江戸文学その他あれこれ12-雨とロボット

1 境界線の位置

先日読んだ週刊誌の読者の投書の中で「自分の弟は国語の試験問題に出た文章に感動し て泣いてしまって答えを書く余裕がなくて点がとれなかった馬鹿だ」と書いてある記事が あった。たしかに国語の試験問題は当然ながら名文が多く、解答は別としてじっくり読み たくなることがある。それとは少し違うが、私は高校の頃の問題集に出ていた何かの随筆 の一部がいまだに気になって強く記憶に残っている。
それはたしか日本と外国の文化の違いについて述べたもので、日本人たち数人が月見の 宴をしようとして集まって騒いでいたら、一人まじっていた外国人がふしぎそうに「今日 の月には何かあるのか」とか聞いたという内容で、要するにそうやって皆で美しい月をわ ざわざ鑑賞しようなどという発想は西洋人には思いもつかないもので、そのように月を愛 し、自然を愛するのは日本人独特のものであるというようなことだった。何しろ三十年近 い昔のことだから正確ではないが、だいたいのところは間違っていないと思う。私は、こ の内容がまったく実感として納得できず、いつまでもわりきれない思いがしていた。私が 住んでいた大分の田舎は、夜が暗い分、星や月はまぶしいぐらい光って、よく屋根にのぼ って私は一人で月に照らされた村の景色や、空をながめて夜を過ごした。そんな時、私が 連想していたのは、いつも「ピ-タ-・パン」だとか「赤毛のアン」シリ-ズの中に生き 生きと描かれていた月夜の情景であり、シェクスピアの戯曲「ヴェニスの商人」のすべて が解決した幸福な夜に主人公たちが交わす、月夜についての軽妙な会話だった。あのよう な文学を生む人たちが、月の美しさを何で理解しないことがあるものか。私はそれを確信 していた。その気持ちが今も変わらない。
前にもどこかで書いたことがあるが、私はさまざまなことがらについて、ちがいよりは 共通点を見つけてしまう傾向がある。男と女、老人と子ども、動物と人間、そういうもの のすべてに。少なくとも、皆が境界線を引くところと私が境界線を引くところとは、多く の場合、くいちがってしまう。西洋と東洋という、多くの人がその間に境界線を引いても のごとを考えようとする、この場所にも私はなかなか線を引けない。同じことばを話すか ら、いつも近くで暮らしているから・・ そんなことは私と他人が理解しあえる何の保障 にも根拠にもなると私は感じない。おそらく私にとって一番太い境界線は、私一人の回り に・・・つまり私個人と全人類の間に引かれているだろう。それと比べれば、あらゆる境 界線は私にとって、そんなに太くも濃くもない。

2 中学校の教科書から

はじめに紹介した随筆のような考え方は、今でもよく目にするし、多くの本や雑誌に、 似たような内容の話は紹介されている。この大学の附属学校で使っている中学校の教科書 にも「日本を考える」という単元の中で、筑波常治(つくばひさはる)氏の「緑と青の自 然」という評論が紹介されている。氏はそこで日本列島の自然の持つ特色について述べ、 日本は自然に恵まれた国であり、だから日本人はヨ-ロッパ人のように自然を自分たちと 対立する征服すべきものとしてとらえなかった、それだけ生活の中に自然をとけこませて いた、ところがその一方で自然を保護するという発想もなく、それが今日の環境破壊とも つながったというようなことを述べておられる。これが結論としてはどのくらい正しいの か私は判断できないのだが、たとえ結論はある程度正確なものであったとしても、その過 程で述べておられる資料というか根拠には、読んでいてかなりこだわってしまう。氏はた とえば次のように言う。

日本の自然の特色をもう少し考えてみよう。日本人のだれかに「自然の色は何色か」 と尋ねてみると、いちばん多い答えは緑である。緑に次いで多いのが青であり、さら に茶色である。このことは何を意味しているだろうか。
自然界をいろどる緑の正体は、植物の葉である。つまり、日本人が「自然の色は?」 と聞かれて、まっさきに緑を思い浮かべるのは、日本の山野にいかに緑が多いかの表 れである。さらに、青を思い浮かべるのは、晴れた日の空の色が美しく、また、地上 にきれいな水が豊富にあることを表している。そして茶色は、いうまでもなく土の色 である。

