(81)テレビが見つかる
東日本大震災のニュースを初めて聞いたのは、白内障の手術をした母を連れて病院から帰るタクシーの中のカーラジオだった。まだその時は、被害のニュースが入っていなくて、私は運転手さんと「そんな大きな地震だったのに、死者が出ないのがせめてでしたよねえ」などと、今から思えばとんでもないことを話していた。
母はその時九十歳で、田舎の家で一人暮らしをしていたが、いつからか視力が落ちて、メガネを買い替えようと出かけるたびに、白内障だから、手術した方がいいですよと言われた。しかし知り合いの奥さんが手術の結果があまりよくなかったのを見ていた母は、乗り気ではなく、もうほとんど何も見えなくなっても、けっこう普通に生活していた。
何がきっかけで決意したか忘れたが、とにかく私は母に手術をさせることにし、わずかに見えている片方はそのままにして、まったく見えてなかったもう一方だけをとりあえず治すことにした。手術は成功し、母の視力は戻ったが、母はそう感動した風もなく、私はほっとしながら、いささか拍子抜けした。
手術後の点眼薬は何種類もあって、そこそこややこしい。母が一人でやれるとはとても思えず、手術をした病院では長期入院ができなかったので、かかりつけの別の病院にしばらく入って毎日の点眼をしてもらうことにした。その病院への移動中に、震災と津波のニュースを聞いたのである。
入院先の病院に到着すると、顔なじみの若い院長先生が待合室のソファでテレビに見入っていて、おぼろなモノクロに近い画面の中、河口かどこかの堤防で人々が津波を見ている映像に、「早く避難しないと、あんなところで見物していたら危ない」と、やきもきしていた。そこでもまだ、死者が出たニュースは入っておらず、ことの大きさと深刻さを、私たちはまだ誰も知らなかった。
その後、私は自宅に帰り、地震の被害が明らかになって行く中、母が無事に回復している知らせに安心していた。しかし、点眼薬の必要がなくなって退院し、母を田舎の家に連れ帰ったら、母が窓の鍵のかけ方もわからなくなっているのを見て(今思えば一時的なものだったのかもしれないが)、これは一人暮らしはもう無理だなと判断した。その後すぐ母は体調をこわして再入院したが、もう言うことにもかなりとりとめがなくなっており、院長先生も一人で生活させるわけには行かないという判断だった。
母はそのころ、もうかなり被害妄想の気もあって、私が先生と結託して家に帰さないようにしていると言い、自分を殺そうとしていると思い始めていた。まともに相手にするべきではないと専門家なら言うだろうが、私は母がぼけていようがいまいが、最後に会ったときまで一度も、母に嘘はつかず、対等に何でも話した。その時も私は激怒して、ふざけるんじゃない、私の方があんたの介護で消耗して死にかけているのがわからないのか、こうやって自宅と田舎を数時間かけて車で通って、仕事もこなしている状況は誰が聞いても正気の沙汰じゃないと言われる、あんたの前に私が死ぬだろう、もう限界だとまくしたてた。
何となく予想はしていたのだが、奇妙なことに母はそれで落ちついて、妙に元気にまともになり、思考力と判断力がよみがえったようだった。「思いきり話し合ってよかった」と、首脳会談のコメントのような感想を、どこか満足気に述べて、以後はまた私を信頼した。
それからずっと、九十八歳で死ぬまで、母は次第に確実にぼけたし、昼間のことを聞いても「あら、そうだったっけ」と何も覚えていなかったが、それを苦にもせず、けらけら笑っていて、自分のその状態を平気で陽気に、あたりまえのこととして受けとめていた。
私はそれに少なからず感服し、学ぶべきところが多いと思っていたが、あれはもしかしたら母が私を、そして私を通して周囲の他人を、基本的に信頼していられたからだったかもしれないと考えるときがある。だまされたり、かくされたりしていることが何もなく、常に対等に一人前に扱ってもらえているという安心と自信が、記憶が消え体力が消えても、母を動揺させなかったのではないか。だとしたら、たとえ幻想でも妄想でも、そのように信じられる存在を私も作っておくことが、老後の最重要課題なのかもしれない。
院長先生は病院に併設された老人ホームに母を入れることを勧めた。しかし考えてみると、母が自分の家にいられないのなら、私の自宅の近くの老人ホームに入った方があらゆる意味で都合がいい。それから数日私は自分の住む町の、いろんな施設を訪問し、責任者の話を聞いて、広い窓から町並みや緑の山や木々が見える、ものすごく贅沢ではないが、さっぱりしたマンション風の、穏やかでどこかのんびりした、明るいたたずまいの一つを選んで手続きした。
ちなみに母は、田舎を去ることに文句は言わなかった。むしろ、「私もいろいろ考えてみたけれど、ここを出してもらうのは、あんたのところに行くからというのが、一番先生も納得させられるだろうね」と、いっちょまえの策略めいたことを自分から言い出して、昔から母子二人で、家族や周囲にあれこれと計略をめぐらして立ち向かってきた私を喜ばせた。母の飼っていた老猫が気がかりだったが、数日ごとに私がエサをやりに帰って泊まってやることにした。
