近世紀行研究法2-第二章 分類について

1 前期の益軒、後期の南谿

数年前に完結した岩波書店の「新日本古典文学大系」は何十年もの長期にわたって、計画され刊行された。その中の一巻を近世紀行に充てようということで、既に江戸文学の権威だった宗政五十緒先生と、就職後数年で研究者としてはかけ出しの私とが二人で担当したのは、したがって、かれこれもう二十年以上前になる。
宗政先生は大先生にふさわしい瀟洒さと磊落さで、「あんたは(貝原)益軒やりはりますやろ、私は(橘)南谿しますから、それで江戸時代の前半と後半になるからよろしいやろ」と電話であっさり提案され、私もすぐに了承し、結局その枠組みで本は完成した。今思っても的確な構成で、宗政先生の判断の鋭さと仕事の早さがよくわかる。益軒と南谿の近世紀行における役割の大きさは私も意識し指摘していたが、宗政先生はあの電話での一言で、私の内部でも、本を通して外部にも、それを定着させて下さった。

私たちは担当した前半と後半で、それぞれに解説を書いたのだが、宗政先生がご自分の解説の中で、「江戸後期の紀行文学の作品を、作品の継承ということを重く見て、時間的な推移で把握するよりも、むしろ記述された地域とか、あるいは内容とかによる分類で説明した方が、一般向の解説としては便利ではないか」と述べておられたのを読んで、私はほっとしたのを覚えている。今でも覚えている割には、その時にはほっとしたという実感がなかった。失礼を承知で白状すると、「私のやってきた通りだ」と思ったのだから、つくづく若いということは恐ろしいし、そのことについて特に宗政先生とお話したことはない。ただ、宗政先生のような方が、私のやっていることを否定なさらなかったという安心感は、それまで開き直りつつも抱えていた不安を減らし、その後の私の態度を安定させたのは事実である。

2 活字化された作品

近世紀行の作品数は残っているだけでも膨大で、後述する『国書総目録』の全項目から「紀行」と分類されるものを抜粋しただけで二千五百を越える。内容も規模も形式も作者も時代もさまざまで、どこから手を付け、どう整理していったらいいのか、先行研究もほとんどないし、参考にすべき基準が何もなかった。
最初の内は、年表を作ってみたり、地域別にわけてみたりしていた。だがあまりにも数が多く、代表作を選ぶにもまずは闇雲に読むしかないと、活字になっているものから次々に読んで行った。最初は指導教官の中村幸彦先生が教えて下さった、明治版や昭和版の帝国文庫の正続の『紀行全集』、有朋堂文庫の『日記紀行集』、『日本庶民生活史料集成』の紀行を収録している第二・三巻をまず読んだ。中村先生は『日本庶民生活史料集成』のことを、「あんな内容の本は寝転がって読めるように作るべきなのに、装丁が大きくて立派で重すぎる」と歎いておられたが、まだ専門書の買い方もわからない私のために、ご自分で本を買って下さって、私はそれを受け取りにご自宅まで行ったのをおぼろに覚えている。

それからは自分で探して、平凡社『東洋文庫』が収録している紀行類、『近世文芸叢書』の名所記、『女流文学全集』の紀行類、『名所図会全集』、貝原益軒、本居宣長、菅江真澄、高山彦九郎、渡辺崋山、中島広足などの個人の全集や、小規模な翻刻の叢書などを漁って読んだ。ガリ版刷りの『碧沖洞叢書』なども多くの紀行を収録した貴重な資料だった。現在でも紀行を研究しようとする学生にこれらの本を読ませている。これに加えて、私が編纂した『近世紀行集成』(国書刊行会 叢書江戸文庫)、『近世紀行文集成』蝦夷編・九州編(葦書房)、津本信博氏の『江戸後期紀行文学全集』(新典社研究叢書)、『近世紀行日記文学集成』(早稲田大学出版部)、前田淑氏の『江戸時代女流文芸史 旅日記編』(笠間叢書)等を読めば、概ね現在活字で読める紀行の大半は目を通したことになり、近世紀行の概容を把握できるだろう。

