎧をつけ、おまえの馬に乗っていようと、私なら、私だったら、決しておまえと他の誰かを見ちがえたりはしない。
おまえのその、まっすぐで澄んだ目。そんなにたくましくていながら、まるで乙女のように優しげで清々しいたたずまい。血に汚れていても、いつも天上の神々の世界を見つめていたような、その姿、その声。
神々よりも気高いのは、神々のように生きようと努力する人間だということを、目のあたりにまざまざと見せてくれたおまえ。神々と対峙しても誇りも勇気も失わないにちがいない、人間としての尊厳をいつも全身にただよわせていたおまえ。
そんな人間は、他にはいない。どんな姿になっていても、おれはきっと、おまえを見わけた。

おれは、そうではなかったのか。おれには何もなかったのか。おれがすべてを与え、おれの生き方も心もすべて教えたのに、おれを理解も信じもしなかった若者が、おれの鎧と兜をつけて戦場に出た時、あの友も、部下も、おまえも、それをおれだと信じて、従い、戦い、そしておまえはおれと思った彼を殺した。

おまえですらも、おれのことが何もわかっていなかった。
おれは、その程度の人間か。あの若者が奪ったのは、おれのかたちに過ぎないのに、おまえたちにとってはそれで充分だったのか。かたちがあれば、おれでなくてもよかったのか。それならば、おれはもう、すでにこの世にはいないのだ。おれなどは一度もこの世に、存在したことさえなかったのだ。おれが、おれと思っているおれ自身などは、一度も、どこにも。

絶望しないでいるためには、憎む以外の何があったろうか。あの若者を焼く煙とともに自分も虚空に溶けて消え去っていくような、闇とも光ともつかない限りない空白の中に身体が飛び散っていくような恐怖の中で狂わないでいようとすれば、戦って殺す以外の何が私にできたろう。断崖から落ちて行く者がやみくもに振り回す手の指で、何かをつかんではいあがるように、おれは、おまえを殺しに行った。
おまえは出て来た。城壁の前でおまえの名を呼びつづけるおれの前に、門を開かせて、ただ一人。弓兵隊に矢を射かけさせることもなく。おれの前に立ち、おれが兜を投げ捨てると、自分も兜をとってくれた。兜などなくても勝てるという私の侮辱に応じたというよりは、そもそもそんな侮辱にも気づかず、同じ条件で戦わなければという、おまえの無邪気な律儀さだったか。
その時に初めて、おまえの顔を見たのだ。白状しよう、その瞬間に兜の下から彼女の顔があらわれるのではないかと思った。私に口づけられてのけぞり、あえぎ、笑った彼女の顔が。悲しげに、厳しく私を見つめながら。事実はむろん、そうではなくて、兜の下から現れたのは、素朴で男らしいのに、彼女以上の繊細さと聡明さをたたえた、さえざえと静かな顔だった。ののしった私の言葉に気を悪くしていたが、それでいて、少しも私を拒絶していない、その表情には、暗い汚れた怒りもなく、従弟を私とまちがえて殺した恥ずかしさもうしろめたさも、いっさいなかった。すべてを洗い流した、透明で力強く温かいまなざし。人を見下す神々のものではない、それは人間の顔だった。どこまでも、人間の。そのあとの、長く続いた私との激しい戦いの間、その顔はどんなに疲れてあえいでいても、私の槍を肩にうけて瀕死で大地に両膝をついた時も、気品を失うことはなかった。とどめをさされて砂の上に倒れた時の目を閉じた顔は眠っているように安らかで優しかった。その足首を綱でゆわえて、私は戦車の後ろに彼をつなぎ、ひきずって陣まで戻った。沈黙し、おびえたように見守る味方の兵士たちの中を。

たれ布をはねて、テントに入った時、彼女が奥の方に小さく丸まって座っているのを見て、私は夢を見ているような、夢からさめたような気がした。
なぜ、おまえがここにいるのだ?さっき、殺したのに。ひきずってきた戦車の後ろからはずして、テントのわきの砂浜に死体を放り出しているはずなのに。
涙でぬれた目を私にひたと注いで、しばらく呆然としていた彼女が両手で顔をおおって激しく泣き出した時、私は彼女から顔をそむけて寝台に座り、彼女と自分とに対する激しい嫌悪に包まれながら、その不快感によってようやく、生きているという実感を感じていた。

