映画「グラディエーター」小説編アカデミアにて-2

その4 皇女母子の見解

「聞きましたよ」皇女はいたずらっぽい目をして総長を見た。「プール人事の話では、アカデミアの教師たちを大いに笑わせたそうですね」
軽い夜食の席だった。いっしょに食べないかと誘われて、皇女のへやに来た総長は緊張した面持ちになって、食べかけのパンを皿においた。
「よかったこと」皇女は涼しい顔でワインをすすった。「あそこの教師たちの笑うために用いる筋肉はとっくの昔にしなびて退化してなくなっていると思っていたのに、まだそんな能力が残っていたのですね。おどろくべきことだわ、マキシマス。弟があなたを総長にしたのは彼には珍しく正しい施策だったのかもしれません」
皇女は総長と自分との間に座っている息子のルシアスが皮をむこうと手こずっているオレンジをとって、上手にきれいにむいてやって手わたしながら、少年の髪をやさしくなでた。ルシアスは母を見て笑い返したが、二人の話に興味しんしんで熱心に聞き耳をたてているのがよくわかった。総長が返事をせず、皇女がからかうようなまなざしで彼を見つめて、二人が沈黙していると、少年は軽く居ずまいをただし、大人っぽく小さいせきばらいをして、「もし、おさしつかえなかったら」と、かわいい声で言った。「お母さま、プール人事というのは何なのか、僕は知りたいと思います」
皇女はやさしく息子を見つめてほほえんだ。「マキシマス総長にうかがってごらんなさい。きっととてもわかりやすく上手に説明して下さるわ」
少年は目をかがやかして総長を見た。「聞かせて下さいますか、将軍?」
「私に敬語をお使いになる必要はございません、殿下」総長はていねにに答えながらため息をかみ殺した。この、さらさらとまっすぐな金髪と、うすいそばかすの浮いたきれいな白い肌の、品のいい元気な少年を見ていると、同じくらいの年かっこうで、もっと小麦色に日焼けしていた黒っぽい目と髪の、息子のことが思い出されてならなかった。そして息子よりちょっと始末が悪いのは、この少年が文字どおり、自分のことをまるでマルスかジュピターのようにあがめていることが、あまりにもありありとわかることだった。現皇帝のコモドゥスもこのくらいの年の少年の時、年上の少年兵だった自分になついて甘えたが、あくまでも小生意気で憎たらしかったし、故郷の息子は父を尊敬しているというよりも…尊敬しているというよりも…どう言ったらいいのだろう、まるで、この人を僕が守ってあげないと、というような保護者めいた様子をあからさまに見せることがあり、そういう時、総長は何だかどきっとしたのだった。妻も含めた女たちや部下たちはしばしば総長にそういう態度をとることがあり、なれていないわけではないのだが、息子のそれはあまりにももっと純粋でいちずなので、総長はどぎまぎしてほとんど息子の前で恥じらってしまいそうになるのだった。
ルシアスはそんなことは絶対に考えてもみていないだろう。総長が何か失敗するとか知らないことがあるとかは思ってもみたことがなさそうだった。多分、目の前で総長が大失敗しても、無視してしまって気づかないのではないだろうか。それほど崇拝の色をいつもいっぱいに目にたたえ、うやうやしく一歩下がって総長を仰ぎ見ている。いったい誰が、と総長は思うのだった。私がそんなにえらいのだと、この子にここまで吹き込んだのだろう。コモドゥスってことはあるまいから、やっぱり皇女なのだろうか。そう言えば、皇女は妻や他の女とはちがって、自分を保護しようとか守ろうとかいう態度はまったく見せたことがないなと総長はぼんやり思った。しょっちゅう意地悪してからかっているが、それはそれだけ自分の力を信じてるってことなのか?
「殿下、プール人事と申しますのは…その前に」総長はきらきら輝く目で熱心に自分を見ている少年の方から心もち顔をそむけて、考えをまとめようとした。「このところ、ローマ帝国は、お金がなくなってきております」
少年は顔をくもらせた。「そうですか。なぜですか」
あなたの叔父さまがあっちこっちの改修やら新築やらの工事に熱中し、コロセウムの催しで人気とりをしてるからです、と言ってやれたらさぞ気分がいいだろうなあ。
「理由はいろいろありますが、いつかまたお話しましょう」総長は言った。「それで、アカデミアへの予算も毎年けずられて、あそこに今いる教師たちの数を毎年へらして行かなければならないのです、もう何年も前から」
「亡くなったおじいさまは、でも、いつもおっしゃっていましたが」少年は利発そうな目を輝かせて言った。「学問というものは国を支える一番大切なものだから、決してそのことにお金を惜しんではいけないのだよって。ちがうのですか?」
「私はおじいさまが正しいと思いますが」総長は答えた。「誰でもが同じお考えというわけではありませんから」
そう言いながら皇女を見た。皇女はカニの足をかじりながら、そしらぬ顔で笑いをこらえている。
笑ってる場合かと総長は腹がたった。

