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(82)トイレの日金山

昔のトイレ

子どものころの田舎の家のトイレは、当然ながら汲み取り式で、入っていると、下の汲み取り口が開いて光がさし、祖母ががたごとと長いひしゃくを突っこんで、大小便をさらって桶に汲みながら、「ようこちゃん?」と声をかけたりした。その桶の中身は、裏の畑にまいて野菜などの肥料にするのである。
その明るい光と祖母の声は、何やら高貴なものにさえ私には思えて、トイレをさげすむような心はまったく生まれて来なかった。ほっそりと、かよわげで、もの静かな祖母は、そんな過酷な肉体労働をしていてさえ、どこか優雅で気品があったせいもある。
それにしても、お手伝いさんがいた時期もあったし、周囲の農家にはたくましい男性がいくらもいたのに、祖母はなぜ、その人たちに頼まなかったのだろう。家族のトイレの処理などは人にまかせたくないという美学でもあったのか。その気持ちは今でも謎だ。

その家は、昔ぜいたくなお医者さんが金にあかせて建てたあげく、破産して手放し、同じ医者だった祖父の医院兼住宅になったもので、随所の作りがさりげなく凝っていた。トイレはつるつると光る大きな濃い緑色のタイルがしきつめられ、上下の細い窓には旅館のような木枠の細工が入っていた。ただ、ときどき大きなクモが出没するのが、クモぎらいの私には恐怖で、黙って床や壁にはりついている彼だか彼女だかを見ながら用を足すのがゆううつだった。もともとは、もっと明るかったはずが、隣に離れを建てたため、少し暗くなって、深い緑のタイルの床の美しさが充分にわからなくなったのも今思えば惜しかった。

のちに私が就職して、何度めかに住んだ町で、今の建売の家を買ったときのトイレはさすがに業者のバキュームカーが来ていたが、やはりまだ汲み取りで、便器も和式だった。
数年後、その一帯も下水道が完備し、トイレも水洗になった。その工事のための何かの手続きで市内在住の保証人が必要になり、私は近郊の団地におられた平安文学の大学者今井源衛先生に電話をかけてお願いした。
冗談でなく本ができそうなほど、そそっかしさでさまざまな逸話がある先生は、私が「トイレを水洗にする工事をするので、つきましてはお願いが」と言いかけると、「ああ、もちろんいいですよ、いつでも(トイレを)借りに来て下さい」とおっしゃって、「いえ先生、あのそうではなくて」と私が説明すると、快く保証人になって下さったが、車で二十分は優にかかる距離のお宅にトイレを借りに私が行くと早合点された先生も、毎度のこととは言え、それを驚きもしなかった私も、どっちもどっちではある。

まだ私の家は新しく、和式便器もぴかぴかだった。他の屋内の流し台や風呂釜と同様、長く添いとげる予定でいたから、何の落ち度もないのに、こわされてどこかに行ってしまう便器が気の毒でならず、私は心をこめて磨いて別れを告げたのを覚えている。たしか何かのエッセイにも書いた。思えば「断捨離狂騒曲」の最も早いはしりだったかもしれない。
工事の当日は仕事で家にいなかったので、学生に頼んで見届けてもらって、帰ったら新しい洋式トイレがもう設置されていた。トイレットペーパーのホルダーも新しいのがついていて、ひと押しでロールが設置できるしくみが、そのころはまだ珍しく、学生と二人で「いいね」と感心したのを覚えている。

トイレの床や壁もまだ古めかしいタイル張りだった。白黒の細かいモザイク模様の床に似合う、真っ赤なスリッパを探して買ったのも記憶にある。
そのころはまだ母も大いに元気で、一人で電車に乗ってよく我が家を訪問した。そもそも建売のこの家を買おうかどうしようかと迷っていた私に、買ってしまえとすすめて決断させたのは母だった。
母はこのトイレが、長細くてわりと広いのが大いに気に入っていて、田舎の家の古いトイレも「あんたのとこのようになったらいいと思って」と言って改造し、男子用のトイレは物置にして、女性用のほうを洋式便器に変えた。
緑のタイルもなくなって、床や便器は明るいピンクになったが、そうやって洋式にすると広かったと思った空間も意外と狭く、かなり窮屈な感じだった。母は何かちがうとは思ったかもしれないが、はっきり気がつかなかったのか、特に文句は言わなかった。

それから何十年もたつ。なぜだか水が流れっぱなしになりがちで、ちょっと苦労した私の家の洋式便器も、結局壊れてまた新しいのに変わった。風呂釜も流し台も時期はちがうが、それぞれリフォームして、もう当時のものではない。
母のいた田舎の家のトイレだけは、家を人に売った後の今も、その時のピンクと白の床と洋式便器のままだ。出来たときは、明るくきれいだが平凡で、重厚な家の中で庶民的な小娘のように場違いな感じだったが、案外しっかりがんばってくれている。