夜のテントの中で私たちは無言だった。
一度、外で物音がしたので出て行くと、黒い影が屍鬼のようにいくつも、王子の死骸にむらがっていた。私の姿を見ると飛ぶように散って逃げたが、血の匂いが鼻をつき、近づいてみると、王子のほおにはえぐられた傷あとがあり、両耳は切り取られていた。
王弟か、王子に殺された誰かの部下たちのしわざにちがいなかった。
私はしばらく王子の傷ついた顔と身体を見つめていてから、またテントの中に戻った。
自分もいつか、同じように、彼女を傷つけ、いたぶりはじめるような気がしてならなかった。
とどめをさして、私の人生から消したはずの存在が、まだ生きて、そこにいるということをたしかめたくて。
そのいらだちを、その安心を、何度も何度も確認したくて。
そうすることでしかもう、生きているという実感を私は味わえそうにもなかった。

勝ち誇った我が軍の血に飢えた獣のような雄叫びが、ようやく夜の中を伝わってきた。城門の方から悲鳴や絶叫が重なり合って聞こえてくる。煙の匂いもただよってくる。だが、まだ遠いため、それらの声や物音も、音楽のようなひとつの大きなざわめきでしかない。人々はまだそれが何か認めきれずに、とまどっている。家という家から人々がかけ出してきて、街路を行きつ戻りつしている。幼い少年を抱きしめる若い母、その母をかばうように抱き返す少年。この年ならば彼はもう、一人前の大人とみなされ、殺されるのにちがいあるまいと思いながら、そのそばを私は走りぬける。殺戮が、阿鼻叫喚が、もうすぐそこまで迫っている。

いつの間にか彼女はいなくなって、テントの中に私は一人だった。
さっきまで磨いていた剣を片づけて、私は従弟が私の母にもらっていつもつけていた貝殻の首飾りを意味もなくぼんやりともてあそんでいた。
ふと気がつくと、背の高い、黒衣の男がテントのすみに立っていた。ゆっくりと、くつろいでさえ見える、力の抜けたしぐさで、彼がかぶっていた布をはずし白髪をあらわにするのを、魅入られたように私は見つめた。
圧倒的な迫力と存在感。それでいてまったく害意が感じられない。この雰囲気には覚えがある。私はたじろいだ。
殺したはずだ。それに、どう見ても彼ではない。背は同じように高いが、髪はもう白く、目は彼のように黒くはなく、私と同じ青い色だった。
彼は何も言わずに私の足もとの砂の上に、くずおれるようにひざをつき、私の手に口づけした。誰だ、と聞くと息子を殺した男の手に口づけするような屈辱は、私以外の誰も味わうことはあるまい、とひとり言のように言った。

自分でやっておきながら屈辱もないものだと、どこかで憤然としながら、それ以上に唖然として私は立った。どこから来たと問いただすと、自分の支配する国は君らよりよく知っていると思う、と落ち着いた返事が戻った。このあたりの住民も大勢かり集めて、いろんな仕事に使役している。その者たちの誰かが手引きしたのだろうが、その大胆さに気を呑まれた。敵の胸元に単身飛び込む、人なつこいと言いたいほどの無鉄砲さは息子と同じだ。
勇敢な方だ、と思わず言った。息子が殺され、君に引かれて行くのを見て、もはや私が死を恐れると思うかね、と老いた王は問い返した。鼻白んだ私にすかさず彼はたたみかける。息子を返してくれ。ふさわしい葬儀を出してやりたいから。

おれは殺してない。一瞬そう言いそうになった。前にそう言ったのはいつのことだったか。なぜ、戦士で、戦いに来て、敵を殺して、それで私は、こんなに責められなければならない?王子から、彼女から、そしてこの老いた王から。そしてまた、なぜ私はそれにこうまで動揺するのか。
腹立ち紛れに言い返した。彼は私の従弟を殺した。老王の目が笑う。小さい子どもをあやすように。君だと思ったのだよ。静かに彼は言う。それにしても君はどれだけ殺したのかね、誰かの従兄弟を、息子を父を夫を、勇敢な戦士の君は?