理数系だろうと文系だろうと、ちょっとしたレポ-トだろうと卒業論文だろうと研究論 文だろうと同じことだが、論証のしかたとか資料の使い方とかいうものには、ある程度定 まった作法というものがある。それが守られていなかったら、やっぱり困る。しかし、な れない内は、それが守られてないことに気づかないで読んでしまうことも多いだろう。こ の文章だって、すんなり納得する人はするのだろう。しかし私なんぞは、これを授業で教 えなければならないとしたら、昔の私のようにひねくれた子がここで「同じ質問をヨ-ロ ッパの人にしたらどうなるんですか。やっぱり緑になるんじゃないんですか」と聞いてき たら何と答えようかとまず考えてしまうにちがいない。それは、まったく当然の疑問なの だから。
氏はまた、日本人が自然を人間の味方として考え、甘えることのできるものとしてとら えていた例として、日常生活の中に自然をとりいれて楽しんでいる次のような場合をあげ ている。

その一つの例として、衣服のことを思い浮かべてみよう。衣服の材料のことはさきに も触れたが、ここではそれよりも、衣服に描かれている模様に注目したいと思う。成 人式や結婚パ-ティ-などに着用する晴れ着の場合がいちばんはっきりしているが、 女性の和服に描かれている模様には、植物を図案化したものが圧倒的に多い。また、 衣服以外にも、ふろしきなどに、植物の模様がいろいろ使われている。

次に、住居について考えてみよう。(略)例えば、古い家や寺院のふすま絵などを見 ると、そこには、自然の風物がいかにたくさん描かれていることか。せいぜい油絵の 額が飾ってある程度の洋間の壁とは大違いで、日本人は、家の中にいても、自分たち の周囲に絶えず自然を置きたがっているわけである。

私はファッションにもインテリアにも詳しくはないが、小説や映画で見る限り、外国で も女性の服や小物には大抵、薔薇の花や草花の模様があるのではないだろうか。家につい ても壁紙やカ-テン、タペストリ-などを思い浮かべると、私の印象では西欧の方がむし ろ植物を多く使っているとしか思えない。紅茶茶碗や皿やポットまで含めると、緑の葉っ ぱや赤い実や、黄色や白の菊や蔓草、草原や森や空や雲の模様で、外国の客間や居間は埋 め尽くされている気さえする。
筑波氏は書いていないが、他のどこかでこれと似た見解を読んだ時、「西欧の場合は自 然を描いていても、その中に必ず人物が居て、人間の生活の営みを描いている。日本の場 合は風景だけを描くことが圧倒的に多い。外国人にとっては人間がいなければ自然ではな いのである。それが日本との違いだ」というようなことも書いてあったような気がする。 だが、これも、たとえば日本の江戸時代の名所図会などの風景画は、絶対に人を描くし、 まさに人間の多い景色が「美景」ととらえられているのが文章からでもよくうかがえる。 また、あまりに印象が強烈だったので個人的なことで書いてしまうと、私の心の中に今も 最高の幸福のような悲しみや痛みに近い美しさと懐かしさをもって残っているのは幼い頃 に誰かから貰って持っていた一揃いの外国製のカ-ドの風景で、それはどこかの庭園を描 いたものだったが、どの一枚にも人はいなくて、小鳥と花と木々だけがあった。その美し さが心に焼きついていることもあるが、それでなくても人がいない、あるいは人が少ない 風景は私の場合は日本よりも外国の方が自然である。私は外国で過ごした経験はないから それはやはり絵画や映画からくる印象のはずで、おそらく外国の絵画や美術品に日本に比 べて特に人が多いということはないのではないかと思う。
からみついでにからんでしまうと、筑波氏は「ひさかたの光のどけき春の日にしづ心な く花の散るらむ」という古歌をひき、「この歌には、サクラの花の散るのをおしむ気持ち がこめられている。しかし、だからといってこの作者は、サクラの散るのを遅らせようと して、何らかの手段を講じようとは夢にも思わなかったであろう。」、それはサクラのあ とでもまた次々にさまざまな花が開いていくという自然に対する絶対の安心感を示してい るのではないかと推測されている。だが、同じ時代の歌に「桜の花が散らないように大空 をおおって風をよせつけないようにする大きな袖があるといいのに」という意味のものも またあるのである。それは、ただの例えだと言っても、少なくともそういう「自然を何と かできればいい」という発想はレトリックとしてであれ、存在はしているし、結構、後の 時代にも引用されて人に気に入られている。
もうひとつこだわると、「気候が湿潤」「鮮やかな原色よりも、むしろ中間色が多い」 と氏が定義されている「日本」の中に沖縄や八丈島は入っているのだろうか。そこだって 日本だし、住んでいる人は日本人なのだが。それを無視した日本人論は問題だろう。また ヨ-ロッパと言ってもドイツとフランス、イタリアとイギリス、スペインとデンマ-クの 風土や国民性を一つにまとめて論じるのも、私にはほとんど無意味な気さえする。