だが活字化されたものは、まだほんの一部に過ぎない。翻刻されていない作品にも多くの名作があることが予想できる。そう思うと、先の見えない作業だった。現在のように若い研究者が数年で業績を出し成果をあげなくては就職もままならない時代だったら、いくら私でもこんな研究はしなかったろう。そして、江戸時代の紀行は、このような途方もなく無益に見える作業をしなければ絶対に整理できなかったことも確かだから、今でも膨大な近世紀行は正体不明の巨大な暗黒のかたまりとして、全国各地の図書館や文庫に眠ったままになっていたろう。

3 近世紀行の概容

もちろん、私のこういう言い方は傲慢である。実際には、津本氏や前田氏など、すぐれた紀行研究者がおられるし、日本史や女性史、地方史といった近接する分野の方々の活躍も見逃せない。私がいなくても、これらの方々の研究をはじめとして、やはり江戸時代の紀行は徐々に読まれ紹介され、その全体像は明らかになっていっただろう。
ただ、津本氏や前田氏、その他関連する分野で現在近世紀行を研究されている研究者の多くは、すでに実績をあげ地位も評価も定まっている方々である。だからこそ、時間をかけて地道に気の済むまで調査や研究を行うことも可能である。しかし、若く精力的な研究者がこの分野に取り組もうと思ったら、少なくとも数年間は目に見える成果はあげられない。今のような効率と成果を問われる学界では、それでは誰もが敬遠する。あるいは不充分なかたちで研究発表をくりかえすことが避けられなくなる。

また、前田氏や津村氏をはじめとした、これらの研究者の方々は、たとえば女流紀行や地域の文人など一定の範囲に限ったり、資料翻刻のような着実な作業を中心にされたりしている。それもまた研究者としておそらく最も誠実な方法で、そのような仕事を慎重に積み重ねることでしか、近世紀行の全容は解明できない。
だが、私にはそれが待てなかった。無駄が必要と私が言うのは、実は無駄が嫌いだからだ。どのように粗略であれ、一刻も早く近世紀行全体の鳥瞰図を手に入れなければ、ひとつひとつの作品と向き合う時に、的確な判断が下せず試行錯誤が増えて仕事が長引く。膨大な資料の山を何の見通しも先入観もないままに、片端からとにかく読破するという、一見無駄な作業の方が、全体像をつかむ早道と思った。

この三十数年間で私が手に入れた鳥瞰図はまだ空白が多い。それでも、先に述べた益軒と南谿が江戸時代前期と後期のそれぞれの代表的存在であること、近世中期の北海道開発にともなう蝦夷紀行が新しい紀行の成長に大きな役割を果たすこと、宣長をはじめとする国学者たちの紀行制作が近世紀行を完成させたこと、小津久足の諸作品はその最も優れた成果であること、その過程の中で紀行作家たちが新しい内容と文体の創出にさまざまな工夫を重ねたことなどは確実となった。今後の研究者がこれに修正を加えるとしても、それほど大きなものではあるまい。
これらのことを発見するのに私は時間と労力と、ついでに言うなら金もかけた。しかしさほど無駄をせず、比較的最短距離で結論にたどりつけた。逆説めくが、結論を出すことを急がず、何の成果もめざさず、虚心坦懐に数百編の紀行を読んで行ったからそうなった。空白な部分が多いのは、特にこの十年間公私ともに多忙が続いて紀行研究に時間が割けなかったからであり、方法が間違っていたからではない。