だって私はそのどれでもない。そのどれも持ってない。思わずそう言いかけて唇をかむ。何を言おうとしているのか。何を言わされそうになったのか。
王子を殺しに行こうとした時、彼女が叫んでとめた。あの王子は従兄よ。いい人よ。戦わないで。殺さないで。さっき、夜のテントの中で彼女はつぶやいた。あなたの従弟が殺されて、私の従兄が殺されて、これに終わりはいつ来るの?そんなものは来ない、とかたくなに言い返して私は剣を磨きつづけた。
公平じゃない、とその時も思った。今もだ。彼にはあなたがいた。父であるあなたが。弟もいたし、妻も、子も。私には、あの従弟しかいなかった。従弟と、そしてあなたの息子しか。
何を言おうとしたのだろう?うろたえて私は目をそらす。従弟を私からとり上げた彼。その彼をとり上げられたら、今度こそ、もう私には何もない。また一人ぼっちだ。前よりも、もっと。
彼を引きずってきたのは、誰かにとり戻しに来てほしかったからだ。誰かに殺されたかったからだ。憎まれたかったからだ。父でも妻でも弟でも、彼を愛する誰かに来てほしかったからだ。そんなにまで私は淋しかった。それほどに、ずっと一人だった。
そんなことを言いたくなる。自分でも考えても見なかったそんな思いの数々が、ひとりでにわきあがって来てしまう。何もかも洗いざらいに、この老人に語りたくなる。まるで自分があの王子になり、この人の息子になったように。その時、老王が静かに言う。君の父を知っていた。ねらいすまして私の急所を突いてくる彼は、あの王子よりむしろ私のあの友人に似た、はかりしれないしたたかさを持っている。

君の父は若くして死んだが、君の死を見なくてよかったのは幸福だ。老王は穏やかに言い、そして続ける。君は私のすべてを奪った。長男を、王位継承者を、この国の護り手を。淡々と語るその痛ましさで私を圧倒しておいて、すぐまた彼は手綱をゆるめるように、起こったことはしかたがない、と私に告げる。神の意志だよ。だが、わずかな慈悲をくれ。息子を私に返してほしい。
老王の言葉が、まなざしが、次第に私の心をひきさく。一方で、あの王子はたしかにいたのだ、生きて、この世にいたのだという実感がありありと生まれてくる。これほどに彼がいなくなったことを悲しんでいる者がいるのだから。どこか透明に、はかなげに見えた彼が、決して幻ではなかったことを思い知らされ、それは幸福に似た思いをかきたてる。彼はたしかに生きて、存在していたのだ。
私の知らない人たちの中で。

彼の身体を洗ってやりたい。老王は言う。祈りを捧げて、ふさわしい葬儀の儀式を営みたい。
私の知らない人たちの中で。
彼を愛していた、と老王は言う。初めて目を開けた時から、君が目を閉じさせるまで。
そうやって、あの王子は生まれ、育ってきたのだ。
私の知らない人たちの中で。
私は最後の抵抗をする。彼を渡して、あなたが連れて帰っても、明日になったら我々はまた敵だ。
すると王は澄んだ目で私を見る。君は今夜も敵だ。それがわかった上で、相応の敬意を払うことを君に私は願うのだ。

私は何を期待したのだろう?王子を戻せば、何かが変わる、そう言ってほしかったのか?彼を返してくれさえしたら、あなたをもう我々の敵とは思わない。何かそういう風な、それに近い返事を私は欲しくて言ったのだったか?
彼の世界。彼の生きた世界。彼がささやかに築き、護ってきた世界。彼が愛され、そして愛した人々の世界。それがどこか、私に行けない遠くでまぶしく輝いている。そこを訪れる道を、わが手で永遠に閉ざしたことを私は知る。彼をその世界から奪うことで、誰よりも私自身から彼を奪ったことを知る。
死んでしまった彼はもう二度と、あの声で、あの目で、私をたしなめてはくれない。戦ってもくれないのだ。
二人で戦っている間中ずっと、彼は私のものだったのに。

