江戸文学その他あれこれ11-義経主従について

源義経とその家来たちの絆の深さは「義経記」に詳しく描かれ、江戸時代の歌舞伎などでは、亀井(六郎)、片岡(八郎)、伊勢(三郎)、駿河(次郎)が四天王として名前が挙がる。その他、一の谷で道案内をしたのがきっかけで、義経に最後まで従う鷲尾三郎、京都での土佐房昌俊との戦いで落命する江田源三などがいる。よく言われるように、彼らは領地や戦闘集団を持っているのではなく、義経と個人的な信頼関係でつながっている。このような深い関わりは、木曽義仲と部下たちにもあったが、義仲の場合には木曽という共通の故郷という要素もあるのに対し、義経の場合は京都や平泉などの広範囲にわたる各地で、それぞれ別の事情で主従関係を結んだというのが、いっそう個人的で純粋なつながりという印象を受ける。

その彼らが「平家物語」の中ではあまり目立たない中で、比較的よく登場しているのが、この屋島の戦いということは前に述べた。中でもひとつの章のタイトルにもなっている「嗣(継、次とも)信最後」が、そのクライマックスとなっている。
義経と言えば思い出される武蔵坊弁慶は、「義経記」では大活躍しているが、「平家物語」では、名前が何度か出る以外は何も記事がない。むしろこの屋島の合戦で「元は鈴鹿山の山賊だっただろう」と敵(平家方)に言われている伊勢三郎義盛が、戦闘なしの交渉で阿波民部重能の息子教能を降服させて捕虜にして、後の重能の平家への裏切りの原因を作り、壇ノ浦の合戦を勝利に導き、平家を滅亡させるという、考えようでは最高の仕事をやってのけている。義盛の何だか怪しい過去と、この交渉術の巧みさは、よくマッチもしているし、そのようなしたたかな男を使いこなしている、義経という人物の魅力にもつながっている。
義盛のようなしたたかで生命力にあふれた家来とともに、ここで描かれている継信のような、まっすぐで率直に生きて死んだ家来を有していることも、義経の幅の大きさや懐の深さを示すのだろう。出自や性格がばらばらで、伝統や規範にもとらわれることのない人びとを統括し活用できていることが、義経の指導者としての力量をおのずとあらわしている。今の大方の見解では、彼は京都で後白河法皇を中心とする天皇家と貴族にとりこまれすぎて、鎌倉の頼朝の不興をかったということになっていて、それは事実に近いだろうが、それにしても、拮抗し対立するややこしい二大勢力と一応一定の時期、バランスをとってつきあっていたことを思えば、義経の政治的能力は決して低くはない。

佐藤継信に話を戻すと、彼は弟の忠信とともに、元来は奥州藤原家の家臣であり、福島信夫の里(現在は原発事故の影響を受けている地域であるのが私の気持ちを重くする)を支配していた豪族、佐藤庄司元治の息子である。つまり、義経の部下たちの中では最も家柄のはっきりした、言ってみれば由緒正しい武士である。
更に彼の母(庄司の尼と呼ばれている)は、熊野の出身で、昔、義経や頼朝の父で源氏の棟梁でもあった源義朝と愛しあった女性でもあった。彼女は平治の乱で源氏が平家に敗北し、義朝も殺された後、奥州へ行き、佐藤元治の妻になって継信と忠信という二人の兄弟を生む。「古活字本平治物語」には、義経が平泉へ行く途中に立ち寄った信夫の里で庄司の尼に歓迎され、二人の息子を家来にしてくれと頼まれる場面が描かれる※。

