江戸文学その他あれこれ4-文学史は作られる

1 それは人と時代が選ぶ

文学史というものは辞書や文学全集と同じように、人が作ったものである。世界の初めからあったわけでも、天から降ってきたわけでもない。

どういう作家と作品を選ぶか、どういう時代区分にするかは、人が考えて決めたものである。

それは、たくさんの人に知っておいてほしい知識を、できるだけわかりやすく効率的に伝えることを目的としているから、便宜上細かいことを切り捨ててまとめてしまうこともある。また、その当時の人々の趣味や傾向でとりあげられる作品もあれば、その逆もある。

たとえば、私が専門に研究している近世紀行は、量も多く質も高いのに、「おくのほそ道」以外は高校の文学史にはまず登場しない。しかし、今後の研究者の努力次第では、橘南谿「東西遊記」ぐらいは登場するようになるかもしれない。(「私の努力」と言いたいがもうトシなので、ちょっとそこまでは言い切れない。)

また、広島の原爆を体験した大田洋子という作家の伝記『草饐(くさずえ)』(江刺昭子著 大月書店)を読むと、日本の戦後の社会状況や政治状況で、彼女の小説「屍の街」などの原爆を題材とした文学が文学全集に収録されなかったりされたりで、彼女の心が揺れる様子がわかる。

そのように、さまざまな事情や要素を含みながら、現行の文学史や辞書や全集は作られている。文学を知るための手がかりとしては欠かせないし重要だが、それが絶対唯一のものと思ってしまってはいけない。

2 変化するもの、しないもの

文学史にとりあげられる作品は、おおむね、現代からみても非常に文学的にすぐれていると判断できるものと、その当時の人々に高く評価されてよく読まれたものである。「源氏物語」「平家物語」「おくのほそ道」「南総里見八犬伝」などは、そういう作品である。

将来、人間や日本人の好みが大きく変わったら、これらの作品のどれもが魅力のないものとして、誰からも読まれなくなり、ついには文学史に登場しなくなることもあるかもしれない。しかしまあそういうことはあまりないだろうと考えられるのは、人間の愛や憎しみや恐怖や誇りというものは、「源氏物語」「平家物語」の時代どころか、紀元前の叙事詩「イーリアス」「オデュセイア」の時代からさえあまり変わってはいないからで、こういう作品を読んでいると、人間はさほど変化も発展もしていないことがわかって、安心もがっかりもするだろう。

だから、そういう人間の行動や心情を巧みに描いた文学は今になっても残っているし、今後も残っていくだろう。しかし、当時の風習や常識、使われている言葉などが今ではわかりにくくなっているから、作品が充分に理解できないということはある。そこは当時の言語や生活の実態を知識として学んで、よりよく理解する努力は必要となる。もっとも理解できないままに魅力を感じることや、誤解して感動することもあるだろうし、その魅力や感動が嘘だとも言い切れないのが難しいところではある。

3 時空を超えて

上にあげたような、時代を超えて人々に理解され共感される作品は、実は人間の根本的で普遍的な部分を語っているからで、その時代の人にしか理解できない感覚や嗜好(だけ)を生き生きと語った文学は、時代が変われば忘れられ滅びてしまいやすい。しかし、文学史や文学研究というからには、そういう作品の魅力もまた、できるだけ理解して解き明かさなくてはならない。

そんなことをして何になるのかと言われるかもしれないが、時代や世界が変わったら、またそのような文学が求められるかもしれないし、またその時になったら新しく作ればいいじゃないかと言うならそれもそうだが、一から模索して作るより、昔の作品を知っていればかなり時間の節約になるだろう。また、今の時代や世界、自分が住む小さな国や町や村や共同体の中で、そこの規則や常識に縛られて、自分は異常だ、少数派だ、と思って苦しんでいる人にとっては、別の時代や世界では、まるでちがった規則や常識に基づいて人は生きていたのだと実感できることは大いに救いになるものである。

私自身も幼い時や若い時、人が嫌いではなかったが、孤独は大変好きだった。また女性だったが、誰かに守ってもらいたいとはまったく思わず、誰かを守る方がずっと好きだった。これはどちらも、当時の日本の社会では異常で不健全と扱われやすかった。私はそういう世間に合わせてはいたが、自分のそういう性格も好みも、ちっとも悪いと思っていなくて、変える気も全然なかったのは、さまざまな国の古典文学を読んでいたからで、よその国や遠い昔や広い世界では、私は全然変わりものではなく健全な普通の人間だと、どこかで確信できていたからである。