「とにかく、そういうわけですから」総長は続けた。「毎年、何人かの先生にやめてもらわないといけないのです。しかし、誰にやめてもらうか決めるのはむずかしいことです」
「お年をめした先生方は引退すると聞いていたけれど」ルシアスはオレンジをもてあそびながら首をかしげた。
「そうです。六十三歳になったら、定年退職です」総長は言った。「しかし、ふつう、そういう方のあとには、すぐ、同じ分野の新しい先生を雇います。そうでないと、その分野のことを教える人がいなくなってしまいますから」
「それはよくわかります」少年はうなずいた。「では、どうやって、人をへらすのですか」
「おやめになった先生のあとに新しい人をやとうのを、一年だけ遅らせます」総長はナイフとフォークをずらして並べて、説明した。「そうすると、その年は一人少なくなるでしょう?」
「でも、その次の年は?」
「次の年はまた、やめる方がいらっしゃるから、またそのあとの人を一年遅れてやといます。それをずっとつなげて行くと、いつも一人少ないですから、一人減らしたと同じことになるのです」
少年はうなずいて、しばらく考えていてから言った。「でもあの…毎年、何人かの先生とおっしゃいましたよね?」
「そうです」
「ということは、そのしくみは、ひとつだけでは足りないのではありませんか?」
「よいところに気がつかれました」総長は感心してルシアスを見た。さすがにルッシラの子どもである。「そうです。毎年何人かづつ、それが増えていくということですから、一年ごとにずらして、つないで行くこのしくみが、同時にいくつも、いくつも必要になるのです」
「それって、すごくややこしくないですか?」
「すごくややこしいのです。その通りです」
「ですよね?いったい、この人のあとを一年遅らせているのは、どなたのあとを一年遅らせたのにつながるのか…わからなくなったりしませんか?」
「ええ、少し気をゆるめると」総長はうなずいた。「だから、帳簿を作ってしっかりと管理していますが、もうややこしくなりすぎて、その帳簿を見てすぐわかる人が実はもうほとんどいないのです」
「それは…それは…大変な労力ではありませんか?」
「おっしゃるとおり…でもこれに更に『プール人事』が加わるのです」
ルシアスは椅子の背に身体をあずけて、大きなため息をついた。

「アカデミアの教師には、一番下の助手から講師、助教授、最高の位の教授までの四種類があります」総長は言った。「助手になって何年かして、研究や教育をきちんとしていると認められたら、講師になれます。やがては助教授に、教授に。それは、そういう書類を出して、教授会で皆がそれを読んで投票して決めます。ところが、アカデミア全体に、教授の椅子は決まった数しかありません。助教授の椅子も、講師のも。ですから、たとえ、皆がこの助教授を教授にしたい、してもいいと思ったとしても、もう教授の椅子がすべてふさがっていたら、誰か一人教授がやめるまで、その助教授は教授になれないのです」
「それは気の毒だ」ルシアスは顔を曇らせた。「よくあることなのですか」
「かなりしばしば」総長は答えた。「それに実は、アカデミア全体でも教授や助教授、講師の椅子は数が決まっていますけれど、さらに、それぞれの講座にその数がわりあてられているのです。ギリシャ哲学講座は三つの教授の椅子、四つの助教授の椅子、六つの講師の椅子、二つの助手の椅子。弁論術講座は教授の椅子三つ、助教授は五つ…とか、そんな風にです」
「もし…」ルシアスは考え込んだ。「そのさっきの話が逆になったら?教授の椅子は空いているけれど、教授になれる人がいない時はどうするの?」
「その場合には、教授の椅子を講師が使います。それは、いいのです。教授の椅子があるということは、教授一人分の給料は国がくれるということです。講師の給料は教授より安いですから、教授の椅子があれば、講師や助教授は雇えるのです。でも、講師の椅子で助教授は雇えないし、助教授の椅子で教授は雇えません」
ルシアスは真剣な顔でうなずいた。「なるほど。でも…ではですよ。ある講座では、教授になれる人がいるのに講師の椅子しかない。隣りの講座では、教授の椅子があるのに、講師しかいない。そういう時は、椅子を交換した方が無駄がないのではありませんか?」
「ええ」総長はうなずいた。「ちなみに、椅子とは言わないで、普通は『枠』と言ってます。それで、そういう、講師しかいないで当面使わない教授の枠を、大学全体で集めて、ためておくのです。代わりに講師枠をその講座には渡して。そして、教授枠の必要な講座に配分するのです。でも、帳簿の上では、本来どこの講座の枠だったかをはっきりさせておかないといけないのです」総長は深呼吸した。「そうやって、枠をためておくことを、プールしておくとも言って、そのような枠を使って昇任させる場合をプール人事と呼んでいるのです」
「まあ、完璧な説明だわ!」皇女が両手を持ち上げて、ぱちぱちと優雅な拍手をしてみせた。