3 「え?でも・・・」

さきに自然を緑と意識するのは日本人だけではないのではないかというくだりで、うっ かり「昔の私のようなひねくれた子が」と書いてしまったが、まあ、ひねくれていたって 別にいいのだが、このことであれ、他の今まで述べたことであれ、私が昔も今もこだわる のは、特に先生のあげ足をとろうとしているとか、物の見方が鋭いとか、そういうことか ら来るのではない。何度か述べたように、忘れられないほど印象深かった絵、長く親しん だ小説などが、どうかすると現実の体験以上に強く心に残っているので、それと矛盾する ことを聞くと「え?でも・・・」とうろたえてしまうことから、私のこうした疑問は始ま る。緑と自然のことにしても、とっさに「え?」と反応するのはレイ・ブラッドベリのS Fに「緑の地球」という短編があって、これは長いこと緑のない星に漂流して、光線銃か らほとばしる緑の光のその色だけに、なつかしい地球をしのびながら生きてきた男が、い ざ助けが来た時、地球には今はもう緑の色はなくなっていると聞いて絶望のあまり、その 事実を認めようとせず・・・という異様に恐くて美しい、とても悲しい話なのだが、それ を知っているせいだろうと思う。
同じような例を、もう少しだけあげておく。筑波氏のような見解を示した文章は本当に 見つけだしたら、どこにでも、いくらでもある。たとえば、無窮会図書館という私がいつ も資料を見せてもらって、お世話になっている図書館から出されている「東洋文化」(復 刊第六十九号)という雑誌に載った「日本文化の特質と日本人の表現」という中村昭氏の 論文にも次のような記述がある。

欧米人の自然に対する態度の特質は、自然の征服者としてのそれであり、客観的存在 として自然になんらの感情も移入しないというところにあると思います。欧米人は自 然は人間と断絶して存在し、征服しなければ征服されてしまうと考えます。最近の環 境保護の運動は、征服が進み過ぎたことへの反省ではないでしょうか。

筑波氏とほぼ同じ見解にたちながら環境破壊、自然保護についてはまったく反対の位置 づけになっているところが興味をひく。また、この他にも筑波氏のような見解をより豊富 な例をひきながら中村氏は説明しておられ、たとえばロボットについて次のように指摘す る。

ロボットの普及率は世界で日本が一番です。日本の工場ではなぜロボットが普及した のでしょうか。ロボットの導入による失業に対して日本の労働組合は柔軟です。労働 者の再教育による配置換えで対応するからです。職能別組合である欧米の労組は、ロ ボットの導入に烈しく抵抗します。それが大きな原因でしょう。しかしそればかりで はありません。基本的感情として、人間が作った機械によって人間が職場を奪われる など、欧米の労働者にとっては堪え難い屈辱なのです。日本人の心情の中には、人間 の作った工業製品でも、人間と同様に扱うという伝統的な考え方があってロボットの 導入を助けているというのも事実です。「百恵ちゃん」「聖子ちゃん」などという愛 称をつけて大切に扱っているのは、そういう心情の現れでしょう。日本人にとって自 分が使う機械は、人間によって作られた、人間より下等な、心理的に人間とは無縁な 存在ではなくて、それは、もう一つの自然であり、もう一つの人間であり、「物」で はないのです。(略)「刀は武士の魂」といった諺は、形を変えて今でも生きている のです。

