映画「グラディエーター」小説編冬空
目次
冬空 -マキシマスとクイントゥスー
彼は常に好運に恵まれていた。信じられない運の良さでみるみる私に水をあけて行った。どうしてあんなに、運命の女神はあいつにだけ微笑むのだろう。
ともにローマの少年兵として戦場で会った時から、彼の副官となって活躍するまで、「私」はずっとそう思いつづけていた。彼が意外な事件をきっかけに没落して、自分は近衛隊長となり、立場は逆転したと思ったのもつかの間、この世の最底辺の剣闘士奴隷として、なおかつ彼は、人々の心をつかみ、喝采を浴びて、ローマ市民の寵児となる。なぜこうなってしまうのか。なぜいつも…。その謎が解けた時、彼との別れがせまっていた。
第一章・神々に愛されて
──(1)──
息子よ。そして、娘たちよ。
皇帝に従って戦いに赴き、おまえたちの母上とおまえたちの住むローマの館を後にしてから、すでに七年近い歳月が流れている。
帰郷のめどもつかぬまま、私はまだ命のある内に、おまえたちに伝えるべきいくつかのことを書き残しておこうと思い立った。
私がこのように言ったからとて、気づかうことは何もない。戦況が悪化したわけでもなければ、私が病を得たわけでもない。むしろ、私の年の老人にしてはいたって健康というべきであろう。
ただ、私の父上の亡くなられた年令を一年、また一年と過ぎる内、このごろ、ともすれば、父上のことを私は思い出すようになった。
私の父上は寡黙な方であった。マグナス家の男たちはおおむね代々、無口であるが、父上もまたそうであられた。その父上が何かの折りに言われたことがある。
「誤っていると思ったら、たとえどこからでも引き返すことはできるのだ」と。
また、こうも言われた。
「誤っていると気づいて、なお、その同じ道を歩き続けるとしたら、それは、同じ道に見えても、それまでのものとはまったくちがったものになる」とも。
このことばは幾度か私の心を支え、私のとるべき道を決定させた。
父上の亡くなられた年令を過ぎ、髪も白くなった今、私もまた、おまえたちに、そのようなことばのいくつかを残し、それが、おまえたちが人生において苦しみ迷う時の支えとなり、指標となることを祈ろうと思う。
──(2)──
とは言え、私がおまえたちに残したいと思うことばは、すべて、かつて私が知っていた一人の男にまつわるものだ。
それ故に、おまえたちに語りたい私の教えを伝えるには、その男と出会い、別れるまでのことを、私は語らねばならぬことになる。
だが、これは決して、彼の物語ではない。
彼と会い、彼を見つめ続ける中で、いくつかのことを学んだ…学ばざるを得なかった、私自身の物語である。
おまえたちの父の、物語である。
──(3)──
紀元一六七年の夏、私はローマ軍の一少年兵として、ゲルマニアの戦場にあった。
その年、国境の蛮族の勢いは強く、戦況は楽観を許さなかった。
巨大な投石機があちこちでうなりをあげ、晴天の空を横切って白く光る火矢が飛び、血煙と砂煙が錯綜する荒野の一角で、蛮族の一人と刃を交えていた私の前を金色の光のような何かが通過し、巨大な敵の一人がどっと倒れたのが見えた。若々しい声の雄叫びが上がり、私と同じくらいの少年兵らしいとちらと思いつつ、私も敵の腕をかいくぐって胸を突き、よろめく相手にとどめをさした。
あたりを見ようと振り向いた時、岩の上からさっきの金色の影が躍りかかり、私の背後に迫っていた敵の一人と重なり合って地面に倒れた。
金色と見えたのは、明るい色の革の鎧に、日光が反射して輝いていたのだ。
地響きをたてて、すぐ脇を騎馬が通過し、とびすさってよけた私の目の前で、とっくみあっていた二人が馬のひずめの下に入った。何かがつぶれる鈍い音が響き、思わず目をこらすと、土ぼこりの中で、半身、血に染まった少年兵が、頭をひずめに砕かれた相手の身体の下から何とか這い出そうともがいていた。私がその死体を蹴ってのけてやると、少年兵は飛び上がって私に笑いかけ、また一散に乱戦の中へと走り去った。
──(4)──
その夜、私が手伝いにかりだされて、病院で負傷者の手当てをしていると、誰かが肩をたたいて「昼間はありがとう」と言った。「あいつ、すごく重かったんで、どうしようかと思ってた」