命のやりとりをしていたのに、あれほどに誰かと心を通わせあい、つながりあったと感じていた時間はなかった。
従弟との剣の練習でも、彼女との夜のいとなみでも、どこか相手を気づかっていたし、相手に甘えてはしまえなかった。私が全力をつくして自分をぶつけるといつも、人はいきなり死ぬか、ごまかして逃げて、私には理解できないことを言ったりしたりした。自分はどこか人とちがう、自分のありのままを伝えれば相手を困らせ、おかしくしてしまうのだ、と私が感じるのはいつもそういう時で、だから大切な相手ほど、私は慎重になった。

だが、あの王子には全力をぶつけた。憎しみに満ちて。それは愛に似ていた。愛以上だった。
そして、私はうけとめられた。まっ正面から堂々と、最後の最後まで、何のごまかしもなく、手かげんもなく。
くり出す剣も、突き出す槍も、彼が私と同じすばやさと強さでかかげる盾に、かざす刃に、すべて火花と音をたててうけとめられた。その激しい衝撃の手ごたえに、どれほど私が喜ばされたか。いやされたか。そのひとつ一つに、どれだけ彼の力をこめた指を、腕を、身体を、ふみしめる足を、彼の全身のすみずみまでを感じとることができたか。
彼も激しく攻撃をし、何度も何度も私の手もとに躍りこんできた。他人と彼が戦う時につくづく見ていた、その剣先のすばやさを鋭さを、身をもって感じながら、それをかわして空を切らせ、それをたたきかえして後ずさらせる時、彼の感じるくやしさと驚き、おののきやじれったさを、そのまま、ありありと私も感じた。彼もまた、そうであることを知っていた。感じる痛みが、疲れが、ふるえる身体が、吐く息が、自分のものか相手のものかわからないほど、私たちは、あの戦いの間ずっとひとつになっていた。父や弟、妻や子よりも、あの時間、彼は私を自分に近づけ、自分の中にうけいれていた。
彼が私より少し先に疲れはじめ、その動きがはしばしでわずかに乱れはじめたのを敏感に感じとった時、祭りが終わりに近づいたような淋しさ、そんなに早く私を残して行ってしまおうとする彼への怒り、そして彼を征服し、自分のものにできるという喜びが、ひとつになって私をとらえた。彼だってそれを感じていたのを私は見た。こんなに早くけりがついてしまうことへの淋しさと怒り(それはどんなに戦いが長く続いたとしても、そうだったろうが)、そして私のものになる喜び。

でももう二度と、あんな風に彼は私と戦ってはくれない。
きっと、どんな人間も、もう私とあんな風に殺しあい、愛しあい、理解しあえることはない。
愛そうとしたもの、大切なものを、抱きしめるといつも殺してしまう。人間も。そして世界も。

老王に、しばらく待つように言いおいて、私はテントの外に出る。最後に見た時と同じように、砂の上に王子はあおむけのまま、静かに横たわっていた。
私の悲しみと憎しみのすべてをうけとめてくれた、世界でたった一人の人間。
愛していたもののすべてを捨てて、私のために門から出て来てくれた人間。
私の何を守るために、救うために、彼はそうしてくれたのだろう?
あの夜、刃を捨てて私を抱いてくれた彼女と反対のようで、何かとてもよく似たことを彼は私にしてくれたのだが、それが何なのか私にはまだよくわからないのだった。そのこともまた、何かむしょうにもどかしく悲しかった。