また、「自然に対して情緒を感じ、自然に自己の感情を移入してみる見方」が日本人独 特のものであり、それは王朝時代のみならず現代にも存するとして、次のような話を紹介 している。

上前淳一郎氏の「読むクスリ」シリ-ズは楽しい読みものですが、その中の一つに、 次のような話が載せられています。テレビCF制作の鬼才Sさんは、若くしてパリに 渡り、ガイドをしておりました。いい男で長身で金まわりもよい。三拍子も四拍子も 揃った条件にまかせて、今日はパリジャン、明日はドイツ娘と楽しんでいましたが、 そのうち外国の女たちとつき合うことにも飽き飽きしてきました。つまらない、なに かが欠けている、という気がして仕方がない。或る日、あまり美人でもない日本娘と パリの街で知りあいました。義務みたいなつもりでアパ-トに誘いました。(以下原 文)翌朝、腕の中にいた相手が起きる気配で眼をさました。彼女はベッドから立って いき、窓のカ-テンを開けた。ふと、こちらに話しかけるでも、ひとりごちるでもな く、外を眺めた日本娘の口からつぶやきが洩れた。
「あら、雨ね。」
瞬間Sさんは、心臓をえぐられたような気がした。欠けていたものはこれだ、と雷に 打たれたみたいに気づいたのである。これまでにも、女と一緒に迎えた朝、雨が降っ ていたことは何度もある。しかし、どの女にも雨はただの雨にすぎなかった。いやな 天気、と舌打ちするか、傘がないことを心配するだけだった。しかし、この日本娘の 「あら、雨ね。」には単なる気象現象の説明を越えた、なにかがある。たったそれだ けの言葉の中に、性の陶酔のあともしみじみと続いている感情の交流のようなものが ある。そしてその感情は、お互いに同じ民族だからこそ、分かちあえるものなのでは ないか。男と女の間でいちばん大切なのは性ではない。その周辺に漂う感情なのだ。 ・・・「ぼくは日本へ帰る。きみと結婚しよう。」・・・二児の母になったS夫人は いまも彼にとって、いちばんいとしい人である。
「あら、雨ね。」この一言の中に日本の文化とヨ-ロッパの文化の違いが凝集され ていると私は思います。雨に感情を移入して情緒を感じる文化と自然物としてしかみ ない文化と。「あら、雨ね。」よきかな、日本娘。よきかな、日本文化。