あんたはそんなこと面白がってる場合じゃないんじゃないか。総長はそう思って、じっと皇女をにらみつけた。皇女は涼しい顔で見返したが、さすがに少し気になったのか息子を抱きよせ、「いい子ね、ルシアス」と甘い声で言った。「もうおやすみなさい。将軍とわたくしとはもう少し、大人のお話があるのです」
うちの息子なら、きらきら目を光らせて「どんな?」という顔をするところだが、と総長が思っているのも知らず、ルシアスはうやうやしく目を伏せて、「失礼しました」と言った。「それでは僕はこれで」
彼の小さい足音が暗い宮殿の廊下の奥に遠ざかって行くのを、皇女はほほえんで見送っていた。
たいまつのばりばりと風に燃えあがる音が耳につく。
総長は黙って座ったまま、テラスの外の闇に目をやっていた。意地でもこっちから口なんか開かないぞと思っていた。
皇女は落ちついて身体をよじり、衣のすそを軽くさばいて足をくみかえた。
「さあ」彼女は総長と反対側に顔を向けたまま言った。「そろそろ、わたくしたち、心にわだかまっていることを、お互いに話すべきではないかしらね?」
総長は唇のはしを、かすかにゆがめた。
「何か、わたくしに言いたいことがあるのなら」皇女は静かな、どこかうつろな、それでいて断固とした力強い声で言った。「今おっしゃいな、マキシマス総長」
総長はそれとなく、ゆっくりと目を動かしてあたりを見た。
「誰もいません」皇女は言った。「今ここには、侍女たちも、密偵も。わたくしたちは二人きり、誰も聞いている者はありませぬ。だから、語りあいませぬか。わたくしたちがそれぞれに、考えた果てに選びとった、みずからの生き方を。この国の未来を」
小声でささやこう、マキシマス。老皇帝はそう言った。ローマの未来を。我々の夢を。それははかなく消えそうなともしび。冬も越せそうにないほどの。
ゲルマニアの陣営で、テントをゆすぶっていた風の音。闇に流れる白い雪。
あの方は、もうこの世界のどこにもいらっしゃらない。
そのことを面と向かって嘆きあうことさえも、私たちには許されていない。
私は、あの方を裏切った。
多分、ローマも。
愛する家族を守るために。
あの方はきっと私を許して下さるだろう、と総長は思った。それだけに、私が自分を許せないのだ。

皇女が、さぐるようにこちらを見ていた。
この方も私と同じだ、と総長は思った。ルシアスを、息子を守りたい、おそらくはそれが、この方の最初に考えたことだったのだ。
なら、もう何も言うことはない。
総長は立ち上がった。
「申し上げることはございません。私も、もうそろそろ」
「お待ちなさい」
皇女もすっくと立ち上がった。衣のひだが、なだれおちるように動いた。彼女は総長を、にらみつけた。総長もにらみかえし、二人はしばらくじっとそのまま立っていた。

