江戸文学その他あれこれ8-黄表紙のいろいろ

1 「草双紙」で「戯作」です

黄表紙は「草双紙」のひとつである。
そして黄表紙は「戯作」のひとつである。
まったくの余談なのだが、少し前に出た信田さよ子「母が重くてたまらない ―墓守娘の嘆き」の本が鮮やかなぴかぴかつるつるの黄色い表紙で、それをあとがきで著者自身が「黄表紙」と何度も呼んで喜んでいたので、本そのものは面白かったのだが、ものすごくがっくりした。明らかに著者は江戸時代の黄表紙と重ねて楽しんでいるのだが、実際には中身も外見もまったく共通点はなく、多分黄表紙そのものは読んでもいないし見てもいないんじゃないかなと思うしかない書き方で、まあ名前を知って下さっているだけでも感謝しなけりゃならんのかとか、それほど江戸の文学とは世間に知られていないのかとか、そういう意味でもがっくりした。
ということはおいといて・・・。

2 もっと言うなら「前期戯作」です

「いい話と悪い話どっちから先に聞きたい?」というセリフが映画なんかでよくあるが、いいか悪いかはともかく、ややこしい話から先にする。

「戯作」というのは文学史の上では、江戸時代後期の大衆的な散文学で、中期に流入した中国俗文学の影響を強く受けているのが特徴である。だから韻文学の狂歌や川柳は「戯作」とは呼ばない。

西鶴以後、浮世草子は八文字屋本の「気質物」が流行するが、荻生徂徠の古文辞学派が流行して「儒学の古典は原語で読むべき」という考え方から語学ブームが起こり、スピードラーニングみたいな機器はない時代だから、手軽に読めるテキストとして、それまで入って来なかった中国の大衆小説、ミステリ、ホラー、エロ本などが輸入されはじめた。しかし語学の勉強のつもりで読んだら中身もやたら面白いから、その翻訳やパロディから始まって影響を受けた文学が次々生まれた。だから最初は専門の文学者ではなく知識人や武士(もうずっと戦争はないから、このころの武士はすでにかなりの文化人)たちの内輪の楽しみ、手すさびとして書かれた。今でいうなら、もろサブカルチャー、同人誌文学(古い意味でも新しい意味でも)の雰囲気である。

だから、内輪受けが多い。身内にしかわからないギャグやネタが満載である。身内でなくてわかるものでも、一定の(時にはものすごい)教養がないとわからない。しかも書いてある内容はかなり(時にはものすごく)ばかばかしい。無駄に知識が要求される。ある意味オタクの精神である。

そんなことをしているヒマが当時の武士や知識人にあったのか、というと、これがめちゃくちゃあったのである。時は田沼意次のわいろ政治が大盛況で、近年では意次もそう悪いことばかりじゃなかったんではという評価もあるが、何しろコネや金の横行する政治状況だから、有能な人材は登用されなかった。豊かな才能や教養を発揮する場もなく、腐ってふてていた人がそこらにごろごろいた時代である。平賀源内などもその一人で、彼の「根南志具佐」「痿陰陰逸伝」(どっちも日本古典大系「風来山人集」に入っています)など読むと、ほとばしってあふれる知識と、やけっぱちでカリカリしていて焼けたトタン屋根の上で飛び跳ねてるネコのような前向きじゃない、かと言って後ろ向きでもない、横向きみたいなエネルギーの洪水がすごい。

しかしそうこうしている内に田沼はやっぱり失脚し、ご存じ松平定信の寛政の改革が始まる。質素な生活や風紀の引き締めが起こって、ふまじめな文学は発禁処分になる。

今でもそうかもしれないが、一時期高校や中学の社会や日本史では、こういう戯作類特に黄表紙は政治風刺がすごくて、だから弾圧されたと教えられていた。たしかに黄表紙作家で武士だった恋川春町は自殺したと伝えられ、処罰や処刑をされた戯作者もいるが、そもそも後で詳しく述べるが、黄表紙などというのは、古典も幕府も皇室も未来もどんな権威もくだらないものも何もかも、とにかくありとあらゆるものを冗談にしておちょくる文学であって、寛政の改革だって定信だってそりゃ題材にするしだから処罰もされるが、権力への反抗という意志が明確にあるわけではない。まあ権力への反抗というのは、そういう場合がけっこう多いということはあるが。
で、弾圧や禁止されたら、作者たちはすぐに方向を変えた。山東京伝は当時最高の売れっ子でだから手鎖の刑なども受けたが、ちゃんと改革の精神にのっとった、まじめな黄表紙(ということば自体ギャグっぽいが)「心学早染草」を書いている。しかもなかなか傑作である。

戯作はもちろんすべて俗文学だが、その中で格が高い順に読本、洒落本、滑稽本(談義本)、黄表紙、などと、さまざまなジャンルがあった。しかし、寛政の改革を境に洒落本は人情本に、黄表紙は合巻に変わる。名前が同じ読本や滑稽本も、その性格が一変する。超簡単に言うと、わかりやすくなり、そこまで説明せんでもというぐらい、読者に対してていねいになる。

それは作者と読者が変化したせいである。京伝と並んで洒落本や黄表紙の方面でスターだった太田南畝は武士(公務員)の本業が忙しくなって戯作からはなれた。つまり有能な人物がちゃんと登用されはじめて、くだらんことを書いたり考えたりする余裕がなくなったのである。