そういうこともあるのかもしれない、と言っておく。哲学者ヘ-ゲルは「存在するもの には理由がある」とか言ったらしいが、とにかくこれだけ手を変え品を変え、いろんな人 が同じことを言うからには、そう言わせるだけの原因がやはり何かはあるのだろう。(と は言うものの、どうせ他人のことだし、幸福な夫婦になられたものを、私が口をはさむす じあいではないが、私は一読してこのS氏の行動は「何かちがうんだよなあ」という気が する。日本娘の一言に感動してプロポ-ズしたくだりではない。そこはもうどうでもいい ので、それまでの行動だか心理だかが、どうもS氏も上前氏も中村氏も、これはカッコい いことだと思っておられるような気がするが、私の感覚では遊びまわるところから空しく なるところまで、どこも全然カッコよくない・・・というか特筆すべきところはないと感 じられるのである。だから、この話を、ああ、不幸な人が幸せになってよかったねという 風にはとらえられても、それ以上には感じられない。いいかえれば、S氏が満たされなか った外国の女性が全然落第した不幸な人に見えないし、日本の女性が選ばれた幸福な人と 見えない。そう見えなくてもいいのかも知れないが、やはりこの話には少しそういうニュ アンスはないといけないのではないのですか。話す方の立場としては。いや、もうどうせ 好き嫌いで言ってしまうと、私だったらこういう男性は見た目がよくてもお金があっても 全然魅力を感じないし、ついうっかり寝てしまったら翌朝雨が降ってても陽が照ってても 気分は最低、何も言う気はしないと思う。それこそ「あ-、傘ないなあ」ぐらいしか。ま あ、いいんですけど、こういうことはどうでも。)私が「え?でも・・・」と、とっさに 次々思い浮かべる次のような例が、果たして反論になり得るのかも確証はない。ただ私と しては、はじめのロボットの例でいうと、では台風にキティとかジェ-ンとか名前をつけ たり、戦争の時落とす爆弾にもニックネ-ムをつけるアメリカ人の感覚はどう解釈すれば いいのかとか、自動車を擬人化した「ナイトライダ-」シリ-ズや、フランス映画などに しばしば見る飛行機やトラックをまるで魂を持った生き物のように生き生きと描く描き方 (アラン・ドロン、リノ・バンチェラ主演「冒険者たち」や、ジャン・ポ-ル・ベルモン ド主演「太陽の下の十万ドル」など。他にもいくらもあるだろうが。)や、バ-トラム・ チャンドラ-のSF小説「銀河辺境シリ-ズ」に見る女性よりも宇宙船を愛する宇宙船乗 りの男たちや、それに応じて人間そこのけにふるまう宇宙船やコンピュ-タ-などはどう 見たらいいのかとか・・・、ここでも、機械を人間のように愛する精神を外国文学から基 本的に学んだ気のする私の体験が、どうしてもこだわりを生む。特にロボットというと、 私は大方の人が好くブラッドベリより、ロバ-ト・シェクリィというSF作家が好きなの だが、その人の書いた「静かなる水のほとり」という作品などは、一字一句どうしようも ないほど好きで、こういうところで反論のためにひくのもいやなくらいだが、このような 作品が欧米で書かれ、読まれていると思うと、やはりどうしても中村氏の意見に無条件に 賛成はできない。
「静かなる水のほとり」は、ハヤカワSF文庫のシェクリィ短編集「人間の手がまだ触 れない」(この標題になっている短編も結構笑えてよい)に収録されている。

マ-ク・ロジャ-ズは探鉱者だった。放射能鉱石や貴金属を探しに、小惑星帯に行 った。岩塊から岩塊へと飛びまわり、長いこと探しまわったが、大量の鉱石を見つけ るにはいたらなかった。やがて彼は厚さ半マイルほどの岩板に住みついた。
マ-クはもともと老けてみえたが、ある時点からはあまり年をとらなくなった。光 のない宇宙空間にいたので顔は蒼白く、手はちょっと震えるようになった。彼は岩板 に、一度も会ったことのない女性にちなんでマ-サという名前をつけた。
ささやかな鉱脈を掘りあてたので、空気ポンプと小屋、数トンの土壌、それに水の タンクをマ-サに備えつけることができた。さらにロボットを買った。やがて仕事か ら引退して、星々を見て暮らしはじめた。
買ったロボットは雑用をこなす標準タイプのもので、組み込み式の記憶バンクと三 十語のヴォキャブラリィをもっていた。マ-クはそれを少しずつ改造していった。彼 は修繕が好きで、楽しみながら、自分にあわせて周囲の物を変えていった。

このように始まる。「はい、ご主人さま」といった簡単なことしかしゃべれなかったロ ボットをマ-クはだんだん改造して、少しずつ新しい言葉を入力し、簡単な応答もできる ようにして行く(最初に加えた改造は「ご主人さま」という語を取り除くことだった)。 そして、会ったことのない父親にちなんでチャ-ルズという名をロボットにつける。次の ような風景と生活の中で。

