江戸文学その他あれこれ13-キリストの目の色

※映画「パッション」の感想は、最後に附けてあります。お手数ですが下まで下がって下さい。

1 ある主婦の発言

そもそものきっかけは、宗像市中央公民館で、数人の主婦の方たちと毎月好きなビデオを見ては好きなことを言い合う「ビデオの会」(考えて見ると芸のない名だが)で、アメリカ映画のロックオペラ「ジ-ザス・クライスト・ス-パ-スタ-」を見た時のことだった。この時は参加者がいつもより少し多くて、六七人ほどいたように思う。キリスト教については、ほとんど知らない人ばかりだったと思うが、映画の評判はけっこうよくて、皆それぞれに面白がった。(私は、もう何度か見ていたので、ユダがキリストに対して「どうしておとなしく、ただの大工でいなかったのだ」とか歌ったりする歌詞が英語では「ロッキングチェアを作っていなかったのだ」とかなってるのに気づいて、そうかあ、ロッキングチェアって言い方になるんだなあと感心したり、そう言えば大工さんと言うのは、労働者であり芸術家であり、イエスの若い時のというか本来の職業としては納得できるなあとか、ついでに田舎の母が言っていた「大工さんというのは、例外なく絶対にゲ-トボ-ルがすごくうまい。距離を目算したり方向を見定めたりするのが慣れてるからだろう」という話を思い出して、イエスもやらせたらきっとゲ-トボ-ルはうまかったのだろうかなどと罰当たりなことをいろいろ考えたりしていた。)
その中で多分その時はじめて参加された方だったと思うが、一人の奥さんが、その人はミッションスク-ルか何かに行かれた方でキリスト教のことも知っておられて「このように人間的な、きれいごとでない、悩みも弱さもあるイエスの描き方は、とても新鮮でよかった」というようなことをおっしゃった。その時、私は何かが気になったのだが、話がはずんでいたのでそのままにして忘れてしまった。でも、会が終わって帰宅しても何かが頭にひっかかって落ち着かず、よく推理小説にあるように「あの人の言ったことの何が私の気になったのだろう」と思い出しつづけている内に思い出した。その奥さんは、こう言ったのだ。
「キリストと言ったら、私どもが知っているのは金髪で青い目のとてもきれいな顔が普通なのに、こういう、そうじゃないような姿の・・・」
ちなみに、見た人は知ってると思うが「ジ-ザス・クライスト・ス-パ-スタ-」のキリストはテッド・ニ-リ-と言う俳優で、目も髪も黒っぽい茶色といっていい。そして少し前の映画雑誌「スクリ-ン」である読者が投書で、クリストファ-・ウォ-ケンという俳優が最近の映画で見ると、かなり年をとって体型なども昔のようでないとか嘆いて「そう考えると『ジ-ザス・クライスト』のテッド・ニ-リ-などは、それ以後どうしてるかちっともわからないから今どんな姿か知るよしもないけれど、それが却っていいのかも知れない」(考えて見ると少し唐突な話の展開だが、この通りの内容だったと思う)と書いていたように、それ以後はあまりというか全然というか映画に登場しないが、痩せた身体と、優しく物哀しそうだが意志が強い表情の、私にはそれほどキリストとして違和感のない外見だった。むしろ非常に自然に思えた。だが、その奥さんにとってはそうではなく、そこが衝撃で、そこが面白かったらしいのだ。

2 友人との電話

私は、その後すぐ、近代文学を研究している大学教師の女性と電話で話した時、そのことを聞いてみた。
「ねえ、イエス・キリストと言ったらどういう顔をあなた連想する?」
「私は案外、実物は今のオウム真理教の教祖みたいだったんじゃないかと思ってるんだけど」と彼女は言った。「それがどうかしたわけ?」
「いや、これこれしかじかなんだけど」と私は説明した。「で、どうも後で考えると、その奥さんは学校で見せられた宗教映画のこともおっしゃってた気がするから、そのキリストのイメ-ジは、そこからも来てるんじゃないかと思うけど、いずれにせよ、よ。キリストって一応ユダヤ人だろう?金髪碧眼って可能性は薄いよね。普通は黒目黒髪を連想しない?お母さんのマリアだって・・・あれ、待てよ、そうか。ラファエロだのレンブラントだののマドンナ像だって、そう言えば髪は金色、眼は青いって場合が多いか」
「そうよ」と友人は言った。「私もミッション系の学校に行ってたことあるから、そこでイエス様の姿を描いたカ-ドもらってるけど、そのイエス様ってあなた、すっごいハンサムで、もちろん目のさめるような金髪で青い目よ。私、あんまりきれいだから今でも大事にとっている」
「へええ、知らなかった。それじゃ私の方の認識不足なのか。一般的にヨ-ロッパやアメリカの人が連想するキリストって、じゃあ、そういうイメ-ジなのかなあ。でも、どうなんだろ、実物は、可能性としては・・・」
「実物は、だからきっと麻原彰晃みたいなんだったんだと思うよ」友人はなぜか、そのイメ-ジに固執していた。
「学生が教えてくれたけど、エリザベス・テイラ-が黒い目と髪してたから、ちょっと激しい女の役とかそういうのばっかりで、いわゆる、まっとうなヒロイン役はなかなか貰えなかったってね」私は思い出して言った。「何かの本で読んだけど、外国文学の世界じゃ、金髪と青い目はおとなしい普通の女性、黒い髪と目は危険で神秘的な女性とか、そういうイメ-ジがあるらしいし。健全で正しい市民生活の規範や基礎として、壁に飾る絵のマリアやイエスが黒い髪や目をしてたら、やっぱりまずかったのかなあ」
「そういうのは、私も聞いたことがあるけど」と友人は言った。「マリリン・モンロ-はほんとは金髪じゃないんだって。あれ、染めさせられてたんだって。本人はとても嫌がったらしいのね。もとの髪は栗色か何かで、それ、お母さんと同じ色とかで本人はその色が好きだったらしいのよ。でも、『アメリカの夢』としての存在であるためには、金色の髪でないとだめだって言って会社が無理に、あの色にさせたんだって」 「ふうん」私はうなった。

