江戸文学その他あれこれ10-まりやと右衛門作

岩波書店「芥川龍之介全集」第十六巻の「月報」に書いた文章です。


高校生の頃、私が好きだった日本近代文学の作家といえば、芥川龍之介と三島由紀夫ぐらいだった。生活感や現実味のある文学が苦手だったから、虚構性の強い作品にひかれたのだろう。
自宅の二階にあった古い小さい本箱に、叔父の蔵書だったらしい芥川龍之介全集が三冊だけあって、幼い頃からそれをまんべんなく読んだ。昭和十年岩波書店発行のもので、末尾に近い巻ばかりだったから未定稿や断片が主に収録されていた。「動物園」という小品で、狐について「ふて寝だな。この襟巻め」と一行だけ記してあるのなど、どれだけ笑ったかわからない。
今その本が手元にあるので確認すると、第七巻の「小品」中、「わが散文詩」と題された六つの短文のひとつで「日本の聖母」という文章があって、これも強く印象に残っている。短いので全部引用しよう。

山田右衛門作は天草の海べに聖母受胎の油畫(あぶらゑ)を作つた。するとその夜聖母「まりや」は夢の階段を踏みながら、彼の枕もとへ下つて来た。
「右衛門作!これは誰の姿ぢや?」
「まりや」は畫の前に立ち止まると、不服そうに彼を振り返つた。
「あなた様のお姿でございます。」
「わたしの姿!これがわたしに似てゐるであらうか、この顔の黄色い娘が?」
「それは似て居らぬ筈でございます。────」
右衛門作は叮寧に話しつづけた。
「わたしはこの国の娘のやうに、あなた様のお姿を描き上げました。しかもこれは御覧の通り、田植の装束でございます。けれども圓光がございますから、世の常の女人とは思はれますまい。
「後ろに見えるのは雨上りの水田、水田の向うは松山でございます。どうか松山の空にかかつた、かすかな虹も御覧下さい。その下には聖霊を現す為に、珠数懸け鳩が一羽飛んで居ります。
「勿論かやうなお姿にしたのは御意に入らぬことでございませう。しかしわたしは御承知の通り、日本の畫師でございます。日本の畫師はあなた様さへ、日本人にする外はございますまい。何とさやうではございませんか?」
「まりや」はやつと得心したやうに、天上の微笑を輝かせた。それから又星月夜の空へしづしづとひとり昇つて行つた。・・・・

今でも覚えているが初めてこれを読んだ時、私はもう彼の今昔物語を題材にした「芋粥」だの、平安時代を舞台にした「羅生門」や「偸盗」だのを読んでいて、そのいくつかは大好きだった。そして、この聖母の話でとっさに「あれ、芥川は一応ちょっとうしろめたかったんだな」と感じ、「ちゃんとわかってやってたのか。だから自信があったんだ」とも思って、楽しさと満足を味わい、何となく安堵もした。

芥川は同じ巻に収録された「長崎小品」という短編でも、ガラス戸棚の中で会話する絵画や陶器が会話する場面を描き、日本製の皿や武具に描かれた麻利耶観音や南蛮女を軽蔑する、本当の阿蘭陀製の皿の絵の女を登場させる。その後やってきた人間たちが「日本出来の南蛮物には西洋出来の物にない、独特な味がありますね」「其処から今日の文明も生まれて来た。将来はもつと偉大なものが生れるでせう」などと言うので、本場の南蛮女(の絵)はひそかに悔し泣きし、麻利耶観音と基督像はほほえむ。これを読むと、「長崎小品」はもとより「日本の聖母」も(ともに大正十一年の作)、有名な「神々の微笑」(大正十年作)で芥川が強調する、「何でも日本風にして風土に同化させてしまう日本という国の強さ」の延長線上の文章にすぎないのかもしれない。

