疾走5-疾走
あらゆるものが燃えていた。
建物も、塔も、木々も。放たれた馬が何頭も、人々をけちらしながら走っていた。主人らしい老人の死体のそばで犬が一匹、くるくるとかけ回っては吠えていた。王宮はもう目の前に近づいていた。だが、どうにか武装してかけつけてきた衛兵たちと、我が軍の兵士たちの間で激しい戦闘が起こっており、逃げ場を求めて来た人たちがひしめきあって、進むのが次第に困難になってきていた。
彼女があの王宮の中のどこにいるにしても、もうとっくに目をさまし、起き出しているはずだった。炎の照り返しで赤い空を見、息をのんでいるはずだった。
自分が消えることが、彼女から去ることが、幸せにすることだと思っていたのに。この都から戦いを遠ざけることだと思っていたのに。
故郷に戻り、なすこともなく年老いていくことが自分の残された人生だと、ぼんやりと考えていたのに。
私が二度と訪れることのない、一度も見たことのない美しい都で、彼女が幸せに暮らし続けていれば、そこに私の幸福もかすかに残っているような気がしていたのに。
なぜ運命はこうまで不幸に、私たちを結びつけ、からみあわせてしまうのだろう?
「私に腹をたててるのか?」海を見ながら私は聞いた。
友人は驚いたように私を見た。
「ああ、まあな」用心深く彼は言った。「あんまりバカなことをするから」
「そのことじゃなくて…」
「じゃ何だ?」
「君の頼みを聞かなかった」
友人はまたしばらく、まじまじと私を見ていた。
それから、かすかな吐息をついた。
「君はまったく、どうしてそんなに」彼は首をふって嘆いた。「無邪気な恥知らずなんだろう」
何を言われているか、よくわからなかった。
だから黙っていた。
「つまり君は」友人は言った。「私が君に、みえも誇りも投げ捨てて、戦線に戻ってくれと、あの朝懇願したというのに、それを聞いてもらえなかったのを恨みに思って、君に対する腹いせに、王を助けて、あの木馬を作ったって言いたいのか」
「ちがうのか?」私はたずねた。
「だから、そういう無邪気な目で、そういうみっともないことを聞くなと言うんだ」友人は髪をかきむしった。「どうしてそういう、人前に一糸まとわぬ裸でつっ立つようなことをする?」
「君がなぜ、あんなことをしたのかわからないんだ」私はしんぼうづよく言った。「王が好きなのか?」
友人は黙って、またうめいた。
何か悪いことを聞いたのだろうかと思って、私は彼を見つめた。
「どう話したらいいものかな」友人は本当に、途方にくれているようだった。「おれは君が好きだよ。あの王よりも何百倍も。それでは足りん。口では言えないほど君が好きだ。だがな、それとこれとは別なんだ」
「何と何が、別なんだ?」
「正直に言おう。たしかに君が言うことを聞いてくれなかったのに腹をたてたし、その腹いせもなかったとは言えない。だが、そんなことで木馬を作ったんじゃない。この戦いには、勝たなきゃならない」
「私がいなくてもか?」
「君で、勝ちたかった。勝つべきだった。だが、君がいてくれないというんなら、あの王ででも勝つしかない。これはそういう戦いなんだ」
「あの都の人々が君に何をした?なぜ滅ぼさなきゃならないんだ?」
「何もしてなんかないさ。だから、そういうことじゃない。もし我々がこのまま引き上げたら、彼らは勝ち誇る。諸国は彼らに従うだろう。それに対して、王の支配力は弱まる。我々の半島は四分五裂して弱体化する。危険すぎるよ、その未来はな」
「都と和平を結べばいい」私は言った。
「兄王子が生きていれば、その可能性もあった」友人は首をふった。「今となっちゃ無理だ。君は都の人々に憎まれてるし、王子を失って危機感を深めている彼らは、和平を結ぶ自信もなけりゃ余裕もない」
「君ならば、そこを何とかできるだろ」
「おれを買いかぶるな」友人は言った。
「君ならできる」私は言いはった。「絶対にできる」
友人はちょっと落ち着かなげに、宙を見つめて身じろぎする。
私は彼を呼び戻そうとしている。どこかから。それがどれだけ遠いのか、近いのか、それさえわからないままで。
「あの王の下にまとまり、彼を支えることこそ、未来がない」私は力をこめて言う。「そんなこと、君にわからないはずはない」