それでも、老王に渡すため、彼の身体を布でおおって包んでいると、ふと、彼が自分の父をこの場に呼びよせたような気がした。
自分を迎えに来させたのではなく、私に会わせるために、私に何かを伝えるために、私に何かを与えるために、父をよこしたような気がした。
砂の上に横たわる彼の肩にふれながら、私は泣いていた。
何もかも終わってしまったという脱力感の中に憎しみと怒りは消え、悲しみだけが広がって、その中に、なぜか、大丈夫、大丈夫、と彼が言ってくれているような気がしてならなかった。まだおしまいじゃない。まだ何もだめになったわけじゃない。
泣きながら、ふしぎな気がした。生まれて初めて味わう感情だった。望みがある、ということは、いつも私にとって、何かと戦うことだった。けものが獲物におそいかかるように、息をひそめて身体をたわめて、ねらいさだめて躍りかかり、目をこらしたその地点まで息もつかずに一気に走る。あきらめないということは、希望を持つということは、いつもそういうことだった。
けれど今、冷たい彼の身体のかたわらで、私が味わっているのは、全身の力を抜いて何かに身体をゆだねていくような、限りない安らかさだった。それは、あきらめに似ていた。絶望に似ていた。それでいて、安らぎで、救いで、希望だった。
彼に抱かれているような気がした。
ずっと抱かれていたような気がした。
何かがまだ、この世にはある。
何か大切なものが、まだ残っている。
私が何もしなくても。
私が何をしてしまっても。
そうささやかれているようだった。

私が走り抜けて行く通りは再び静かになっている。建物の上の方では、目ざめているらしい人たちの不安げなざわめきがあるが、私の足音があまり広くない街路の左右の建物に、こだまを返すのがはっきり聞こえる。通りをひとつ隔てただけで、ざわめきの高さはまったくちがい、まるきり別の世界が突然広がる。間もなくそれが、すべて、血と火の色に一色に塗りつぶされて行くのだとしても。
突然、通りの向こうから入り乱れた足音がして、見なれた味方の鎧兜に身をつつんだ兵士たちが、たいまつをかかげて、ばらばらと走りこんで来る。城門からなだれ入って全市街に散らばった味方の軍の先頭が、やっとここまで達したのか。彼らは私に目もくれず、道の両脇の家々の扉にたいまつで火をつける。通りのはしにあった、かがり火の台も引き倒し、火が川のように暗い道に流れる。
彼らが扉につけた火は、布の日除けや木の窓枠を伝ってあっという間に建物の表面をはい回っては、包んで行く。上の方の人声やざわめきはいちだんと高まり、どこかで子どもが激しく泣き出す。兵士たちは走りぬけて行く。彼らと反対の方向に私も走り去る。重なり合う建物の向こうに高くそびえる白い王宮は、さっきよりたしかに近くなっている。

彼は私と戦った相手の中で最高の戦士でした、と部下たちが布に包んだ王子の身体を戦車に横たえている間に、私は老王に向かって言う。そして聞く。私の国では葬儀は十二日間です。わが国でも、と老王は言う。ではその十二日間、わが軍は王子をたたえて攻撃をしません。何か言おうとしかけた王が、突然私の背後を見つめて息をのむ。ふり向くと、彼女が立っていて、幼い子どものようにかけよって来て、老王の胸にしがみつく。

老王は彼女をかき抱き、「死んでいたとばかり思っていた」と言う。私と話している時は、乱れそうで一度も乱れなかった声が、初めてうわずり、涙にくもる。彼は、王子を抱いているようにも見えるし、王子が彼女を抱いているようにも見える。あらためて私は、彼女を無傷で王子に返した時のことを何度か空想したのを思い出す。
それはもう、永遠にかなわない。王子は彼女が生きていたことを知らないままに死んで行った。彼女は彼にとって、最後まで死んだままだった。
それを思うと、ふと、彼女などいなかったような気がしてくる。彼女と私の間にあったすべてのことがまるで存在しなかったようだ。
彼女が私の前に来ている。私をじっと見つめている。まるで初めて会ったかのように。そして私は自分がしなければならないことを知る。王子を戻せなかった代わりに彼女を、王子に戻せなかった代わりに老王に、戻さなければいけないのだと。
私は彼女に告げる。「行きたまえ。自由だから」と。そして彼女の手の中に、従弟の首飾りを落とす。「君を傷つける気はなかった」と告げながら、またしても、彼女の顔の向こうに私は王子の顔を見ている。
老王が彼女を呼び、彼女は黙って戦車に乗る。戦車は私の部下たちに守られて、ゆっくりと動き始める。老王のわきに立った彼女は遠ざかる戦車の上から数回私をふり返る。強く輝く黒い目をじっと私に注ぎながら闇の中へと消えてゆく。