発想の転機

私は相当昔、まだ学生か大学院生で、その田舎の家のトイレもまだ和式だったころ、トイレットペーパーのホルダーの、茶色とベージュの外国製で陶器か何かでできていたのを買ってきて、壁につけたことがある。でもそれは、ただペーパーを入れておいて自分でちぎる形式のもので、見た目はお洒落だったが、結局あまり使わないまま、どこかに行ってしまった。当時はトイレのインテリア商品なんて、そんなものさえ珍しく、皆無と言ってもいいほどだった。
私自身、依然として、どこかやっぱりトイレはトイレという感覚があり、住居の一部として扱う気になれなかった。

そもそも学生時代に友人と二人で一時期住んでいた小さい家では、トイレは戸外の小屋だった。九州大学に米軍ジェット機が落ちたものすごい音を、二人で聞いたのは、その家だ。バス停三つ以上離れていたのに、すぐそばでバイクが衝突したのかとまちがうような轟音で、二人は外に出てみたが、大学との間には山があって、真っ赤に燃える炎は見えず、何だったんだろうねと首をひねりながら、家に戻ったものである。
その超不便なトイレは、しかしむしろ田舎の家でつちかわれた私の感覚には合っていた。日常の生活空間から切り離された場所にあるのが、かえって気楽で快適だった。今この現在でさえも少しそうだが、排出した糞尿をまったく切り離して一瞬しか見ないで、そのまま水に流して消し去り忘れ去り、結局はその排出口に過ぎない場所を、食事や睡眠と地続きの空間に結びつけておくのが私は変にうしろめたい。
トイレや排泄をさげすむのではない。むしろ、そうやって他の暮らしの場に取りこんでしまうのが、逆にトイレに対して失礼な気がする。汲み取り口からさす光と、祖母の声に象徴される、汲み取り桶や畑や大地や空につながる世界のものとして、トイレは遇しておく方が、その気高さや誇りを保てそうな感じがするのだ。

そんな私の意識が小さく変化したきっかけは、ある女性研究者のお宅に泊めていただいた時のことだった。近世文学の研究者としては一番若い同じ三十代で、当時はまだ数少ない女性だったから、研究者どうしとしてはよく知っていたが、個人的なおつきあいはしたことがなかった。それなのになぜか、その日は彼女が私が訪れていた京都のあちこちを案内してくれ、ご両親と住んでいるご自宅に泊めてくれた。
親切できれいな彼女の行き届いた心遣いで、快い楽しい旅だった。お家も立派で彼女が大事なお嬢様として大切にされているのがとてもよくわかった。何から何までいやなところがあまりにも何もなかったので、そういう時はいつもそうであるように、私はあまり具体的な記憶が残っていない。ただ、もしかしたら彼女専用だったかもしれない、明るく小さなトイレの壁のタイルに、かわいいシールのようなのが貼られていて、心をこめた素敵な空間になっていたのを覚えている。そのころは、まだそこまでトイレを飾ってお洒落にするという発想は、そんなに一般的ではなかった。

多分、彼女の人格や、書く論文の見事さともいっしょになって、私は「なるほど、こういうトイレのあり方もあっていいのだ」と素直に納得したのだと思う。
彼女は近世文学の大先生の教え子だったが、研究でも日常でも有能だったからか、その先生の秘書のように、常にそばにいた。そのころ、その大先生と私がいっしょに仕事をすることになって、ホテルのロビーなどで打ち合わせするとき、彼女はいつも先生のそばでメモをとり資料をそろえ、完璧すぎる補佐をしていた。そういうことには相当鈍い私だったが、それでもそれを目にすると、年齢はもちろん研究者としての力や経歴も同じか、むしろ彼女の方が上なのに、自分がこれだけ尽くしている先生と私が同等に仕事をする横で、秘書のように補佐をするのは彼女はいやじゃないのだろうかと、かすかに気になったりした。

その後、近世文学者の何かの飲み会のとき、彼女のことが話題になると一人の男性がこともなげに「ああ、彼女は○○(その大先生)の女でしょ」と言い、別に誰も気にした風はなく、そのまま話は別のことになった。
言った先生も、特に変な人ではなく、私は尊敬も好感も抱いていた。その発言でもそれは全然変化なかったぐらい、その発言は私にとってどうでもよかった。それは私の記憶に残りはしたけれど、それで彼女のイメージは少しも傷つきも汚れもしなかったほど、私の中では彼女はすぐれた女性だった。
彼女のような師弟のあり方は、当時は他にも多かったのかもしれない。男女を問わず指導教官の下請け仕事をするのは一般的で、名誉なことでさえあった。そんな体験をまったくと言っていいほど持たなかった、そしてそれに何の不安も疑問も劣等感も持たないまま、のほほんと指導教官のいろんなありがたい恩恵を受け取り続けて来た、私のような場合がむしろ、かなり非常に珍しいだろう。