庄司の尼はその時に「兄は酒をよく飲むし気性も乱暴なところがあるが、弟の忠信は温和できっとよい家来になります」と言っている。兄の十郎が優雅でおとなしく、弟の五郎が元気な乱暴者だった曽我兄弟と逆に、こちらは兄の方が荒っぽく、弟の方が穏やかな性格だったらしい。
継信の最後は、平家の猛将能登守教経が義経をねらって射た矢を、義経の前に立ちふさがって身体を楯に主君をかばって死んだという、自分でも死に際に言っているが、武士としては申し分のない、思い残すことはないような死に方である。そのような死に方も最後の義経とのやりとりも、尼が語ったような酒が強くて乱暴な、しかしまた弁慶や義盛とは少しちがう武士の家に育った若者の人柄をよくあらわして、さわやかな印象を生む。
弟の忠信も、のちに頼朝に追われて逃げる義経一行が吉野山で僧兵にせまられた時、一人残って義経の名を名乗って敵と戦い(これに、親孝行な狐の話を織り交ぜたのが浄瑠璃「義経千本桜」である)、後に京都で死ぬ。兄弟には妻子があり、やがて頼朝の追っ手をかわして平泉に逃げた義経が、その幼い息子たちを元服させて名付け親になり、それぞれ父の名の一字を与える場面が「義経記」に詳しく書かれている。また、兄弟の母の庄司の尼が、戦いから帰還する人々の中に我が子の姿がないことを嘆いたのを何とか慰めようと、二人の妻が夫のよろいかぶとで男装し、義母を励ましたという逸話が謡曲「接待」などに残されている。

「平家物語」には、優雅な悲しい場面とともに、勇壮な合戦場面が多く描かれる。それが通り一遍な描写ではなく、具体的に戦場の体験を生かしたことばで綴られるのが「軍記物」といわれるにふさわしい迫力をも生む。
中盤の木曽義仲の戦闘にもそうした要素は多いのだが、義経の登場する場面もまた、そういった具体的な臨場感にあふれている。
嵐の中、船頭たちを脅迫して強引に船を出させる場面でも、まずは船の修理が完成した祝いの酒盛りをすると見せかけて、船に荷物を積み込んで出発準備を整えさせる周到さ、嵐をついて到着した海岸で、船を渚に着ける前に、船を傾け馬を下ろして、乗馬して泳がせて一気に上陸して敵を攻撃するという指示の的確さ、いずれも戦闘に際しての指揮官としての彼の能力の高さを充分に示している。
「こういう時は来るはずがないと思って敵が油断しているからいいのだ。人がしないことをしてこそ勝てるのだ」という発言も、彼の信念としてふさわしい。少人数で一気に敵の大軍にあたる一見乱暴な作戦も、それなりの成算があってのことなのである。
屋島で平家が驚いて敵の人数の確認もろくろくせずに、船に乗って海に逃れてしまったのも、こういう「いつ、どこから現れるかわからない」義経という敵に対する一の谷での強力なトラウマがあったからで、義経にはそのようなイメージもまたすでに武器の一つとして成立していた。
ここで、平家が逃げたあとの建物に火をつけて焼き払ったのは、その前に名が出て来る後藤兵衛実基で「古つわもの」、つまりベテランの戦士だったから、そういう的確な判断がとっさにできたことになっている。そして、この火と煙とが、義経たちの人数の少なさをわかりにくくしたことも効果の一つだった。

義経と継信の別れのことばも、しめっぽくない涙をさそうし、義経の手厚い弔いに心をうたれて、「この主君のためなら命も惜しくない」と思った他の部下たち、とりわけ弟の忠信が、その後兄と同様に義経の身代わりとなったことを思うと、いっそう感動は深まる。継信の「あなたが栄える世の中を見ないで死ぬのだけが残念」「この浜辺で主君の身代わりになって死んだと、後代まで語られるのがうれしい」という最後のことばの前の方は実現せず、義経のそれからの日々を知らなかった方が幸せだったかもしれないと思わせる一方で、後の方は、まさに今この現在でも、継信が夢見たとおりに、彼の勲しは語られれて多くの人に伝えられているという喜びを私たちもまた味わうことができる。
だが、そういう言葉をかたることもないままに死んだ、教経に仕える少年菊王丸もまたかすかながら悲しい印象を残す。義経が継信のために嘆いたと同様、あの勇猛な教経が、悲しみのためにその日の戦をそれ以上しなかったということが、もうひとつの主従の強いつながりと悲しみを伝えて来るのだ。
容赦なく激しく戦う人々が、喪失した者に対して感じる悲しみの大きさ、そこに見られる彼らの人間らしさをも、継信最後の場面は鮮やかに浮かび上がらせる。