それでもやはり業績を作らなくては就職も昇任もできなかったから、学会発表や論文執筆も行ってきた。だがそこで一番恐かったのは、何しろ誰も読まないし手を付けていない分野を取り上げているので、何を書こうとしゃべろうと、まちがっていても訂正してもらえる可能性はまずなかったことだ。最初に西日本学会で発表した時、前田淑先生が「その紀行に和歌はどのくらいありますか」と質問されて答えられずに私はへどもどしながらも心から安心したし、その数年後に私が熊本の細川文庫に「存在しない」と断じた資料を「たしかに実在する」と指摘した論文を送って下さった後では、自分の論文でその資料にふれて「前田氏の指摘によると私のこの記述は誤っていて」と訂正するたび、ほとんど浮き浮き喜んでいた。誰かが自分の研究をチェックしてくれて、誤りがあれば否定してくれるというのは私にとって大いなる安らぎだった。失敗や過ちを糊塗し隠蔽する企業や国家や指導者の心境が、私は今もよく理解できない。

もちろん、本来そんな過ちは初めからしないに越したどころか、絶対にするべきではない。長い人生と教師生活で実感として学んだひとつは、いったん誤った情報を流したら、それを完全に払拭するのはまず不可能ということだ。授業で学生に何か言うと、あとでどれだけ訂正しても必ず何人かは聞きもらすし、九十歳をこえた私の老母は予定を変更して連絡したら絶対に前の予定しか記憶していない。情報の上書きは、ことほどさように個人と社会、若いと年寄りを問わず困難なのだ。いったん流した誤った情報は、どんなに完璧に払拭しても、どこかに必ず残ってしまう。「綸言汗の如し」というのは、決して大げさな訓戒ではない。

現代は情報社会とよく言われる。それならこんなことぐらいなぜわからぬかと、いつも思うが、だからこそ、よっぽど緊急を要し、たとえ不確定でも時々刻々修正しつつ現時点で把握できていることをとにかく知らせることの方が大事な、被災地や戦場ならまだしも、当面、人の生き死ににも世界の滅亡にも関係ない、江戸文学に関する知識などは急いで成果を出させて情報をもぎとるべきではない。もちろんそれは人類にとって大切で貴重で、常に継続して調査研究していなければならぬ作業だが、早急に結論を急ぐ必要や価値はないのだ。時間をかけて大規模かつ詳細に調べ、以後百年や千年は訂正する必要のない正確な結論を得る方が、あらゆる意味で社会に貢献し、無駄を省いて節約になる。
情報にもおのずから質と種類というものがあって、疫病の伝染も江戸文学の成立過程も同様に扱い、同様の形式で成果を求め、評価しようとすること自体、画一的で粗雑すぎる。そんな初歩的で単純なことに、情報を専門とする人たちがなぜ気づかないかと思うから、私は情報に関する学問研究も、それにもとづいて出される各種の指針や方針も、いつもいまひとつ信頼できない。

ちなみに現在では、学術振興資金などのかたちで、若手の研究者に一定の時間と資金を与えて研究できる環境を保障する制度がある。確かにそういう選考に合格した人は優れた成果をあげていて、これは大きな救いである。だが、選ばれる少数の人も含めて、その選考書類を準備するのに、多数の若い研究者が本来研究に費やすべき時間と労力をどれだけすり減らしているかを目の当たりに見ていると、この制度もまた総合的には若い研究者たちの才能を浪費しているのではないかと危惧せざるを得ない。

4 不揃いな項目

ともあれ、そのような作業の中で私が自然に作ってきた近世紀行の分類は、「蝦夷」「九州」「東北」「東海道」「木曽路」「八丈島」「山岳」「女流」「幕末」「富士山」「村々」「都市」「参詣」「伊勢」「花見」「温泉」といったものだった。全体としては極めて雑然とした印象を与えるし、第一覚えにくいだろう。しかし、理由の一々を説明すると長くなるので省略するが、どれにもその一項目を立てるだけの過程があった。近世紀行の歴史と性質を解明するのに有効であり、これに拠りつつ研究を進めることが最も合理的だった。
現在、紀行全集の出版を計画中だが、その各巻のタイトルも、これをそのまま使用することにしている。普通に考えれば、そのような全集の各巻は時代別や地域別にするのが穏当だろう。だが、そのように一見整然とわけると、時代でも地域でも非常に作品の量に片寄りがあるため、一票の重みがちがう小選挙区制のようなもので、全体としてすぐれた作品を一つでも多く精選することとは矛盾するのである。また、そこまでして時代や地域でくくっても、とりわけて特徴が見出せない巻も多い。先ほど、このような雑然とした分類は覚えにくいと言ったが、それはこの項目だけを見ている間のことで、各巻の中身まで読めば、特徴と意義を把握して近世紀行の全体像を理解し記憶してもらうには読者にとっても最も親切な分類なのである。