しかし、これは今の音楽やコミックやライトノベルややおい小説を考えてもらってもわかると思うが、作り手と受け手が重なっている芸術も人気が高まると、作らないが享受だけして楽しむという層が絶対生まれて来るのである。江戸の戯作もそうだった。作者たちが忙しくなったり処罰されたりして消えても、読者は残る。彼らは高級で複雑なことはわからないが、表面的な面白さだけで十分楽しんでいる。

書肆(書店)としては、こういう読者を逃すのは惜しい。だから、「高級な知識や洒落た技術はいらないから、誰にもわかる、ああいうものを書いてくれるような作家がほしい」となる。そこで、戯作者になることを夢見て、そのへんにいた今でいうならアシスタントのような若者に「書いてみないかね」と言って書かせたのが、馬琴や一九や春水ら、後期戯作の大作家たちである。

おっと、今うっかり「後期」と言ったが、つまり寛政の改革を境に、戯作は「前期」と「後期」に、文学史ではわける。こういうのはあくまで文学史の用語だから、最近では西鶴の作品も「戯作」だと主張する学者も出てきていて、この先どう変わるかはわからないが、今のところはそういうことになっている。

だから、学生の皆さんはよくまちがえるし、正直それもしかたがないと思ったりもするが、さしあたり、「戯作」と言ったらそれだけで、後期のものです。「前期戯作」と言ってもそれは「江戸時代後期」の中の話です。ゆめゆめ、「前期」と言うからには「江戸時代前期」だとは思わないように。
で、黄表紙は、戯作全体でも、この「前期戯作」の中でも、最も戯作らしいと言われている作品群で、戯作の精神を最高によく伝えている。それは「全力をふりしぼって妥協せずに、何の役にも立たない、ものすごくばかばかしいことをする」という精神で、もしかしたらこれは、文学そのものの精神でもあるかもしれない。大きな声では言えないが。

3 その一方で「草双紙」です

黄表紙は「前期戯作」であるとともに、「草双紙」でもある。
で、「草双紙」とは、江戸時代の初めからある小型の絵本である。全ページが絵で、余白に説明や登場人物のセリフが書きこんである。今の漫画とちがって、セリフは囲んでない。
ほぼ文庫本の大きさで、一冊が5丁(一枚の紙が一丁で、それを二つ折りにして綴じるから今の10ページ)と決まっている。そして、多くても三冊で終わるのが決まりである。
草双紙という名は「草野球」と同じ正式ではないちょっとしたつまらないものという意味だとか、再生紙を使っていて独特のにおいがあるので「臭草紙」の意味だとか諸説がある。どっちみち、江戸時代の文学の中では一番低級で幼稚なものという位置づけである。

初期の元禄頃は朱色の表紙で「さるかに合戦」とか「舌きりすずめ」など、子ども向きの童話で、絵もものすごく幼稚である。その後少しだけ対象年齢が上がって、軍記物や演劇のダイジェストになったら、表紙の色も変わって真っ黒になった。赤い表紙の頃のを「赤本」、黒くなってからは「黒本」と呼ぶ。

ここまではわかりやすいが、その後の話がややこしい。
当時の文献には「青本」という名が出る。その後で「黄表紙」という名も出る。しかし実際には、青い表紙の本は残っていない。そして今、黄表紙と呼ばれている作品も当時は「青本」と呼ばれていたりする。

青い表紙の本が残っていないのは、青と緑は日本では同じこともあるので、緑色の表紙の本があって、その色が変色して今はすべて黄色になったんだろうとも言われるが、よくわからない。だから多分このへんのことは試験には出ないだろう。

ただ、文学史の上では黄表紙の始まりははっきりしていて、それは安永四年の恋川春町「金々先生栄花夢」である。

謡曲「邯鄲」(もとは中国の「枕中記」)で、出世を夢見て都会に向かった青年が、途中の野原で仙人の所に泊まったら夢で皇帝になって栄華をつくして死んで、目覚めたらまだ仙人が作ってくれていた粟の粥が煮えていなかったので、どんな贅沢も名誉もつかのまの夢と悟って田舎に帰る、という話を、田舎から江戸に来た若者が目黒の名物粟餅を食べようとして注文して一眠りしたら、金持ちになって遊女遊びをしておちぶれて、目がさめたら餅ができてきた、というパロディにしたお遊びだが、当時の流行を取り入れ、それまでの草双紙とちがって、これも当時のスタイルブック「当世風俗通」そっくりのきれいでおしゃれな絵で、大変高級で上品な大人の絵本になっている。内容はとことんばかばかしいし、何の役にも立たないのに。

この本がそれ以後の草双紙を変えた。それ以前の泥臭さはなくなり、教養ある大人しかおかしさがわからない、しかしわかったからって何の役にも立たない、とことんセンスとおふざけで勝負するという素晴らしい芸術が誕生する。

寛政の改革以後は、絵の精緻さだけを残して、このお洒落さは消える。いわば漫画から劇画に変わり、筋の面白さが主となって、草双紙は恐ろしく長編化して「合巻」になるのである。

(二〇一四.一.九.)

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