継信と忠信はどちらも時と場所こそちがえ、同じ主君に命を捧げた。その点では彼らは幸福であったかもしれない。
屋島へ向かう山中の強行軍の中、義経たちは京都の女性が平家の陣営に届ける手紙を持った使者をとらえる。大した内容の手紙でもなかったから、使者も殺さず彼らは先を急ぐのだが、「義経は『すすどき男』だから、くれぐれも用心して下さい」と書かれたその手紙を、義経は「天が私に与えたもの。兄の頼朝に見せよう」としまいこむ。
この手紙は頼朝の手に渡ったのだろうか。後に義経を遠ざけたとき、頼朝は「九郎(義経)は『すすどき男』だから、そのへんの床の下からでも今出てくるかもしれない」と言っているから、この手紙を見た(という風に「平家物語」は描いている)のかもしれない。だが、渡さないままになったかもしれない。
義経は、この手紙に書かれた「すすどき男」という自分の評価に満足していたのだろうか。そしてそれを「頼朝に見せたい」と思うのは、どういう心理だったのだろう。吉川栄治の「新・平家物語」やその他いくつかの義経関係の小説を読んでも、この挿話にはふれているものがない。ここには兄への自慢や自分のアピールといった意図もあるのかもしれない。だが、それとともに、何かひどく無邪気で無警戒な肉親への甘えのようなものも感じる。義経がここで思っているような、思いこんでいたような人間関係が、兄との間にあったなら、その後の二人の対立はなかっただろう。
「新・平家物語」の義経は聡明で慎重で、もはやこの時点では兄の頼朝に対し、うけいれてもらえない冷たさや、もどかしい悲しみを感じていて、その心境は複雑である。だからここでこうして、「兄上に見せようっと♪」と、ほいほい手紙をしまいこむような場面はたしかにイメージに合わない。だからこの挿話は黙殺されたのだろう。それはそれでいい。だが、私はここで義経が、自分のことを書いてある手紙を兄に見せようとしまいこむ場面に、妙に家族の絆のようなものを感じてしまう。継信や忠信と同様、ここにもまた兄弟がいたのだなとあらためて思う。義経の部下の中では、鈴木三郎と亀井六郎も兄弟なのであるが、そういう部下たちの様子を見ていて、義経は自分の兄たちのことも考えることがあったのかもしれないと、つい連想してしまったりする。
(2013.10.10.)

(以下はネットで検索引用しています。そのため、正確さについては確実ではありません。)

※古活字本平治物語より

ここに一年ばかりしのびておわしけるが、武勇すぐれて、山立(やまだち)、強盗を縛(いまし)め給う事、凡夫の業共見えざりしかば、「錐(きり)ふくろに達すといえば、始終は平家にやきこえなん」と深栖も申せば、「さらば奥へとお(通)らん」とて、まず伊豆にこえて、兵衛佐殿(ひょうえのすけどの)に対面し、この由を申して、「もし平家聞きなば、御ため然るべからず。されば奥へ下り侍らん」との給うに、佐殿「上野国、大窪太郎が女(むすめ)、十三の年、熊野詣りのついでに、故殿の見参に入り下りしが、父におくれて後、人の妻とならば、平氏の者には契らじ。同じくは秀衡が妻(め)とならん」とて、女夜逃げにして奥へ下りける程に、秀衡が郎等信夫小大夫(しのぶのこだいふ)という者、道にて行きあい横取りして、二人の子をもうけたなり。今も後家分を得て、ともしからであなるぞ。それを尋ねて行き給え」とて、文を書いて参らせらる。

すなわち奥へ通り給うて、御文をつけ給えば、夜に入りて対面申し、「尼は佐藤三郎次信、佐藤四郎忠信とて二人の子を持て侍る。次信は御用には立ちまいらすべき者なれ共、上戸(じょうご)にて、酒に酔いぬれば少し口荒(くちあら)なる者なり。忠信は下戸(げこ)にて、天性極信の者なり」とて奉りけり。多賀の国府に越えて、吉次に尋ね合い、「秀衡がもとへ具してゆけ」との給えば、平泉に越えて、女房に付いて申したりければ、すなわち入れ奉りて、「もしなしかしづき奉らば、平家に聞こえて責めあるべし。出し奉らば、弓矢のながき疵(きず)なるべし。惜しみまいらせば、天下の乱れなるべし。両国の間には、国司、目代(もくだい)の外(ほか)、みな秀衡が進退なり。しばらくしのびておわしませ。眉目(みめ)よき冠者殿(かんじゃどの)なれば、姫持たらん者は婿にも取り奉り、子なからん人は、子にもしまいらすべし」と申せば、「義経もこうこそ存じ候え。但し金商人(かねあきんど)をすかして、めし具して下り侍り。何にてもたびたく候」との給いければ、金三十両取り出して、商人にこそとらせりけれ。