江戸時代初期に仮名草子という一群の文学作品があって、その内容は幅広く、中世風の恋物語、宗教書、武道や華道や茶道の手引き書、旅行記、笑話、評判記など雑多である。したがって、仮名草子の研究は、これらの諸書を分類することから始まったと言ってもいい。代表的なものではてるおかやすたか氏や野田寿雄氏の分類があり、中村幸彦先生も「仮名草子の説話性」という論文の中で、先の二先生に比べると、かなり雑然とした項目で分類を行っておられる。まだ大学院生だった私はこれを読んだ時、これではただ並べただけで分類になっていないのではないかとひそかに思ったものだ。今思えば、中村先生は私たちとさまざまな文庫で目録作成の作業をしている時、「目録というのは詳しいものほど使い物にならんのや」と笑われていた。前項で書いたような過程を経て、先生の分類も今は理解できる気がする。

整然と整って、外から見ただけでは美しく理解しやすい分類というのは、実際には現状に合わず何も伝えてはくれないことが多いものだ。大学の勤務が長く、私立公立国立と職場を転々とする内、文部省や文部科学省の指導が現場の状況と合わないことが起こるのをしばしば痛感した。予算や人員の削減といった実質的な理由だけでなく、漠然と推察するその原因の一つとして、霞ヶ関で書類を検討していたら不揃いだったり不規則だったりする組織図や表は、そのもとである実態から整然と整理したくなるのが有能な官僚の本能なのではないかということがある。しかし、書類の上では見苦しくても、実際の運営にあたっては、それが最も自然で効率的な場合も多いのだ。現場にいない人々には、そこがわかってもらいにくい。

5 避けられない作業

分類という作業はどのようなテーマに取り組んでも、どこかで必ず必要になる。ある作家の作品の数々、カードで集めた用例、何かに関する先行研究の見解のさまざま等々、研究や論文のいたるところで、この作業は避けて通れない。そして皮肉なことだが、多くの資料に精力的に取り組んでいるほど多様な例が出現し、分類は難しくなる。
それをうまくやる技術は、あったらこっちが教えてほしいぐらいだ。ただ一つできるアドバイスは、「分類を軽く見るな」ということだろう。行きづまっても、困っても、落ち込んだり腐ったりせず、分類は大変な作業なのだから、うまく行かなくてあたりまえと思って、逃げずに全力で取り組むしかない。単純作業だから、こんなに手こずるのはおかしいと思わず、分類は論文の本質にもつながり、書き手の見解を問われる重要な作業としっかり意識した方がよい。

特に、独自の論を立てようと思っているのに、随所で既成の分類を使ってしまうのは避けるべきで、使うなら、一応検討することが必要だ。次に述べる「あらすじ」もそうだが、分類のようなものは何となく、天地創造の時かそれ以前から存在していて永久不変のもののように思いやすい。しかし、あらすじも分類も、天から降ってきたのではなく、同じ人間である誰かの手で作られたものにすぎない。新しい説を唱え、新しい論文を書くなら、あらすじも分類も自分で作り、既製品を使うならチェックしてから使うべきである。