彼女とは、それきりそれ以上の交流はなく、すぐれた業績を発表しつづけているのは知っていたが、気づいたら彼女は亡くなっていた。思いがけない若さで亡くなる研究者は男女を問わず多くて珍しいことではないのだが、それでも私は、立派な先生方の追悼特集の分厚い本や雑誌を見るたびに、彼女のそれがないのを妙に淋しく理不尽なことに思う。

ためらいと照れ

まあ何となく、そんなこともあって、おっかなびっくり私はトイレを飾りはじめた。いまだにおなじみでよく行く、雑貨と花のお店が、二十年ほど前はインテリア用品もかなりおいていて、初めて訪れて間もなく、私はそこで、紫と緑の野草の花の模様の入った陶器のトイレのブラシ入れとペーパーホルダーのセットを買った。ホルダーの方は、電動ドリルで穴を開ける機械を買って、自分でタイルの壁に取りつけた。気に入っていた前のホルダーをどうしたのか覚えがないが、多分こわれていたのか、しばらくいっしょに使っていたのではないかと思う。

その後、叔母の家のトイレにあったあひるのかわいい陶器のブラシ入れや、洗面台にのせてあった安っぽいプラスチックの花輪なども持ちこみ、私も新しく絵葉書を入れた額や予備のペーパーを入れるお洒落なかごなどをかけて、雑然としながらも、それなりにそこは一風変わった奇妙な面白い空間にはなった。
壁にかかった木製のふちの鏡は、田舎の家のトイレにかけていたのを家を売ったあと移動させたもので、その隅っこに貼りつけてある拳銃のかたちの小さいミラーは、「3時10分、決断のとき」という西部劇映画を見たあと、もう今はないキャナルシティー横のビルに入っていた店で衝動買いしたものだ。
すべて、どことなく、荒削りなおかしな空間なのは、まだかすかに残っている「トイレを住居の一部として快適にする」ことへの、私のためらいと照れだろう。どっちみち周囲の壁や床は、今では古めかしい昔の下宿のようなタイル張りで、それも少し私をほっとさせる。

新しいトイレ

やがて、その家の隣に、母の隠居所の予定でもうひとつ小さなワンルームの家を建てたとき、そこにももちろん、トイレができた。
これはもう、今風の木の床とピンクっぽい壁紙をはった、ためらいも照れも祖母のひしゃくの記憶も入りこみようがない、とてもきれいな空間である。
そして、古い方の家と同様、母がうらやましがったように、かなり広い。設計の都合でそうなったのか、やや不自然なほど、縦に長い空間になっていて、その若干の奇妙さが私は好きだ。
家が完成して、入居したのは三月だった。私の愛猫キャラメルの命日は三月初めで、もう過ぎていた。キャラメルのあとで、兄妹二匹とともにうちでしばらく暮らして死んだ、まん丸い目がかわいかった黒猫アニャンの命日は月の半ばで、ちょうど新しい家に荷物を入れてまもなくだった。

初めてこの家で命日を迎えることになったアニャンを記念しようかと、私はハロウィンの時に買っていた、丸い金色の目が彼に似てないこともない黒猫の絵のハンカチを、額縁屋で小さい額に入れてもらって、トイレの壁にかけた。
それ以後、予備のペーパーを入れるための、ちょっとアンティークっぽい金属の網籠だの、戦争法反対のデモの時に使った、かわいい狼のイラストをラミネートしたものや、わりと適当に買った地味な野花の額だのを、やりすぎないよう気をつけながらトイレのあちこちに飾った。やっぱり何となく、他の部屋とは飾る基準はちがっていたように思う。それでも、古い方の家の一種ぶっとんだ奇妙な雰囲気は、まだその新しいトイレにはなかった。

遭難しかける

定年後は、やりのこした大きな仕事だけに集中して、他の研究には手を出すまいとしていたのだが、毎年どこからか小さな原稿依頼が来た。その中のひとつが、熱海市が温泉について各方面の研究をまとめて、温泉誌を作るという企画で、その中の江戸紀行に関する原稿を私は頼まれた。
私の紀行文学研究は、ほとんど現地調査をしない。弱点なのはわかっているし、ポリシーでも何でもなく、単純に対象となる作品が膨大すぎて、やってるヒマがないからだ。熱海の場合も、手持ちの資料の整理だけで一応原稿は書けた。だが、現地調査を一回する予算を頂いていたので、念のために出かけて、現地の担当者の方とも会い、町や海岸を見て回った。

