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どうしてくれよう

仕事に燃えて石炭化しているキャラママです。
ど~でもいいんですが、紀行研究の昭和18年ぐらいに出た古い本を、今度の私の本に引用しています。
その著者のお名前ですが、「鳴神克己」と本の表紙にも背中にも目次にもあります。
私は院生時代から何度もこの本を引用したんですが、なぜか「かつみ」と思っていて、でも文字は「かつき」だし、どうしてそんな気がするんだろうと思っていました。
まあ、ふつう論文などに引用する場合、研究者の名前に振り仮名なんてつけませんから、どっちでも困らなかったんですが。

今度の本にはわりと振り仮名をつけるので、どうしようかなと思って、でも文字は絶対克己なわけだし、と思いつつしらべたら、これは「かつみ」とも読むらしいので、どっちかなと考えていました。
今日、ふと、末尾の奥付を見たら「克巳」と書いてあって、ご丁寧に「かつみ」と振り仮名がつけてある。

整理しますと、この本の表紙や目次や背中やいたるところの表記は「克己」。
これは「かつみ」「かつき」両方の読みが可能。
最も信頼できる奥付は「克巳」で「かつみ」と振り仮名。
どうせいっちゅうんじゃ。戸籍でも調べろってか。
昔の本って、本当に大らかとしか言いようがないなあ。
まあ、私も小さい時から、あらゆる場所で「耀子」の名を「曜子」「洋子」「輝子」「躍子」「濯子」とまちがえられ、子ども時代にもらった賞状なんかで正しい名前のものなんかほとんどない。一度は戸籍まで「燿子」になってて、それはさすがに訂正してもらいましたが。

苗字もそこそこまちがえられるし、もうだんだんどうでもよくなって、少々ちがった名前でも気にもならなくなってしまって、そういう点でのアイデンティティはあまりない。結婚する気はなかったが、したら別に深く考えも感じもせず、夫の姓に変えたかもしれない。もっとも姓とは関係なしに、きっととっとと離婚したろうという確信もなぜかある。(笑)

鳴神先生もきっとそういう方だったのだろうが、実際これ、どうしようかな。どう表記しても振り仮名つけても、「まちがってますよ」と読者からの投書が来そう。ええいもう、こんなことに時間をとってはいられないというのに。

ところで、名前と言えば今日、市民劇場でジェームス三木脚本の「族譜」を見てきた。日本がかつて朝鮮で朝鮮人に日本名に変えろと指導したことによって起こる悲劇で、今、日本が北朝鮮をやたら警戒しているこの時期、この劇を上演するとは、神がはかったようなタイミングだと思わされた。市民劇場の上演作品の予定は一年分前もって決まっているので、こんな状況を誰も予測はしていなかったはずだが。

冒頭、親日家で金持ちでゆったりと幸福そうだった朝鮮の名家の主人が、代々続いた名誉ある名前を変えることを「強制ではないのでしょう?」と念を押しながら拒絶したことから、あの手この手の弾圧やいやがらせで追いつめられて、ぼろぼろになる悲劇が壮大で切ない。悪気でなく改名をすすめにきた小役人のまじめな男が、また悲しくて、身につまされる。

日の丸君が代もそうなのだが、なんでこう、せせこましくて、せっかちで、みみっちいかなあ。やることが、いちいちもう。人のいやがることをさせるのが、ただそれがもう好きな人って、確実にこの世にいるな。

この名家の主人や娘が、ここまで無防備にのんきに抵抗したのは、そもそも日本を愛して好意を抱いていたからなのだ。それが見ていて、ますますはがゆい。
日の丸君が代問題でも、拒否して処分されたりする人は、むしろ闘士や思想家ではなく、まじめで素直な人たちだ。それを攻撃する人たちも、愛国者とかいうより、ただもう小心で生真面目でけつの穴が針の穴なみに小さいだけだ。そこがもう、やりきれない。

ところで驚いたのは、この「族譜」はもともと梶山季之の小説だったということで、「あの梶山季之?」と確認したくて金もないのにパンフレットを買ってしまった。週刊誌にポルノ書いていたことしか記憶になく、そういえば、何かちがう面もあったとどこかで読んだ記憶がうっすらある。
パンフレットの解説では彼はこの朝鮮を題材にしたテーマを大切にしていたとのことで、いくつかまじめな小説を書いているのだそうだ。
そう言えば、ポルノもうまい人だった。小説を読んでみたくなった。

とは言え、時間がない。学生が授業中に書かせたレポートで、いくつか質問してきて、「返事は第二研究室でもいいです」と書いてくれているというのに、その返事を書く時間もない。いや、そのわりに無駄話をしてるじゃないかと言われてもしかたがないわけだが。

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カツジ猫