1. TOP
  2. 岬のたき火
  3. 断捨離狂騒曲
  4. (7)絶対誰にもわかるまい

(7)絶対誰にもわかるまい

(台所・箸・ごみ屋敷)

金にあかせて建てた家

昔の台所は、決してきれいでも明るくも楽しくもない場所だった気がする。
私の生まれ育った田舎の大きな家は、もともと大金持ちのお医者さんが金にあかせて材木の一本一本まで自分で吟味して建てたと言うけっこうな大邸宅で(そのようなぜいたくがたたって、その人は結局破産してしまい、たまたまこの村を訪れた祖父が同じ医院を開業するのに、大変安く買ったのらしい。祖父はその後、自分で変な改築をいろいろして、結局かなりこの家をみっともなくしたようである)、台所も大きな黒御影の石の流し台と、網戸のついた壁いっぱいの食器棚があり、全体は下手したら今のアパートの一室ぐらいは優にあるような広い土間だったが、それでも特に楽しいという感じの場所ではなかった。広い窓からは庭の木々と裏の小さな稲荷神社と、遠い山が見えて、その風景の美しさは何となく覚えているが、特に祖母が年とってからは、広すぎて使いにくくつらい作業場だったのではないかと思う。

母も台所仕事を手伝っていたが、楽しそうではなかった。私が弁当の空になった容器をうっかり出し忘れて翌朝それに気づくと、彼女は烈火のように怒ったものだ。そしておかずは、かなりたびたび、缶詰の魚が何の調理もしないまま、まるごと放りこまれているだけだった。当時は肉や魚が入っているだけでもぜいたくな時代だったとはいえ、私は子ども心にそのおかずだと、がっかりしたのを今でも覚えている。せめて肉と玉ねぎをいっしょに炒めたのだったら、それで十分うれしかったし、二品以上が入っていることなど、まずなかった。

家事への憎しみ

母は一度結核を患ったりしたこともあって、それまでは家事も医院の事務仕事も相当がんばってこなしていたようだが、それ以後開き直って好きなことしかしないようにしたようだった。家事が嫌いというよりも、本を読んだり文章を書いたりするのが好きだったから、台所で幸せそうにしている姿は見たことがないし、そもそも私自身がめったに台所に行かなかった。
ずっと後にその台所をとりこわして、庭にあった井戸をつぶす時、母は台所の隅にあった大きな石臼を大工さんに頼んで、がらくたやごみといっしょに井戸に投げこませたらしい。大工さんは相当いやがったようだし、私も居合わせたらとめていたろう。その石臼では何度か祖父母や村の人たちと庭で餅つきをしたこともあり、台所のすみに使われないままおいてあっても、それなりになつかしくないこともない存在だった。けれどももしかしたら母は、石臼や台所が象徴する家事のすべてに対して、憎しみのようなものを抱いていたのかもしれないと、今になって思う。

台所の一隅にあった大きなかまどと巨大な釜は、いつのまにか消えて、コンロと炊飯器に変わった。黒御影石の大きな流し台も、多分祖父母の死後、母は近所の人の勧めに従って、大きなステンレスの流しにとりかえた。私はもう家を離れていていなかったが、ちょうどその工事のとき、アメリカにいた叔父が久しぶりに帰国して立ち寄って食事をした。黒御影石の流しは叩き割ろうとしてもなかなか壊れず、工事の人も苦労して、料理もろくなものは作れず、母は昔とても仲の良かった弟の叔父の訪問が「迷惑だった」と、あとで私に言った。叔父も薄い味噌汁などの変な料理に落胆したらしく、その後の著書の中で、料理もろくにできない最近の女性のことを「毒婦」と表現していて、何となく私は母のことを思い浮かべて書いたのではないかと思ったりもした。

たまに訪れる叔母は、正月やクリスマスには、その台所で豪勢な料理を作った。しかし、叔母の性格はその場にいる人を皆まきこんで、右往左往させずにはおかないもので、母も祖母もお手伝いさんも皆へとへとになり、不機嫌になり、決して皆幸せにはならなかった。要するに食事や台所が幸福を生む場所という感覚が私にはまったくなく、家族であれ他人であれ、人と食事をするよりは自分で作って食べる方が、はるかに楽しく満足という感覚は若いころから変わらない。

見えない悲惨

広い土間の三分の一ぐらいは、黒光りする板敷の縁だった。そこで友だちとすいかなどをよく食べたのは、楽しい思い出と言えばそうである。吹き抜ける風は涼しく、猫たちがよく板敷の上で眠っていた。
祖父はたくさんの小鳥を飼っていて、それをねらいにくるヘビやノラ猫を目の敵にしていた。殺されたヘビの死骸が土間にあったような気もするし、一度は祖父に毒殺かたたき殺されたかした大きな赤きじ猫が新聞紙をかぶせられて、ひくひくと死にかけていた。若い看護婦さんの女性が、来た早々の夜にその板敷の上で、祖父の小鳥にやるための大豆を粉にするための石臼(母が投げこませたのとは別の、小さいひき臼)を回す仕事をしていて、泣いていたこともある。その人はたしかすぐやめて、祖父は誰かに「白い制服を着て働けるみたいな感じで来るから困る」と笑いながら、あとで話していた。
その人の涙も赤きじ猫の死も、子どもの私は見ていて別にショックでも恐くも悲しくもなかった。すべてはひとつの風景としてのどかな暮らしの中を流れて行った。黒人奴隷や中国人捕虜やユダヤ人の悲劇を目の当たりにしても何も感じなかった人たちの気持ちが、私はよくわかる気がする。アフリカやヨーロッパの村や町で、さまざまな悲惨を目の前に見た子どもたちが、どういう風にどの程度トラウマになるものかについても、自分の体験を思い出すほど、私には見当がつかない。