数年がすぎ、空気ポンプはすこし働きをつよめ、岩のなかに含まれた酸素を呼吸可 能な大気に変えることができるようになった。大気は宇宙空間に染みだしていき、ポ ンプはさらに働きをつよめ、さらに大量の大気を生みだした。
小惑星に撒いた黒土が耕され、穀物は育ちつづけた。天を見上げると、漆黒の宇宙 が河のように流れ、星々が河に浮かぶ点のように光っている。マ-クの周囲には岩塊 が漂い浮かび、その暗黒面からときおり星が見えるのだった。ときには火星や木星を ちらっと見ることもあった。一度など、地球を見たような気になったこともある。

自分との色々の応答ができるようにチャ-ルズの言葉をプログラムする時、マ-クはど うしてか、その個性を自分自身とは少しちがったものにしていた。たとえばマ-クは女性 を疑い軽蔑していたが、チャ-ルズのテ-プにはそういう気持ちを吹きこまなかったし、 自分は短気で冷笑的で皮肉屋なのに、チャ-ルズの性格は穏やかな気性の純朴な理想主義 者になっていた。そのようにプログラムしたロボットのチャ-ルズと彼は話をする。

「女性をどう思うね?」
雑用が終わると、小屋の外の荷箱に腰をおろして、マ-クはよく訊いたものだ。
「いや、わたしにはわかりません。あなたは適当な人を見つけるべきですね」
ロボットは忠実に、テ-プに吹きこまれたとおりを繰り返す。
「まだ立派な女性に出会ったことはないなあ」マ-クは言う。
「そんなことを言ってはいけませんよ。たぶん、よく探さなかったんじゃないのか な。どんな男にだって、自分にぴったりの女性はいるはずですよ」
「おまえはロマンチックだねえ」マ-クは嘲るように言う。
ロボットはちょっと口をつぐみ・・・そうプログラムされているのだ・・・クスッ と慎重に作られた笑みをもらした。
「かつて、マ-サという名の少女を夢に見たことがあります」チャ-ルズが言う。 「よく探していたら、その娘を見つけることができたかもしれませんね」
そして、眠る時間になるのだった。あるいは、マ-クがもっと会話をつづけたいと 思うときは、「女性をどう思うね?」とまた訊くのだった。そして会話はまったく同 じコ-スをたどるのだ。

だんだんチャ-ルズは古びてきて四肢は柔軟性を失い、配線は腐食しはじめ、修理にも 手間がかかるようになる。「錆びてきたなあ」とマ-クが笑うと「あなただって若くはあ りませんよ」とロボットは答える。そして更に日がすぎてゆく。

マ-サの上はいつも夜だったが、マ-クは時間を午前と午後と夜に区切っていた。 ふたりの生活は単純な繰り返しだった。野菜と罐詰の朝食をとり、ロボットは畑で働 き、穀物はそのやり方にあわせて育っていく。マ-クはポンプを修理し、水の補給を チェックし、傷ひとつない小屋を整頓するのだった。昼食。そしてロボットの雑用は たいがい終わっていた。

このように午後は暇になるので、二人は荷箱に座って星を見つめながら、夕食まで、時 にはもっと夜遅くまで、毎日いろんな話をする。
チャ-ルズがほとんどすべてのことに回答できるようになっていたので、次第にマ-ク はテ-プに自分がそれを吹き込んだことを忘れ、ロボットを同い年くらいの長い友人のよ うに感じ始める。そして次のような会話もする。

「わたしにはよくわからんのだが」とマ-クはよく言ったものだ。「なぜきみのよ うな人物がこんな所に住みたがっているのだね。つまり、わたしにとっては、ここは いい場所だ。わたしの心配をする者はいないし、わたしだって、誰がどうなろうと気 にはしないさ。だが、きみはなぜここにいるんだ?」
「ここでは、わたしは全世界を手にしているんです」チャ-ルズは答えたものだ。 「地球では、何千億の人々と世界を分けあわねばなりません。ここには、地球で見る よりずっと大きな、ずっと明るい星々があります。周囲には、まるで静かな河のよう な宇宙空間があります。そして、あなたがいます、マ-ク」
「おいおい、わたしなんかのことでセンチメンタルになるもんじゃない・・・」
「べつにセンチになったわけじゃありません。友情が大事なのです。愛はとっくの 昔に消え去りました。わたしたちふたりとも会ったことのないマ-サという名の少女 を愛したことは、ね。それは残念なことですが、友情は残っています。それに永遠の 夜も」
「たいした詩人だ」なかば感心して、マ-クは言ったものだ。
「ヘボ詩人ですよ」