3 家族と宗教

ところで、私自身もキリスト教とは結構かかわりながら育ってきている。第一、亡くなった祖母は少女の頃、郷里の長崎で外国人の宣教師の付き人をしていたそうで、時々少しそういう思い出話をしていた。祖母がつきそっていた宣教師は「タマスさん」(今思うとこれはト-マスということなのだろう。祖母は本当に見た所は小さい田舎のお祖母さんだったし、通訳もしていたはずなのに英語なんか皆忘れていたようだったが、それでもラテンをラティン、ギリシャをグリ-スとか、ひょっと言うようなことがあった。)と「ティ-グさん」という人だったそうで、「人力車に乗って、浜辺を旅して、波の中を行くから足に波がかかったりしたこともある」「宿屋にとまった時、チップのような余分な出費があると、これは何か、納得できないと言って文句を言うので、宿屋の人との板ばさみになって非常に困った」などと祖母は話していた。祖母の縁もあってか、母は今もある長崎のミッションスク-ルの活水に行った。私が小さい頃も家によく外国人の宣教師の人が来ていたり、私自身、小学校まで近くの日曜学校に行っていた。行かせたのは母である。キリスト教的精神は人間にとって大事だと母は考えていたようである。そのくせ母は、学校にいる間もその後も洗礼は受けなかったし、キリスト教にも外国にも、どこかさめていて批判的だった。「信仰しない者は皆『迷える羊』みたいに見る、あの態度が気にくわない」「豚に悪魔が乗り移って皆海に突入したなんて聖書に書いてあるから『この部分は嘘』などと、いっぱい書き込みをしていた。その聖書は卒業の時、長崎の古本屋に売ってきた。買った人はどう思ったことやら」「外国人は人が見ていてもかまわず、自分の部屋で裸でベッドにひっくりかえって寝たりしていて、私たちは皆あきれていた。あれがどうして文化的な国民なものか」というようなことを時々言った。
祖母も、キリスト教の宣教師たちとの思い出を話す時、不快な様子はなかったが、特になつかしそうでもなかった。母といい、祖母といい、外国の文化にそれぞれの当時としては随分深く触れながら(母の話では、当時の活水ではほとんど全部が外人教師で、授業も皆英語で行われ、日本語を使うのは国文学の時間だけだったと言う)、そのことで外国なり西欧なりに特別な感じを持っている様子はまるでなかった。時には馬鹿にしていたし、時には評価していた。それは、私の生まれる前に長崎から大分に来て、大分と長崎を比べてあれこれ言う時の感じより、もっとめだたない、文化や風土の差の意識だった。
おそらく私が今、異文化とか異国とかいう時、その境界線を国家間あるいは東洋と西洋という間ではひいてしまえない性質は、こういった家庭の雰囲気の中ですごしたせいがかなり大きくあるのだろう。
とにかく、そういう中で私もまた、聖書やキリストについての話は小さい時からなじんでいたし、それこそクリスマスカ-ドや宗教画でキリストやマリアを描いたものは、今でもいくつか持っている。しかし、どういうわけか、その絵の中のキリストは大抵せいぜい茶色っぽい、ほとんど黒い髪と目をしていた。私が「ジ-ザス・クライスト・ス-パ-スタ-」のキリストに違和感を持たなかったのは、それも一つの理由である。
気になり出すときりがなくて、いったい、こういうのはプロテスタントとカトリックで何か違いがあるのだろうか(これも学生が教えてくれたことでは、十字架のイエス像が非常にリアルなのはカトリックの方だと言うが)、時代や地域で変化はあるのだろうかと、絵本や映画や絵画などを全部調べて統計をとって見たくてしかたがなくなるが、到底そういう暇はない。誰か研究して見ませんか。

4 マリアの抗議

その後、別の卒業生にその話をすると「聖書の中でキリストが『私の目の黒い内は』と言うせりふがありませんでしたか」と言った。「だってそれは訳がそうなってるんだろ。原文はどうなってるのやら」と私は答えて、調べようと思いつつ、まだ調べていない。
それにしても、遠藤周作にせよ芥川龍之介にせよ、キリスト教は西欧の思想で所詮日本には溶け込めないといったような嘆きや苦悩やその他の感情をいろいろ書いているように思うけれど、その場合のキリストやマリアの髪や目の色は、黒いのだろうか、金色と青なのだろうか。つまり厳密に言うとキリスト教は、少なくともイエスが語った時点では、地理的な位置としては西洋よりも東洋としか言い様がないのではあるまいか。異質な文化と言ったって、もともと異質な西洋に入って育ったものなのである。だったら日本的心情がうけいれないキリスト教的なものとは、そもそもいったい何なのか。そういうものが存在するのか。するとしたなら、どんなかたちで?どんな部分に?
芥川龍之介の作品の中に、「日本の聖母」という次のような小品がある。

