やばいよやばいよ
昨日は天気予報があたって、昼からは雨だった。
日照りよかましだと思って、小雨の中で庭仕事にはげんだ。
ていうか、気がついたら、ジャスミンがもう咲き出してる!
庭ってほんともう、容赦してくれないなあ。
もったいないから、花を咲かせてから刈り取ろうかとちらっと思ったけど、
そんなこと言ってたらものすごいジャスミンジャングルになりそうで、
涙をのんで、花のつぼみごと、刈り取りまくった。
ついでに、これも恐ろしいことになっていた、姫エニシダの木も切りまくる。前の写真と比べて下さい(笑)。
あーもう、今年はきっと、エニシダもジャスミンも花は楽しめないな、これだけ切っちゃったら、ろくに咲かないだろう。でもしかたがない。
せめて、切り落とした姫エニシダの枝は、玄関に飾った。ジャスミンも切ったつるをまだ片づけられないで、そのへんに転がしてるのを、明日少し拾って来て、花瓶にさそうかな。雨だから、まだ枯れてはいないだろうし、いい香りがするだろうし。
そのエニシダのことを書いた書き込みでふれた、周東選手のファンのことだけど、ついそんなえらそうな感心をしたりしたのは、多分この前からのフジテレビ問題や何かが、ずっとどっかでひっかかっていたからだと思う。
何度も書くけど私は中居正広氏を全然好きでも何でもなかった。ただ、あれだけの人気を得て多くのファンに好かれていたタレントが、どうやら本当らしい報道によると、あれだけ組織ぐるみの性犯罪を犯すまでになったというのが、本人もだが、それを生んだ周囲もだが、この際一番罪が深いテレビ局はちょっと置いといて、ファンの存在、ファンの責任というものを、あれこれ考えずにはいられなかった。特に、熱心なファンが、犯罪がかなり確定的になっても絶対に信じないで、被害者の女性をネットで攻撃しているのを見ると、自分の「推し」がこうなったとき、取るべき態度って何だろうと考えないではいられなかった。
親しい人で、大好きな歌手が麻薬関係の犯罪者になった時、決して見捨てないでファンでありつづけ、ブログその他で同じ思いの人たちと意見を交わしていた人がいたし、そのやりとりの中での複雑さやややこしさも、ちらとだが知った。私自身も自分の書いた作品の中で、誰かのファンでありつづけること、ファン同士で交流することの喜びと苦しみについて書いたりもした。「砂と手」シリーズの中の第六冊「コロセウム」に入っている「マキシマス日和」がそれである。
昔からというか幼いころから、私にはいつも架空や現実の「推し」がいたし、母もまた歌手の三浦洸一さんの、それこそただならぬファンだった。「マキシマス日和」には、そうした自他の経験がいろいろまじり込んでいるが、「砂と手」が題材にしている映画「グラディエーター」で主演をつとめたラッセル・クロウという俳優に関する要素が、かなり多くの部分をしめている。
フジテレビと中井氏のファンについて、このブログに書くときに、いつもリンクしようとしてはためらっていた、「かまいたち」という一文がある。ラッセル・クロウは今では安定して成功した大御所俳優の感があるが、「グラディエーター」当時は何かと私生活での批判が多く、攻撃されることも少なくなかった。私はそれをどう考えるか、ファンとしてどうするべきか、どうあるべきかを、それらの記事を読むたびに自分の内部も検証したものだ。そして、まったくそんなことをするぐらいなら学術論文の一つも二つも書けばいいものをというような時間と分析を費やして、長い長い一文を書いてサイトで発表した。それが「かまいたち」である。
私はもちろん、中居正広氏について何も知らない。これから知ろうとする予定もない。ただ彼の犯罪が信じられず、自分が愛してきた存在が真実ではないかもしれないと考えられず、被害者や告発者を憎悪し攻撃する人たちに対し、せめて一度は愛し信じた存在なら、どんなに資料や情報が少なくても、自分のその愛や信頼の源泉となったもの、出発点となったものを、誰よりも厳しく検証し、自分のとるべき道を決定するのが、ファンとしての最低最小の義務で良心ではないかとは何かのかたちで話したかった。それは兵庫県知事やトランプやプーチンを信じて、彼らとともに戦って、批判するあらゆる者を傷つけよう滅ぼそうとする人たちに対してもそうだった。
「かまいたち」は、このホームページでも読める。恐ろしく長くてしつこくて、多分読み通して下さる人など、めったにいらっしゃるまいが、それでも世間に自分の「推し」が攻撃されて、それが正しいかどうかを判断する資料も少ないとき、あらゆる手持ちのものを使って、何より自分の愛を材料にして、真実を見出そうとする努力のかたちをさぐる手がかりというか手ざわりの一部になればとも思う。
そして、タレントであれ俳優であれアスリートであれ政治家であれ、時にはもっと身近な存在であれ、愛し憧れるものが周囲や世間や世界に総攻撃された時、それに対応し対処して「かまいたち」もどきの抵抗や反撃をするためには、実はそんなことになる以前の日常の「推し活」のかたちが大切なのではないかと私はいつも考える。相手の本質を知り、誰よりも厳しく見つめ、そしてその欠点や弱点も認めて愛し、自分にできることや自分が得られるものを選んだり決めたりすることが。そしてまた、「推し」の対象となるさまざまな分野のスターたちにもまた、自分の努力や生き方や持って生まれたものなどによって、それらのファンをどのようなものに育てて行くかの責任がある。立派な存在になれと言うのではない。時には破壊的で自堕落で野放図な存在でもいい。それを愛し、それにふさわしいファンが生まれて集まるだろう。「推し」はファンを育て、ファンは「推し」を育てる。そこには常に相互作用がある。
私は昔から「親の顔が見たい、じゃなくて、子の顔が見たい。教師の顔が見たい、じゃなくて、生徒の顔が見たい。親は子に育てられ、教師は生徒に育てられる。ろくでもない親や教師や上司や政治家を作ったのは、批判も反抗も抗議も抵抗も教育もせずに唯々諾々と従ってきた、子どもや生徒や部下や国民の責任だ」と思って来た。自分が子どもで生徒のときから終始一貫そう思い、そのように目上の者を育てるのが自分の仕事と考えて来た。まあそれで失ったものもあったろうし、どこまで正しかったかはわからないけれど、そんなにまちがっていたとは思わない。
かつて初めて新書を出版したとき、白石良夫氏だったっけ、ちがったらごめんだが、後輩の一人がほめてくれて、「きっといい読者がつくでしょう」と言ってくれた。私はうれしかったけれど、その意味がよくわかっていたとは言えない。でも思えばそれも同じことだったと思う。「推し」にはふさわしいファンがつき、ファンにはふさわしい「推し」がつく。たがいがたがいに影響を与え、歯をくいしばって努力する者には、同じように自分の欲望を殺してでも愛する対象を思いやるファンが生まれる。
あ、こちらが、「かまいたち(ラッセル・クロウ論)」のリンクです。いやはやまったく、本当に長いね。いまどきこんなの、縦読みにでもする人はいない気がしますが、まあ時間の流れが遅かった、古きよき時代の産物だと思って、ながめておいて下さい。
こんなこと書いていて、ちょっと今夜のホークスとオリックスの試合結果をチラ見したら、延長戦になってて、周東選手が申告敬遠されていた。思わず目をこすって二度見したよ。何という時代になったんだ(笑)。さぞかし皆が笑ってるだろうと思ってネットの実況中継をのぞいたら、誰も笑ってもいなくて、あたりまえみたいな反応で、ますますもう、何て時代になったんだ。