この後は、原文をそのまま最後まで紹介しよう。(省略したこれまでの部分も本当は原 文で読んだ方がいいので、できれば原作をぜひ見てほしい。)時は更に過ぎて行って、マ -クも次第に年老いてくる。チャ-ルズをはじめとした機械類も古びてくる。

星々の知らぬうちに、時が過ぎ、空気ポンプはヒュウヒュウ、ガチャガチャと音を たて、洩れるようになった。マ-クはしじゅう修理をしているのだが、マ-サの空気 は次第に薄くなっていった。チャ-ルズは畑で働いたが、穀物は充分な空気を与えら れずに死んだ。
マ-クは疲れはて、重力の束縛がないのに這いまわることしかできなくなった。ほ とんどの時間を寝棚のなかで過ごすようになった。チャ-ルズは錆びつき、キイキイ なる四肢を動かし、最善をつくして彼を養っていた。
「女性をどう思うね?」
「まだ立派な女性に出会ったことはないなあ」
「そんなことを言ってはいけませんよ」
マ-クは疲れきっていたので、最期の時が近づいているのにも気づかなかった。チ ャ-ルズもそんなことに興味がなかった。しかし、最期はじわじわと迫っていた。空 気ポンプはいまにも壊れそうだった。食料がなくなって、もう何日もたっていた。
「それにしても、なぜきみが?」
「ここでは、わたしは全世界を手にしているんです・・・」
「わたしなんかのことでセンチメンタルに・・・」
「マ-サという名の少女を愛したことは」
寝棚からマ-クは最後の星々を見た。大きかった。これまでになく大きな星が、宇 宙空間という静かな河に浮かんでいた。
「星・・・」マ-クが言った。
「はい?」
「太陽は?」
「・・・いままでどおりに、いま輝いているように、これからも輝きつづけるでし ょう」
「たいした詩人だ」
「ヘボ詩人ですよ」
「女性は?」
「かつて、マ-サという名の少女を夢に見たことがあります。よく探していたら- ・・・」
「女性をどう思うね?星々をどう思うね?地球をどう思うね?」
そして眠る時間になるのだった。いま、永遠の眠りにつく時間がきた。
チャ-ルズは友の遺骸のそばに立ち、一度、脈をさぐってみた。そして、痩せおと ろえた手を下におろした。彼は小屋の隅に歩いていき、疲れはてた空気ポンプを止め た。
マ-クが用意したテ-プはひび割れ、あと数インチしか残っていなかった。
「マ-クがマ-サを見つけることができますように」
ロボットはしわがれ声で言った。
そして、テ-プは切れた。
錆びついた四肢を曲げることもできず、チャ-ルズは凍りついたように立ちつくし むきだしの星々をじっと見つめた。やがて、彼はこうべを垂れた。
「主はわが羊飼いにて」と、チャ-ルズは言った。「われは足らぬものとて何もな し。主はわれを緑の牧場に伏せ給う。主はわれを導き・・・」

4 雨の音

雨についても、そういう例はいくつかあげられる。ここではサルトルの戯曲「墓場なき 死者」(サルトル全集「汚れた手」所収)のラストに近い場面を引こう。第二次大戦中、 ナチスの支配下で抵抗運動をしていた数人の若者たちが逮捕され、拷問や死刑におびえつ つ極限状況の中で自分自身や友情や愛情の弱さや強さと向き合うという内容で、監房と取 調べ室だけが舞台となって話は進行する。(サルトルの考えてることの切実さはわかるけ ど、大学生の時これを見た私は何となく、本当の抵抗運動だの拷問だの裏切りだのって、 絶対こうじゃないだろうなあ、考えたり悩んだりしていることが、登場人物も作者もイン テリで繊細だなあと変に心配だったのを覚えている。)逮捕された若者の中にリュシ-と いう女性がいて、彼女は自分は取調べの時に強姦され、裏切りそうな弟は仲間に殺させ、 そういうことがいろいろあって頑なになり、最後に敵をごまかして生き延びる望みが出て きても、それをあえて拒否し、死ぬ決意を曲げようとしない。仲間たちも彼女を説得する のをあきらめた時、監房の外で雨が降り出す。

