映画「侍の名のもとに」感想もどき9-投手たち、野手たち
9 投手たち、野手たち
ところで、この映画の感想をネットで見て回っていると、「特に泣くところはないはずなのに、なぜか泣けた」「どうして泣いたのかわからないが、号泣した」といった感想が意外と多い。おそらく、いわゆる「泣ける」「泣かせる」映画のようなあからさまな小手先の技術ではなく、全体にみなぎる精神そのものと、緻密に構成された展開が見る者の心を動かすので、こういう発言が多く生まれて来るのだろう。
そんな感想の中で、甲斐選手のファンらしい人が、いい映画だったとほめていて、「甲斐選手の発言はなかったけど、顔が見られたから満足」と書いていて、何とけなげなと、ほろりとした。もしかしたら、稲葉監督とこの映画が訴えた「自分が活躍できなくても不満をもらさない」みたいな心根が、スクリーンから伝わって共有されてしまったのかしらと思ったりしたが、まさかね。それとも、甲斐選手のファンにはこういう立派な人が多いのだろうか、まさかね。
甲斐選手に限らず、29人も選手がいれば、ファンの多い人気者でも当然ほとんどとりあげられない人も出て来るのは、やむを得ない。まんべんなく登場させて誰のファンも満足させるという方針を、この映画はとらなかった。登場の度合いに相当の差がついても、バランスは無視して、あくまでも映画としての構成や完成度を優先させている。それは正しかったと私は思う。
ただ、すべての選手の顔を立てるとかいうこととは別に、少し気になったのは、甲斐選手もその一人である捕手の役割がまったく描かれていなかったことだ。打撃や盗塁、投球などと比べて、捕手の役割は描きにくいのだろうか。チームの要である、その仕事は、立派に果たしていればいるほど、逆に目立たず見えにくく、優れているほど存在が消えて行くものかもしれない。
打撃を主とした攻撃を中心に、この映画は進んで行くのだが、それは観客を混乱させず、選手たちを見分けやすくする点で、賢明な選択だったと思う。そして最終戦で初めて、ブルペンで待機する投手たちが一気に登場する。冒頭の選手選考会議と同様、多くの観客にはまず見る機会のない空間で、そのことだけでも貴重な映像だ。
ベンチからの連絡を電話で受ける担当になっている、若い山岡(彼もまた、その若さと外見から、視覚的には「女子供役」を果たしているだろう)を中心に、テレビのモニター画面を通して試合の展開をかたずを呑んで見守る投手たちは、山岡の告げるベンチの指示に従って、投球練習に入り、渡される水を口にして、次々に出て行く。まるで闘技場に赴く剣闘士や死地に向かう兵士のような緊迫感と孤独感は、かすかな悲しみさえも漂わせる。ここまでほとんど姿を見せなかった投手たちが、肩を寄せ合うようにして座り込んで試合の中継画面を見つめ、時に相手投手の投球に嘆息し、時に追加点を祈って息を殺す姿は、とても無防備で愛しく見える。
その中で比較的長く映される若い甲斐野と最後の山崎は、ともに明るく冗談好きで皆に愛される選手なのだが、映画はそれをまったく見せず、マウンドでの厳しい表情を強調して、二人を「対抗馬」タイプの二つが合併したような、荒々しい「戦う男」として描く。静かな張り詰めた地下の空間に凝縮された、仲間とは切り離された集団によりそって、戦いの最後までの時間が描かれ、そしてあっけないほど突然それは終わる。この潔い幕切れも、快い。投手とは何であるのかということを、鋭く抑制された映像だけで十分に伝えて、映画の本編は終わる。
主題曲にのって、エピローグのようにつづられる、その後の映像は、本編で触れられなかった、野手たちの姿だ。そこには、ふだんとは異なる守備位置を担当して、それ用に新しく注文したグローブをようやく間に合わせて慣れない塁を守る山田がいる。どこでも守れる能力を買われて呼ばれ、時に長い待機の時期も過ごしながら決勝戦で登場した外崎がいる。(この二人が特にとりあげられているのも、自分の活躍よりもチームにつくすメンバーという点で、映画全体の精神と一貫している。)大飛球の直後は走者のタッチアップに注意しろと指示する清水コーチのことば通りの状況が起こり、ベンチの皆が「タッチアップ!」と口々に叫ぶ(最初に叫ぶのが周東)中、好返球で走者を刺す近藤がいる。その成功を見届けてベンチの奥で呵々大笑する清水コーチがいる。
