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2020年集中講義(9)

連絡事項

以下の方の授業感想を受け取っています。

ぼんちょう、さいかく、けいちゅう、きょらい、ちかまつ、あきなり、さんぷう、さだのぶ、きょうでん、もくあみ、まぶち、ばきん、ひろたり、ぶそん、たねひこ、やば、の皆さん。

★覚悟の濡れ衣というとやはり泣いた赤鬼を思い出します。小学生の時に近くのホールみたいなところで劇を観に行ったのが強く印象に残っています。

★今回の講義は「覚悟のぬれぎぬ」についての話が主であった。

私は「覚悟のぬれぎぬ」にはある意味での「美徳」というか、なんとなく覚悟のぬれぎぬを着た者に「気高さ」「高潔さ」のような印象を覚える。

それは「リア王」でのコーディリア然り。彼女は確かに父を心から愛しているにけれど、姉達のように過ぎた表現をすることはなかった。

物語を読んでいると、正直「もう少しやりようがあっただろ」という感じはする。愛していることは間違いなのだし、わざわざ父の怒り必要はなかったはずである。

彼女はなぜこのように発言をしたか、ここにはテキストでも触れられていたように、「心にもない甘言を父に送る姉達に辟易した」という考察が最も適当であると私も考える。

濡れ衣をあえてきることで、靡かない自分を、屈しない自分を誇ることができる。

「予期せぬぬれぎぬ」の様に、誰かから着せられる場合はともかく、自ら濡れ衣を着ること自体は必ずしもネガティブなことではないのだと、今回の講義で思った。

★私は今日の講義を受けて、後半に出てきた二つの話題について考えてみました。

まず、倫理的に間違っていたり時代にあっていないとされる作品を書き換えたり別の解釈でとったりするように促すことには反対だと感じました。

その時代に書かれたからこその良さが作品にはあると思います。また源氏物語のようなフィクションであればなおさら、本は現実離れした世界を楽しむことができる一つの方法であるため、なにもかも時代に合わせる必要はないのではないかと私は思います。

また、先生の電子頭脳についての話を聞いて、自分の好きなものにしか目がいかない社会になっているということに初めて気づきました。好きなものを手に入れやすいという点ではとても有能であると思いますが、自分の嫌なものに触れ続けないでいると嫌だとおもうことに耐性がつかないため人としてある段階で止まってしまうのではないかと考えました。時には自分の意見と違う人と交流し、それを頭ごなしに否定するのではなく受け入れられるかもしれないというくらいの気で数回聞いてみることで、視野も広がるのではないかと思いました。

現代社会の風潮や自分を基準にするのではなく、様々な方向で考えることが大切だと改めて考えることができました。

★今回は「覚悟のぬれぎぬ」について学んだ。今回の講義の中で一番印象に残ったのは、「わたくしです物語」である。「ぬれぎぬ」というものは基本的には着たくないし着せられたくもないもので、着てしまったり着せられてしまったりすれば、あまりいいことは起きないものであるのに、「わたくしです物語」の孝之助は、ぬれぎぬを着続け幸せになっていくという、今までの「ぬれぎぬ」の観念を覆すようなもので、どこか新鮮な感じだった。また、「覚悟のぬれぎぬ」を着た人物は魅力的に感じた。私も、もしぬれぎぬを着ないといけないとしたら、「覚悟のぬれぎぬ」がいいと思った。

【非公式な資料】については、私は、あくまでも「現実は現実、作品は作品」と思っていて、作品の人物が実際のの人物を超えることはないと思うので、作品の中で描かれている人物が、実際の人物とは性格や印象が違ったとしても、あくまで作品なのだから、現実と違うことを気にする必要はないと思うし、実際の人物も、作品の中で描かれている人物も尊重されるべきと思う。だから、私は、【非公式な資料】があっていいと思う。

★「非公式な資料」について、現実と異なる姿で描かれてしまった人々は確かにかわいそうではあるが、「そのような虚構が作られた」という事実もまた現実である。そもそも、過去というものは事実ではなく認識でしかないため、絶対的な資料などはなく、現代を生きる私たちに様々な資料を比較・検討する責任があるだけだと考えている。1つの資料を鵜呑みにせず、それが成立した背景や他資料を水平思考的に解釈していくべきである。