ともすれば、ごみ屋敷

母に家の管理ができなくなったと判断して、自分でリフォームにのり出したとき、私はその台所も改築し、すべて板張りのダイニングキッチンに変えた。流し台も新しくした。それ以後何度か手を入れたので、もはやいつどこをどうしたのかさえ、自分でもよく思い出せない。
ひとつわかっているのは、それだけきれいに改築しても、母は結局その板張りの台所にこたつを持ちこみ、猫を際限なく増やして、阪神大震災で保護された犬まで引き取って、足の踏み場もないような恐ろしいごみためにしてしまったことだった。私がたまに帰省しても広い家の中のどこにも寝る場所どころか座る場所もなく、結局、隣りの空き地に新たに母の隠居所として家を建て、古い家の方は徹底的にリフォームを重ねることになる。

さすがに新しい家の方は、母は何とかきれいに使ってくれて、その間に古い家の台所を私はそれなりに人が泊まれる場所にした。仕切り壁を作り、ベッドとダイニングセットをおき、壁に絵をかけ、ラグをしいて、快い部屋にした。自分もときどきそこで寝て、客も滞在させた。
やがて母が一人暮らしが無理になって施設に移り、古い方の家は気に入った友人が買い取ってくれて、私は、あまりよく知らないままに、何とか新しく生まれ変わらせようとした、その台所と別れを告げた。

最後の食事

いろいろ長いことかかって必死に片づけてはいても、食器棚の引き出しの中の古いスプーンだの箸だのと、手のつけられないままのがらくたは残っていた。それもついに整理し終わって、いよいよ最後に台所を出るときが、すなわち、その家で過ごした最後の時間となった。
それは季節がいつだったか、昼だったか夜だったかさえ覚えていない。人手に渡すとは言っても家具などはそのままで、家は親し気なたたずまいを見せていた。私は買ってきていた弁当を食べ、その殻を入れた最後のごみ袋を庭に出し、適当に使った朱色の使い捨ての箸を洗って、何となく、捨てるにしのびず、そのままバッグに放りこんで持って帰った。

それからもう、何年になるだろう。ひょっとしたら五年近いかもしれない。施設で大切に世話してもらって、訪ねて行く私にもほぼ毎日会えて満足していたらしい母も、去年の暮れに亡くなった。
母が、新しい家に移ったあとでも、どうかすると食事の時に弁当の割りばしを洗って使ったりするのを、私は激怒していつも二つに折ってはくずかごに放りこんでいた。「貧乏くさい」「きれいな箸は山ほどあるのに」と、いつも怒りまくっていた。
なのに、なぜか、今私が三度三度食事のたびに使って大事に洗っては所定の位置に置いているのは、あの日、あの台所で最後の弁当を食べた、朱色の使い捨ての箸である。

多分、謎になる

どうしてそういうことになったのか、わからない。持って帰って、あの家での最後の食事を思い出すよすがにと、二三度使って、それ以後は、捨てるタイミングを見失った。
あの時、誰もいない家で、最後の弁当を食べたとき、その箸だけが、その時間を知っている戦友のような気がした。広い家のあちこちには、美しい場所、なつかしい場所がそれこそ限りなくあったのに、一番なじみが少なくて、悪戦苦闘もしつづけた台所で結局最後の時を過ごしたことを、何となく私は後悔していない。
その気持ちを、この箸はわかってくれているように思える。祖母の無念も、母の怒りも。若い看護婦さんの涙も、断末魔の猫の震えも。井戸にがらくたといっしょに投げこまれた石臼も、なかなか壊されなかった黒御影石の流し台も。

それにしても、たくさんあった中から、無造作につかんだ、この二本の箸である。母とちがって私には、「こんなもの使って!」と怒るような娘も家族もいないから、私がこれをいつまでこのまま使うかは自分でもわからない。
私がぼけたか倒れたか死んだかした後の、残されたものの整理で、多分これはまっ先にごみ箱行きになるだろう。そもそも私がそれこそ死ぬまで使っても使い切れない上等の箸がある中、なぜこんなものを使っていたのかは、誰にも絶対わかるまい。

ちなみに回りの品々も少し説明しておくか。
箸置きの馬は、一番最近の午年に私がどこかで買ったもの。向こうの小皿は叔母が持っていた多分上等のセットの中の一枚。楕円形のテーブルセンターも叔母の持っていたもの。汚さないようにビニールの下に敷いてあります。
そういう、一応まっとうなものたちに囲まれて、赤い箸はそしらぬ顔で粛々と、今日も仕事にはげんでおります。(2017.4.17.)

Twitter Facebook
カツジ猫