うわあもう痛恨のミス!
二十五年前に亡くなった、愛猫キャラメルの命日のために、彼がかじるのが好きだった麦と、好物だったカワハギ(メンボとも言う)を探して、昨日は一日走り回っていました。めったに行かない道の駅むなかたやら、隣町のイオンやら。その前には福岡でも探したんですが。
結論から言うと、どっちも見つからず、しょうがないから見た目が少しは似てるカレイを買って煮て供えた。他にも花やら何やら買って、片づけ途中で散らかりつくした仏間ながら何とかかたちをつけてお参りした。
まあその内に麦もカワハギもどこかで見つかるかもしれないから、せいぜい命日だけでなく今月いっぱいぐらい、そのへんにうろうろしてなさいとキャラメルに語りかけて、ひきつづき探すことにした。
その他にも実は痛恨のミスがあって、「砂と手」の新刊二冊を、前の分とあわせて何人かの人にどさっと送ったのだが、何とまあ、あわててたせいもあって、そのお一人の宛名をまちがい、まったく別の方に送ってしまっていた。まちがわれた相手の方が驚いて知らせて下さり、持って来て下さったので、それを今日もう一回送り直した。その帰りにまた二つのスーパーをはしごして、草茫々になっているキャラのお墓に、もう花を植えてる暇はないから、寄せ植えのきれいな鉢をひとつ買ってきて、置くことにし、かなり大きくて重いのを車に積んだあとで、疲れてふらふらしながら魚売り場ものぞいてみた。
したらば、二軒目のスーパーで、ここ数日あんなにどこにもなかったカワハギが、山ほどザルに盛られていて、一山450円ぐらいで売り出されていた。しかも極上品とかおいしいとか、書かれてもいた。
夢じゃないかと目を疑いながら、ふた山ほど買いこんで、うれしさの余り疲れも吹っ飛んだといいたいが、それは吹っ飛ばなくて、けっこうよろよろ家に帰って、それでもさっそく鍋で煮て、供えていたカレイの皿と入れ替えた。
それにしても、こんな、おままごとみたいな諸行事を、私はいつまで続けられるんだろうなあ(笑)。
疲れて寝落ちしないかと心配だったが、それでも大河「べらぼう」は、なかなか面白くてしっかり見られた。脚本の森下佳子さんって、「大奥」の脚本も書いてた人と、遅まきながらやっと気づいた。道理で視点がしっかりしてるし、腰も据わった脚本なわけだ。過度に扇情的な(たとえばその昔、レイプを告発する読み物やドラマや映画で、必要以上にレイプシーンを長々と、ポルノとちっとも変わらないまなざしで描く情けなさとアホらしさに毎回うんざりさせられたような)無駄な描写はちっともなく、科学の論文みたいに吉原の売春組織の構造を、どんな人にもわかるように、きっちりと説明する。いやらしくて、汚らわしくても、そういう場面を絶対無駄に使っていない。
盲目の検校がカッコいいだけではなく、当時は彼らは高利貸として荒稼ぎしていたことも、ちゃんと指摘している。ちなみに、こんなにセレブでなくても吉原の客で目の見えない人は、その分愛撫がしつこくていやがられ、金持ちでいばっているというのが遊里の文学ではお約束ごとだった。彼らに限らず、遊女のおつきの新造は、いつも眠がっていて、使用人の信濃出身者は大メシ食いというように、遊里の文学ではパターン化、統一化がされていて、個性や例外はありえなかった。実際とはちがっていても、当時の文学ではそういうことになっていた。
なんか、ニュースで小耳にはさむと、トランプとゼレンスキーのけんかは、トランプ側が計画してゼレンスキーを「はめた」ことになってるらしい。私の解釈や印象とは正反対なのが笑えるが、ひょっとしたら、これがトランプ側が体面を保つための唯一の言いようなのかもしれない。
明日からまた寒くなるらしい。使ってない灯油を消費する最後のチャンスかもしれないのだが、ストーブを引っ張り出すのがめんどいなあ。猫はきっと喜ぶだろうけど。