「けがはなかったのか?」
私が聞くと、彼は手を開いて、手のひらの皮がぺろりと赤むけにめくれているのを見せて「これだけ」と言った。「友達が足をやられたって聞いて、見舞いに来たんだけど、どこにいるのかわからないんだ」
「さがしてやろうか?」私は言った。
「いいよ、自分で…」
言いかけた時、あわただしく負傷者を運び込んできた一団にぶつかられて、彼は私の方にのめった。そして少し自信のなくなった目で、うめき声や叫び声が入り乱れてごった返している、薄暗い兵舎の中を見た。
「見つけられるか?」私は聞いた。
「多分、大したけがじゃないんだ」彼は口の中で言った。「じゃまになるから、明日来ようかな」
「隊と名前がわかったら、伝言を伝えておいてやるよ」
彼は、自分の手のひらの傷を子犬のように舌でなめながら、友人の名と隊を私に告げた。その隊の名も、彼の軍装も、正規軍の兵士であることを示していたが、ことばにはやわらかいなまりがあって、属州の出身とわかった。誰かにひきたてられてローマ市民になれたのだろうが、よほど何か才能があったのかと、つい確かめる目で私は彼を見た。そして、身体のすくすくと大きなわりには、子どもっぽくのんびりした外見に、さほど天才肌にも見えないということは、ただ運のいいやつなんだろうなと、とっさに感じた。そう言えば戦場でも、馬のひずめに相手がふみつぶされ、下敷きになった時は私が蹴りのけてやったし。
すごい実力のある手強い相手ではないな、という気持ちが私の警戒心を解き、同年輩の少年兵には感じたことのない保護者めいた心境と、親切をする余裕を生んだ。
「ここで待ってろ」私は彼にそう言って、壁際に押しつけておき、塗り薬を少しもらって来て、渡した。
「手につけておけよ。なめたりしてないで」
彼は驚いたように私を見て、それはうれしそうに笑った。次の日までも思い出すたび、心が暖かくなったような、あけっぱなしの無心な笑みだった。そして礼を言って、人々の間をしなやかな身ごなしでぬうようにしながら、兵舎を出て行った。
──(5)──
ずっと後になって、彼が軍を去った後で残された荷物を点検していた時、故郷の妻から送られてきたらしい、こまごまとした細工物がつまった小さい箱の中に古びてひびわれた貝殻を一つ見つけて、私の胸はとどろいた。もはや記憶も薄れていて、たしかではなかったのだが、あの日、塗り薬を詰めて彼に渡した貝殻とよく似ている気がしたのである。
ただの気のせいかもしれなかった。他のものと同じように妻が故郷から送ってよこしたものかもしれなかった。
手にとって眺めてみたが、色あせた紫と薄い黄色のまだら模様には見覚えがあるようで、ないようで、あの時のものかどうかはわからなかった。薬の匂いでもしないかと鼻に近づけて確かめてみたが、むろんもう何の香りも、残っていようはずはなかった。
──(6)──
その数日後、兵舎で私たち少年兵がさいころ遊びをしていると、ローマ近くの駐屯地から来たばかりの新しい連中がやって来て加わったが、その中に彼がいて、私を見つけてそばに来た。
しばらく続ける内に、誰の目にも、彼がいいカモだということがわかった。とぼけるのが下手で、じっと顔を見るとすぐ、まつ毛がぱちぱち動き出したり、笑い出したりして、手の内が皆ばれるのだ。
その代わり、何も考えないでふる賽の目はやたらとよかった。「おい、神々に愛されてるな!」と私たちは何度も首を振った。
そして、この晩のことを他の連中は忘れたようだが、私はいつまでも覚えていた。特にその夜、私たちが繰り返し、彼にかけたそのことばを。
それというのが、それからあまり日がたたない内に、私が痛感しはじめたのは、彼について後によく人々が語った、天才的な戦闘能力や獣のような勘のよさ、無邪気さ、気性の激しさ、といったたぐいのことではなくて、並はずれた運のよさだったのである。
むろん、よく言われるように運も実力の内ではある。しかし彼の場合はどう考えても、それをはるかに凌駕していた。いつも、いいところに居合わせる。やったことが、いい結果につながる。それが普通の程度ではない。