まもなく皇女が目をそらした。紅い唇にかすかな苦笑が浮かんだ。
「弟をあのままにしておくのですか?」彼女は総長を見ないまま言った。「彼のしたことを、そのままにしておくのですか?」
総長は目を細めて、皇女を見返した。
「彼が何をしたのか、私は存じません」
「嘘が下手ね」皇女は乾いた笑みを浮かべた。「ベッドの上にかがみこんで、父の遺骸を調べていたでしょ。首筋に手をあてるようにして。あれは何?何を知ろうとしていたの?」
老皇帝の身体は、まだほのかにあたたかいような気がした。雪のちらつく暗い戸外からテントに入って行ったせいだったかも。夜中に副官のクイントゥスから起こされた。皇帝がお呼びだと告げられた。そしてテントに入って行くと、ルッシラとコモドゥスがいた。彼女のほおには涙が流れ、コモドゥスがじっとマキシマスを見て言った。「父上は亡くなった。寝ている間にひとりでに息をひきとられた。眠るように」
そして、二人が見ている前で、自分は遺骸の上にかがみこんで、静かに老皇帝の青ざめた額にキスをした。首に手をそっとあてると、ぐにゃりと動いて骨が折れているのがわかった。
そして顔を上げるとコモドゥスが立っていて、熱っぽいこわばった顔をじっとこちらに向けていて、片手をさしのべ、言ったのだ。「マキシマス。私に忠誠を誓え。おまえの新しい皇帝に」
何であの手をとったのだろう?
自分で自分が許せない。

「父の死を、どう思うの?」
皇女が重ねて、また聞いた。
この方は何をどれだけ知っているのか。総長は思った。私から何を聞き出そうとしているのか。
いつも弟君を、コモドゥスをかわいがっておられた。彼が父のあとをついで皇帝になったら、あなたは父と同じように忠誠をつくしてくれますかと聞いた。
「私はローマのしもべです」
あのとき自分はそう答えた。
そのことばに、ゆめ嘘はない。
幼い日、三人で子犬のようにじゃれて遊んでいる時から、三人はそれぞれにコモドゥスとルッシラの父に…偉大な賢帝マルクス・アウレリウスにあこがれ、彼への尊敬と愛を語りあっていた。
いつか、自分たちが大人になったら、とお互いに言い合った。もっと、もっと、すばらしいローマを作ろう。皆で力をあわせよう。ネロやカリギュラ、その他の先祖たちがした失敗などはくり返すまい。

自分は、あの日々を失いたくなかった。
あの日のコモドゥスを、ルッシラを、自分を。
知りたくなかった。
自分たちが変わってしまったことを。
夢見た未来がないことを。
認めたくなかった。信じたくなかった。
だから…。
総長はせきばらいした。
「今でも、信じられぬ思いが」
皇女はしばらく黙っていた。それから「ええ」と低く言った。「わたくしもです」
そして更に低くつけ加えた。
「時間を元に戻せたら」
「本当に」
思わずあいづちをうった総長は、だがすぐに思った。いつまでだ?
老皇帝が死ぬ前の夜?
それとも、二人が会った頃?
二人の目が合う。皇女が笑った。
「ひょっとして、同じことを考えていて?わたくしたちは」

「さあ」総長の声はかすれた。
皇女の身体が近づいてきていた。美しい指先が軽く総長の腕にふれる。「わたくしたち二人だけでも」ひとり言のように彼女は言う。「時を、戻せないものかしら?マキシマス?」

その5 悩める旧友

総長はがばとはね起き、輿の中を見回した。
彼の大きな重い身体が身動きしたので輿はゆれ、かついでいる男たちがよろめいたのがわかった。一人が呪いのことばを吐いた。
それで総長は逆に安心した。襲われたのではないのだな。だがたしかに輿の中に何かがいると思ったのだが。
輿は走りつづけている。何ごともなかったように。ローマの町の朝のざわめきが周囲を通り過ぎて行く。犬の鳴き声、物売りの声。パン屋のかまどのふたががたんがたんと開く音。噴水の水音。
びいい。それにまじって声がした。
はじかれたようにふり向いて、総長は輿のすみのクッションとひざかけの重なりあったあたりをじっと見た。片手を輿の天井の取っ手にかけて身体を支えながら、そろそろともう片方の手をのばし、指先で布をつまんで持ち上げてみる。
いた。
金色と黒の毛玉のかたまりが。丸い小さい耳のついた頭をもち上げ、こちらを見上げて、また、いっちょまえに白い牙の生えそろった桃色の口を開けて鳴いてみせた。
びいいいい。
「おまえのその声、何とかならんのか」総長は思わず、ひそめた声でそう言った。
子トラは恥じ入る様子もない。気持ちよさそうに太い前足を重ね直し、総長を見ている。輿のゆれるのに調子をあわせて右に左に首をふっているようなのが、いかにもえらそうで人を見下している。
「いったい、いつ入ったんだ?」総長は絶望的な目つきであたりを見回し、つぶやいた。「私は仕事に行くんだぞ」
びいい。子トラは何を誤解したのか、おもむろに起き上がり、総長の上にのしかかってきた。バランスを失った総長はあおむけに倒れ、また輿がゆさゆさゆれる。そんなことにはおかまいなく、子トラは総長の顔に鼻づらをくっつけ、ざらざらの舌で総長の顔をぺろぺろとなめた。