山田右衛門作は天草の海べに聖母受胎の油畫(あぶらゑ)を作つた。するとその夜聖母「まりや」は夢の階段を踏みながら、彼の枕もとへ下つて来た。
「右衛門作!これは誰の姿ぢや?」
「まりや」は畫の前に立ち止まると、不服そうに彼を振り返つた。
「あなた様のお姿でございます。」
「わたしの姿!これがわたしに似てゐるであらうか、この顔の黄色い娘が?」
「それは似て居らぬ筈でございます。────」
右衛門作は叮寧に話しつづけた。
「わたしはこの国の娘のやうに、あなた様のお姿を描き上げました。しかもこれは御覧の通り、田植の装束でございます。けれども圓光がございますから、世の常の女人とは思はれますまい。
「後ろに見えるのは雨上りの水田、水田の向うは松山でございます。どうか松山の空にかかつた、かすかな虹も御覧下さい。その下には聖霊を現す為に、珠数懸け鳩が一羽飛んで居ります。
「勿論かやうなお姿にしたのは御意に入らぬことでございませう。しかしわたしは御承知の通り、日本の畫師でございます。日本の畫師はあなた様さへ、日本人にする外はございますまい。何とさやうではございませんか?」
「まりや」はやつと得心したやうに、天上の微笑を輝かせた。それから又星月夜の空へしづしづとひとり昇つて行つた。・・・・

私は高校の頃、家の本棚にあった叔父の古い芥川全集(第七巻)の本で、これを読んでなぜか結構好きだった。文章から来る場面のイメ-ジも、言っている内容も。芥川はこの他に同じ第七巻の中の「長崎小品」でも似たようなテ-マを扱っていて、この雰囲気も私は好きだった。これらはまた、むろん芥川自身の歴史物や外国物を書く時の心構えの一つを語るものでもあるのだろう。
それはいいのだが、ただ、今あらためて考えて見ると、芥川がこの時想像した聖母「まりや」は、どんな髪の色、目の色、肌の色をしていたのだろう。もしもそれが、西欧の宗教画にあるような姿そのままだったとしたら、文句をつけに来た「まりや」その人がすでに金髪にむりやり染めさせられたマリリン・モンロ-みたいなものではないか。右衛門作は「あなた様のお姿もまた、西洋の絵師の方々が自分たちの国に親しみやすく作り上げた仮のそれではございませんか」ぐらい言ってみてもよかったかもしれない。あるいは納得したマリアが天上に帰ったら今度は、ユダヤの砂漠からヤコブの梯子か何かを上がって来た黒い髪の小柄な女が座っていて「あなた、一寸お話が───私はイエスの母のユダヤ女のマリアですけど」とか言う可能性もある。
開高健の「裸の王様」の中で、童話「裸の王様」の話を聞いた少年は、それを絵にするのに、松林の並木道をチョンマゲ姿の裸の男が歩いて行く姿を描く。彼にそれを話した絵画塾の教師は、なるべく余計なことを言わず、「昔とてもいばっている男がいてね、衣装をいっぱい持っていて・・・」と言うような話し方をしたので、少年は昔、田舎で見た村芝居から、そういう場面を連想したのだ。今は都会の冷たい家庭の中で、繊細で心を閉ざした子どもになっている彼のことを心配していた教師は、力強いタッチのその絵を見た時「彼はもう大丈夫だ、もう生きていける」と確信し、安心と痛快さで笑い転げる。語られ伝えられることの内容を正確に捉えれば、それを自分の知っている最も親しみやすい姿で表現することは、当然であり健全なことかも知れない。そういう意味では私はイエスやマリアが、金髪でも青い目でも、ちっとも問題ではないと思う。ただ、それだったら、そうでない髪や目の色のイエスやマリアがあらわれても、これまたちっとも問題ではなく、不自然でもないことになる。黄色い肌でも、黒い肌でも。「ジ-ザス・クライスト・ス-パ-スタ-」ではユダは黒人俳優だった。昔なら考えられないことだろう。キリスト教がこれからも長い時代にわたって、命を失わず生きつづけていくなら、黒人のイエス、女性のイエス、動物のイエスなどが登場し、映画や絵画に描かれる時代があるいは訪れるのかも知れない。

(1992.10.9)

※以下は2004年春に公開された映画「パッション」について、友人の「じゅうばこ」がHPの掲示板に書いた書き込みである。読みたいとのご希望をいただいたので、ここに収録する。(2004.8.4.)

◆◆映画「パッション」を見て考えたこと ―じゅうばこ記― ◆◆

◇ はい、今度こそ、「パッション」の感想です。
めちゃくちゃネタバレですから、そのおつもりで。

ゲッセマネの花園で、逮捕される直前のイエスが「私には耐えられるだろうか」と悩んでいるところから始まり、あとは聖書に書かれたまま、裁判、鞭打ち、死刑と続き、最後にちらっと復活を示す映像がありますが、全編は題名どおり、キリストの受けた受難をずっと描きつづけます。
ときどき、イエスが机を見て、大工仕事をしていた昔を思い出したり、十字架をかついだイエスが転ぶのを見たマリアが幼いイエスが転んだのを抱き上げた日のことを思い出したりという回想シーンが入ります。それがもう、古色蒼然というぐらい型どおりで、前にも書きましたが全編まったく「芸がない」のですね。いまどきこれかよと驚いてしまうのですが、これは監督は確信犯なのでしょう。そうだと思いたいよ。マジでやってるんなら、あんまりだ。いやまさか。いくらメル・ギブソンでも。