こう言ったからと言って、彼が要領がいいわけではなかった。むしろ、悪い方だった。これは私も似たところがあるからわかるのだが、人の気持ちに無頓着で、何気なくした発言で相手が怒ったり笑ったりして初めて、驚いて「なぜだ?どうして?」という反応になることがある。
また、緻密ですきがない私とちがうところは、何につけても大ざっぱだった。一度、彼のたてた新兵の訓練計画の、日程その他の不備をいちいち細かく指摘してやると、怒るどころか呆然として私を見つめてしまったものだ。「よく、そんなところにまで気がつくなあ」と、しんから感嘆した声をあげ、こっちが気恥ずかしくなったぐらいだった。
「そんなこと、誰だって気がつくぞ」
照れ隠しにそう言うと、彼は「そうかなあ」とつぶやき、計画書を見つめ直しながら、「おれって、すごくいいかげんなんだろうか」と首をかしげた。「おまえが言ったところ、そのとおりに直させてもらってもいい?」
「いいさ」私はうなずき、その計画が実行されてうまく行った時は、それなりに誇らしかった。彼は律義に、私が協力してくれたことを皆に説明していたが、聞いていた者がどれだけいたかは怪しい。
彼は自分に関する伝説を作り上げてしまう力を持っていた。当人はそのつもりがなくても、周囲がそうしてしまう。他人の努力や功績を、人々は彼の伝説の中にとりこんで、彼のものとして記憶し理解する。私のような周囲の人間たちの輝きは、彼の持つ輝きの中に吸収されて消えがちになる。
だから私は、人々が彼について言っていることを、しばしば彼自身に確認することにしていた。
「おまえ、昨日、川で溺れてた子犬、助けた?」
「あ、それ、おれじゃない。隣の隊のやつだよ。おれはそこにいたけど、犬をいれてやる籠を貸してやっただけ」
「おとといの戦闘で、蛮族の首を二人いっぺんにはねたって、ほんとか?」
「そんなの、できるわけないじゃん。こっちも二人だったよ。はねたのが同時だったから、そう見えたのかもな」
「肩ごしに後ろ向きに槍投げて、飛んでいる鳥を落としたって?」
「あー、もう嘘だろ、またその話?ちょっとふざけただけなのになあ」
うっかり冗談も言えやしないよ、と彼はぶつぶつ怒っていたが、そんなとんでもない話も、彼ならひょっとしたら、と思わせてしまうところが彼にはあったようである。
ようである、と言ったのは、私には彼のそういう特別なところが何も見えなかったからだ。
どう見ても実に普通の人間に見えた。ちょっととろくて、ぼうっとしていて人がよく、無器用にさえ見える男だった。
ただ、まるで幸運の女神に手をとられて歩いているように、それはもう、ただひたすらに、とにかく運がいいやつだった。
──(7)──
思いつくままに書いてみよう。
たとえば彼が体調を崩して、鼻をぐすぐす言わせていたり、腹が痛いと青ざめている日には、まず絶対に敵は襲って来なかった。悪意ある者の目で見たら、敵と通じているのではないかと疑いたくなるほどに、彼の元気がない時は敵の襲撃もないのである。
その逆に、彼がむしゃくしゃときげんが悪く、落ち込んでいらいらしていると、絶対に敵は襲ってきた。それで、胸に抱えていたうっぷんを晴らすかのように、狂った野獣もどきに彼は相手を殺しまくり死体の山を築いては、上官たちに認められ、出世の糸口を作ってしまうのである。
彼が私より一足先に百人隊長になったきっかけというのも、私たちが酔っぱらってなぐりあいの喧嘩をしている時、とめに入った上官をまちがえて彼が殴り倒してしまったのが原因だ。そのことで彼はさんざん叱りとばされ、罰としてその夜、歩哨に立たされた。すると敵の偵察隊がしのんで来た。目のいい彼はたちまちそれを発見し、矢と槍であっという間に三人を倒し、大将格の一人にとびついて組み打ちの末、生け捕りにしてしまった。その時、その捕虜から得た情報が大いに役に立って、次の戦いは大勝利をおさめたものだから、結局この件で彼は抜擢されたのだ。
皆で祝い酒を飲んでいる時、彼に殴り倒された上官は「おれに感謝しろよな、足を向けて寝るな」と、しつこく彼にからんで繰り返して皆に笑われていたが、その気持ちはわかる気がする。
──(8)──
上官と言えば…