総長はトーガの中に子トラをつつみこむように隠して輿を下りた。誰にも会わぬといいのだが、と念じながら坂道を上り、階段を上る。早朝の構内には薄く霧が流れて、人の姿はまだ少ない。それでもひょっと見られたら、と居心地よげにぴくりとも動かず総長の腹のあたりに抱かれている子トラのずっしりとした重さを感じながら総長は思った。人は私が運動不足で腹にしこたまむだ肉がついたか、いっそ妊娠したとでも思うことだろう。
ようやくへやにたどりつくと総長は、子トラを床に放り出した。
子トラは猫のように一回転して、太い脚をふみしめて器用にモザイクの床の上に立ち、勝ちほこったように、びいいと鳴いた。どうだ、来たぞ、と言っているように見える。
「おまえなんかよりペルセウスの方が百倍もかわいい」総長は入口の柱に背中をつけて立ったまま、子トラを見てそう言った。はっきり聞こえるような大きい声で。
子トラは気にした様子もなく、へやの中を歩き回り、窓わくに前足をかけて外をのぞいている。
「コロセウムに持ってくぞ」総長は頭をかきむしった。「あそこでハイエナのえさにでもなればいいんだ」
子トラは聞こえないふりをしている。としか、総長には思えなかった。彼はおもむろに窓わくに足をかけたままふり向き、びいいと鳴いた。おまえもここに来て、外でもながめろ、と言いたげに。
「何だ、何が見えるんだ?」
なかばあきらめた声で言いながら、総長はそれでもつい歩いて行って、子トラの横から総長室の下の広場を見下ろした。
そして、ん?と首をかしげた。
立派な白馬が眼下の広場に着いて、黒い毛の飾りがついたかぶとをかぶった立派な将校が、うやうやしく頭を下げる学部長たちにあいさつを返しながら馬から下りようとしている。腕に抱えた指揮官の杖、緋色のマント。近衛隊長の服装だ。
「クイントゥスじゃないか!」総長は思わずそうつぶやいた。

総長はすっかりうれしくなった。クイントゥスとは少年兵のころからずっと、軍で生活をともにしてきた。生真面目な、きびしい性格で、そのくせ変なところで情にもろい。計算高くて現実的かと思っていると、時にものすごくがんこになって筋を通したがる。
あまりにも自分といろいろなところで考え方がちがうので、マキシマスは自分が将軍になった時、ためらわずクイントゥスを副官にした。絶対、自分が考えつかないことを考えつき、気づかないところに気がついてくれると思ったし、どことなく自分のことを一歩引いて見ているような感じも、べったり忠誠をつくされるより逆に安心できたからだ。だが一度うっかりそう言うと、クイントゥスはひどく怒って傷ついた目をしたので、マキシマスはすっかりとまどってしまった。
とにかくクイントゥスといると、何かとぎくしゃくするのだが、総長はそのぎくしゃく感が何とも言えず好きだったのである。そう言うときっとまた、彼は傷つきそうな気がしたので口に出すのはひかえていたが。
離れてしまうと淋しかった。何かしていて、あ、こういうことするとクイントゥスは怒るな、と何となく思ってほほえんでしまうことがある。
そのクイントゥスが今、目の下の広場にいる。総長は子トラの頭をなでて、そのまま部屋からとび出して、彼を迎えに走って行った。

階段の途中で二人は行きあった。総長がとびついてクイントゥスの両肩を抱くと、きびしくひきしまったクイントゥスの古い傷あとのある顔にかすかな笑みが浮かんだ。「元気そうだな」と身体を離してつくづくと総長を見ながら彼は言った。
「ちっとも」総長は首をふった。「昔がなつかしいよ」
クイントゥスはそれには答えず、あたりを見回して、「アカデミアも何だかみすぼらしくなってきてるなあ」とつぶやいた。「びっくりしたよ。建物も庭もずいぶん荒れているじゃないか」
「そうか?」総長は首をかしげた。「私はここの出身じゃないから、以前のことがわからない。立派だなあと思っていたが」
クイントゥスはちょっと哀れむように総長を見た。「昔はこんなもんじゃなかった。もっと手入れが行き届いていたしな。何だ、予算が少ないのか?」
「よく知らない」総長は白状した。「でも学部長たちはしょっちゅう、そう言ってこぼしてる」
話しながら二人は階段を上がり、総長室に入った。子トラの姿は見えない。総長はちょっと回りを見回したが、どこかそのへんの森にでも入って行っていなくなってしまったらちょうどいいと思って、放っておくことに決めた。
「座ってくれよ」総長は寝椅子をさした。「今、お茶を持って来させる」
「うん、いや、ちょっとここからの景色を見ていたい」
「好きにしてくれ」総長はクイントゥスの肩をたたいて、奴隷を呼び、飲み物と菓子を持ってくるよう言いつけた。

