映画「侍の名のもとに」感想もどき8-新時代の教育とは

8 新時代の教育とは

もとより、稲葉監督のそういった選手への説得を、現実的なものにして行くためには、監督自身とコーチ陣の具体的な指導がある。それは映画のあちこちで描かれるが、常に冷静で科学的なアドバイスであり、精神論や、選手へのスパルタ教育、肉体的精神的な攻撃といった要素はまったく見られない。
他のチームから選手を借りているにすぎない、一時的な監督という状況ももちろんあるだろう。最後に近く巨人の山口投手が「稲葉さん」と呼んでいるのに、おや?と思ったが、ネットでの感想を見ると、他の選手も監督と呼んでいないことが多いようで、それでは確かに選手たちは大切にして無事に帰さなければならないお客さんであり、紳士的な対応になるしかないこともあるだろう。

あるいはまた、その逆に、稲葉監督自身を含めたコーチ陣が、常にそういう穏やかな指導しか絶対にしなかったという確証があるわけではない。井端コーチは一塁にいた周東がなかなか盗塁しないので、最後には「おまえ何しにここに来たんだ、と言った」と語っている。周東が若く無名だからという要素もあるだろうから、やや特例かもしれないが、少なくともそういう叱責をする場合も皆無ではなかったことがわかる。
だが、映画はそのような場面をひとつも描かない。膨大なんてものじゃないフィルムの中から、それを感じさせる場面を拾ってつなぐこともできたかもしれないのに、徹底的に排除して、監督もコーチも選手たちにひたすら優しく、暖かい。

鈴木と周東の活躍を華やかに描いて観客を幸福にした後、映画のトーンは暗くなる。チームは次の試合でアメリカに初の敗戦を喫し、常に先制され打撃も振るわない、それまでの試合の問題点もつきつけられる。その一転した苦しい状況の中で、コーチは選手たちに面と向かって怒鳴り上げたりはせず、相手チームの映像を流すスクリーンを、教室のような席に座った選手たちに凝視させ、背後に近い側面から、傷つけないよう言葉を選びながら、ていねいに問題点を指摘してみせる。誰かを名指しもしないし、責任を感じさせるような表現も避ける。最後に監督は「何かわからないことがあったり困ったことがあったら、遠慮しないでいつでもコーチに聞いて」と優しく、後ろから選手たちに声をかける。

もーねー、幼稚園か。と私は客席で唖然としたね。私たちが大学時代、教授たちに受けていた指導は、もうまるっきり、こんなのではなかったぞ。衆人環視の中、もちろん真正面から向かい合って、人格までも攻撃されて、ずたずたにされることも珍しくなかった。私自身だって、卒論指導や発表会でどんだけめちゃくちゃ学生の血のにじむような労作をこてんぱんに批判したことか。演習や発表会で泣いたりぶっ倒れたりする学生も当時は全然珍しくなかった。人と比較されまくったし、いちゃもんとしか思われないような攻撃もたっぷりされた。今はあんなことをした日には、一発アカハラで退職なんだろう。うすうすそう思っていないわけではなかったが、この映画見て確信したわ。時代はここまで来ているんだと。

かつて、長嶋茂雄を大学時代に指導した砂押監督という人は、スパルタ教育で当時でさえ有名だった。何かの雑誌で、ランニングのときに走る長嶋の後から、青竹を持って自転車でついて行っていたという話が紹介されていたのを覚えている。それでもあんなにおおらかな大人になったのは長嶋もよっぽど性格がよかったのか、もしかしたらなぐられすぎて、どっかの感覚が麻痺したのかと思ったりするが、まあそんなことはどうでもいい。
文系理系体育系を問わず、そういう指導がほんのまだ十年二十年前にはまかり通っていたわけで、いや今だって十分にあちこちに残っているんじゃないかと思うが、とにかくこの映画の指導者たちは、そういう、選手を痛めつけるような教育や指導をまったくしない。そのように描かれている。

もっと後の場面だったかもしれないが、コーチは選手たちに向かって、「何があっても、おれの責任だから、心配しないで、気にしないで、思いきりプレーして」と言う。監督も「すべてはベンチの責任だから」とくり返す。選手たちがはっきりと理解できる具体的な技術的な指摘を与えるだけで、精神論はいっさい口にしない。合理的で冷静で、優しくていねいに説明し、そして、責任はいっさい指導部にあるからと強調して選手たちを送り出す。
この時期のチームの苦しい状況を象徴する存在として描かれるのが、緒戦からずっと打撃が振るわない坂本選手だが、監督は彼に足の位置などを明るく細かく指導して、何とか打ってもらおうと努力する。ついに彼が復調し打撃が元に戻ったとき、稲葉監督は「結局、慣れた二番がよかったんですね。もっと早くそれに気づいてあげればよかった」と言うのだ。もうね、神と言おうか仏と言おうか。