そもそも、軍隊が何でローマが何か、よくわけもわからぬまま、兄たちにくっついてスペインの田舎から出て来て、駐屯地でうろうろしていたところを、そんな子どもがそのような場所にいるのは珍しかったから皇帝陛下の目にとまり、我が子のようにかわいがられて学問を教えてもらっていたという、その運の良さからして、すでに尋常ではない。その関係で、皇女や皇太子ともつきあいがあって、よく遊んでいたというのに至っては、もはや何をかいわんやだ。
私は前線の基地で初めて彼に会ったのだから、その頃のことは知らない。だが、同じ駐屯地から来た、いずれも彼より年かさの兵士たちは皆一様に口をそろえて「あれはかわいそうだった」「見ていられなかった」と、当時の彼に同情する。
聞くところによると、皇女も皇太子もわがままで彼を困らせていた上に、意地悪な上官が一人いて、皇帝一家にかわいがられている彼に嫉妬して、ことあるごとにいじめていたという。ささいなことで罰を与え、皆の前でどなりつけ、つらい仕事を選んでは片っぱしから押しつけてやらせていたとか。
本当かどうか、例によって私は直接彼に聞いた。
「あの人?そんなにひどい人じゃなかったよ」彼はけろりとして答えた。
「皆の前で、なぐられたんだろ?」
「そんなこと、あったっけ…ああ、あれか。あれはねえ、わざとしてくれたんじゃないのかな。皇太子殿下が一人だと恐がりなんだけど、おれといっしょだと安心するのか、危ないことばかりしたがって、一度とうとう火矢に使う油で、手にちょっとやけどをされたんだよ。それで、おまえの監督が悪いと言って、おれをなぐってくれたんだけど、はんぱじゃないなぐり方だったから、殿下が腰を抜かしてさ。泣き出しちゃって、以後はぱたっともう、危ないことをされなくなったから、こっちは助かったの何のって」
こいつがとことん、のん気なのか、回りの皆が涙もろくてバカなのか、それは判断つけがたい、と私は思った。
だが、確実に一つ言えることは、そういう上官が一人いたばかりに、普通だったら周囲から浴びせられたはずの羨望や反感を、彼はまったく受けずにすんでいるということである。
これもまた考えようでは、途方もない運の良さとは言えないだろうか。
──(9)──
私自身に関することはあまり書きたくないのだが、数知れぬささいなことのあれこれは省くとして、比較的大きなことを二つだけ、書いておくこととしよう。
基地ではしばしば、上官たちが我々、若い兵士たちの戦いぶりを見て、将来の地位や任務を与える時の判断材料とする試合が行われた。公式にそのように認められていたわけではないが、そこでの勝敗が大きな要素となって我々一人ひとりの出世を左右することは、皆がよく知っていた。
とりわけ重要な試合が数ヶ月後にあるとわかった時から、私は最大の強敵である彼の戦いぶりを練習の時、じっくりと観察した。そして気づいたことがある。彼の動きはほとんど完璧でつけいるすきがないが、左足でふみこんで来る時の、下から払う剣の動きにだけは、かすかな癖があって、何度かに一度は必ず、その瞬間にすきができる。
ここをつけば、確実に勝てると思った。だが、そのためには彼の剣を払い返して懐に飛び込む時に、こちらもかなり変則的な動きをしなければならず、まかりまちがえば逆に命取りだ。
私は工夫に工夫を重ね、ついにほぼ万全と言い切れるほどの体勢と動きを作り上げることに成功した。勝利を確信して試合の日を待ったが、私のそのような確信にも、ひそかに重ねた練習にも、彼は全然気づいてなかった。
ちなみに練習の時も、我々二人の勝敗は、彼がやや上ではあったもののほぼ互角で、試合に勝つ確率はもともと私にも充分にあった。私はそれを、より確実なものにしておきたかったにすぎない。
試合は実戦さながらに鎧かぶとを装着し、真剣を用いて行われる。彼も私も勝ち進んで、いざ対戦となった時、剣が数回打ち合った瞬間に、私は彼の身体の動きが前日までとがらりとちがっていることにはっきり気づいて、回りであがる歓声も、隣の試合の開始を告げるラッパの音も、すべて耳から消え去ったほどの衝撃を受けた。
とぼけた顔をしていたが、私の計画をすべて見抜いて笑っていたのか?