「それで、おまえの方はどうなんだ?」運ばれてきたワインを水でうすめながら総長は聞いた。「近衛隊は?忙しいんだろうな?」
「まあ、前線とはまたちがうが」クイントゥスは総長の向かい側に腰を下ろしながら言った。「これだけの都の治安を守るんだからな。楽じゃない」
そしてしばらく黙っていてから、「陛下に会うか?」といきなり聞いた。
「陛下?いや…同じ宮殿にいるといっても、あそこは広いし、めったにお顔を見ることも…」総長は首をかしげた。「おまえこそ、いつもいっしょにいるんじゃないのか。陛下の警護をしてるんだから」
「まあ、そうだがな」
「じゃ、おれに聞くこともあるまい」
「そうなんだが…」クイントゥスはしばらく考えていた。「陛下はかぶとの羽のことを何か言っておられなかったか?」
「かぶとの羽?」総長はぽかんとした。
「これだよ」クイントゥスはかたわらにおいた、ぴかぴか光る銀色のかぶとについた、やわらかいひらひらの黒い羽かざりを指ではねてみせた。「赤がいいとか緑がいいとか、何か言っておられなかったか?」
「知らんな」総長は考えてみた。「特に言ってはおられなかったと思うが…」
「だいたいが赤と緑のどちらがお好きのように見える?」
「わからん…そんなことが何か問題なのか?」
「問題か、問題でないか、それさえもまだよくわからん」クイントゥスは言った。

話がのみこめないままに総長はクイントゥスとグラスを合わせた。「ローマのために」
「ローマのために」クイントゥスはどことなくうかぬ顔でくり返した。「そうか。何もおっしゃっておられなかったか」
「何が?かぶとの羽かざり?」
「ああ。どうもこの色が…今、兵士たちのは暗い赤なんだが…お嫌いなのじゃないかという情報がある」
「へえ」
そんなことが何か問題なのだろうかと総長は思った。
「先日、コロセウムでおれに、かぶとの羽かざりの色も、たまには変えると面白いがと話しかけられた。たとえば紫とか黄色とか、と」
「ふうん」
かわいそうによほど話題がなかったんだなと総長は思った。クイントゥスは無口な分重厚にみえて、深遠なことを考えていそうにみえるが、実はそんなに高尚なことを考えているわけでもないことを、長いつきあいの総長はよく知っている。黙然と目を閉じ腕組みをしているから、おもむろに口を開いた時、何を言うのかとかたずをのんでいたら、じゃがいもの皮はゆでる前にむいた方がいいとか大まじめで重々しく言うので、総長は気分的にずっこけたことがある。恐ろしいのはそれでもまだ、雰囲気にのまれてだまされて、何か重要なご託宣でももらったようにうなずく兵士や上官もけっこういたりするのである。そんな時、つい「たかがじゃがいもじゃないか」と言ってしまうのが総長の悪いくせで、すると兵士たちの何人かが夢からさめたように笑い出したりする。