だが最初に読んだ時の印象が強すぎたのか、今でも私は「日本の聖母」には、作家としての芥川自身の心象風景を重ねてしまう。それは、リアルな現実を題材とするのではなく、遠い世界や遠い時代を舞台として現在の自分を表現し、当代の読者に訴えるものを書こうとする作家の悩みだ。「平安時代はこんなじゃない」「時代考証が正確じゃない」といった、自分の内面からさえ起こる忸怩たる不安、その一方で「書きたいのはあくまで今の自分と読者に関わることであって、単に細密な時代の再現をしたいんじゃない」という実感とのジレンマだ。そして、その結果生まれる右衛門作の言葉には、「神々の微笑」とはむしろ反対の、「マリヤやキリストの真の姿(ここではそれはキリスト教そのものではない、読者に伝えたい、作者が表現したい何か)を伝えようと思ったら、一見それとはかけはなれた、あくまで私の作品にふれる人たちに受け入れられやすい姿にしなくてはならない」という強い確信さえ見えるのだ。

私のこの感触が芥川研究の上で正しいかどうかはわからない。だが、今ふりかえってみると、「日本の聖母」はいつも私の心のどこかにあって、ひとつの拠り所となっていた。
大学時代とそれ以後、ジュニア小説を書いていて、年に何度か雑誌に掲載してもらっていたことがある。だが、いわゆる学園物が苦手で、行ったこともない外国や古い時代を舞台にした話ばかり書いていた。風景描写も生活描写もそれこそ適当にでっちあげて書きながら、「たとえ描写が偽物でも、伝えようとする内容は真実だ」と開き直って落ち着いていられたのは、この小品のおかげだった。
その後も研究者として読者として、さまざまな文学にふれ、「不自然」「自然」「リアル」「虚構」といった問題を考える時、この作品は知らず知らず、しばしば私の基準になった。
克明な考証をして正確に描いていても、その結果登場人物のすることがあまりに今の感覚とは落差がありすぎて、観客や読者が感情移入できない作品がある。一方で、あまりに現代的な行動をとる古代人や、人間臭すぎる宇宙人に、しらけてしまって作品世界に入り込めない場合もある。このかねあいは難しく、外国映画の歴史大作、NHKの大河ドラマをはじめとするさまざまな作品の評価にまつわって、今でもよく議論される。「まりや」と右衛門作の交わした会話は、現代でも決して古びてはいない。

私は、これを授業にも使った。「比較言語文化概論」という講義の「キリストの目の色」という回の中で、さまざまなキリストの画像がユダヤ人に多い黒目黒髪でなくて、金髪碧眼なのは、欧米の家庭に受け入れられやすい姿だったからだろうという考察をして、人は皆、自分たちに最も親しみやすいイメージでキリストやマリアを受け入れるという例に、「日本の聖母」も資料に引いてしゃべった。
そうしたら、そこではたと気がついた。右衛門作に抗議しに天から降りてきた「まりや」は、芥川のイメージではおそらく欧米の絵画によくある金髪、青い目で肌の色は白かったのではないだろうか。そうだとしたら、その「まりや」だって、天上に戻ったら、黒目黒髪の小柄な女性が留守の間にやってきていて、その女性から「ナザレから来たマリヤと申しますが、あなたのそのお姿に関してちょっとお話が」とか言われたりしないのだろうか。

「神々の微笑」で芥川は、何でも日本風に変えて吸収消化してしまうのが日本の特性で、キリスト教もいずれそうなるだろうと、日本の古代の神々にも似た姿をした「この国の霊の一人」と名乗る老人に予言させた。このような力を、日本独特のものとして、誇る人や畏怖する人は多いようだ。「神々の微笑」の老人の態度は、のんびりとのどかで、そういった日本の誇りや日本への畏怖といった感情とはあまりそぐわないようにも見えるのだが、そのことはさておいても、私には実感としてそういう日本らしさというものは、いつもあまりよくわからなかった。
キリスト教について言うなら、そもそもキリスト教自体がキリストやマリアの外見も含めて、イエスがナザレで広めた時とは異なる要素を多くつけくわえ、欧米でうけいれやすいように変化させてきたものではなかったのか。それは世界中いつでもどこでもあることで、それぞれの国や時代の特徴はあっても、それ以上の日本独特のものと言い切る自信が私にはない。

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