この広場をさっき通ったような気もするが、わからない。前に見たのとがらりとちがってしまっているので、同じ場所でもそう見えない。木々が燃えている。先ほどまでさらさらと夜風にゆれていた枝枝が炎となってよじれて、火の粉と黒煙をあたりに散らしている。
乱れ入ってきたわが軍の兵士たちと、逃げ出してきた白い寝間着姿の市民たちが、ぶつかりあい、まじりあっている。階段にも、泉水のふちにも、倒れた死体が重なって、夜目にも黒い血の流れが白い石畳を彩っている。
ばりばりと鳴る炎の音。それが呼ぶ、ごうごうという風の音。人々の悲鳴が、兵士の怒号が、その中にかき消されて行く。

あまりにも巨大なものが一気に崩壊しようとしている。まるで大きな祭りのように破壊と死が荒れ狂っている。それは、どこか心を躍らせ、どこか荘厳に美しくさえある。

家々から剣や槍を手にした裸の男たちが、かけ出して来ている。武装はおろか衣をまとうひまさえもなく、妻や子や国を守ろうとかけ出して来た男たちだ。彼らがただの兵士かまたは名のある武将か、鎧も兜もつけてないから区別はつかない。ある者は我が軍の兵士たちに切り倒され、よってたかって串刺しにされている。ある者はひきずられて行く女を守ろうと、連れて行く兵士たちに斬りかかっている。
階段の上で髪をふり乱した女が男たちにくみしかれて犯されている。抵抗する女に腹を立てて兵士たちは彼女の乳房を切り取っている。放り出された幼い子どもが階段の上に座り込んで火のつくように泣いている。

王子がこれらのすべてを見なくてよかった、とちらと思ったすぐその後、ふと彼はこうなることを知っていて、先に行って皆を待とうとしたのかもしれないと思う。
美しすぎるものは滅びる。栄えたものには終わりが来る。
そのことを誰よりも、彼は知っていたのかもしれない。

ごみごみとした階段を、子どもを抱きしめた女や、年寄りを支えた若者たちに入りまじって私はかけ上がってゆく。かごに入れられて道の両側に積まれていた鳥たちが、逃がしてくれる者もないまま焼かれる匂いがただよってくる。つながれた羊たちが声を限りに鳴いている。倒れて転んだ少女が大事にかかえていた鳥かごのふたが開いて、美しい小鳥が舞い上がるが、上空に達する前に燃え上がる建物の窓から吹き出す猛火にまかれて、羽を炎に変えながら、まっさかさまに落ちてくる。

人の作った都は滅びる。人は神にはついになれない。
正しい世界も、美しい世界も、この世には決して訪れない。
争いあい、裏切りあい、憎みあって人々は死んでゆく。
ちがうのか?私は王子に呼びかける。そうでなければ、なぜ君は私に負けた?神々は君を守ろうとしなかった?あんなにも正しいことをめざし続け、誰も責めずに、すべての人につくした君。神々が人間を愛するなら、君は私に勝たねばならなかったのに。
神々は君を守らなかった。勝たせなかった。この町を守らなかった。
見ているのか?それでも君は信じるか?人間の強さを、神の善意を。正しいことをしつづけようと、すべての人をうけとめようとしつづけるのか?
信仰深いと評判の高い、あの父の老王以上に、君は美しくそして悲しい狂信者だ。
私には今わかる。なぜ君がいつもあんなにも危うく、はかなく見えたかが。
できるわけのない、人間の分を超えた壮大な夢に向かって、静かにたゆまず一歩づつ、君が歩いていたからだ。
人が、人を愛し、子どもを育て、老いて安らかに死んで行く、誰もにそれが約束された、そんな世界を作ろうと。
ありふれて、退屈と私が思った世界。
それがどんなにかないがたく、危険にさらされているのかを、君は誰より、よく知っていた。
それでも決して、あきらめなかった。
君の軽率な弟が王妃をさらったのは、長い間の敵国と和平がかなった宴の夜。その和平を築くため、長い交渉を君は重ねていたという。
戦いのない、平和な世界。
どんな国も人間も、他国に支配されたり滅ぼされたりすることのない世界。
そんなかなわぬ夢を守りつづけ、めざしつづけていたからこそ、君はあんなに透明で、心もとなく見えたのだ。