数しれないほどあったにちがいない野手たちの活躍の数々の中から、とりあげられたこれらの映像はわずかだが、そうやって、それぞれの役目を果たした野手やコーチの姿を通して、守備とは何かということが、短く的確な字幕と絶妙に重なり合う主題曲の歌詞を織り交ぜられて、タペストリーの模様のように、観客の目に見えて来る。
ちなみに、ここでもう、例のナレーションが消えているのは、どんなにありがたいことだろう。何度か聞くと、それなりにがんばっているし下手でないこともわかるのだが、それにしても決定的にそぐわない、甘い声と舌足らずな口調は、もし最後のエピローグまであの語りが登場していたら、多分私はこの感想を書く気にさえならなかったのではないかと思えるほどの破壊力だった。どういう理由で選ばれたのかは知らないが、ご本人にとっても推薦した方にとっても、少なくとも私に関する限り、お名前にも声にも(不幸なことに私は声の記憶力は相当にあるので、忘れてしまうとは思えない)これだけの嫌悪感と拒否感を持たせてしまったことは、たがいにとって本当に不幸な人選だったとしか言いようがない。
最後にまた念を押しておくが、私はプロ野球にも選手たちにも決して詳しいほうではないので、見落としている面白さも実はたくさんあると思う。
たとえば、最後のブルペンでの投手たちの中で、頭を抱えて「追加点を下さい…あと一点下さい…」と祈るようにつぶやき続ける、オリックスの山本選手。私でさえ知っているが、彼はシリーズの間ずっと、ホークスの大竹と並んで、毎試合好投しながらも、味方が点を取ってくれないので勝利投手になれないということで有名で、ファンから同情されていた。大竹の場合、新人王を取った同じルーキーの高橋礼はなぜかいつも大量の得点を味方がとって勝利するので、ますます不思議がられていて、先輩の今宮が「ごめんな、今度はきっと打つから」となぐさめていたのを、やっと勝利投手になってインタビューされた大竹が思い出して涙にくれたのも、無理はないと話題になった。
ホークスのように点を取らないだけならまだしも、オリックスの内野陣はしばしばエラーもして山本の足を引っ張り、山本の最大の敵は味方だと、これまたファンの憤慨は、ひととおりではなかったと記憶する。
その山本が「追加点…」と顔をおおって祈っていると、シーズン中にいやな顔ひとつしないで淡々と投げ続けていたマウンド上の姿と重なって何とも切なく、彼がいよいよ呼び出されて出て行くときに、山岡はじめ他のピッチャーがいつものように「がんばれ」などと声をかける中、(こちらは巨人の)大竹が「ちゃんと守ってくれっから」と励ましたのには、切なさ余って不謹慎にも私は声を出さずに笑ってしまった。むろんプレミア12の守備陣はちゃんと守ってくれたから、山本のいつも通りの好投はきちんと報われたのである。
大竹が深く考えずに言ったのか、映画が特に考えずにその場面を選んだのか、私は知らない。江戸時代の前期戯作ではないが、「わかる人にはわかる」ジョークで遊んだのかどうかもわからない。
ただ、そのような、詳しい人や熱烈なファンだけにはわかる、かくし味が他にもいろいろあったかもしれない。それは私には見つけられていないだろうことを、あらためてお詫びしておく。DVDがもし出たら、そこは皆さんで楽しく探していただきたい。
なお、本当に蛇足の老婆心ながらのつけ加え。
ここまでいろいろ書きながら、映画監督の三木慎太郎氏のお名前を一度も出していない私もすごい。映画そのものについて語ったことで、感謝の気持ちが伝わっていればいいのだが。
私は三木監督の他のお仕事をよく存じ上げないし、こういうスポーツ関係の記録映画にも明るくない。それを知らないままに言うのだが、この映画はとてもよくできていると思うものの、だからと言って、一時期のスパルタ根性映画のように、この映画の精神や語り口が、成功例として型にはまって、似たような作品ばかりが今後生まれたら、それはそれで、とても悲しいと思う。
試合の結果、監督(野球の方の)の人柄、その他いろんな要素次第で、ちがった筋書き、構成の方が、より魅力的で素晴らしい作品になることもあるはずだ。
この映画の底流に流れる、教育やスポーツに関する時代の流れも、昔から一貫した精神も、変わらない部分は常にあるだろう。
そこは引き継ぐとしても、今後のこのような映画が、安易な枠組みや無難な形式として、この映画を使ってほしくない。私はこの映画を愛しているが、だからこそ、どんな意味でも二番煎じは見たくない。たとえ、私の気に入らなくても、失敗作になったとしても、新しい挑戦を忘れないで、次の作品は作ってほしい。(おしまい)