(8)緑色の器
片づけを順調に進める極意は、いろんなものの置き場所を決めて、さっさとそこに持って行けるようにすることであると専門家なら誰もが言う。なかなかそうは行かないのが問題だが、たしかにそれはその通りだ。
ごたごたのいろんなものの山の中から何かを取りだしては、「ああ、これね…」と思ってはまた元に戻してしまう、そういうものが多いと、なかなか片づけははかどらない。
で、そういうものの中で私が「ああ、これね…」とそのままにしてしまいがちなのは、町でよくもらう、あのポケットティッシュである。配っている人も助かるだろうし、役にたちそうだからと、大抵もらってしまうのだが、持って帰ると案外使うことが少ない。結局いろんなものの中にまぎれこんでは、どこからでも出てきて、結局またそのままにしてしまう。
ポケットティッシュ用の小さいかわいい木製のティッシュケースも、いくつか買った。だが何となく取りだしにくいし、小さいからティッシュを出すときに箱も持ちあがってしまったりして、面白くない。何となく場所も取る。何しろどんどんたまるので、どんどん使わないとたまる一方で、そのようにどんどん使うのには何となく面倒くさい。
ある時、大きめのミルク入れみたいな、丸っこい陶器の水差しがあったので、そこにティッシュをつっこんでみた。そうしたら何とこれが、めちゃくちゃいけた。取りだしやすいし、見た目が何だかカッコいい。テーブルの上においておくと、深い青緑色がおしゃれで、ころんとしたかっこうも愛らしい。思わずどんどん引っこ抜いて使ってしまって、減るそばからじゃんじゃん補充して行く。さしも家じゅうに散らばっていたポケットティッシュも、みるみる消化できてゆく。
何かと先んじて心配する私は、家じゅうからポケットティッシュがなくなったら、あんなものいったいどこかで売ってるのかしらと思ったりもしたが、今のところまだまだティッシュは当分なくなりそうにない。まあいよいよなくなったら、ふつうのティッシュをたたんで入れてもかまわなさそうだ。
すっかり味を占めた私は、他に同じくらいの大きさの陶器の入れ物をさがして、同じようにティッシュを入れて使ってみた。ところがこれがなかなか、しっくり来ない。四角い陶器のカップなんて、ばっちりじゃないかと思ったのに、きっちり入りすぎて、引っぱり出しにくい。他に小さめの籐の篭、小物入れの木箱など、よさそうなものを試してみたが、どうも見た目も使い心地もいまひとつなのである。多分、どんぶり、コーヒーカップなどでもだめだろう。下のふくれたミルク入れ的形状だからこそ、出し入れがしやすく安定感もある。落ちついた色合いの適度な高級感も安手のティッシュをそこそこ立派に見せてもくれる。
まさにポケットティッシュのために生まれてきたような、この器とはいったい、そもそも何者か。実はどこでいつ、どんな気持ちでこれを買ったか私ははっきり覚えていない。今は花屋さんになっている、行きつけの店が雑貨や洋服も扱っていたころ、そこで買ったのだろうと思う。いろんな人の作品展などもしていたお店だが、そういう作家の作ったものではなく、普段使いの食器のひとつだった気がする。
何に使うというあてはなかった。かっこうは水差しだが、ミルク入れには巨大すぎるし、カレーのルウでも入れたらちょうどいいのかもしれないが、私はそんなものは作らない。
買ったのはただ単純にかたちと色が好きだったのだと思う。そんなに高いものではなかったし、気軽にペン立てや小物入れに使って、そのへんに適当に置いていることが多かった。
今はもう人手に渡した田舎の古い家は、私が生まれ育った場所で、トイレと風呂場の間の廊下の横に、大きな花の模様を描いたタイルのついた洗面所があり、壁際に細い小さい板の棚があった。大きな家の中ではなかなか掃除も行き届かず、汚くはなっていなくても、ほったらかしにされがちな場所だった。祖父母も亡くなり、母と私がその家を管理するようになってまもなく、私はそれなりに何とかきれいにしたくて、そこの水道をお湯が出るように改造して、気持ちよく使えるようにした。そうしたら母が喜びすぎて、真冬でも風呂に入るのが面倒なときは、そこの吹きさらしの廊下で裸になって身体を拭くので、やめさせるのに苦労した。
洗面台の横の柱には細い四角な鏡がついていて、小学生のころから毎朝私はそこで自分の姿を見てきた。のちに家を手放すとき、鏡を外して持ってこようかしらという気持ちがちらと動いたが、小中高から大学、そして白髪交じりの老女になるまでの私の姿をそこに残しておくのも、幸せなことかもしれないと、そのままにした。
母と暮らしている間も、母が施設に入居して私一人が住むようになってからも、私は窓の上の高い棚や洗面台の下のがらくたが入っていた物入れをできる限りは片づけ、それなりのかわいい皿や絵なども飾って、一応きれいにしていたが、何しろほとんど町の自宅にいて、帰って滞在することも少なく、いいにおいのする小石やキャンドルを飾っていても、すぐに古びてほこりっぽくなりがちだった。新しい歯ブラシや歯磨きをきちんといつでも使えるようにしていても、気がつくと使わないままに、それはいつか古びていた。
そんな時期、私はずっと、このぷっくりした深緑色の水差しを、この洗面所のはしにある、小さな細い木の棚の上においていた。正面の高い場所の木の棚は、祖父が誰かに作らせた、荒っぽい雑な作りだったが、両側面の小さい棚は、この家を金に飽かせて建てたという元の持ち主が、材木の一本ずつも自分で吟味したという、その意気込みで作らせたのか、古びていても、どこか格調があり瀟洒だった。そこに置くのに、この水差しは似つかわしい気がしたし、実際しっくり溶けこんでいた。久々に帰って、ほこりっぽくなり長く使われていない感じの洗面所に行くとき、落ちついて棚の上に載っているこの深緑色の水差しを見ると、国境の衛兵に会ったように私は安心し、秩序と安寧が保たれている気がしたものだった。
いよいよ家を手放すかなり最後に近くまで、この水差しを私はそこに置いていた。長いお仕事ご苦労さんとねぎらいながら、それを町の自宅に持ってきたものの、さしあたり何に使うあてもなく、そのままにしていた。
今思いがけず、ティッシュ入れとして使いはじめたこの器は、日夜私のそばにいて、食事のときも来客のときも一番身近に活躍している。そして、他のいろんな品物もそうだが、これを見ても、それが置かれていた背景や周囲が目に浮かんでくる。田舎の古い家の洗面所。大きな花のタイル、縦長の鏡、細い木の棚。格子のはまった薄青い曇りガラスの窓。ワッフルのような四角い細かい格子の入った物入れの扉。それらのすべてが、長いことそこを守っていてくれた、この深緑色の器とどこかでつながっているような気がする。
写真で見ると、この器の絶妙な青緑色がよくわからないのではないかと思う。ここにあげた二枚だけでも、色合いがずいぶんちがって見えるだろう。風変わりなようで落ちついた、穏やかな頼もしい色だ。作者の名もわからない、ありふれた、どうということもない器だが、与えられた役割をきちんと果たせる幸福感と満足感がそこはかとなく、ただよっているように見える。(2017.5.30.)