しかしそれが、あまりに芸がないのでちょっと新鮮に見えてしまう。キリストを描いた映画では「最後の誘惑」が私はかなり好きでしたが、あれもそうだし、あと、ものすごい冗談にした喜劇とかも見たし、「奇跡の丘」なんて名作もあるけど、もちろん「ジーザス・クライスト・スーパースター」とかもあるけど、皆それぞれに、新解釈、新機軸、新趣向を打ち出してるのですが、この映画にはまったくそれがない。
「ベン・ハー」とか「バラバ」とかは、キリストが脇役で、同時代の人の目からイエスの死を描くのが、それもやっぱり趣向なわけで、そう考えるとこの映画、そういう解釈も工夫も趣向も何もないというのが逆に新しいのかも。
それは冗談ではなく、見ている時も、見た後も、何だか他のキリスト映画が嘘っぽく軽く見えてしまう。「面白いんだけどねー」という感じになってしまう。「最後の誘惑」でさえ。「奇跡の丘」ですら。

で、これは監督がねらったのかどうかわかりませんが、多分ねらってないでしょうが(でもわからん)、途中で、かなり早い段階で、これはそういう映画らしいと気づくので、しかも筋はわかってるわけだし、「何が起こるのだろう」「見逃せない」ということがまったくないので、ただもうぼーっとイエスが暴力受けるのを見ている他はなく、そうすると大学で面白くない授業受けてる時や、防音壁だらけの高速道路を延々走ってる時と同じで、じいっと、かつぼうっと、やたらいろいろなことを考えてしまうのですね。

それでもう、おかげでいやっというぐらい、いろんなことを考えてしまった(だから長いのよ、この感想)。
で、ちょっと、いったん切ります。

◇「パッション」感想、続けます

これは考えるというより、ちらっと感じたのですが、「えー、私もう何してるんだ」という間の悪さでした。「えー、こんなに大勢の見も知らない人たちといっしょに、人がひどい目にあわされる映画をじっと見てる私って、いったい何してるんだろう」みたいな、とまどい、当惑。
もしかしたら、ポルノ映画見る時もこう感じるのだろうか。ちがうかもしれないけど、でもレイプものだったらちょっとそうかもしれない。ちがうかもしれないけど。
でも考えて見れば、人が死んだり苦しんだりセックスしたりという映像を、見も知らぬ他人と熱心に見ているのが映画だからなあ、と妙な再確認や納得をしました。
そういうことをあらためて思ったほど、変に「きまりが悪い」気がしたのです。

もう一つ、それと似たような感情で、「いいのか?この人は(イエスは)俳優さんなのに」とも思いました。昔はイエスの役は顔を映さなかったこととも関連する心情なのでしょうか。こういう映画でこういうイエスやマリアを演ずることは俳優にとって光栄とかより恐ろしいことではないのか、そんなことさせていいのかと。それをこんなに皆で見ていていいのか、たかが俳優の演じるイエスをこんな風に見ていて大丈夫か、と。
これも、それまでのイエスの映画では感じたことのない感想です。
映画の出来がよかったから迫力があったというのでもないと思う。あの作り方が何よりそう感じさせたのでしょう。こんな、ただならぬ作り方をして、人に訴えて、それに使われた俳優はどうなるのだろう、それを見せられた私たちはどうなるのだろうという、恐れのようなものです。

「最後の誘惑」でキリストを演じたウィレム・デフォーは私の好きな俳優ですが、彼がキリストを演じた直後、「ワイルド・アット・ハート」で、極悪人を演じた時、私は心中転げ回って大笑いし、彼に感謝し「何て賢い人、何て優しい人」と心の中で繰り返しました。それは彼なりの自分自身と観客への呪縛を断ち切るメッセージだったように思えました。でも、今回の「パッション」では、俳優にそれができるのかどうか、私は危ぶみました。

もしかしたら私はまったくわけのわからないことを書いているのかもしれません。私は神は信じていませんが、子どもの頃は日曜学校に行っていたし、キリスト教には親しんで育ちました。イエスは人間として尊敬し共感するし、好きです。そういう私だから、もしかしたら、信者ではないけれど、ある種キリスト教に親しんだ者にしかわからない感情を抱いたのかもしれないし、それを語っているのかもしれません。でもまた、そうではないのかもしれません。信者やキリスト教とは関係なく、私と同じ感覚を持った方もおられるのかもしれません。

その俳優さんですが、イエスを演じたジム・カヴィーゼルは、とても自然にイエスをやっていました。だからこそ私が変な心配をしたのかもしれません。これも、そのせいかもしれないのですが、「男優は兵士、女優は娼婦(ちがったかも)をやらせたら、誰でも一応はさまになる」とか言うけれど、イエスって激しさや弱さや清らかさやしたたかさや温かさや厳しさや相当幅広い面がある(ことになってる)から、男優(もしかしたら女優でも)なら誰でも一応はやれるし、さまになるんじゃないかとちらっと思ったりもしました。ブラッド・ピットでもトム・クルーズでもそれなりに行けるんではないのかいとか。そう言ったら友人たちから激しく否定されましたが(笑)、でもそんな気がまだします。

