映画「侍の名のもとに」感想もどき6-役割の造型・若者の過去

6 役割の造型・若者の過去

中盤の展開の主役をになう、もう一人の周東は、もちろん前の図式でいうところの文字通りの「特殊技能派」だが、同時に彼は、この映画での「女子供役」も担当している。
ファンサイトをのぞけばすぐわかるように、彼は女性の多くがうらやむだろう着痩せするタイプらしく、ユニホームの下の肉体は(ついでに言うなら性格も)決してひよわでも可憐でもないどころか、およそまったくどういう点でも弱々しいとはほど遠い。しかし、そんなことは映画では問題ではない。外見がそれらしければ、それでもう十分だ。
どうでもよすぎる話をすると、私はここのところしばらく、授業で学生に、「義経記」では美少女のような貴公子の源義経が「平家物語」ではむしろ残酷で剽悍な戦士であり、外見も小柄で色白で歯が出ていると描かれているが、その二つのイメージは案外矛盾しないかもしれないという説明をするのに、周東の名を例に上げたくなる誘惑にかられっぱなしでいるのだが、それはともかく、彼の、他の選手と比べて一回り細い足腰や、色白の小顔などが作り出す(実際は長身なのに)小動物めいた雰囲気は、鈴木の場合とちがって、何の説明も不要なぐらい、「女子供役」のイメージにあてはまってしまう。

だから、見ればそれだけでわかる、そういうことについて、映画はそれ以上の不必要な説明は何もしない。
ただし、その特殊技能である足の速さは、これまた他の選手には決してしなかったことだが、ことばをフルに活用して徹底的に強調する。また、前年のU-23の国際試合で、すでに彼が稲葉監督やコーチとは会っており、再会を誓いあっていたことを述べる。実は私の定義では、「女子供役」の特徴の一つは、リーダーや本命のタイプに特別に愛されることであり、この描写はそれと一致している。
鈴木が登場人物の中でただ一人、ことばで性格を定義され描写されたのと同様、周東はただ一人、技能や技術をことばで説明されるのみではなく、ただ一人「過去」を描かれた選手だ。それだけ特別扱いされている。冒頭からの伏線の張り方がすでにただごとではないように、明白に中盤の主役として位置づけられている。他の部分に比較して、この中盤はかなり物語っぽく作られている。画面のあっちこっちにバラの花が飛んで、ほのかな色つきのスローモーションになっていると言っていいぐらい、二人の描写は加工されて、映画が意図した印象を与えるような彩色が施されている。そして、それは成功し、観客をとても楽しませているのだ。

周東選手がオリンピックのメンバーに選ばれるかどうかはわからないし、このプレミア12の彼の存在や、あえて言うなら、この映画で華々しく描かれたオーストラリア戦での活躍が、どの程度勝敗を左右し、優勝に貢献したかも私にはよくわからない。この試合で彼はヒーローインタビューに選ばれたし、稲葉監督も高く評価する発言をしているから、その役割は実際に大きかったのかもしれない。
しかし、それが何というか、スターを作り出そうという興行的な効果をねらった要素が大きく、実際にはさほどの戦力にはなっていなかったとしても、この映画での周東の存在は、それとはまったく別の意味で重要であり欠かせない。

秋山選手の負傷というアクシデントで序盤の山場は作れたとしても、打撃の不振や投手の乱調といった通常の展開だけで、話をつないで行くのは難しい。しかも、この次の部分で登場する坂本の場合も、鈴木とほとんど同様の打撃の不振が題材なので、下手をすると似たような話が続き、単調で退屈になる。
盗塁と走塁で一点を奪うという異例の場面は、そんな中でこの部分に挿入するのに最適であり、珍しさや気分転換の上でも観客を昂揚させるという点で、文句なしに貴重だった。
ここで注目を集めた周東と源田の二人は、これ以後いっさいと言っていいほど登場しない。「平家物語」で誰でもが知っている扇の的の那須与一が、あの場面以外、後にも先にもまったく姿を見せないように。それを物足りなく思う観客もおそらくいない。最高のスポットライトを浴びて、再び登場することはないからこそ、その輝きは印象に残る。無駄に露出させて消耗しない、この使い方も実に「役者」を大切にしている。(つづく)

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カツジ猫