私に腹を立てて、裏をかいてやろうと企んでいたのか?
いや、そんなことで責められるいわれはない。私がしたことは卑怯でも何でもない。相手の欠点を調べて、それに対応する手段を考えるのは正当なことで、彼にもそれはわかっているはずだ。
そんなことを考えている間にも、彼の剣は目まぐるしくすばやい動きで迫って来た。刀身が何本も見える気がするほど、変則的で予想不能な、蛮族まがいの常識破りの喧嘩殺法である。何度かうけ流したのがやっとで、なかば肩からの体当たりで横に飛ばされ、体勢を立て直すいとまもなく、蹴り上げられて腕に切りつけられ、私の剣は地面に落ちた。
見ていた者の目からは、若手の強豪どうしの対決にしてはあっけないほど一方的に早く、勝負が決まったのが印象的だったそうだ。負けたことそのものよりも、負け方が衝撃で、その日一日私は口がきけなかった。
後で聞いた話では、その日の朝、彼は偵察に出ていて、足をけがしたのだという。蛇にかまれたという説と、蛮族のしかけたわなに踏み込んだという説と両方あったが、どっちが本当か確認する気にもなれなかった。ひと月もしない内に走り回っているのを見たから、大したけがではなかったのは確かだ。だが、そのことがあったので、彼はそれを相手に見破られない内に早く勝負をつけようとして、その日の試合ではずっと、そういうめちゃくちゃな戦い方をしたらしかった。
上官たちの中にも、それには賛否両論あって、勝てばいいというようなああいう戦い方はローマ軍人としての品位に欠けるという意見も多かったらしい。しかし、それでもとにかく彼は勝ったのであり、負けた私に目をくれる上官はいなかった。
それに、そういう品のない戦い方が是か非かという点をめぐって、基地の上官たちの中では、この後、半年近くにもわたって、ずっと議論がかわされた。酒の席でも、焚き火を囲んだ野営の夜でも、病院の寝台の上でまで、年配の上官や、なりたての若い士官が口角泡を飛ばして議論し、軍人の心構え、ローマの伝統、昔と今のちがい、前線での実戦を知らぬ上層部批判など、ありとあらゆる話題にそれは発展した。
当然、その話の間中、彼の名は引用されて人々の口にのぼる。誰もがいやというほど、その名を聞いて印象づけられる。彼の試合を見逃した上官たちは話題に加わろうとして、わざわざ私たち若手が訓練をしているところに、彼を見に来るのだった。
「どれだね、そのやんちゃ坊主は」
「あそこにいる。あの、向こうのはし。そら、今、相手をつきはなして後ろに下がった、額に青い布の鉢巻きをしている、あの子だよ」
「あれか?クマの子か蛮族のような戦い方をする暴れん坊じゃなかったのかい、君の話だと?あれなら、きれいな動きじゃないか。お手本どおりの剣さばきだし、どこが品位を崩すんだい?」
「人違いか?」
「いや、あの子だよ。あの鋭い打ち込みは、目に焼きついている。しかし、変だなあ。ふうん、やればできるんじゃないか。諸君の言う通り、あれなら品位なんかちっとも崩しちゃいない。どうかしたのかな。いや、すまん。あの、荒っぽい戦い方はそりゃ見てて面白くて、君らにもぜひ見せてやりたかったんだがね」
「まあ、いいじゃないか。なかなか見事な動きだよ。こういう若いのが育って行っていると思うと、頼もしいね」
柵にもたれて、上官たちはいつまでも彼に見とれている。そういうことが、よくあった。
上官たちが、そう言い合うのももっともだ。もともと彼は基本に忠実な、絵に描いたように型通りの動きで戦う兵士だったのだから。足の傷が治るにつれて、まともできれいな戦い方に戻ったのは不思議でもなんでもない。