前にも書いたように、坂本選手の打撃不振と、そこからの脱出は、中盤の鈴木の話の二番煎じになりそうなのだが、坂本のこの話には、もう一つ、この映画に欠かせない重要な点が埋めこまれている。
打撃の不振がつづく中、彼はついに代打を送られる。「シーズン中MVPを獲得した選手が」とナレーションは的確に、これがどれだけ屈辱で残酷な処置かを告げる。そして、それにも関わらず坂本はベンチの最前列に座り、代打に出された山田哲人に声援を送る。
稲葉監督はこれをすぐに、次回のミーティングのスピーチで取り上げる。「あの代打はシリーズではあり得ないこと。それでも彼は最前列で応援した。あたりまえでも、なかなかできないこと。皆もそれを見習ってほしい。自分が出られないときは人を声援し、自分が出たら皆に応援してもらう、そういうチームにしてほしい。そして、自分のチームに戻っても、同じようにしてほしい」。いつものように穏やかに、だが明らかにいつもとちがう力と心をこめて、彼は選手たちにそう語りかける。

坂本の行動を見逃さず注目した稲葉も、それをすかさずクローズアップした映画も、めざすものは一致していたと私は思う。これが、この映画のテーマなのだ。最大の、最終の。稲葉監督が作りたかったチーム、そして日本野球の姿がそこにある。
「誤解されたくないのですが、韓国チームと私たちはたがいに尊敬しあっている。その上で、相手を倒さなければ世界一はないという意識で戦い合っている」。
冒頭の選手選考の場面の最後に「韓国戦、勝ちたいよ…」とつぶやいた稲葉は、最後の決勝戦の前に、こう語った。そうすることで、稲葉は、ともすればまつわりつきがちな醜いものの介入を許さず、自分たちの戦いを品位ある志高いものとし、映画もまた、この言葉を紹介することで、それにならった。
同様に稲葉は、どのようなチームを作るのかについて明確なイメージを持っていた。「あたりまえのことだが、なかなかできない」理想を彼はめざしていた。映画はそれを理解し、それに同調した。

彼のその精神が、実際にどれだけチームに徹底し、浸透し、全員のものになっていたかはわからない。私はロマンチストではない皮肉屋だから、そこを信じるにあたっては、これでなかなか慎重だ。もちろん、もしかしたら本当にそういうチームが出来ていて、だからこそ優勝できたのかもしれない。その可能性も十分にある。
しかし、どちらにしても、いずれにしても、この映画では明らかに、それは実現したことになっている。最後まで、そのようなチームが生まれて、動いたように描かれている。そのような場面や発言を、目ざとく映画は取り上げて、さりげなくだがはっきりと観客に見せる。

稲葉監督が穏やかで地味なスピーチに徹していられたのは、威勢よく全体を鼓舞して燃え上がらせる仕事を、最初に代表に選んだ松田が引き受けてくれていたからである。その意味では彼は、私の図式における「対抗馬」の華やかなタイプとして完全に機能している。彼のやや不安定な危うさも、そのタイプの特徴である。
だが、その彼は、プレーの面では最強ではなく、最後にはスタメンを外された。にもかかわらず、彼は全身全霊で「三十六歳にもなって…」とどこかで醒めて自嘲しながら、徹底的に振り切った姿と語りで、日の丸の鉢巻姿で道化役兼盛り上げ役を演じ切って見せる。「彼を連れて来てよかった」と稲葉がしみじみ述懐するのは、松田が自分にできない部分を完全に補完してくれる存在であるとともに、自身がプレーできなくてもチームの中心で皆に尽くすことをいとわない、稲葉の理想とする精神の体現であったからでもあるだろう。

実は鈴木や周東の場合とちがって、松田のこのような役割とイメージには、現実との齟齬は少しもない。プレミア12でも、自分のチームでも、終始一貫、松田はそのように振る舞っている。それが無理をして自分で演出している面があることも、ファンの中ではすでに周知されている。
映画と同様、彼も理想を演じ、それをかなりの現実にしている。私自身は実は彼のこのようなあり方は、見ていてやや落ち着かない気分になることがあるのだが、他のチームのファンや映画を見た人の感想を見ると、手放しで礼賛し賞賛する人が圧倒的で、批判や反感をまったく見ない。だとしたら、稲葉や松田やこの映画が求めてめざす、このような人物像は、やはり多くの人を納得させるのだろう。その彼の姿を見せることで、稲葉や、この映画がめざすものは、よりよく観客に伝わり、納得させるのだろう。