★まず、非公式な資料に関して。

今「差別的である」として、世に公表されていないような、文学は多いと思います。

私も近代文学などのレポートや論文を作成する時、

「今は差別的な表現があるが当時の表現をそのまま利用する」というように

注意書きを書くことがあります。

ただ、それを踏まえた上で、研究として視野を広くして文学を読み解くことは、私は

必要があると思います。

先生がおっしゃっていたように

このような文学を抹消するべきではありません。

他の視点からも見てそれに上書きするものを作っていくという

形をとることが大事だと感じました。

★今回の講義で、非公式の資料についてですが、資料は公開すべきだと思ってます。非公式にすべきでない理由としては、差別的な表現を制限してしまうと、教育的な観点から、子供たちにとって、善悪の判断や、世界観が狭くなってしまうことが考えられるからです。確かに、非公式にすることで、子供にとって危険思想などを産みつけるものがなくなります。しかし、文学は文学としてとらえることも子供には重要で、差別的であろうとなかろうと、世の中にそのような事象が存在している、課題が存在しているということをしっかりと把握させることは重要だと考えます。それは、子供だけでなく、大人にも言えることです。そのような内容を含む文学に自分はどう向き合うのか、どのような考えを持つのかということを問う機会をなくしてはいけないと思いました。

★今と昔で倫理観や文化が違うため、昔の作品の内容が現在は差別にあたる問題について、私は差別にあたる作品を非公式にすべきでないと考えます。現在の倫理観では差別にあたる表現がある、ということは明言すべきだと思いますが、昔から今まで廃れずに残っている作品というのは先生もおっしゃっていたように、面白いからこそ残っているのであるため、それを見ないようにしてしまうのはもったいないと思います。同時に、差別的な内容を実際に自分の目で見て「これは差別だ、おかしい」と自分で気づくことが「自分は差別をしない」という考えにつながっていくと思うので、先生が「両方の意見を知る機会が必要」とおっしゃっていたように差別的な内容を知る機会を最初からなくすのは寧ろ良くないことなのではないかと思います。私は何でも知った上で自分で判断したいと思います。

★本日の講義を振り返ると、先生の言葉に心を打たれた瞬間が多かったです。

・"コーディーリアの「覚悟のぬれぎぬ」の精神には、静かな理性と哲学が感じとれる"

深い愛を表すのは、過剰なアピールや賞賛ではなく、理性を保って正直にありのままでいること。この事実と意味が理解はできても、今私が実行に移すのは難しいなとすぐに感じたため、変な現代の意識に染まってしまったなと痛感するシーンでした。もう少し素直でいたいと思いました。

・"自分の右手がよい行いをしても左手に知られてはいけない"

善行の全てに意味を求めるようではいけないなと改めて感じました。まして忠平考之助は人のために身を捨てるというので、尊敬を越えて怖いとすら思います。

・"当人が確実に気に入るような情報しか目に入らない世界では、賢くならないし優しくならない"

対人にしろ対メディアにしろ、端から頭ごなしに否定(或いは賛同)するのはナンセンスであり、その主張を正面から聞き入れないことには知見が広がらないし、心から受け止めることができないのだな、と学びになりました。

最後に、非公式な資料(P74~)に伴った「現実と異なる事実の無念を思う方法は?」という質問について、やはり新たに創造するのが良いのかなと思います。事実を目にすることのできない我々は、無念を晴らす一心でこれまでの主張を全否定することもできないし、「こういう見方もある」と一つの視点を新たに示すほかないのではないでしょうか。

★今日は「覚悟のぬれぎぬ」について学びました。

リア王の話はとても興味深かったです。

また、男たちをみな自分のことを好きにさせるという遊女の話も面白かったです。男ってつくづく馬鹿だなあと思いつつ、自分も同じ男なので気持ちは分かります。

★コーディリアの行動には、共感を覚えた。私も人の機嫌を取るためにおべっかを使うの好きではないので、同じような態度をとってしまうように思う。

また、文学と社会の関係の話については、私も先生と同じような意見で「文学は文学」で社会情勢とは切り離して考え、評価されるべきだと思う。

★文学作品が事実に基づくものであるかというのは重要な視点だと思います。しかし、たとえ虚構であっても教訓を生んだり、人々の楽しみとなるのなら、それもまた文学作品の一つの良さなのだと思います。事実だけを伝えたいのなら検証された歴史資料だけあれば良いし、世間体を気にするのなら教科書のような読み物だけあれば良いのです。しかし、それらにはない虚構性、作者の意図があるから文学作品は支持され続けているのだと思います。