だが君を守らなかった神々は、この町もまた、守らない。
焼け落ちる家の間を私は走りすぎる。兵士たちの笑い声の中、階上から投げ落とされた赤ん坊が、けたたましく泣きながらぐしゃりと道路に激突して血と脳漿をあたりに散らす。母親の悲鳴。馬が足を切られて血の海の中でもがいている。自分のものらしい屋台にしばりつけられた男がひげに火をつけられている。弓兵隊だったらしい男たちが、弓矢を持った両手を切り落とされて、並んで木々につるしあげられている。
豪華な門構えの家から運び出された美しい器物が次々たたきこわされ、虹色の布が地上に散乱して泥にまみれている。家の中から、「殺して、いっそ殺して」と弱々しく訴えている若い女の声がする。場違いなほど優しく細いその声が、かえって叫び声や物音をぬって、はっきりと私の耳に届いてくる。

殺せ、いっそ殺せ。
昨日の夜、私も友に、そう言った。

ばかを言うな、と友は言って、平手で自分の顔をぬぐった。
つくづくと、私にうんざりしたように。
私はかたくなに、海を見つめていた。
友が私の横に来て、砂の上に座る。
故郷で昔、幼いころ、よくそうしていたように、私たちは黙って並んで、しばらく海を見つめていた。

私たちの背後に、醜い木馬がそびえていた。
船の廃材で作られた巨大な姿が、月あかりの下で一段とまがまがしく邪悪に見えた。
高い建物ほどの堆積があるそれを、友人は兵士たちを指揮して数日がかりで作りあげた。
満足そうな王の笑顔を、何度もそのそばで私は見た。

三度、その木馬を焼こうとし、四度、王を殺そうとした。
部下たちをまきこみたくはなかったから、彼らを故郷に返した後で。
四度めに王のテントにしのびこんだ時、友人につかまった。
いいかげんにしてくれ、と、ほとほと手をやいたように友人は言った。いくらおれでも、かばいきれない。

友人のまなざしは、どこか、いたずらをたしなめているようだったが、底知れぬ冷たさもたたえていた。彼の苦笑の奥にあるのが悲しみなのか憎しみなのか、それは誰にもわからなかった。
あの木馬を焼いてくれ。私は低い声で言った。
友人は首をふった。それはだめだ。
じゃ王を殺してくれ。
友人はまた首をふった。もっとだめだ。
私は彼を見つめる。冗談で言っているんじゃない。
彼も私を見つめ返す。私のよく知っている、陽気で気さくな、それでいて心の奥を何もつかませないまなざしで。そんなことはよくわかっているさ。

兵は私についてくる。私は声を抑えて言う。君が味方してくれれば、なおのこと。
ああ。友人は目をそらす。
見ただろう。私は念を押す。彼らは私についてくる。
友人はうなずく。それはわかっている。
私は彼を見つめる。頼むから。
友人は苦笑する。何でおれたちは、いつも、どっちかがどっちかに何かを頼みこんでいるんだろう。ひとり言のように彼は言う。

私は目を伏せる。彼女と初めて愛し合った夜の翌朝、私のテントに訪れてきた彼を思い出す。王の無礼を詫び、戦線に戻ってくれと頼んだ。あの王ではなく、君がするべきいくさなのだ、これは。兵士たちが求めているのは君だ。心をこめて彼は私にそう語りかけ、私は首をふった。
今、あの時の彼のように、息を殺して私は彼の、落ち着いて、ととのった顔を見ている。飾りの一つもつけないで、無雑作に波打っている黒い髪。明るさと冷たさと人なつこさとがやわらかく入りまじる表情を。