クイントゥスはそういう時、別に怒ったりもしない。「うん、たしかにそうなんだが」と、もう回りの兵士たちが笑いをこらえて目くばせしているのにも気づかず、大まじめに話をつづけたりする。ああ、こいつ本当にいいやつなんだなあ、と総長は思い、彼をからかった自分のことを逆に恥ずかしく思うのだった。
総長自身も人からは無口な方だと思われている。だがそれは必ずしも正確ではない。好きな相手だと彼はけっこうおしゃべりで、クイントゥスから「おまえ、ただ、人の好みが激しいだけだろ」と言われたことがある。
たしかに、いやな相手といっしょにいるのは総長は大きらいだ。しかもそれが、顔に出る。なるべくそれを出さないように努力しているのと、クイントゥスを見ていて、黙ってると相手がいいように解釈してくれるってこともあるなと学んだので、そういうときはほほえんで黙っているようにつとめている、そこが無口と言われるゆえんだ。
だが、もともとはおしゃべりな面もあるし、クイントゥスもだが、皇女ルッシラや現皇帝のコモドゥスなども、基本的には彼は好きなのだった。それが伝わるのかコモドゥスはマキシマスに対しては、こちらが黙っていても少しも恐がらず、じゃれて、いじめにかかってくる。
クイントゥスに対しては、どうもそうではないらしい。コモドゥスは人の受けをねらって生きているようなところがあり、マキシマスがきげんの悪い時でも、実にうまくつぼをねらってきて、よく、こんなことで絶対笑ってやるもんかと歯ぎしりしながら、それでもどうしても耐えられずに唇のはしをぴくつかせてしまうことが少年のころ何度もあった。そんな時のコモドゥスの、ずるそうな、わくわくした、夢中の喜びの表情は、今思い出してもマキシマスは深々とため息が出る。
多分、クイントゥスにはそれがきかないのだ。何度かやってみて、相手の反応が悪いのでコモドゥスは自信を失って萎縮してしまったのだろう。
クイントゥスはただそういう感覚が鈍いだけで、気にすることはないのになあ。かぶとの羽かざりを横目でにらみながらワインをすすっているクイントゥスを見て、総長は思った。
それできっと、あのバカ皇帝は(総長はもうこういう風にしかコモドゥスのことを呼べなくなっている自分に気づいてぞっとした)、何か話題を見つけようとして必死になって、かぶとの羽のことなんか持ち出したに決まっている。「む、紫ですか?」と目を白黒させて笑ってやれば、それでよかったのに。

「放っておけば」と総長は言ってみた。
「ん?そうはいかんよ」クイントゥスは夢からさめたように、ぶるっと首をふった。「将校たちとこの件で、もう何度会議を開いたことか。都の近衛軍が何人いて、かぶとがいくつあると思う?その羽かざりを皆とりかえるとなると…莫大な追加予算が必要となるのだが」
「だから、放っておけよ」総長は声を強めた。「あいつ…陛下は何も考えないで言ったに決まってるだろうが」
「おれも実はそう思う。だが、ひょっとして考えておられたらどうする?問題はそこだ」
「そうかなあ」
「たとえば、とおっしゃったんだぞ。たとえば、と」
「だから何だ?」
「古い将校たちの話では、皇帝がたとえばこうしたらどうだろうか、と元老院や近衛軍に対して口にされる場合、それは、私はそのことを強く望んでいる、ぜひともそうしてもらいたいが、はっきり言うわけにいかないからこう言っている、そうしてもらわなかったら非常に困る、もしもそうしなかったら、それなりの処置をとるから覚悟しておけよなー、と、こういうことであるらしい」
「よせよもう」総長は手をふった。「それは古参兵のたちの悪いやつが、地元の村の者をおどかしてニワトリかなんかまきあげる時に使うせりふだろ。いやしくもローマ帝国の皇帝ともあろう方がそんな姑息な手段をおとりになる必要がどこにある」
「それだからおまえは甘い」クイントゥスはまた哀れむような目で総長を見た。「なあ、ここはローマだぞ。軍人式のまっすぐなもの言いは通用しないんだ」

「せめて紫色じゃなければなあ」圧倒されて総長が黙っているとクイントゥスはますます深刻な顔になってワインをすすった。「しかし、たとえば紫色、とあれだけはっきりおっしゃったから」
「だったら、黄色にしたらどうだ?」総長はそろそろもう、この話題にうんざりしていた。
「うん、そういう意見の者もいて、将校たちはまっぷたつに割れている。ゆうべも、その前の日も深夜まで会議だ」
「紫色だったら、なんか都合が悪いのか?」
「おまえもう、ほんとに何も知らんのか?」クイントゥスは悲鳴のような声をあげた。「紫色は元老院議員のトーガのふちの色なんだよ。そんなもの、かぶとの房に使ったら、元老院からまたきっと、どえらいクレームがつくに決まってる」