このイエスと母のマリア役のマヤ・モルゲンステルンが、どちらもとても自然でした。端役まで皆うまかったと思うけど、この二人もそうでした。見ていて何となく「ああ、そうするしかなかろうなあ」「そうだろうなあ」と感じられました。深く納得するというのではないけれど、ぼやっと感じとれるのです。すごい、悲しみの中に。あきらめの中に。
とらえられてすぐ、イエスはなぐられてぼこぼこになりますから、始まって数分でもうまともな顔はしていません。身体もすぐにずたぼろになって人間の体をなさなくなります。だからイエスのまともな顔というものは回想場面でしか出て来ない。その場面のカヴィーゼルの表情がいい。とてもきれいで、あたたかく、やさしい。結局、最後の印象で残るのは痛めつけられた顔ではなくて、こちらです。

大工仕事をしていて、テーブルを作っている回想場面があるのですが、それで気づいたのですが、当時のユダヤの人たちって、床に座って食べてたのでしたっけ?「最後の誘惑」ではそうだったような。
で、母のマリアはイエスが何を作ってるのかわからない。注文で作ってるんだとイエスが言って、これで食事をするんだと言うとマリアは高すぎるわと言い、イエスは椅子に座るんだと教えてマリアを座らせて、二人で向かい合う。マリアはやっぱり変だわ、使いにくいわ、みたいなことを言いながら、二人は向かい合って座っている。この場面は凄惨な拷問や訊問の場面の合間に挿入されるのですが、ふしぎなことに私は、それが拷問の悲惨さを強調するのではなく、どこか遠くに押しやっていくような不思議な印象を持ちました。二人の静かな自然な、幸福とさえも意識していない幸福な場面の方が、ずっと長く続いたような気がします。

こうして書いていると、おまえは結局あの映画を評価するのか、好きなのかとどう考えても言われそうで、そういうわけでもないのですが、何しろとにかく、見ていてすることがないので、いろいろ考えるしかなかったわけです(笑)。

考えたといえば、こういうことも考えました。
このイエスの受難の凄惨さに今たくさんの観客が目を回しているわけですが、それはそうあるべきでしょうが、でも考えてみれば、もっとひどいことされた人たちは人類の歴史上山ほどいるわけですよね。イエスの弟子だけとってみても、バルトロメオは生きながら皮をはがれたとかいうし、「イエスなんか知らない」と言ったあのペテロもその後布教を続けて、逆さはりつけ(はりつけよりずっと苦しいという)で死刑になっている。更にキリスト教だって、後代には宗教裁判で相当なことして人を殺しているし、「人間はどこまで残虐になれるか」(講談社α文庫)などにも胸の悪くなるような例がたくさんあがっている。「拷問の世界史」なんて本見ると、八十過ぎてから敵に敗北して馬につながれてひきずりまわされて死んだ女王とかいたりする。
そうやってたくさんの人が殺されてきたし、今も殺されつつある。そういう人たちのことをひとつひとつ丁寧に描いたら、これ以上の映画がその人たちの数だけできる。動物のことまでとりあげたら、もっと無限に増えるのだろう。

それなのになぜイエス一人の「たかが鞭うたれて十字架につけられた」程度の悲劇がこうまでくりかえし、語られて、記憶されてきたのだろう。
でもそれは、誰でもよかったのかもしれないと思いました。もちろん、誰を傷つけることもせず、何の悪事もせず、「あなたを傷つける人を愛せよ」と画期的な教えを説いたその人が、このようにして殺され、自分の主張したことを最後まで貫いて憎しみや復讐のことばを吐かなかったということは果てしなく重いけれど、これもその程度に優しく正しく敵を許して生きた人、それなのに悲惨に死んだ、そして恨みを持たなかった人は他にもたくさんいたのではないだろうか、人間の数はこれだけ多いのだから、それは当然いるだろうとも思いました。それはソクラテスが毒杯をあおいだと同じように、自分の語った生き方を守ったという点でもすごいにせよ、そういう人もまた、他にも大勢いたのだろうとも思いました。

こういう考え方は信者の人によっては冒涜かもまちがいかもしれないけれど、私はイエスという人の一生がこうやって語り続けられ、彼の苦しみや許しが確認されつづけるのは、同じようにして生きて死んでいった勇気ある優しい人々の記憶が、そこに代表され流れ込み、とけこんでいるように思えてなりません。
そしてまた、人はそのように、正しく優しく生きて、孤独で苦しむ時に、イエスという言葉で代表される、そのような多くの人たちのことを思って淋しさに耐えるのだろうと思います。自分は一人ではない、前にも同じ苦しみに耐えた人がいる、と思って。

ええ、もう何せ、映画見てる間ずっとすることなくてヒマだったもんですから(笑)。

イエスがもしいなかったら、あるいはむしろ、彼の話が語り伝えられなかったら、人間の歴史はどうなっていたのだろうかと、ふと思います。許しや愛という思想はやはり何らかのかたちで生まれざるを得なかっただろうと思います。でなければ人類は滅びるしかなかったでしょうから。でも、どんな風にしてだろう。イエスという人の物語でなかったら、どんな物語だったのだろう。そんなことも考えました。

ええと、まだまだ続きます。だから、もうほんとに長い映画だし、することなかったし…。

あ、そうそう。
全編ラテン語英語字幕つき、ってのもすごいですが、英語圏の俳優さんたちは、ラテン語って割りと話せるものなのでしょうか?私はむろんまったくわかりませんけれど、皆さんそれなりに迫力でせりふおっしゃっているように聞こえたけど。