老王に王子の遺体を返した翌朝、私は自分のテントの前に兵士たちを集めて告げた。昨夜、敵の王が息子を返してくれと言ってきた。私は彼の望みを受け入れ、王子の葬儀のための十二日間、戦わないと約束した。もしも君らが戦うのなら、おれ抜きでやってくれ。
兵士たちは黙っていた。とまどいながらも、どこかほっとしたように。兵士たちにまじって聞いていた諸国の王も同様だった。一人が聞いた。十二日がすぎたら、その後は?
故郷に帰る。私はそう宣言した。
各国の王たちは顔を見合わせ、ざわめきがあたりに広がる。だがそれは明るいざわめきだった。私は誰も出て来ない、王の豪華なテントの方を見やりながら、つけ加えた。残りたい者は残れ。白髪になって腰が曲がるまで、あの城壁を攻撃してろ。
笑い声が広がった。誰かがまた叫んだ。どうして今すぐ帰らないんだ?十二日間も待つんだ?
敵の王に約束した。私はゆっくり、皆を見回す。十二日間、わが軍は攻撃しないと。その約束が守られるよう、見届けておく義務がある。
再び兵士たちは静まる。事実上、攻撃をかければ私が許さないと言っているのがわかったのだ。王が攻撃を命じても、私がそれを阻むことが。公然と私が王から、全軍の指揮権を奪ったことが。
それを認めるのかどうか、彼らは迷いもしなかった。待ちくたびれていたものを、やっと受けとるような、あたりまえのような自然な態度と、不機嫌と満足の入りまじった表情で、当然のように彼らは私のことばを受け入れた。

私にはわかっていた。誰もが戦いにうんざりし、勝てない王に嫌気がさしていた。上陸作戦の成功の突破口となった私、神にもまがう強さだった敵の王子を倒して引いてきた私。その私が戦いをやめると言えば、帰ると言えば、あえて反対する者など、いるわけはない。誰もが王を無視したまま、そしらぬ顔で私と行動をともにするのに決まっていた。
実際、その後の数日間、王のテントに近寄る者はなく、老臣の数名と、あの友人が従っているだけの、そのテントの中からは時々どなりあう声が聞こえた。頃合を見て、あの友人が収拾に乗り出し、王をなだめて適当に説き伏せるだろうと私は判断していた。

風向きが変わったのは、五日か六日が過ぎた頃だ。もうすぐに帰国できるという喜びがじわじわと広がってきていた中で、友人が中心となって、浜辺で奇妙な建築物を作り始めた。先の攻撃で焼かれた船の残骸を利用して、何か大きなものを組み立て始めたのだ。かたちが現れはじめると、それは巨大な馬だった。どことなく無気味な、不吉なたたずまいで、廃材をまとめて縄でしばっただけの顔には目のようなものもないのに、盲目の目で恐ろしい未来を見つめているように見えた。
船団が出発する時、航海の無事を祈って海神に捧げるのだということだったが、何やら怪しい気がしたので、私は部下たちに探らせた。彼らが聞きこんできたのは、いったん去ると見せかけて木馬を浜辺に残しておき、都の人々が城門の中に入れたら、その中にひそんでいた兵士たちが夜中に出てきて中から門を開け、戻ってきた全軍を迎え入れるという計画だった。

兵士はもとより、諸国の王の大半も、このことを知らされてなかった。彼らは何も知らぬまま、故郷へ帰ると信じて船を出すのだろう。どこか途中で命令が下されて彼らは引き返し、夜にまた、この浜に着く。
不安を抱き、不満をもらす者もいるかもしれないが、それも城門が開いていて、あれほど難攻不落を誇った都に、今こそやすやす突入できると知るまでのことだ。彼らは喜んで都になだれ入るだろう。殺された仲間の仇は討てる。故郷への土産の宝物や女は奪える。そもそも、勝てるとわかっているいくさに、しりごみする兵士などいない。押しとめることなど、誰にもできない。

だから、彼らに今、この話を知らせたところで、ますます喜ぶだけだろう。
友人や王たちが、計画を皆に教えていないのは、この話が陣営に広がって、使役している近隣の住民たちの口から秘密がもれるのを恐れているのだろうが、もし、その危険が本当になったら、出発前に住民たちを皆殺しにして口をふさぐだけの話だろう。

なぜ、こんなことを思いついたんだ?と友人に聞きたかった。
だが何となく、聞けなかった。

Twitter Facebook
カツジ猫