そうか、元老院というものもあったなあと総長は妙にうら哀しく考えた。
「あそこには、グラックス議員というカミツキガメみたいな、がんこおやじがいる」クイントゥスはうめいた。「すきあらば軍の予算を削ろうと虎視眈々とねらってるガイウスっていうスキンヘッドのおやじもいる。あっちについたりこっちについたり右顧左眄がトーガをまとって歩いてるようなファルコっていう若手もいる。そんなやつらを敵に回してみろ、近衛軍は破滅だよ」
「かぶとの羽のことなんかさらりと忘れて」総長は言った。「都の警備に没頭しろよ。そうしたら何かまずいのか?」
「予算ががっぽり削られる」苦虫をかみつぶしたような顔でクイントゥスは言った。「羽かざりどころか武器の補充もできなくなる。刃こぼれのした剣や薄っぺらな鎧で部下を盗賊や密輸業者と戦わせるわけにはいかん」
「陛下だってそんなことをお許しにはならんだろう」
あの派手好きのみえっぱりが、近衛軍をみすぼらしくさせておくわけがないではないか。そう思ったが総長は、そこまでは言わなかった。
「いや、ご自分の意向を無視されたとあっては、みせしめのために何をなさるかわからん」
「考えすぎだと思うがなあ」恐る恐る総長は言った。
「それでなくても元老院と陛下との対立は深まってきつつあってな」クイントゥスはますます沈痛な顔になった。「まさかと思うが陛下は近々、元老院を完全に廃止し、皇帝の独裁体制を築こうとしておられるという噂だ」
「何だって?それじゃあまるで逆じゃないか」
「何と?」
総長はうっとつまった。不覚にもまた思わず涙があふれそうになったのを、まばたきしてごまかした。
帝位をついでくれ、マキシマス。
老皇帝はそう言った。
ローマを再生させるのだ。はびこる不正をただし、皇帝の権力をすべて元老院に戻したい。
それができるのは、おまえしかいない。
おまえは不正に汚されておらぬ。
私は、と総長は思った。何をしているのだろう?
この都で。このアカデミアで。

「元老院の息の根をとめるのは、陛下が思ってるほど簡単なことじゃない」クイントゥスは続けた。「だが、あの方は案外やってのけるかもしれん。恐いもの知らずの強みってやつだ。それに民衆はもう元老院のだらだらと手続きや形式にこだわる議論に退屈し、あきあきしている。皆の気に入る派手なことを次々やってのける陛下の方がずっと人気があるんだよ」
「あのバカ、何をやってるんだ?」
「マキシマス」クイントゥスは首をふった。「ことばに気をつけろ。かりにも彼は皇帝だ」
そういう言い方の中にうやうやしいひびきがひとりでににじんでいるのを、苦々しく総長は聞いた。こうなんだよなあ、クイントゥスって。中味のなさはわかっていても、目上だというだけで自然と敬慕の念がわくらしい。特技といえば特技だな。それともあるいは私の方が、少しおかしいのだろうか。
「で、彼は何をやるんで、そんなに人気があるんだ?」
「コロセウムでの派手な催し。食い物や景品のばらまき。それにご自分も着かざって美しく、アイドルになろうとしておられる」
「アホか」総長は思わず吐きすてた。「民衆もまた、そんなのに夢中になるのか。信じられんな」
「それが民衆だ。知らんのか」クイントゥスは首をふった。「やつらはバカだよ。何も考えていない」
「元老院は知っているのか、陛下のそういう計画を?」
「知らんこともなかろうが」クイントゥスはワインをすすった。「何といっても年よりばかりだからな。対応がすべて遅い。カタツムリもあれに比べりゃすばやく見えるほど、何事にものろのろ反応する。その点、陛下の敵じゃない。陛下の動きは電光石火だ。何も考えてないから、あれだけ速いのかもしらんが、それだけでもないと思う。陛下は本能的にそういう時に何をすればいいかカンがいい。けんかのこつを知っておられる」
言われてみれば、そんな気もした。あざといけんかのやり口や、人の心をもてあそび、裏をかく手口にかけては、たしかにコモドゥスはたけている。
「案外、陛下は…」総長は口ごもった。
「何だ?」
「いや、いい」
「言えよ、何だ?」
「その羽かざりだが」
「何だ?」
「陛下は元老院と自分のどっちの意向を大切にするか、近衛隊の姿勢をためしてるんじゃないんだろうな?」
「おいおいおいっ!」クイントゥスはワインにむせかえった。「おまえ何という恐ろしいことを…やめてくれ、酒の酔いがいっぺんにさめた」
「ありえないことじゃないだろう」総長は舌打ちした。「あの性格だぞ」
クイントゥスは無言で、ほお杖をついて考えこんだ。

何だか、こっちはそのつもりではなくても、ついクイントゥスの何ごとも深刻にとらえてしまうペースにのせられたのかな、と彼が帰ったあとで総長は思った。考えこみながら書類をまとめて帰りじたくをする。中庭に待っている輿のたれ布をはねのけて中に身体を入れようとすると、すみにおいてあったクッションがもぞもぞと動いて聞きおぼえのある声がした。
びいい。

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