熱海をじっくり見たのは初めてだが、観光地としての長い歴史はさすがで、空気が細かく砕かれて熟成しているような、柔らかさと暖かさ、それに優雅さと気楽さが漂っていた。私はすっかり気に入って、あちこちぶらついたあげく、ロープウェイに乗って日金山まで登った。紀行文の作者たちも、しばしばこの山を訪れていたからだ。
山頂で景色をながめたあと、ロープウェイの時間があったので、あたりを散策していたら、小さい神社のわきに、歩いて降りられるハイキングコースが図示してあった。面白そうだったので、ついその道を下ってみた。

ハイキングコースなんていう、子ども連れでも行けそうな名前にだまされちゃいけない。一応かろうじて小さな道標はずっと立っていたが、けもの道みたいな道なき道が続き、渓流を越え藪をくぐり、崖伝いに進み、ようやく車道らしきものに出たので、安心して九州の友人に電話して冒険談を話して笑ったりした後、その道を進み出したら、どっちが降りかわからず、車も人もまるきり通らず、あたりは次第に暗くなり、タクシー会社に電話したら、現在位置がわからずに迎えに行けないと言われ、その内に携帯の電池も切れそうになった。

車道の脇に、例のけもの道はまだ下まで続いている。とにかくこれなら確実に降りられはすると判断して、またしても道なき道を普通の靴にショルダーバッグの全然山歩きでも何でもないかっこうで降りはじめた。まあ熱海にオオカミやイノシシがいるという話も聞かないし、足をすべらせて崖から落ちない限り危険はないと思ったから、枯れ葉や小枝に足をとられないように、それだけ気をつけて降り続けた。
だが、その足がずっと下り続けているから、こわばって動かなくなりそうで、心もとない。何とか両側に家も並んだ、ちゃんとした道に出たときは、きれいに舗装されたアスファルトの道でもまっすぐ歩けず、斜めによろよろ進むしかなかった。
周囲の家に灯りは見えたが、人通りはなく、タクシー会社に電話して、目の前の小さい会社の看板の名前を言ったら、今度は場所がわかって迎えに来てくれた。それで電池もなくなった。

タクシーに乗って夜の海辺を走ってホテルまで帰った。山というのは十センチでも頂上で方向をまちがえたら、降りてたどりつく麓はとんでもない遠くになることは理屈でも何となくわかっていたが、私が降りて来ていたのは湯河原で、熱海まではタクシーで数千円かかった。何食わぬ顔でホテルに着いて入浴し、まだ足が動かないのでマッサージを頼んで、どうにか回復し、翌日には編集担当の方と無事に市内の見物をすませた。
まあこんなしょうもない冒険は、この年になってするものではないと反省したが、市内の見物だけではなく、何だか熱海という土地のはらわたまでのぞいたような気になって、現地調査の醍醐味を、それなりに実感できた。

カレンダーの版画

熱海の本は無事に出版され、好評で売れ行きもよかった。担当者からその後、一枚刷りのカレンダーが送られて来て、その絵が熱海を描いた古い木版画でなかなかよかったので私はそれをトイレに貼り、年が変わっても、上の絵だけを切り取って、そのままそこに貼っていた。町や浜辺や岬など、観光した場所が皆描かれている。右端にそびえている日金山はものすごく高く、湯河原ははるかかなたで、ここから徒歩で降りたのかと、見るたびにこっそりと達成感を味わった。
古びないようにラミネートしようかと思ったが、それも何だかもったいなく、額に入れるのは何だか大げさに思えて、ちょうどそのころ、私が昔夏休みの宿題に書いた課題の画用紙を大きなパネルに入れようとしていたので、同じようにパネルにしてみた。額縁に比べて値段が安かったのと、とんでもない大きさになってトイレの壁いっぱいを占領する異様さが、私がそこはかとなく抱いている、トイレのイメージに合うような気がしたのだ。
もともと、長細いトイレなので、手前の壁の空間が変に広すぎ、何かをかけると入ったときに邪魔になるし、ちょっと悩ましかったので、このパネルなら場違いなようで実はぴったりだろうと判断した。

 

かくして、新しい家のトイレも、みごとにいろいろ不調和なものが、おかしな調和を作り出す、私を満足させる空間になった。
熱海の図会のパネルはバックを黒にしたのだが、そうすると古雅な絵の風情とともに、どこやら何やら、昔の高級旅館(知らんけど)の手洗い付近の廊下の壁にこういうのがかかっていそうな雰囲気もちょっとあって、そういう連想も生むのがよくないかい?と、私は悦に入っている。
排泄という場所ならではの、危険さや不安定さ、それをバカにしないで飼いならし対決する胆力と気概、そういうものがトイレのインテリアにはやっぱりどこか必要な気がしてならない。(2019.7.5.)

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カツジ猫