「君はあの王を知らない」友人は言う。彼は突然、疲れてひどく悲しげに見える。「おれたちのような人間じゃ、世界は支配できない。おれや、君や、あの王子のような人間には。おれたちには決してできない、醜い、恥知らずなことを彼ならやれる。世界は、それを求めている。世界は、それが必要なんだよ。力づくで征服され、言うことを聞かせられることが」
むしょうに腹がたってくる。「君がそれほど意気地なしとは」怒りを抑えて私は言う。「そんなにあんな王を恐れるとは」
「王を恐れるんじゃない」友人は言う。「どんなに抵抗していても、結局は彼に従い、彼に利用され、それで幸せになる人間たちが恐いんだ」
「ずっと遠い未来には、人間たちももっと賢く、美しくなって、あんな王を拒否できるようになるのかもしれない」友人の声は暗く、重い。「でも、今はまだ無理だ。人間は愚かで弱く、自由も平和も与えられても二束三文でそれを誰かにたたき売る。あの王のような程度の支配者が、今の人間にはふさわしいのさ。あの王のそばで、おれはずっと見てきた。人間の卑しさを、弱さを、愚かさを。毎日、毎日、絶望し、希望と夢を一つずつ失ってきた。だが、これが現実だ。おれはせめて、その中で、自分と、自分の愛するものだけでも守りたいと思っているのさ」
彼が哀れだ。抱きしめたいほど哀れでならない。王への怒りがこみあげてくる。「君はいつも」と私は彼の方に身体をよせるようにして言う。「戦いが終わったあとに来るからだ。王のそばにばかりいるからだ。本当に最前線で戦って勝利をかちとり、世の中を動かしている者たちの姿を見ないから、わからなくなってしまっている。自分自身の価値さえも。君があんな王よりもはるかに立派に皆をまとめて行けるし、わが半島を支配して行けるということがわからないのか。野心や欲望ではなく、名誉と誇りを重んじ、剣や力ではなく、知恵と信頼を用いて、君なら皆を守れるはずだ」
友人は目を伏せて、ひっそりと息をしている。彼が迷っている時の癖だ。「人間なんて」と私は力をこめて言う。「この先、何千年たったって、変わるわけがない。今できなかったら、いつになってもできるものか」
「なら永遠に、人間はこのままなのだ」友人は頭を深くたれて言う。
「このままどころか、きっと滅びる」私は言う。「君のような賢い、現実を見ることのできる人間が、夢と希望の側につくか、絶望と冷たさの側につくか、それが人間の運命を決める」
友人はふしぎそうに私を見る。「まるで、あの王子が話しているようだな」
「彼は誰よりも現実を知っていたが、決して人間を見捨てなかった」
「その結果、彼はどうなった?」友人は静かに言う。「おれは死にたくない。彼のようにはなりたくない。世界が滅びても、最後まで愛する者たちのそばにいてやりたい」
「彼は誰も見捨てなかった。その結果、すべてを見捨ててしまったじゃないか」友人は低く言う。「家族も、国も、おれたちも」
「ちがう」私はつぶやく。「ちがう。彼は私を見捨てなかった。私は彼に救われた。あの時、彼が門から出てきてくれなかったら、私はきっと、今の君のようになっていた」
「ごあいさつだな」友人は苦笑する。
「彼は私を救ってくれた」私はくり返す。「私が彼の守ってきたものを、守りつづけてくれると信じて」
友人は苦笑をより深く、ほおに刻む。「つまり、ここに今いるのは、君と私ではないのか?おれたちの身体と声とを借りて、王と、あの王子が戦っているのかな?」
「王なんかどうでもいい」私は彼のひざに手をかける。「君を守れ。君を失うな。君を忘れるな。戦おう、いっしょに。王を殺して、木馬を焼こう。そして和平を申し入れよう。君が交渉すれば、きっと成功する。もし王子の死の代償に、都の人々が私を要求したら、引き渡せ。どんな殺され方をしても私はかまわない」
友人はかすかに目元を笑わせる。「昔のままだな。昔、二人でさまざまないたずらや冒険をした。子どもの目から見たら、世界をひっくり返すにひとしい、大変な冒険に思えたものだが」
「それと同じことだ、今、おれたちがしようとしているのは。ちっとも大したことなんかじゃない」私は力をこめて言う。「いっしょにやろう」