※「俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡 芭 蕉 と 福 島」より

佐藤庄司について

佐藤基治夫妻と継信・忠信の墓
「おくのほそ道」で佐藤庄司と書かれた人物は、平泉の藤原秀衡のもと、信夫、伊達、白河あたりまでを支配していた豪族佐藤基治である。

初代清衡のころから、奥州藤原氏は中央の藤原氏の庇護を受けながら、荘園の名目で領地の私有化を進めていた。

基治は、その秀衡の私有地の管理を任され、荘園管理の職名を庄司と称したので「佐藤

庄司」と呼ばれ、また、丸山(館山)の大鳥城に居を構え湯野・飯坂を本拠としたため「湯庄司」とも呼ばれた。

佐藤継信・佐藤忠信兄弟と源義経

平治の乱の後、源義経は平清盛に捕えられ鞍馬山に入ったが、その後密かに平泉の藤原秀衡のもとに下り保護されていた。治承4年(1180年)になって源頼朝が挙兵した時、義経は平泉から奥州各地の兵を引き連れながら鎌倉に駆けつけ、福島からは基治の子、継信(つぐのぶ)と忠信が加わった。

基治は息子2人を白河の関の旗宿まで見送り、別れの時に桜の杖を地面に突き刺して「忠義を尽くして戦うならこの杖は根づくだろう」と言って励まし福島に戻って行った。それ以来、旗宿のこの場所は「庄司戻し」と呼ばれている。

継信と忠信は、父の願い通り平家討伐に偉功を挙げ、剛勇を称えられることとなる。兄の継信は、屋島の合戦で平家の能登守教経が放った矢から義経を守り、身代わりとなって戦死したが、継信の死は源氏方を勝利に導き、後の歴史に大きな足跡を残した。

弟の忠信は、頼朝と不和になった義経とその一行が吉野山に逃れたとき、危うく僧兵に攻められそうになるところ、自らの申し入れで僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させている。後に六條堀川の判官館にいるところを攻められ壮絶な自刃を遂げた。

その後、無事奥州に下った義経一行は、平泉に向かう途中大鳥城の基治に会って継信、忠信の武勲を伝えるとともに、追悼の法要を営んだと言われる。

佐藤基治と「源頼朝の奥州征伐」

義経は秀衡を頼って平泉に身を寄せるが秀衡は病気で没する。その後、秀衡の子泰衡は頼朝の命に屈し、家来の長崎太郎に義経を急襲させ、義経は高館で自刃した。頼朝は泰衡の義経討ち取りを武勲と見なさず、逆に奥州征伐の軍を起こした。佐藤基治は大鳥城から福島市南の石那坂に討って出て、激戦の末に生け捕られたが、頼朝が泰衡を討ち取った後に開放されたと伝えられる。

二人の嫁がしるし

継信と忠信の妻たちは、息子2人を失って嘆き悲しむ年老いた義母、乙和御前を慰めようと、気丈にも自身の悲しみをこらえて夫の甲冑を身に着け、その雄姿を装ってみせたという。この話は、古くは幸若舞曲「八嶋」や古浄瑠璃正本集「やしま」などでも語られている。

「おくのほそ道」にある、この「二人の嫁がしるし」は、妻たちの痕跡にあたるもの、すなわち二人の嫁の石碑(墓)や像を指すのだろうが、そのどちらも医王寺に存在したという確証がない。このことから、「二人の嫁がしるし」は、医王寺訪問の翌日、白石・斎川の甲冑堂で拝観した妻二人の木像のことで、「二人の嫁がしるし、先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと、袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。」は、当所にてあふれ出た情感が、そのまま「佐藤庄司が旧跡」の章段にスライドされたとする見方が通説となっている。