それで、英語字幕がついてないとこがあって、そこには当然日本語字幕もないわけです。それはだいたいがどういう部分かというと、ローマ兵とか民衆がイエスをさいなむ場面です。つまりどうせろくなことは言ってないだろうという箇所なのですが、何でそこを訳さないのか監督の意図はわからないのですが、見ている限り、何を言ってるのかわからないことで、かえってイエスを鞭打つ兵士やあざける民衆の残酷さ、卑しさが強調されます。あさましさや醜さも。
それと関係あるのかないのか、ふつうこれだけ酸鼻をきわめた描写だと、もう行き着いてしまって一種の滑稽さやエロティシズムが生じるのですが、それを少なくとも私は感じませんでした。不快感も恐怖感もないのですが、ただものすごい疲労感だけが残りました。駄作を見たあとの疲労感ではありません。あまりにも余計な夾雑物がないので邪念のしのびいるすきがないとでも言おうか。
あるいは字幕がないことで、一種の無力感、監督の決めた環境を受け入れるしかないという受動的な心境になります。それが、されるままになるイエスの状況と妙に重なるのも何だかなあ。

この一種のあきらめ、受動的心境というのは、私にはどこかでおなじみのもので、久々にかあらためてか、それを思い出し、確認しました。
そこのところが、初めに書いた、信者ではないのですが、イエスの生き方を幼い時からどこかであたりまえのものとして受け入れてきた自分のこの映画への感想がちょっと人とはちがってるのかも、と思うゆえんです。

◇ 性懲りもなく続けます。

私は、この映画見た時、何となく元気になったのですが、それは一言で言うと、「そうそう、こんなもんだった」「忘れてたけど、だいたいこういうことだった」みたいな感覚でした。
聖書の筋が、イエスの話が、ということでもあるのですけど、それと重なって、「そうだなあ、世の中ってこうしたもんだったんだよなあ。無茶苦茶で、理不尽で、残酷で、人は皆アホで、神の助けは来ないで、良心的な人は臆病で、何やったってだめなもんだったんだよなあ」みたいなことです。「あー、そのこと忘れてたわ。何を文句言って、ぐちゃぐちゃ落ち込んでたかなあ。まあだいたいこんなもんだったんじゃないか」みたいな。

私はキリスト教に親しんで育って聖書やイエスの話はだいたい知ってるのですが、しいて言うなら、復活とか神の国とかそういう「ごほうび」関係のことが抜け落ちてるんですね、感覚の中から。 だから、どんなに苦しんで人を救って正義を守っていいことしても、来世やどこかで何かいい目を見るって感覚がない。そういうこと言われると、「そんなのがほしくてやってんじゃないわい、見損なうなよ神さま」とまで言いたくなったりする。
私にキリスト教教えたのは一応母なんですが、この母もまた、ものみの塔の人が来た時、「終末が来たら、救われるのは信者だけ」とか言われて、「そんなけちくさいこと言ってないで、皆救ってあげないと私はいやだ」と言い返した人ですから、まあ私がこうなるのももっともなのかも。

ただ、そうした来世だか最後の日だかの審判もなく、ここのところはしっかり唯物論で、人は死んだらそのまま消えて霊魂なんかないと思ってるのに、それでもなおかつ、この世で何の報いもないのに、正しいことやいいことをしてひどい目にあおうってのは、やっぱりちょっと難しい。だから私は、こけたり挫折したり自己嫌悪になったりして、しょっちゅう失敗してますが、それでも、一応「この世で(そしてあの世でも)何の報いもなくても、いいと思ったことはしよう。言おう」と思って生きてます。

でも、いいことしたって報われないし、正義は勝たない。まあ、あまりそれが続くと、そもそもそれはいいことか正義かってことも点検しないといけないでしょうが、まあなかなかそううまくは行かない。

キリストの受難を見ながら、「あー、そうそう、こういう映像ほど鮮烈ではなくても、なーんかこういうものなんだよな、世の中って、という感覚があったから私、今みたいなことになってるんだなあ」ってことも、あらためて思いました。
「今みたいなこと」というのは、キャラママ(板坂)が「授業ノートコーナー」の「ぬれぎぬ願望の世界」って章で書いてることなんですが、キャラママも私も、成功してる人、人気のある人、幸福な人、会社の社長、王侯貴族、大金持ち、大スター、有名人を見ると本能的に「ろくなやつじゃないなあ」と思ってしまうのです(笑)。逆に、死刑になる人、牢屋にいる人、縛られてる人、鞭うたれてる人、貧乏な人、嫌われてる人、ホームレスになってる人などを見ると、もうほんとにとりあえずとっさに、「何かいいことをした人にちがいない」と思ってしまう。

そうじゃない例も、どっちの場合も山ほどあります。それは知っていて、それでもほんとに、とりあえずそう思う。名誉や名声、財産、地位は私にとって、汚れた手、切り捨てた良心や感情の象徴だし、没落や不遇や刑罰は、勇気や愛情、何かを裏切らなかったことの結果でしかない。
その感覚の根底には、キリストのこの姿があるなあと十字架をひきずって歩いて行くカヴィーゼルを見ながら、あらためて確認していました。その後、イプセンの「民衆の敵」も読んだし、革命や社会主義についてのさまざまな文学や文献も読んだし、何よりほとんどの文学は、そういう「多数の人に疎外され、権力に憎悪される」生き方を描くものだから、そういう分野のことしてると読むもの聞くものすべてに、いわば「洗脳」されますが、それにしても、その原点はイエスのこの姿だなと。しかも唯物論者まがいで、無神論者の私としては、最後の「復活」アイテムがつかないままの殺されっぱなし、滅びっぱなし、苦しめられっぱなしの姿として、「正しいもの」「よいもの」を刷り込まれ、それでもやんなきゃならないものだ、正しいことは、よいことは、みたいな感じできてるなあと。

