江戸文学その他あれこれ2-引きとめられてしまう人
(ええと…こんなこと書かなくてもいいかとは思うのですが、念のために言っておきますと、「菊花の約」のネタばれです。読んでない人は気をつけて下さい。笑)
1 それはどっちでもいいのだが
上田秋成「雨月物語」は江戸時代後期の怪奇小説短編集で、中でも「菊花の約(ちぎり)」の一編は特に有名だ。深い友情に結ばれて再会を誓って別れた青年二人の一方が、権力者の命令によってとどめられ、約束の日までに帰れないため、自害して魂魄となって友のもとを訪れるという物語で、研究者の論文でしばしば問題にされたのは、「この二人は男色つまり同性愛の関係にあるのか、それともただの深い友情なのか」ということだった。これといった結論も出ないまま、最近ではあまり議論されなくなっていて、私もそれはどっちでもいい。ただ初めて読んだ時から何となく、この二人の青年の内、年上の方の宗右衛門(自害して魂になって帰って来る人)に対して抱いていた印象は「えらく、どこに行っても引きとめられてしまう人だなあ」ということであった。
2 ばっさり切り捨て
彼はもともと出雲の人で塩冶掃部之介という殿様に仕えていた。仕えていたと言っても軍学者としてだから、先生とか顧問とかアドバイザーとかいう感じだったかもしれない。で、さぞかし信頼されていたのだろうが何かの密命を帯びて近江の佐々木氏綱の城に行く。
ところが、そこに滞在中に故郷の出雲ではクーデターが起こる。尼子経久という武将が、塩冶掃部之介のいた富田城を襲って勝利し、掃部之介は討死し経久が新しい城主になったのだ。
宗右衛門が派遣されていた近江の佐々木氏綱はもともと出雲の領主で、塩冶掃部之介は代官のようなものだった。だから宗右衛門は、このクーデターに対して何らかの行動を起こすよう氏綱に進言する。
だが氏綱はそれをしない。なぜかというと彼は「外見は勇ましそうだが内心はヘタレのバカだから」だと宗右衛門は言う。
「経久を亡ぼし給へ」とすゝむれども、氏綱は外勇にして内怯(おびえ)たる愚将なれば果さず。かへりて吾を国に逗(とど)む。故なき所に永く居らじと、己が身ひとつを竊(ぬす)みて国に還る路に、
氏綱には何か事情があったのかもしれないし、実際に宗右衛門がこうやってばっさり切り捨てるような見かけ倒しの愚将であったのかもしれない。だが、どっちにしても自分の領国でクーデターが起こって代官が殺され城が乗っ取られ、そこから派遣されて来た人物が「何とかしなさい」と言っている状況は、氏綱としてはうっとうしいだろう。ところが彼はここで宗右衛門を殺したり放逐したりしないで、自分の国にとどめておこうとするのである。そして宗右衛門もまた主君も居城も失っているのに、ひきとめられてラッキーとか思わずに、「とどまる理由もないところにいたってしょうがない」と単身帰途についてしまう。主君を滅ぼした敵しかいない故郷に向かって。
3 かぐや姫タイプ
宗右衛門がこの話をしているのは、もう一人の青年、深い友情を結んだ相手の左門である。彼が自分の都合のいいように話を作っていないとすれば、彼自身が気づかずにここで話しているのは、彼自身と彼の生き方の、ものすごいカッコ良さである。主君が死んで後ろ盾が何もないのに、主君の主君に向かって「代官が殺されたのだから、あなたが反逆者を放置するべきではない」と堂々と進言する。そうしたら主君の主君は怒りもせず、明確な対応をしないまま、彼をそのままそばに置こうとし、それに対して彼は感謝も安心もする気配はゼロで、「こんなところにいたってしかたがない」と、さっさと立ち去る。
こういう人のことを私はかぐや姫(高畑勲監督の映画のじゃなく、もともとの原作の)タイプとひそかに呼ぶのだが、まるで未練なくお月様の世界に戻ってしまう無欲さが、相手や周囲にはひたすら切ない。自分にはそれほどの魅力も価値もないのだなと、痛切に思い知らされる。
4 旅先でも
宗右衛門はその帰途の途中で熱病にかかり宿で寝ついてしまう。この話は戦国時代のことだが、江戸時代でも一人旅の旅人にはこうやって病気になったり死んだりした時に困るから、誰もめったに宿は貸さない。戦国時代だってそうだったはずだが(というか、このへんは秋成は江戸時代のノリで書いてる気がする)、ここでは宿屋でもない普通の家の主人が、「士家の風ありて卑しからぬと見しまゝに」宗右衛門に宿を貸してしまって病気になられ、「しまったなあ」と後悔しながら、それでも追い出せずに置いている。少なくとも宗右衛門には宿を頼んだ時に、「この人なら心配ない」と主人に思わせる、品格、風格、愛嬌、魅力、何かそういうものがあったのだ。
そこにたまたま、この里で老母と二人で暮らしていた学者(原文では「博士」)の左門が訪れて、主人にも客にも同情して看病し、やがて回復した宗右衛門とふだん周囲の人とはなかなか話せない学問の話などして、親しくなりついに義兄弟の誓いをする。老母も喜んで家族のように宗右衛門を大事にする。