最初に負傷し脱落した秋山も、松田のようなやや狂気めいた不安定さはない、安定した柔軟な自然さで、そのような精神を体現し表現できる人物だった。負傷していなければ「対抗馬」の華やかさと素朴さ両方のタイプを兼ね備え、むしろ完全に近い「本命」として、チーム内で稲葉を支えただろう。
しかし現実には脱落した。しかも、彼はそのまま実戦に参加しないが何かと関わってチームを支える存在となることで、外部とつながる「特殊技能派」的存在になっただけでなく、これまたプレーできなくても、自分にできることで貢献するあり方を、チームメイトにも観客にも見せることになった。彼の描かれ方もまた、稲葉のめざしたチームのかたちを知らせる点ではとても大きく役立っている。代打やスタメン落ちどころか、まったく試合に参加しなかった者にも、全力でできることをする勇気があれば、それなりの役割は果たせる。脱落者や敗北者ではなく、参加者となれる。そのことを十分に示して見せた、秋山の人となり、あえて言うなら「演技力」もみごとだ。他の選手ならおそらく出来なかった、この難しい立場の立ち居振る舞いを、彼は完璧に自然に成功させている。

最後に、最終戦の初回で大量失点しベンチに下がった山口投手がいる。前夜のコーチ陣のミーティングで、韓国打線の強さと抑えることの難しさを強調して、彼の失敗をカバーする構成にする配慮はあったと言え、このような彼の姿を、わざわざ紹介する意図はどこにあったのか。
継投して二回を抑えた高橋礼の点描も、冒頭のメンバー集めのときに彼に注目した場面の回収として必要だし、その後の山田の3ランを引き立てるためにも欠かせない部分ではあるだろう。しかし、映画はベンチに下がった山口が、近寄って来た稲葉に「すみません、稲葉さん」と謝り、それに対して稲葉がいかにも暖かく「いい、いい、大丈夫、大丈夫」と答える場面と、3ランを打って戻った山田に山口が「ありがとう」と声をかけた場面を、どちらも短いながら、しっかり見せた。そこには、稲葉のめざしたチームのあり方が、ささやかながら確実に存在してはいなかったか。

坂本、松田、秋山、山口。これらの選手たちの行動や発言を息詰まる試合展開のなかに点描することによって、映画は後半「このようなチームが、優勝したのだ」というメッセージを一気呵成に観客に伝えようとしている。
指導者がメンバーを大切にし、人間としての尊厳を守り、指導はすべて具体的かつ冷静な指摘として行い、結果の全責任は指導部が引き受けることを明言して、各自の力を発揮させようとするチーム。
外部の評価に左右されず、相手に対する憎悪にとらわれず、自分が活躍できなくても、仲間のためにあらゆる努力を惜しまず、皆がたがいを支えるチーム。
その精神を周囲や他者に広めることで、よりよい未来をめざそうと遠くを見つめつづけるチーム。
そのような理想をめざして進んだら、実現できたし勝利もできた。
その体験をこれは伝える映画である。

実は私は去年の暮れに、現職の先生方を対象とした講演というのを大胆にも行って、その中で「赤毛のアン」と「若草物語」のちがいについて私見を話した。そして、ともすればしつけや教育を拒む精神を描く「アン」の世界と、既存のルールや道徳に従順に従う「若草物語」の世界を比較し、後者が時には体罰や精神的虐待の容認にもつながる危険を指摘した。

さらに私が述べたのは、しかしながら、そのような厳しい指導がまったくなくなったら、大人と子ども、教師と生徒の間には、以前のような熱烈な師弟愛のような関わりは生まれにくくなりはしないかという危惧だった。そして、昔のような教育関係や師弟関係が成立しにくくなっている現在、文学は、戯曲「エクウス」の心理学者の述懐、「ハリー・ポッター」のダンブルドア校長の告白、「スター・ウォーズ」のオビワンとアナキンの師弟関係の崩壊のように、熱く密接な教育や指導によって生まれるものの豊かさを、新しく構築することの困難さを、しばしば描くようになっていると紹介し、その新しいあり方は、まだ見つけられていないのではないかとしめくくった。

今、この映画が描き出した、稲葉監督の指導者としての姿には、もしかしたら、その解答が示されているのではないかと私は思っている。
DVDを作ってほしいと述べた理由もそこにある。オリンピックの結果がどうなろうと、この映画に登場した人々が今後どのような人生を歩もうと、それには関わりなく、この映画が描き出した時間と世界は、多くのファンを感動させるだろう。
だが、それだけではない。教育に携わる人なら、現代の師弟関係や指導のあり方を探り、発見する上で、この映画はまちがいなく貴重な資料となる。難しい理論はない。型通りの教訓はない。そのように使われることは夢にも思わなかった稲葉監督を中心とした、登場人物のたたずまいや語り口や表情から、教育関係者なら、きっと多くのものを引き出せる。そこには、今の新しい時代の教育に必要な何かがきっと存在している。(つづく)

運がよければ、多分、次回でおしまいです(笑)。

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