リュシ- あたしはカサカサに乾いた女。ひとりぼっちなの。自分のことしか考えら れない。
カノリス(やさしく)きみはほんとにこの地上のものに、なにひとつ心残りはないの かい?
リュシ- なんにも。すべてのものがけがらわしい。
カノリス じゃ・・・・
(あきらめたような身振り。憲兵たちのほうへ一歩踏み出す。雨が降ってくる。最初は軽く、間を置いて。やがて大粒な雨が篠つくように降り出す)
リュシ-(勢いこんで)なあに、あれは?(低い、ゆっくりとした調子で)雨。(窓 際へ行って雨が降るのを眺める。短い間)三カ月も前から雨の音を聞かなかった。 (短い間)ほんとに、ずっといいお天気つづきだったわ。怖ろしいことね。あたし にはもう思い出せなかった。太陽の下じゃなきゃ生きられないと思いこんでいた。 (短い間)はげしい雨。しめっぽい土の匂いがする。(唇がふるえだす。)あたし はいや・・・あたしはいや・・・。
(アンリとカノリス、リュシ-のそばに寄る)
アンリ リュシ-!
リュシ- あたしは泣くのはいや。けだものみたいになってしまう。(アンリ、リュ シ-を抱く)離して!(叫ぶ)あたしは生きるのが好きだった、生きるのが好きだ った!(アンリの肩にすがってすすり泣く)
憲兵(進み出て)さあ?時間だぜ。
カノリス(リュシ-をチラリと眺めやって)隊長にこういってもらいたい、しゃべり ますと。
(憲兵は出て行く。短い間)
リュシ-(我に返り)ほんと?あたしたちは生きて行くの?もうあの世へ行ったつも りでいたのに・・・あたしを見てちょうだい、笑い顔をみせてちょうだい。ずいぶ ん長いこと笑い顔を見なかったわ・・・あたしたちのすることは間違っていないか しら、カノリス?間違っていないかしら?
カノリス 間違っていないさ。生きなきゃならないんだ。

何か、こうやって書けば書くほど、不安にもなるし、空しくもなる。あまりにもわかり きったことを証明しようとしているような気がして。こんな例など、数えあげればそれこ そかぎりなくあるだろう(ヴェルレ-ヌの詩、モ-ムの小説などなどなどなど)。そうい うことを確認しないままで、欧米の文化とは雨を自然物としてしかとらえず、情緒を感じ ない、と言う主張がなされているのだろうか。それは信じられない。しかし、確認した上 で、そのような主張がなされているとしたら、それも私には理解できないことである。
海外生活の体験もなく、自由にあやつれる外国語もなく、外国の映画は字幕で、小説は 翻訳でしか鑑賞できない私にも、風土や習慣が場所によってどうしようもなく違い、それ が住んでいる人に大きな影響を与えることは理解できるつもりだ。しかし、それらについ て語る人々の、論理の上からもおかしい話の展開や、この私でさえ反証がたちまちいくつ か思い浮かぶ資料の集約のしかたは、前者は演繹、後者は帰納、いずれも論を展開する時 の基礎となる方法の上で、やはり問題があると思う。限られた資料から何かの結論を導か ねばならぬ苦しい事情のある場合もあるだろうが、充分に確認できないことについては結 論を保留する努力と勇気を私は持ちたい。さまざまな文化を比較する時に見えてくる違い の、それが本当に違いなのかどうかは充分慎重に検討したい。

(1992.10.20)

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