江戸文学その他あれこれ9-危険な魅力

1 ヤバいかもしれない文学

もう十年近く前のことだ。勤務先の大学で、「平家物語」の授業をしていたとき、一人の留学生から質問を受けた。
「平家が亡んでしまったあとで、彼らについてこのような物語を広めることに対し、彼らを亡ぼした新しい支配者からの弾圧などはなかったのでしょうか?」
その時は何気なく「おそらく、平家は多くの悪業をはたらいたから、亡んで当然、という書き方をしているから、とがめられなかったのでしょうね」と答えた。しかし、後になるほど、その質問が気になりはじめた。それが積もり積もって、とうとう最近、国文学史の授業で「平家物語」にふれたとき、次のように語ってしまった。

「平家物語というのは、あれはヤバい文学です。何がどうヤバいかというと、平家は悪だから亡びて当然、と書いているように思わせて、実際には平家のした悪いことを全然書いていないことです。それでいて、なおかつ、読んだ(聞いた)人たちには、平家はたしかに悪かったと、しっかり思わせてしまうことです」
「つまり、平家がそんなに悪いことをしていないという検証をきちんとしたい人にはそれがちゃんとできる資料を、平家が亡びたのは悪いことをしたからだと信じたい人がそう思って満足できるかたちで世に残した。これが故意か偶然かと言えば、特定の作者がいない語り物として成立してきたんですから故意じゃないんでしょうが、見せたいものを全部見せながら、それをちがったものに見せてしまう高等魔術にはちがいない。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』でアントニーが殺されたシーザーの追悼演説を暗殺者たちの前でやって暗殺者たちを賞賛しながら次第に弾劾に切り替えて行く、あのテクニックを想起させるものさえあります。しかも、こっちの方がずっと大規模かつ高級」

そして、キツネにつままれたような顔をしている学生たちに、さらに説明した。
「『平家物語』の中で平家がやった悪行は、高位高官を独占した(そんなの今の政治でも珍しくない)、政敵を惨殺した(反乱を企てた相手なら当然)、スパイで市中を調査した(赤い服の子どもをうろつかせて、どこまで本当の恐怖政治ができたのか疑問)、神仏、天皇家、京都の市民をないがしろにした(既成の権力と対抗するためには当然の処置)などなど、たとえばローマや中国で暴君と言われた支配者たちに比べたら、どう考えても悪逆や非道とは言い難い」
学生たちは強い印象を受けたようで、「平家は悪くなかったんですね!目からウロコでした」的な感想文が続出した。そう簡単に納得されると、それはそれで困るのだが、乗りかかった舟だから、もう少し続ける。

2 枠組みの果たす役割

平家を語る時によく言われるのは、「おごる平家は久しからず」「平家にあらずんば人にあらず」の常套句だ。だが前者は「平家物語」の中にはない。冒頭の「おごれる者は久しからず」から変化したもので、いつ成立したかわからないが、「日本国語大辞典」の用例(初出を示すのが普通)では江戸時代の滑稽本が引かれているから、それほど古いものではないだろう。後者は「平家物語」の中にあって清盛の義弟時忠が言ったことばとされている。この人は平家の中ではわりと過激でそういうことを言いそうな人になっている。しかし、誰が言ったにせよ、これが事実であったとしてもこれまた、このくらいの権力者の暴言は今でも珍しくなく、「悪業」というほどのものだろうか。
平家が亡びて、もはや彼らの悪口を言い罪を暴くのに何の危険もなくなった時期に、とりあげられる悪業がこの程度しかないというのは、逆によっぽどいい支配者だったのではないかとさえ思いたくなる。

ジョセフィン・テイのミステリ「時の娘」(ハヤカワミステリ文庫)は、現代の刑事が入院生活のつれづれに、文学でも教科書でも「幼い実の甥たちを殺害した悪い王」と確定している英国王リチャード三世が行ったとされる悪事は甥の殺害も含めて、すべて彼を倒して次の王になった人物の捏造だと、綿密な考証によって確信する話で、これは実際に歴史学でもそのような見直しが行われつつあるらしい。ローマへの放火とキリスト教徒の大虐殺で暴君として知られるネロについても、後代の支配者やキリスト教徒たちによって定着した虚像の部分が大きいという。
このような、次世代の権力者による前代の権力者に関する歴史の改竄は他にもいくつもあるはずだ。しかし「平家物語」は、決して虚構がないわけではなく、作者たちの意図的な改竄(重盛や教経の美化など)はあるものの、平家の悪業については特に捏造していない。むしろ、戦闘の成り行きから偶然に大仏を焼いたことへの重衡の強い反省や、清盛の法皇への深い憤りを明確に記して、彼らの言い分を充分に伝え、その悪業を相対化している。
庶民はもちろん貴族も武士も皆、琵琶法師の語りに酔いしれて涙していたという中で、「亡ぼされた者たち」にこれだけ言いたいことを言わせて誰も罰せられなかったし禁じられなかったというのは、まあ諸外国でも共通する喜劇やアウトロー伝説の人気のようなものでもあろうが、ひとつにはやはり、「平家物語」が、いくら平家に同情し共感しても「彼らはおごって悪いことをしたから亡びてもしかたがない」という枠組みの中で、それを語ったからだろう。しかもその肝心の悪いことについては、ほとんど何も示さないままでだ。