いいことをしたら、いいことがある。正しいことをしたら、ごほうびをもらえる。その感覚が私にはありません。
いいことをしたら、ろくなことはない。正しいことをしたら、ひどいめにあう。そっちです。 そして、でも、それはしなきゃならない。自分が直接いいことはなくても、やっぱりそれをしないと、まずいことになる。そういう感覚がどこかにある。
こういう考えのあっちこっちに、イエスの姿は微妙にからみついています。
あらためて、それを思い出しました。そして、気楽になりました。
だめもとじゃねえか、そんなもん、って感じでしょうか。

えっと、まだまだ続きます(笑)。でも、今日はここまで。

◇また、「トロイ」にはまらない内に、「パッション」の感想を今夜こそしあげます。

前に私は、自分の「復活アイテムのない、殉教」について述べたのですが、もちろん何の報酬も結果も期待せず、よいことをするというのはなかなかできないことではあって、来世や復活、最後の審判に代わって何かを私が期待しているとしたら、それは「未来」とか「人類」とかいうものでしょうね。

あの、酸鼻をきわめた拷問や処刑になつかしさとまではいかなくても、どこかでなじんでる、慣れてるという感じがしたのは、社会主義や革命やレジスタンスを描いた映画や小説では、むしろこういう、正しい人が迫害され、誰にも知られず死んで行き、世界は何も変わらない、という筋やラストはそんなに珍しいものではなかったからです。むかーし読んだそういう左翼系の小説の中で、たとえば(多分キューバの話でした)「ベルチリヨン166」だったっけ、そういう話などもそうでした。何かが変わる、という話もあったけれど、何も変わらない、それでも人は抵抗し、戦った、という話を山ほど目にした気がします。それはきっとまた、現実の反映でもあったのだろうと思います。

そういう戦いに命をささげて死んでいった多くの無名の人たちは、キリスト以上に残酷に苦しみながら、キリストほどには誰にも知られることなく死んでいった人たちは、きっと未来を信じ、人間を信じたのだと思う。

かつて、生協が募集した主婦の方々の作文コンクールの下読みをしたことがあります。その時圧倒されたのは、環境や自然食品に関心を持ち、よりよい地球を作ろうと努力する母親たちのすべてが、もう言い合わせたように自然に、自明のこととして、「人類の歴史は続く」「世界も地球も滅びない」と信じていることでした。子どもを持つこと、母親になるということは、このように無条件に無前提に、人と未来を信じることなのだと腹の底から知らされた思いがしました。
自分が結婚しなかったこと、子どもを持たなかったことについて、いかなる後悔も劣等感も、その他どのような感情も私は抱いたことがありません。しかし、それはそれとして、やはりその時、自分の未来や人類への信仰、「この世を滅ぼしてはいけない、絶望してはならない」という思いは、どこか人工的で理性的であると感じました。母親というものは、子どもを持ったとき、本能的に根本的に、この世を滅ぼしてはならない、という以上に、滅びない、という姿勢にたつのではないか、すべてはそれを前提に考え、生きるのではないかと。
すべての母親がそうではないかもしれない。私のその時の実感もしょせんはある幻想かもしれない。ですが、ともかく、そのような無条件に強力な未来を信じる力というものは確かに存在すると、あの時感じました。

そのような実感は思想ともまた少しちがうのでしょうが…要するに神や来世を信じてなくても、未来や人類のために耐え抜いて滅びることは人には可能なのだと思います。
そういう人たちすべての生涯や最期の姿に、私はイエスを重ねて来ました。その人たちがイエスに見えるというよりも、イエスがそのような人たちに見える、そういう重ね方ですが。つまり、イエスを見つめていると、その人たちの姿が、誰にも見られず知られずに死んでいった、勇気ある優しい人たちの姿がわかるような気がするということですが。ナチスの収容所で、チリの刑務所で、ポルポト政権下の牢獄で消えていった、たくさんの人たちの面影などが。広島でも長崎でもベトナムでもイラクでも、焼かれて、苦しんで死んでいった膨大な人々の姿などが。

そういう点でも、あの拷問や処刑の場面は私にとって、ある意味、衝撃的ではありませんでした。「そうだったんだろうなあ」「どんなにたくさんの人がこうやって殺されて行ったんだろうなあ」と思いつづけていました。この、たった今でさえも。人間だけでなく、動物たちもまた。私に見えないだけで。見ようとしていないだけで。

あ、やっぱり今夜しあがりそうにない。いったん切ります。

◇ 何はさておき、「パッション」の感想を書いてしまいますね。

これまでに書いたことは、昔でも、昔の方がいっそうよく感じたことと思うのですが、年をとった今、この映画を見ると、昔は思わなかっただろう、ちょっと別のことも思います。