友人は静かに首をふる。「できない」
しばらく私たちは見つめあっている。「泣くな」と言われてようやく私は、涙がほおをとめどなく伝い落ちているのに気がつく。友人はそれをぬぐおうとするように指を上げかけて中途でとめ、「何もおれが、君じゃなく王を選んだからって」と少しふざけて、ごまかそうとする。「そう悲しまなくってもよかろうに」
「君が王じゃなく私を選ばなかったから泣いてるんじゃない」私は言い返す。「君が、王よりも君自身を選ばなかったから泣いているんだ」
剣と剣が、盾と盾とがぶつかりあう、私にはなじんだ音が、ごうごうと燃える炎の音にまじりあう。怒号や悲鳴、叫び声の中から、突然高らかな女の笑い声がして、宮殿の前にひしめきあっていた人々が思わず、ぎょっとしてそちらを向く。
長い髪をふり乱し、衣の肩をはだけた若い女が露台に立って、大声で笑い続けている。小さい女の子と男の子がそのひざにとりすがっているのに目もくれず、彼女は異国の聞きなれない言葉もまじえて、声を限りに叫んでいる。焼け。焼け。私の故郷と同じように。燃えろ。燃えろ。
立ちすくむ人々の上に、女は泣き叫ぶ子どもたちを一人ずつ高くさし上げては次々に投げ落とす。殺せ、と憎しみに満ちて彼女は叫ぶ。この国の男が私に生ませた子どもたちを。そして、高笑いを続けながら髪と衣を炎の風になびかせて、人々に背を向け、燃える建物の中へと消えて行く。
一瞬私は立ちすくむ。テントの中で剣を抜いた私に対して、彼女が浴びせた言葉を、憎しみに近い怒りをありありと思い出す。
殺すしか能がないのか。
私のために人を殺すな。
「連れに行けよ」長い沈黙の後で、友人がぽっつりと言う。
「誰を?」私は海を見たまま言う。漁師の小舟なのだろうか、ぽつんぽつんと暖かい星のような小さな光が暗い波間にゆれている。
「わかっているくせに」友人は言う。「あの娘だよ。救いに行け。木馬に入れて行ってやる」
私は黙っている。
「彼女を助けたいんだろう?」友人が言う。「王家の女たちは、運よく戦利品にならなければ、きっと犯されて殺される」
私は黙っている。「そんなことをしたら、きらわれる」と、やっとのことで言った時、また涙がこみあげそうになって、唇をかんで危うく抑える。
「何?」友人はけげんそうに聞く。
「他の者を救わないで、彼女だけを救ったら、彼女はきっと私を憎む」私はつぶやく。「そういう人だ」
「よせよ」友人はあきれた顔になる。「それで君はあんなにしつこく、木馬を焼いたり、王を殺したりしようとしたのか。私に和平を結ばせようと?それじゃ何か、彼女を救おうと思ったら、すべての人間を、世界を救わなきゃならないってのか?冗談じゃないぞまったく」
「そういう人だ」私は言う。「だから好きだ」半ばやけでつけ加える。「絶対に憎まれたくない」
「見殺しにしてもか。彼女がどんなひどい目にあって殺されてもいいって言うのか?」
「他の人たちを見殺しにして彼女一人を救ったら、彼女はきっと永遠に私のことを許さない」声を殺して私はつぶやく。「彼女にそんな風に思われたら、生きていけない」
「ばかか」友人はほとほと、さじを投げた顔になる。
人々のうずから後ずさりして私は回りを見渡してみる。そして、王宮の建物の外壁のからんだ木づたに指をかけ、そっと身体を引き上げる。思ったよりずっと楽々と、みっしりと生えたつたは私を支える。そのまま私はよじのぼり、やがて建物の屋根のはしにとりつく。はいあがって、はらばうと、入り組んだ回廊と屋上庭園が目の前に広がり、広大な宮殿の内部が少し見渡せる。あちこちでかがり火が燃え、満々と水をたたえた美しい池がきらきらとそれを映している。
幻を見ているような、夢のような美しい光景だ。
「彼女を死なせたくないのなら、彼女に何と思われても彼女を救え」友人は言う。「憎まれても、許してもらえなくても。それが愛してるってことだろう」
「彼女のいやがることはしたくない」私は身体をふるわせまいと固くこぶしを握りしめる。「彼女の身体を救っても、きっと心を殺してしまう」