数年後、その猫のモモちゃんを私は自宅に連れてきた。彼女は母のいなくなった家を一人で守っていてくれたが、やはり淋しかったのか、私が帰って泊まるたびに、ベッドでいっしょに寝るとおしっこをするようになり、毎回ふとんを洗濯するのに、私の体力がもたなかったのだ。私の家に来た彼女は、巣箱の中で落ちついているようで安心していたら、数日後いきなり元気がなくなってそのまま死んでしまったのが、一番残念なことだった。その報告も母にはして、部屋に写真を飾ってやった。昔からたくさんの猫を飼って、その死にも立ち会ってきた母はさして動揺もせず、その内にモモちゃんが死んだことも忘れて、私の飼い猫の話をするたび、モモと呼んでは私に「モモは死んだってば」と怒られて、「ああそうか」と笑っていた。
母はそこで大事にされて、訪れた友人知人に「ここが私のお城なのよ」と、明るい広い部屋を自慢して、田舎の家にも私の家にも帰りたいとは一度も口にしなかった。私がほぼ毎日、仕事帰りに訪れて、面会時間のぎりぎりまで、しゃべっていたせいもある。
「どうね、世の中は、変わったことはないね」と、母は私の顔を見ると言い、私は母がわかろうがわかるまいが、政治や職場や、見た映画や読んだ小説の話をした。
私は母のベッドを窓のそばにおいてもらい、自分の小さい白い机や、叔母の遺した小ぶりなソファなどを並べた。車椅子も使うので、家具はなるべく置かないようにとのことだったし、壁にも釘は打てない。どっちみち、変に場違いなほど贅沢なものを置くのは悪趣味な気がして、ベッドの足元には叔母が室内で使っていた、上等だが古い下駄箱をおき、その上に新しく買ったテレビをのせた。
母はもうドラマや映画は理解できなくなっていたし、好きだった野球や相撲も「もう知っている人は誰もいないね」と、あまり興味がなさそうだったから、私は一番安いDVDの機械を買って来て、動物や自然など、映像の美しいDVDを借りて来た。
テレビ番組でよく見たのは、志村けんの動物番組と、嵐やTOKIOのバラエティ番組で、母はもふもふの子猫や子犬を見ては大いに喜び、他愛ないゲームも無邪気に面白がっていた。そうかと思うとクイズ番組でも漢字の読み書きの問題では、ほとんどすべて正解を声に出して言っていて、それが自分でも愉快そうだった。
そのテレビをどこで買ったのか覚えていない。施設入居の時は、大急ぎで何もかもそろえたから、多分近くの量販店で買って、届けてもらったのだろう。私がいないときでも、施設のスタッフはつけていてくれることが多く、ほぼ毎日フル稼働して活躍していたと言っていい。私が毎日帰るとき、母は「もう消していいよ、私は寝よう」と言い、私はテレビを消して、母を抱いてほおや額にキスをした。母はおっほっほとか、きゃっきゃっとか言って、その都度喜んで、というよりおかしがっていた。「おやすみ」「はい、おやすみ」と言い合って、私は部屋を出た。
福岡で地震があったとき、このテレビは床に落ちてこわれた。ベッドと下駄箱の間にすべり落ちるように落っこちたらしい。母の上に落ちなくてよかったと、施設のスタッフも私も胸をなで下ろした。
ちょうどその時、おなじみになっていた近くの評判のいい電気屋さんに頼んで、新しいテレビをつけてもらい、こわれたテレビは処分してもらった。忙しかったし急いでいたので、こわれたテレビに、感謝のことばひとつかける間もなく、母を楽しませ、最後は守ってくれたテレビは、母の部屋から消えてしまった。有能すぎて、スマートすぎて、かえってきちんと見たことがなく、写真もないから、姿もかたちもしっかり思い出せず、何だか申し訳ない気持ちがずっとしていた。この「断捨離狂騒曲」の中のいくつかをまとめて本にして出版したとき、こわれたテレビのことを書いた文章のある一章も入れて、「深く感謝していても、そのことばを伝えないまま別れてしまう、人やものがある」と書いたその一文を、編集者は帯の一部に使ってくれた。
ところが最近、山のようにたまった写真を整理して処分しようとしていたら、ベッドで寝ている母を撮った写真のはしに、このテレビが一部写っている。
もしやと、どきどきしながら、更に探すと、しっかり全体が撮れている一枚も出て来た。
本当にまちがいないか、と他の写真ともいろいろ比較して、時系列を調べたら、たしかに地震の前の写真で、あのテレビだと確認できた。
こんな姿だったのか、とあらためて、感謝しながらつくづくとながめている。
母の死後、小机とソファは持って帰って今も使っているが、新しいテレビと下駄箱と緑のボックスは施設に寄付して来た。椅子も田舎の家に持って行って使っていたが、やがて人にあげて今はもうない。
あのころ母と毎週必ず見ていて、始まるまでに母の部屋に着こうと必死で走ってかけこんでいた、動物番組やクイズ番組、嵐やTOKIOの番組も、もうまったく見ることはなくなった。番組が終わってしまって、もう二度と見られなくなったときに、あらためて淋しい思いをするかもしれない。きっと、その時に、母と過ごしたあの時間の一部分が完全に消え、そうやって少しずつなくなって行くのだ。すでにあの時、母は昔のようではなく、意志の疎通も完全ではなく、いくらかはもう母を私は失ってはいたのだけれど。