実はあの映画の中で、一番こたえたのは、へたばったイエスを助けて十字架を運ばされていた、行きずりの男が、ゴルゴタの丘が近づいた時、「もう少しだ、がんばれ」と(彼としては心から)イエスをはげます場面です。
ひょっと二回めを観る人がいたら、ここはずいぶんこたえるでしょう。私も知識としてしか知らなかったけど、それでもやりきれない気がしました。 たしかに、あの道は苦難の道なわけですけど、終わるのはありがたいわけですけど、でも、その終わりに待っているのが最高の試練で苦痛なわけで、あーもう、そりゃないよなー、勘弁してよとさすがの私も思いました。

がしかし、それは考えてみると、そのまま、私たちの人生であり、死への歩みでもあるわけです。
こんなこと書きたかないのですけど、自分がどんな死に方するかもわからないし、死んだ時、この文章を思い出されると思うと。でも書いてしまうのですが、かつて森村桂が、人間少々苦労があっても幸せに安らかに死ねばそれでめでたし(だから母の老後は幸福にしてやりたい、と続いてたのかな)とか書いていて、あたりまえすぎるぐらいあたりまえだから、かえって印象的な文句でした。
まったくその通りで、でもねえ…

皆がそう、幸福に死ねるわけはない。イエスのように、仮にどんなに救いのない死に方をしても、犯罪にまきこまれて残酷に殺されても、私はその死を、その人の人生の決算、しめくくり、代表、象徴とは考えたくない。たとえ自殺しても、たとえ狂死しても、そうでない幸福な日々があったら、その死をもって、その日々までが消えてしまうわけではない。そういう風に思いたいわけです。

そんな大層な悲劇的な死でなくても、普通に病院で死んでも、死ぬまでは大変です。
この数年、親しい人たちがたくさんなくなりました。私の年令からいったら、むしろ当然のことです。病気をかかえて、いつ死ぬかわからない人たちもいます。
程度の差こそあれ、その人たちの精神や肉体が衰えていくのを見てきました。さまざまなかたちで、手足が不自由になり、思考が鈍ってゆくのを。私自身が、日一日と肉体の衰えを感じています。それに抵抗し若さを保とうというのも不自然な気がして、私はそれをうけいれています。 人はそうやって、刻々死に向かって歩いて行くのだと実感します。そして最後には程度の差こそあれ、誰にでも死の苦しみが待っている。

キャラママ(板坂)は去年、親しい親族を亡くしました。死の数日前、病院で意識不明のその人が呼吸困難で苦しんでいる時、麻酔を使って苦痛をやわらげるかどうかが家族で問題になりました。麻酔を使えば苦痛はなくなる代わり、心臓の働きも低下して死が早まるというようなことだったと思います。キャラママは苦痛をなくしてあげた方がいいという意見でした。でも家族は少しでも長く生きさせてあげたいと思い、そういうようにしました。自分が口を出せる立場ではないから、キャラママはそれ以上主張しなかったし、それでいいと思っているそうです。

ただ、彼女がそういう意見を持ったのは、数年前に子宮筋腫の手術をした時、手術後の一晩が苦しかったことを忘れられなかったからだと言います。手術は成功、まったく命にも身体にも別状はなく、明日の朝には苦痛は去るとわかっていて、それでも、過ぎていく時間の遅さの一瞬一瞬に、彼女は「なぜ時はこんなに遅いのか」「夜は永遠に明けないのか」と、時計の音を聞くたびに、患者や看護婦さんたちの食事や体操などの決まった動きの物音が廊下から聞こえてくるたび、絶望しつづけたと言います。耐えられないほどの苦痛ではなかったはず、それでも時がとまってしまったかと何度も思ったと彼女は言い、あれがもし、もう回復の望みもなく、死しか先にないのだったら、その絶望と苦痛は倍化どころか底知れなかったろう、どんな人にもそんな思いはさせたくなかった、と言います。

彼女はその時、神のこともイエスのこともまったく思い出さなかったし、そもそも愛したもの、愛しているもののすべてをいっさい思いうかべなかったそうです。私と同じかそれ以上の無神論者の彼女ならそれはむしろ、当然でしょう。
ただ、その時にもし、もう回復の望みもなく、やがて訪れる死まで、この苦痛だけが間断なく続くとわかっていて、その時に味わう絶望の中で、もしもイエスを思い出したら、その苦痛は少しはやわらいだかというと、そういうことはあるかもしれない、と彼女は言います。

人は死に向かって歩いている。どんな人にも死は訪れ、短時間であれ何であれ、そこにはきっと苦しみがある。身体が回復する治療や手術ではなく、新しい命が誕生する出産ではなく、消えて行く、滅びて行くしかない、疲れはてて、苦しみつくした最後の最後に最も苦しい試練が待つ。
そこにたどりつくまでにも、路上で凍えたり、飢えたり孤独だったり、さまざまな苦しみがずっと続くのかもしれない。一気に死にたいと思っても、なかなかそうはいかなくて。

そんな時、何も悪いことはしなかったのに、むしろ人を救いつづけたのに、理不尽に、不合理に、苦しめぬかれ、さいなまれて、それでも人を愛することをやめなかった人がいると思うことは、「イエスだって、このような苦しみに耐えた。もっとひどい苦しみを味わった」と思うことは、励ましになり、なぐさめになり、自分は孤独ではないという心の支えになるのではないかと、映画を見ながら思いつづけていました。
耐えがたい悲惨にあい、救いがたい苦しみを受けるとき、この映画を見た多くの人は、この画面を思い出すのではないかと思いました。否応なしに。そしてそれは、おそらく苦痛ではないだろうという気がしたのです。

私がこの映画を見た感想は、おおかた以上のようなところです。(2004.8.4.収録)

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カツジ猫