宗右衛門も幸福なのだが、そこはかぐや姫だから月の世界ならぬ故郷の出雲が気にかかるから一度帰って様子を見て来ると言う。そして左門と九月九日の菊の節句に必ず帰ると約束をして出雲に向かう。
ところが出雲ではもう新城主の経久が、すっかり人心を掌握し、塩冶掃部之介の仇をとろうという人はいなかった。宗右衛門は従弟の赤穴丹治の城を訪ねてみたが、丹治も「経久に仕えた方がいい」と現実的な判断をいろいろ述べて、宗右衛門を経久と引き合わせる。
5 またかい(笑)
断っておくが、この文章は全然研究論文ではない。だから思い切り私の好き勝手に色眼鏡をかけて読むのだが、ここでも丹治としては、「旧主の仇をとらないのか」という感じでやって来た宗右衛門を、危険人物ですと言って経久にさし出してもよし、「宗右衛門、もう塩冶様の時代じゃないって。あんたは過去の人。がははは」とか笑って宗右衛門を追い返してもよし、要するにいやなやつとか、かねてからのライバルとか思っていたら、いい機会だから縁を切って葬り去るだろう。
なのに丹治は、彼なりに親身になって宗右衛門の再就職の世話をしている。なかなかいい人ではないか。いい人でなくて、小心者の俗物のエゴイストだったとしても、その彼がこんな親切をするのは、やっぱり宗右衛門にそばにいてほしいからだろうし、この人を新しい主君の経久に紹介すれば、気に入ってもらえるし自分の点数も上がると判断したからだろう。
色眼鏡をかけてと言いはしたけれど、丹治がこんなことをするそれ以外の可能性は私には考えられない。つまり宗右衛門は、大変魅力的な人なのだ。誰もがそばにいてほしい、自分のものにしておきたいと思い、自分だけじゃなく、他人もきっと、そう思うだろうと思うほどに。
6 たまらんよなあ
実際、ひきあわせられた経久は宗右衛門を気に入ったようだ。問題は宗右衛門の方が経久を気に入らなかったことで、彼(の幽魂)は左門に向かってこう語る。
仮に其詞を容(いれ)て(一応、丹治の言うことを受け入れて、経久に面会して)つらつら経久がなす所を見るに、万夫の雄、人に勝れ、よく士卒を習練(たならす)といへども、智を用うるに狐疑の心おほくして、腹心爪牙の家の子なし。
例によってもうばっさり否定である。「万人に一人と言っていいほどの英雄の器で、兵士たちも充分に支配できているのだが」と、冷静にちゃんと評価するところはしているのが逆に恐い。だからいっそう「計略や政策を行うにあたって疑い深く人を信じないから、本当に心から仕えている家臣はいない」という観察がとどめをさす。
一回会っただけでそこまで見抜かれたらたまるまい。もちろん宗右衛門はそんなことを口に出しては言うまいが、経久もバカじゃないからそれこそ「狐疑の心」で鋭く察しただろう。あ、見抜かれた、自分はこいつの眼鏡にかなわなかったなと。
で、またしても宗右衛門は「ここにいてもしかたがない」と、あっさり経久と故郷に見切りをつけて、正直に「義兄弟の家族と暮らします。九月九日に帰ると言って来ましたので」と言う。そうしたら経久は「怨める色」があって、丹治に命じて宗右衛門を城に幽閉してしまう。
永く居りて益なきを思ひて、賢弟が菊花の約ある事をかたりて去(さら)んとすれば、経久怨める色ありて、丹治に令し、吾を大城の外にはなたずして、遂にけふにいたらしむ。
7 瞬殺状態の魅力とは
氏綱、左門、丹治、経久。会ったすべての人から宗右衛門は、「ここにいて欲しい」と願われている。ひょっとしたら宿の主人もそうかもしれない。この人泊めてあげたいな、一夜ぐらいは、とか思った可能性がある。
一時的にも手放したのは最初の主君の掃部之介と左門だけで、それは彼らが宗右衛門が帰って来ると確信していたからだ。そうなると左門が非常にこだわった「宗右衛門は絶対九月九日に帰って来る」ということの重要性もわかる。めったにとどまることのない人が、帰って来る先に選ばれたのは、よくよくのことだし、だからこそ、「帰るはずだった故郷にいったん帰って、そのあとはずっと、こっちにいる」という宗右衛門の心理も左門は納得したのだろう。
これだけ会った人すべてを、瞬殺してしまう宗右衛門の魅力(しかも本人は一向それに気づいている風はない)とは何なのか。
8 受け継がれるもの
宗右衛門の年齢は、左門より年上というだけでわからない。外見についての描写もない。だから彼の魅力は、ものすごい美貌の若者であったとしたら、それなりにわかりやすい。だが、それでは逆に宗右衛門の魅力の本質が伝わらない気もする。たとえ外見が平凡でもいっそ醜くても、彼は人に引きとめられ、この人にこそ評価されたいと誰もに願わせる力があったのだ。筋を通し、欲がない。明確な価値観を有し、曇りない目で人を見抜く。そして、それが左門との差なのだが、彼は社会的な役割を果たし、正しいと思ったことを発言することを常にいとわなかった。
宗右衛門の死後、左門もまたひっそりと学問だけを楽しんでいた暮らしを捨て、学んだ知識を行動に結びつける。それは彼が宗右衛門と、その生き方を深く理解していたからだろうし、そうやって左門の中に宗右衛門という人は新しく生まれ変わっても行くのだろう。