もちろん、この枠組みは、それを否定するような事実がどんなに提示されていてもなお、その枠組みにしたがって受けとめられ、聞き手や読者が勝手に歪曲増幅してしまうという危険もはらむ。樋口大祐「変貌する清盛 ―平家物語を書きかえる―」(吉川弘文館)が詳細に検証するように、後代の文学では清盛は卑俗化されて行き、江戸時代の浄瑠璃「平家女護島」(近松門左衛門 一七一九)では徹底的に卑猥で無能かつ横暴な権力者として描かれた。だがその一方、橋本治「浄瑠璃を読もう」(新潮社)が「義経千本桜」(竹田出雲・他 一七四七)に関して、平家は悪だったのかという点について作者たちは強い疑問を提出している、と的確に読み解いているように、そういう疑問を生むしかけも、充分に「平家物語」には用意されている。
現代の多くのドラマで、清盛はおおむね肯定され美化される。斬新な解釈のように見えて、それもまた、もともと「平家物語」がひそかに(いや、大っぴらに?)さし出していた要素の自然な結実と言ってよい。

先にあげたミステリ「時の娘」の題名は「真理は時の娘」という古いことわざによっている。どのように糊塗され抹殺され偽られた事実も、時が経過すれば必ず明らかにされるという、このことわざを現実にして行くには私たち自身が真実を知り、過去と向き合うことを恐れず、たゆまぬ努力をするしかあるまい。
だが、ものごとにはさまざまな伝え方があり、真実にはさまざまな守り方がある。「平家物語」の完成に関わった有名無名多くの作者たちが期せずして作り上げた、「平家は悪という形式をとりながら、その長所や美点を伝えて残す」という表現も、その一つであり、同じ限界と危険を承知の上でなら、現代の私たちが時には利用していい手法かもしれない。

3 尾崎士郎訳のすぐれたテキスト

「平家物語」の、この高級テクニックを味わっていただくには、むろん、作品を読んでもらうのが一番いい。原文の文章は古典としては大変わかりやすいのだが、歴史的な記事もたくさん混じるし、人の名前も多いので、とりあえずダイジェストや児童文学でざっと読むのも悪くない。だが、これだと、その作者の解釈や好みもかなり入るから、全文の現代語訳が本当は何より望ましい。とは言え、まじめな解説付きの逐語訳では、原文以上の冗長さや退屈さに、きっとうんざりさせられる。
「人生劇場」をはじめとする大衆小説や歴史小説を多作した尾崎士郎は、そういう点で本当に理想的なテキストを残した。幼いころから琵琶を愛して演奏する中で、この物語とめぐり合った作者は、耳からの音を通して「平家物語」を血肉に溶かしこんでわが物にしている。冒頭の有名な「祇園精舎」の一段は、序詞として最初の原文だけを紹介するにとどめ、一気に平家一族の興隆の過程をたたみかけ、清盛の父忠盛のエピソードを、さりげない背景や解説の補充、くだけた会話文を駆使して、原作以上の躍動感ある場面にしあげる大胆さには、なみなみならぬ自信のほどが見てとれる。
それは全体を通して変わらない。過不足なく挿入される、状況把握のために必要な情報、現代風でありながら格調を失わないせりふ回し、さりげなく随所に追加される風景描写や心理描写、すべてが「平家物語」の各場面を読者に正確に伝えようとするサービス精神に満ちている。いちいち書いてもしらけるだけだが、たとえば、祇王を寵愛する清盛のもとへ新人白拍子の仏御前が押しかけたときの、使用人らの興奮ぶり、殺される宗盛の幼い息子副将や、救われる六代御前ら愛らしい少年たちのいじらしさなど、「平家物語」を愛した人ならではの想像をたくましくした、原作にない表現が、極上の調味料のように素材を味わい深くする。
その一方で、たとえば宗盛に制されて裏切り者の阿波民部を殺せなかった知盛について「唇をわなわなとふるわせながら」などと細かい描写を加えながら、その死の場面で石母田正「平家物語」(岩波新書)が注目して以降、知盛の代名詞のように有名になった「見るべきほどのことは見つ」の名文句は記されない。原作の愛読者にとっては、そのような発見もまた面白い。
何よりよいのは、先に述べたような「平家物語」の枠組みと内容の齟齬を、無理に統一したり、つじつまをあわせようとしたりせず、原作そのままの矛盾する要素を自然に残していることだ。原作の精神を感得しているからこそできることであり、だからこそ、原作に詳しい人も、またまったくの初心者も、安心してこの現代語訳を通して「平家物語」という作品の危険な魅力を存分に体感できるのである。
(二〇一五・二・二八)

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