現在、医王寺の本堂にも甲冑姿の妻二人の像が安置されているが、これは昭和37年(1962年)12月に作られたものである。

二人の嫁の話は昭和初期までの国定教科書に掲載され、婦女子教育の教材となった。以下は「国定教科書高等小学校読本巻三女子用第十四課」より。

甲冑堂

奥州白石の城下より一里半南に、斎川といふ駅あり。此の斎川の町末に、高福寺といふ寺あり。奥州筋近年の凶作に此の寺も大破に及び、住持となりても食物乏しければ、僧も住まず。あき寺となり、本尊だに何方へ取納めしにや寺には見えず。庭は草深く、誠に狐梟(こきょう)のすみかといふも余りあり。此の寺に又一つの小堂あり。俗に甲冑堂といふ。堂の書付には故将堂とあり。大きさ僅かに二間四方ばかりの小堂なり。
本尊だに右の如くなれば、此の小堂の破損はいふまでもなし。漸うに縁に上り見るに、内に仏とても無く、唯婦人の甲冑して長刀を持ちたる木像二つを安置せり。如何なる人の像にやと尋ぬるに、佐藤継信・忠信の妻なりとかや。

これ今より百余年前、橘南谿が「東遊記」に記せる所なり。
継信・忠信は源義経の家来なり。平家の盛なりし頃、義経は奥州に下りて身を藤原秀衡に寄せしが、兄頼朝の兵を挙ぐる由聞きて、急ぎて鎌倉へ馳せ参じぬ。継信兄弟も従ひ行きしに、其の後義経京都へ攻上り、平家を追落して武成著しかりしかども、頼朝と不和になりて、再び奥州さして落延びたり。然るに継信は屋島の合戦に能登守教経の矢にあたりて斃れ、忠信も京都にて討たれしかば、同じく従ひ出でたりし亀井、片岡等の人々は無事にて帰国せしに、継信兄弟は形見ばかり帰りぬ。母は悲しみに堪えず、せめて二人の中の一人にても帰りたらばと、悲嘆の涙止む時なし。兄弟の妻は母の心根を察しやがて夫の甲冑を取出し、勇ましげにいでたちて、母の前にひざまづき「兄弟唯今凱陣致し候ひぬ。」と言ひしかば、母も二人の嫁の志を喜びて、涙をさめてほゝ笑みたりとぞ。
継信の、主と頼みし義経に忠なりしは、屋島の戦に教経の矢面に立ちて、主の命に代りしにても知るべし。義経は痛手を負へる継信をいたはりて「一しょにとてこそ契りしに、先立つることの悲しさよ。思ひ置く事あらば言へかし。」と言へば、継信苦しげなる息の下に、「敵の矢にあたりて主君の命に代るは弓矢取る身の習、更に恨あるべからず。唯、思ふ所は、故郷に遺し置きし老母の身の上なり。弟なる忠信をば行末かけて召使い給へ。」とばかり言ひて、やがて息絶えたり。今はの一言に、母への孝心、弟への友愛、之を聞ける兵も皆鎧の袖を絞りぬ。弟の忠信が吉野の山に踏止りて多勢の敵と戦ひ、義経を落してやりし武勇義烈は、兄にも劣らずといふべし。妻なる二人の婦人が、深き悲しみを押包みて母を慰めんとせし健気さ、雄々しさ、打揃ひての忠孝、世にもめでたき例ならずや。時の人の其の姿を木像に刻みて此の堂を建てしも、故あるかな。こゝに詣でし俳人の句に、
軍めく二人の嫁や花あやめ
卯の花やをどし毛ゆゝし女武者
明治八年、此の小堂は火災に罹り、像も共に焼失せたりとぞ。

医王寺について

薬師如来の別称「医王」を寺号とする医王寺は天長3年(826年)に開基された寺で、この地に温泉を発見した鯖湖親王を祭るお宮があったので地域の名が鯖野になったと言われ、医王寺は、これにちなんで鯖野の薬師と呼ばれる。