今思えば、先行研究もほとんどなく、何も参考にできないままで、私が膨大な紀行作品の山に向かい合わねばならなかったのは、むしろ幸運だったかもしれない。すでに偉大な研究者の手によってなされた分類や定義に影響されたり、振り回されたりすることからは、私は常に完全に解放されていた。その分、自由の重さというものを味わいつづけることにはなっても、やはりそれは恵まれていたというべきなのだろう。

6 文学って何

仮名草子や紀行といったジャンル内の分類もさることながら、ジャンルそのものの分類も存在する。つまり、何をもって仮名草子とするか紀行とするかということで、特にこの両者のジャンルには、そもそも文学というジャンルに入るのかどうかということが問題にされやすい作品が多く含まれる。仮名草子類は長い研究の伝統の中で、一応は文学として扱われるようになっているが、紀行はまだまだその点はあいまいだ。
私が紀行を研究しはじめた四十年ほど前は、まだ翻刻つまり活字化された近世紀行は少なかった。「おくのほそ道」だけは、いやというほど活字になっていたが、それに比べて他の紀行の冷遇されかたはひどかった。

そういう中で、いろんな地方史や全集で近世紀行を紹介しようという企画があると、涙が出るほどうれしかった。だが、そういう時にわりと多いのは、部分的な抜粋で紹介しようという計画で、これは限られた紙面だからやむを得ないと思いつつ、とても居心地が悪かった。ある時のそういう話し合いで私が、「つまらないような部分もやはりその作品の一部だから、全部紹介してほしい」と、遠慮しいしい発言したら、同席していた中野三敏先生が「板坂さんの言うように、こういった地方史などに、あちこち省略した作品が掲載されてるのを見ると、僕らは『これは何だ』と思うわけで、やはり一つの作品を収録するなら全文を出してほしい」と言ってくださって、私は先生もそう感じられるのだということがわかって安心したのを覚えている。

そもそも、そういう時に歴史関係の方々が近世紀行を「資料として面白い」と評価するのにも、私はうれしい反面複雑な気持でいた。それは、たとえば、ある紀行の背景を知ろうと思って歴史や社会学の論文を探して読んでいると、私がその背景を知ろうと思った、当の紀行が資料として紹介されていることがあって途方にくれるということもあった。私がそれを歎くと、中野三敏先生が「そうなんだ。僕らが江戸の小説の背景を調べようと思うと、大抵、西鶴や近松の本が資料にひかれている」と言われたように、虚構であることが明らかな西鶴や近松の作品が使われるほどだから、紀行などはむしろ第一級の資料として用いられるのだろう。

近世紀行は歴史や社会を研究する人たちにとっては、それこそ資料の宝庫だろう。だが、そのように文学作品を資料として用いる場合は、相当の吟味と検討が必要ではないのかという不安があり、それ以上に、近世紀行がそういう風にだけ読まれてしまっていいのかという不満もあった。その一方で、「資料として面白いのは、文学として面白いというのと、どうちがうのか」という疑問も抱いた。
たとえ部分的にでもいいから紹介してほしいとも、資料としての面白さでもいいから面白いと言ってほしいとも確かに思った。しかし私は常にその誘惑をふりきり、退屈な部分、未完成な部分、文学ではなさそうな部分もふくめて、必ず全文を翻刻紹介させてもらう企画を探し、どんな「資料として」面白そうな作品についても、絶対に文学としての面白さで勝負させようとし、そういう論文を書いてきた。

「平家物語」の合戦描写にも「レ・ミゼラブル」の地下水道の説明にも、およそ文学とは思えない部分が存在する。だからと言って、その部分を省いて紹介されることは普通ない。ならば近世紀行もやはり、作者たちが残したとおりのかたちで、丸ごとすべて紹介してやらなくてはならない。そして、文学研究者としての任務分担はやはり、近世紀行の「文学としての魅力」を発見し語ることにある。私が守ってきたやり方が最善とは限らないが、近世紀行を研究する人たちに望むのは、そういう、文学とは何かという巨大な問題との対決も避けないでいてほしいということだ。

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