4 普遍化の功罪

ちなみに作家の開高健は、知らない外国に行って、その国を理解するためにホテルで本を読もうと思ったら、その国を代表する世界的に知られた偉大な作家の本ではなく、無名の二流の作家の本を買うとどこかで書いていた。すぐれた作家の作品は世界に通用するだけの普遍性がある分、一般的すぎて、二流の作家の作品の方が、充分に問題を普遍化できていない分、その国や世界の特質がよく表現されているからだそうだ。

5 私たちの役割

それから、「その時代によく読まれ好まれた」ということが文学史に残る作品の基準になるということは、未来にとっての今の時代もそうであり、私たちがどういう本を読み、どれだけ本を読むかということは、未来の文学史がどう書かれるかということにつながって行く。自分は文学が嫌いだし、文学史に影響を与えるような人間でないと思っていても、この時代に生きていれば誰でも未来の文学史を左右する。早い話が、あなたしかわからない魅力を持った名作が今の時代に書かれても、あなたがそれを読まなくて、誰もその魅力を理解しなかったら、その作品は闇の中に埋もれて、永遠に人類の目にとまらないものになるかもしれない。

今はどこのレンタルショップにもDVDがおいてある「ホテル・ルワンダ」という映画は、もともと日本では公開の予定もなく誰も知らない作品だった。ある無名の若者がこの映画にほれこみ、ネットで署名を集めるなどして全国の映画館で公開にこぎつけ、今ではすぐれた映画として多くの人が知っている。文学作品もまた、そういう人たちの支持や努力があって世に出ることは少なくない。

6 時代区分が生む錯覚

あと二つ、注意しておくことがある。
文学史の本では、どれも時代区分によって、作品や作家が並ぶ。そのように整理しないと覚えられないからしかたがないが、これだと、ついまちがいやすいのが、たとえば、江戸時代初期の人と幕末の人とはほぼ三百年の年齢差があり、その直前の中世の人や、その直後の明治の人の方が、それぞれにずっと近い時代にいるということだ。実際、一つの時代が終わった瞬間に皆が死んで生まれ変わるわけではないし、全員が記憶喪失になるわけでもない。中世に生れて近世に死んだ人、江戸末期に生れて明治に死んだ人というのは、当然ものすごく多い。

しかし、時代によってページが変わり、色分けされたりしている文学史を見ると、皆何となく、その時代でひとくくりに考えてしまいやすい。ジョゼフィン・テイのミステリ「時の娘」で、歴史上の人物の謎を解こうとしていた刑事が、信頼できる証言と思って考えていたトマス・モアが実は一世代後の人物で彼の発言は全部「伝聞証拠」にすぎない、と気づいてはっとする場面があるが、古い時代を扱う時には「同時代」「近い時代」ということに敏感でなければならない。

7 ジャンルの名称

また、少しわかりにくいのが、文学史によく出てくる「黄表紙」とか「浮世草子」とかいう、ジャンルの名称だ。これも、そう名づけるのがわかりやすいから、そうせざるを得ないのだが、実際には、今でも「ケータイ小説」とか「ボーイズラブ」とかいう名称が、一夜にして生まれるのではなく、一気にそういう作品が成立するわけでもないように、たとえば浮世草子とその前の仮名草子、黄表紙とその前の青本、またその前の黒本などとの差は、実際にはかなりあいまいで、ずるずるじわじわ変化して行くのである。

とはいえ、実際には、後でふりかえると、「あれが画期的だったな」という作品はあるもので、浮世草子だったら西鶴の「好色一代男」、黄表紙だったら恋川春町の「金々先生栄花夢」が、そういう作品だとされて、それ以後のものを浮世草子と呼び黄表紙と呼ぶ。しかし、その当時は、たとえば西鶴の作品でも仮名草子と呼ばれていたり、明確に区別されてはいない。

こういった文学史上の名称は、当時使われていた呼び名を使う。いきなり、「これ以後のこういう特徴のある作品はV38型のaタイプと呼びましょう」などと定義するよりは、ずっといいと思うけれど、それだけに、当時実際に使われていた名称と、文学史上の定義としての名称は、ごちゃごちゃになりやすい。そこのところも、何となくでもいいから、理解しておいてほしい。

(2014.10.29.)

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