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ゆるくなる脳。

◇ひじょーにとーとつですが(と、またカツジ猫化しそうになる)、私は橋本治の書いたものを読むたびに、「この人は気の毒だなあ」と、自分の頭のハエを追えやと誰からも言われそうな心配を漠然とします。

というのは、彼の書いていることはすごく読みやすくて面白いにも関わらず、ものすごく難しくて私にはきっと彼の真意が半分もいや30%ももしかしたらもっと、わかってないだろう、つかみきれてないだろうという気がしてしょうがないからです。
でも多分それって私だけでなく、かなりの、いやほとんどの人がそうなのかもしれなくて、でも彼が鋭くて賢くていろんなものが見えてるということは何となく、そのくらいは私にもわかるので、じゃあこの人は書いてもしゃべっても多分日常でも、大半のことは人に伝わらず理解されないんだろうなと思うと、たとえば猫の耳や犬の鼻が人間よりずっと鋭くて私たちにはわからない騒音や悪臭の中で暮らしてると知った時のように、「わー、どうやって生きてるんだろう、毎日がきついだろうなあ、孤独だろうなあ」とか考えてしまうわけです。まあ、猫や犬はその分快い音やいい匂いも味わっているように、もちろん橋本治にも快感や幸福がその分いっぱいあるのでしょうから、心配しなくてもいいんだろうけど。

あ、もうまったくの無駄話ですが私は高田純次がわりと好きで、あの人はもっとうまく使ってあげたらいいのにと、ずっと思ってたのですけど、その彼が出てた何かの番組で随分前に、耳が鋭敏な猫が好む音楽は何かというクイズがありました。クラシック、ハワイアン、アフリカの音楽の三者択一で、猫にそれを聞かせて心拍数か何かをはかるという実験で、ごく普通の大きなキジ猫が香箱を作って座ってガラス箱の中で音楽を聞かされてました。
私はハワイアンかな?と思ったのですが、正解はアフリカの音楽で、ずん、ずん、と響く太鼓の音が猫は気に入って快くなってたようです。
それで、おまけに高田純次の出した変な歌のレコードはどうだろうと聞かせてみたら、猫は非常な不快感を数値で表したのでスタジオは爆笑に包まれてました。

ついでにもうひとつ、くっだらん脱線をしてしまうと、私は橋本治や筒井康隆の書くものが昔から好きで、とても満足し、「絶対に私はかなわない」といい気分で確認もするのですが、ただ二人の生き方、考え方、感じ方、小説の楽しさの中で、ないものねだりはわかっていて「あー、こういう気分や感動は、この人には書けないし、求めちゃいけないんだろなあ」と思うのは、思想的、社会的、政治的な視点、そういうものに身を投じよう、参加しようとする情熱です。特に小説を読んでいて、そういう使命感や昂揚や絶望は作者は理解も感情移入もできないんだろうなあと思うことがよくあります。
そこだけは、彼らになくて私にあるもので、だからそこだけは、小説であれ生き方であれ考え方であれ、私が自分で描いたり示したりしなきゃいけないんだろうなあ、と妙な責任感や優越感のようなものをかすかに感じたりしていたのですけど、最近では私自身のそれもちょっと怪しくなったから何とも言えない(笑)。

ま、それはさておき、「ある種の感覚が鋭敏な人、深く思考し鋭く分析する人は、いつもめっちゃ不幸で孤独だろうなあ」と私が思いやってしまうのは、もちろんものすごく低次元でささやかなそういう経験が自分にもあるからで、もう授業でこれ以上わかりやすく話すとしたらどうしたらいいのというぐらい、単純化して念を押して説明してもなおかつ直後の感想で、まるっきりまちがった(解釈とか分析とかそんな問題じゃなく、ただもう基礎の基礎の事実関係です)ことを、うーん最近では「馬琴は晩年目が見えなくなり、八犬伝の最後の方は嫁のお路に口述筆記させて完成させた」とその苦労話も含めて相当しつこく説明したのに「八犬伝の最後を書いたのは馬琴じゃないなんて知りませんでした(口述筆記の意味じゃないと思う、多分)」と確信を持って感想を書いて来る学生がいたり、もうこれ以上どうバカみたいにかみくだいて、簡単に説明したらいいんだろう、同業の研究者のみならず、ここまで読者をバカにしたら、読者その人たちから「なめんなよ」と抗議が来やしないか、とおののきながら超やさしく書いた文章が「専門的過ぎてわかりにくい」とか言われたり、反対にそのわかりやすい手法として書いた書き方をほんとに表面だけでうけとめて「初心者向き」とか言われたり、もう、いったいどうやったらこれ以上、知識や推理や分析を一般の人、その道の初心者、学生などにきちんと伝えられるのかと、呆然自失、お手上げ状態の気分になります。

いくらわかりやすく、面白く、楽しくと言っても、ものにはおのずと限界があるので、最近もう私はやけになって、考えてるのですが「私にはわからない」と言ってしまうこと、「自分はバカだ」と認めることは、もっとあっていいのじゃないかと思うのですよね。私だって宇宙工学とか絵画とかダンスとか平行棒とかサッカーとかだったら、そうやってあきらめますもん。自分にはできないと認め、だからその道の専門家を尊敬し、高給とっても当然と思う。
ならばなぜ、哲学とか文学とか知識とかは、「誰にもわかるのがあたりまえ」「わかるように説明できないのは教える方が悪い」とかいうことになるんだろう。
老若男女国籍人種年収その他を問わず、むいてないものはむいてないし、わからんやつにはわからんのです。そろそろそれを認めたっていいんじゃないの。

最近後輩や同僚によく言うのが「わかりやすい授業」とか「学生サービス」とか「社会に役立つ大学」とかいう要求にきちんと反論、拒否できなかったのが、現在の大学や学問研究ひいては国の知性や品性をぼろぼろにした大きな原因だって気がするのですけどね。もちろんそれは、それまであまりにも、そういうことを気にして来なかった大学や研究者の、そう言われたらへこへこ降服してしまうしかなかった情けなさでもあるのですけどね。
言わなきゃわからんと思うから言っちゃいますが、私は昔から学生サービスしすぎと言われ、わかりやすい授業をモットーとし、皆にバカにされながら学外の公開講座やカルチャーセンターの講師をしてました。だからこそ「そういうことをしないといけない」と言われたときに、「アホか」と思ったし、学生の授業評価なんか今でもまったく信じていません。

◇でもまあ私だって向上心つうものがあるから、そういう「何で私がカラスは白でなくて黒と言ったのに、紫とは知りませんでしたとか、黄色か緑かよくわかりませんでしたとかいう反応が戻るわけ

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カツジ猫