医王寺は佐藤一族の菩提寺として広く知られ、佐藤庄司夫妻の墓、継信と忠信の墓など、一族の墓が奥の院薬師堂の裏手にある。

佐藤庄司夫妻の墓の左側に、「乙和御前の悲しみが乗り移ったかのように西側の半分がつぼみのまま開かずに落ちてしまう」という「乙和の椿」の古木があり、瑠璃光殿(宝物殿)には「基治夫妻の使用した椀」、「弁慶の笈」、「弁慶直筆の経文」などの寺宝が展示されている。

※ウィキペディアの「佐藤基治」より

佐藤 基治(さとう もとはる)は、奥州信夫郡(現在の福島県福島市飯坂地区)に勢力を張り大鳥城(現在の舘の山公園)に居城した武将。源義経の従者佐藤継信・忠信の父である。

目次

  1. 概説
  2. 戦歴
  3. 死亡時期と行年
  4. 外部リンク

概説

奥州信夫郡の佐藤氏一族。信夫庄司と呼ばれていたが、飯坂温泉の湧く地であるため湯の庄司とも呼ばれた。奥州藤原氏2代当主藤原基衡の時代、康治元年(1142年)、陸奥守藤原師綱が信夫郡の公田検注を実施しようとした際に基衡の意を受けてこれを妨害し、のちに斬首された大庄司佐藤季治が父親に当たる可能性もあるが、各地の佐藤氏の家系図には見られない。『尊卑分脈』によれば従五位下左兵衛尉佐藤帥治の長男とする。佐藤一族の事跡に詳しい福島大学の客員教授菅野円蔵の著書『大鳥城記』によれば、基治の母は藤原公景の娘。妻は先に源頼朝の臣上野国の大窪太郎の娘を娶り、前信及び治清の二子があった。後基衡の弟清綱(亘理権十郎)の娘で秀衡のいとこに当たる乙和子姫を迎え奥州藤原氏と強固な関係を結んだ。さらに乙和子姫には、継信・忠信・藤の江・浪の江などの子があったが、その藤の江を秀衡の三男忠衡に娶わせ岳父として同盟関係を築いた。
歴史学者の角田文衛によると、当時としては珍しい佐藤一族の義経に対する熾烈とも見える忠節は、君臣の関係だけでは説明がつきにくく、義経が平泉時代に迎えた妻は、佐藤基治の娘でなかったかとする説を唱えている。飯坂の佐藤氏系図のひとつに基治女・浪の戸(源義経側室)とある。

戦歴

文治5年(1189年)8月、源頼朝が奥州討伐のため奥大道(奥州街道)を北上してきた際、一族の伊賀良目七郎らと石那坂(現在の福島市平石、もしくは飯坂)に陣をはり防衛した。『吾妻鏡』文治5年8月8日条によると、この合戦で基治は鎌倉方の常陸入道念西子息である伊佐為宗らと戦って敗れ、晒し首にされたとあるが、同年10月2日条によると、赦免されて本領に戻ったとされる。また、青森県石名坂館には、奥州藤原氏の家臣佐藤基治なる人物が、主家の滅亡に伴い、逃れてきたという伝承が残っている。
福島県白河市表郷中野庄司戻には、基治に由来する「庄司戻しの桜」がある。伝承によると、義経に従い鎌倉に赴く二人の子どもを見送り、別れる際に「二人の子どもがその忠節を全うするなら根付け。そうでなければ枯れよ」といって地面に杖を挿したが、立派に成長し見事な桜が咲いたという(現在は案内板のみ残る)。

死亡時期と行年

石那坂で戦死したとする資料が多いが、『信達一統誌』では生け捕りの後赦免され、後「大鳥城」で卒去したとあり、『大木戸合戦記』にも捕虜となり、宇都宮の本陣に送られたとある。
また、青森県石名坂館には奥州藤原氏滅亡の際に、佐藤基治が逃れてきたという伝承が残っている。
江戸期の書籍では

  • 佐久間洞厳『観述聞老志』- 文治5年8月4日:77歳。
  • 佐藤信要『封内名蹟志』 - 文治5年8月4日:75歳。

とあるが研究者によりまちまちで、生没年は確定されていない。

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