★今日の講義では、「寒橋」の話が印象的でした。

テキストの方には載っていませんでしたが、

話を聞いただけでも、「おこうさん」の交錯する感情が

垣間見えたように思えました。

登場する人物は少ないが、その中で入り交じる情が

明白になっていると感じた。

また、「歴史」そのものがその後の時代の人物によって作られたものであるために、その後の人々による「解釈」が含まれるということを知りました。これから、私は「歴史」をどこか文学作品のように捉えているところがあるのだと気づきました。

次の時代の人が捉えているため、事実と合っているかは分からず、他の角度から考えることができると知り、これはロマンがあって素敵だなと考えたからです。改めて考えれば、高校時代は文章ばかりの歴史の教科書でしたが、読むのは好きだったなと思い出しました。

 

また、「ちびくろさんぼ」や「風と共に去りぬ」などをはじめとする人権問題につながるとされている問題に関しては、教育と絡めると難しいところがあるかと思います。小学生や中学生に教えると、教え方や伝え方次第では「差別」に着目した捉え方になってしまう可能性があると思います。とすれば、あくまで、文学作品について教えるという場では、そのような作品を教えない、扱わないというのは、ある意味「安全策」なのではないかと思います。どこまでを教育に求めるかは考える必要があると思いますが、このように「人権問題」と繋げられて考えられている作品がある、という件について考えるのもいいのではないかと思います。

私は物語と人権問題は乖離させて、

内容に言及することが必要なのだと思います。

★今日は、「覚悟のぬれぎぬ」が出てくる作品をいくつか見ていった。中でも、特に印象に残ったのは、コーディーリアの愛情である。コーディーリアは、2人の姉は領土が欲しいが為に、つらつらと父への愛を述べたのに対し、本当は父のことを愛しているにも関わらず、2人の姉の本心ではない過剰な愛の告白とそれに対する父の反応にうんざりし、冷たい態度を取った。この話が面白くもあり、残酷でもあるのは、コーディーリア・父を含め誰も助からないといった部分であり、悲しい終わり方ながらもすごく興味が惹かれる話だなと感じた。

また、板坂先生の持論の、そんな人いたっけ、そんな授業あったっけというくらい気づかない内に正しい知識を身につけさせる先生が良いのではないかというもので、何かしなければ、印象付けなければ、という考えが今ものすごく世の中に根付いているという話もとても印象的であった。良いことをしたら表に見せなければならないという考えは一体どうなのかといったことを、「陰徳」について触れながら考える事ができ、とても良かったと考える。

★シェイクスピアのリア王や、心中天網島等が例に挙げられたが、まずシェイクスピアの悲劇は本当に皆殺しだなということだ。ここまで徹底的にやるのかというくらい皆殺しである。これが作風といえば作風なのだがどちらにせよ毎回衝撃である。また心中天網島では愛想づかしの例で挙げられていた。これは、小春の気持ちになって考えると非常に心苦しく、かわいそうなものだということを感じた。しかし、この葛藤が話を面白くしているということが皮肉なものである。

女性を卑下した話が昔はよくあり、今は衰退しているという話があったが、時代の流れ的にしょうがないことなのではないかと思う。現代になるにつれて、男女平等がうたわれてきた。そのなかで、廃れていくことは自然な流れだと思う。しかし、それを消していこうとするのは少し違うのではないか。過去の一つの文化、考え方の一つとして残しておいてもいいのではないかと思う。昔はその考え方が普通であったため、消してしまうと昔の文化も一緒に)消えてしまうのではないかと思う。あと100年もしたら今普通と思っていたことが普通ではなくなってしまうかもしれないそう考えると頭ごなしに否定していくのは違うのかなと思う。

★非公式な資料を読んで思ったことは、必ずしも公式のものを神聖視する必要はないのだということである。公式を絶対視するのではなく、その世界に必要なものを世界ごとに取捨選択する力が必要だ。

 

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