「だからって…」友人は吐息をつく。「妻は、子どもと自分とが殺されそうになっていたら、絶対に自分より子どもを助けてくれ、そうでないとあなたを一生憎むと言ってる。そうするとおれは約束してる。でも、もしそんな時になったら、おれはどんなに妻に憎まれてもいい、子どもを見殺しにして彼女を救うと決めている。そういうものだろ。相手がどう望んでも、それとは別に、こちらにも絶対にゆずれない愛し方というものはある」
「君の奥さんのことは知らないが、もしも彼女に許せないことを私がしたら、それがあやまちでも知っていてでも」私は言う。「私は彼女を永遠に失う」
「それでも彼女を死なせたくなかったら、君はそうするべきなんじゃないのか」友人は言った。
屋根をすべって、回廊のはしに飛び下りた。ひと気のない暗い階段をかけ降りると更に高い壁がそびえていて、今度はつたもからんでなかった。石と石とのわずかな隙間に指をかけ、私はよじのぼり、横に動いて、灯りが見えている、人声の聞こえる方へと進んで行った。ここにももう、むっとするような煙の匂いがただよってきていた。
木馬の中では、皆ほとんど眠っていた。
その中で私はずっと目をさまして、組み合わされた廃材の隙間から都を見ていた。光を浴びて輝いている白い建物や、しゅろの葉をかざして踊る人々の笑顔を。
少しも眠くはならなかった。なぜか、もうすぐ、いつまでも、いつまでも眠れるような気がしていた。残された時間をわずかでも眠って無駄にしたくなかった。
私は彼女を救いに行く。
彼女に憎まれ、彼女を失うために。
彼女を傷つけ、彼女を絶望させるために。
彼女が許してくれるとは思えなかった。
許したら、それはもう彼女ではないような気がした。
私を許して笑ってくれる彼女の笑顔が見たかったが、それはそれで彼女を失うような気がした。
ようやく人々が入り乱れる王宮の庭に下り立ったが、すぐに私は計算違いをしていたことに気がついた。自分のちっぽけな屋敷や、友人のささやかな館と規模がちがうのはもとより予想していたが、私が訪れたことのある、どんな王侯貴族の宮殿ともまったく比べ物にもならないぐらい、この王宮は広く入り組み、まるで一つの町だった。荘重と優雅を兼ね備えた広間や庭が重なり合うようにどこまでも続き、行っても行っても果てしがない。そして、ここにももう人々が右往左往し、衛兵に守られて逃げてゆく女たちの群れや剣を手に走ってゆく男たちで大混乱の状態だった。
こんな中でどうやって彼女を見つけたらいいのか見当もつかなかった。私を敵と気づいて襲いかかってきたのを押さえつけた兵士や、おびえて床にうずくまっていたのを助け起こした老女などに片っぱしから聞いてみても、誰も彼女の行方を知らない。
もう、そこここに、ちらちらと炎が上がりはじめていた。我が軍の兵士たちの姿も見えはじめた。正面の扉が突破されたらしい。みごとな馬たちが行き場を失い、炎におびえて狂ったように細い廊下をかけ抜けて行き、巨大な神像があちこちで引き倒されてもうもうと土煙をあげている。
回りをかけ抜ける娘たちが皆、彼女に見えて、私は声を限りに何度も彼女の名を呼んだ。なぜかもう、彼女の顔をよく思い出せなかった。彼女の心をもうすでに失いかけているのかもしれなかった。
彼女がどこにいようとも、私はもう彼女を見つけられない。そんな気がした。
彼女に会って、彼女を救って、私は彼女に何と言うのだろう。おれは世界を救えなかった。おれは誰も救えなかった。それでも、君だけは救わせてくれ。おれを憎んでもいいから、生きてくれ。
彼女は何と言うのだろう?彼女は許してくれるだろうか?もう私には彼女の顔が思い浮かべられない。彼女の表情がわからない。
王の高笑いがどこかで聞こえたようだった。
空耳だったか、そうでなかったかわからない。
気がつくと、また大声で彼女の名前を呼んでいた。
そして、それに答えがあった。
どこで誰が返事をしたのかわからずに、私はあたりを見回した。
逃げまどい、走り抜ける人たちの向こう、植えこみのそばの石の上に、ぐったりと座りこんだ老人を支えるようにして、黒い目と髪の利発そうな少年が、じっとこっちを見ていた。
私がかけよると、彼は私を見上げた。どこか、あの王子にも彼女にも似た強いまなざしで。
「あなたを知っています」私が口を開く前に彼はそう言った。「あの人がいつも話していたから」
「君は?」
「王家の者ですが、高い身分じゃありません」少年はきびきびと言う。「でも、小さい時から、あの方とは友だちです」
「彼女はどこだ?」
少年は首をふった。「わからない。神殿かもしれない」彼は指さして方向を教える。「あの先です。よくそこにいて、僕にあなたの話をした。あの人はずっとあなたを…」
「待っていたのか?」思わず私は口をはさむ。
少年は首をふる。「いいえ」そして、その目が厳しく澄む。
「あの人はずっとあなたを」少年は言う。「迎えに行こうとしていました」
「迎えにだって?」私はよくのみこめず、聞き返す。
少年は強く、何度もうなずく。「あなたは王子を殺したから、この都の人に憎まれてました。そのあなたと愛し合ったと噂されて、あの人を見る皆の目も冷たかった。でも、あの人は負けなかった。落ち着いて、明るく、用心深く、皆に説明しようとしていた。あなたがどんな人かって。あなたのことをわかってもらおうとしていた。王子の妻にも、弟にも、老王にも、神官たちにも。あの人は、そうやって皆を説得し、皆といっしょにあなたを迎えに行こうとしていた。あなた方と和平を結ぶために。あなたを、この都にうけ入れるために」
老人がよろよろと立ち上がり、せきこみながら、「もう歩ける」と少年をうながす。立ちながら少年はふり向いて私に「弟王子の矢に気をつけて」と教える。「彼は弓の名手で、あなたを憎んでいます」
私はうなずく。少年は老人に肩を貸し、二人は逃げまどう人々の群れにまじって、回廊の向こうへ消えて行く。
白馬が一頭、たてがみをなびかせ、ひづめの音をとどろかせて私のすぐ背後をかけ過ぎる。
呆然としていた私は、はじかれたようにはっとして、少年の指さした方へと走り出す。
走る回廊の向こうに、都が見えた。それは炎の海だった。その中に数知れぬ命が消えて行っていた。
そのかなたには果てしない闇が広がり、その中に、海と空があった。
その深い豊かな暗黒は、彼女の髪の色、彼女の目の色だった。
そこへ向かって私は走りつづけていた。
海の中を走っているようだった。
空の上を走っているようだった。
彼女の腕の中を。彼女の笑顔の中を。
再びあの夜のテントの中のように、私は彼女を抱きしめていた。
彼女の顔がはっきりと見えた。君を救いに来た、と私が告げた時の彼女の顔が。おれは世界を救えなかった。だから君だけ救いに来た。世界は君が救ってくれ。そう言って彼女の顔に鼻をこすりつけるようにして甘えた時の、彼女の顔が。怒って、あきれて、泣き笑いするその顔が。
おれは本気で言ってるんだ。彼女の髪に顔を埋めて私は言いはる。おれたちじゃ王に勝てない。君の従兄は優しすぎたし、おれの友人は賢すぎた。
あなたは?と彼女が問いつめる。愚かすぎた?強すぎた?どっちもちがうと思うけど。
おれは…きっと、子どもすぎた。
彼女が笑う。負けたわ、と言うように。そして私を抱きしめる。
君ならきっと、王に勝てる。私は彼女の首のくぼみの中でうっとりしながら、唇を動かす。大胆で、したたかで、しぶとくて、得体が知れない激しさがあって。
それを自分でもてあましてる。彼女はささやくように言う。
君の混沌は、未来を切り開く力だ。私は言う。都が焼けても、すべてが灰になっても、君が生きてさえいれば、世界は滅びない。
彼女の口づけを唇に感じる。彼女の髪を額に感じる。あなたがいっしょにいてくれるなら、と彼女は言う。私は何も恐くない。
おれはずっと、君といる。私は彼女の耳もとでささやく。絶対に死なない。約束する。
彼女が近づいている。どんどん近くなるのを、全身で、肌で感じる。もうすぐに私は彼女を見つける。この両腕で彼女を抱く。誰の刃も、誰の矢も、私を傷つけることはできない。弟王子の矢などすべて、よけ続けてみせる。彼がどんなにいつまでも私のことをつけねらっても、私は逃げて、生きてみせる。彼女とともに。ずっと、ずっと。私には今、その力がある。それを自分で知っている。今の私に不可能なことなど何もない。これまでずっと、そうだったように。運命があるなら、運命を変える。これが物語なら、結末を変える。私は走る。彼女に向かって。
( 疾走・・・・・終 2005.2.12.1:00 )