しかも、ここが一番腹が立つのだが、その足をかばって動きを変えていたのが原因なのだろう、あの彼の唯一の弱点だった、左から踏み込んで来る時の癖のある動きが、それ以後まったく影をひそめてしまい、いわばひとりでに直って、なくなってしまった。私の方は、その逆に、彼に勝つためだけに工夫した変則的な動きがなかなか直せず、結局それが原因で自分の型を崩してしまい、試合でも実戦でも以前の実力を発揮できなくなった。その結果、何よりも恐ろしいことには、その状態に慣れてしまい、会った時には明らかに肩を並べていた彼の、次の座に甘んじるのが、自他ともに不思議とも思わなくなって行ったのである。
──(10)──
もう一つだけ、言っておく。
私たちがそれぞれに、百人近い部隊をまかされて指揮官となった最初の頃の話だ。
私は厳しく部下をしつけたから、少年兵も古参兵もまもなく私のやり方を呑み込み、軍規をよく守るようになった。
彼の方は、そううまく行ってなかった。荒くれた曲者の古参兵が何人かいて反抗していたせいもあるのだが、しょっちゅう事件が起こっていて、酒の上での喧嘩とか、村の娘といちゃついて父親にどなりこまれたとか、剣をなくしたとか、集合時間に遅刻したとか、行方不明者が出て二日後にのこのこ戻ってきたとか、行商人から卵を盗んだとか、何か騒ぎが起こったら、それはすべて、彼の隊だった。「あー、もう、何でー、また、うちかよー」と彼は年中、頭をかかえて、その処置に走り回っていたし、一度ならず、指揮官たちが集まって会議をしている時、「喧嘩です」「村の者が抗議に来ています」「重大な規則違反が…」と兵士が報告に来ると、皆まで聞かずに彼が立ち上がって飛び出しかけ、「彼の隊か?」と皆が念を押すと、兵士が「ちがいます」と答えて大爆笑になったことがあった。「おまえ、部下を信用しないのはいかんぞ」と冗談半分、まじめ半分に古参の指揮官から注意されて、泣き笑いのような表情になってうなずいた彼を見て、また大笑いが起こったこともある。
実際、迷惑な隊だった。「巻き込まれるなよ、関わり合いになるな」と、自分の部下たちに私は重々、注意していたが、それでも一度だけ十数人の乱闘が起こり、私と彼が話し合って内々にすませたものの、双方にはかなりの負傷者も出た。
自分の部下たちを私は当然、厳しく叱りとばしたが、何がきっかけだったか聞くと、私の部下たちが彼の部下たちに「おまえたちの指揮官はだらしないから、おまえたちもそんなに好き勝手ができるんだ」というようなことを言ったのが原因だったらしい。
「あの連中、まるで狂犬のように怒って、いきなりなぐりかかってきたんです」私の部下たちは口々にそう言った。
「何がそう気にくわなかったんだろうな」私はわけがわからなかった。「好き勝手をしてないと言いたいのか、あれで?」
「さあ、好き勝手はしているが、それは指揮官のせいではない、と言いたかったようで」
「それは何だ、彼をかばっているということか?」
「どうなのでしょう、わかりません」
ところが、これがまた、妙な話だが、彼と彼の部隊とは、その内に基地全体の名物になり、人気者になりはじめたのだ。
何しろ、話題にことかかない。それも次から次へと新しい思いがけない騒動が起こり、彼がその後始末に奔走している姿を見るのが、だんだん皆の楽しみになって来たと言ってしまえば、言い過ぎか。
「いやもう、あの連中が今日は何をしでかすのかと思うと、毎朝起きるのが楽しみでなあ」
古参士官の一人がある朝、会議の後で一休みしている時に、にやにや笑ってそう言った。
「まったくですな。この頃、毎日退屈しないですみますよ」若手の優秀な士官が涼しい目元を笑わせて、余裕のある表情で評した。
「困ったものだな、いや、貴官だろう。毎朝、従僕に命じて、あの部隊が何かしていないか、皆に聞きにやらせているというのは」皮肉屋で知られた上品な士官が、優美なしぐさでよく手入れした髭をなでながら、わざと嘆かわしげに首を振ってみせた。
「私だけではありますまい。この頃、我々の朝のあいさつは、『ところで、あの部隊は、今日は?』ではありませんか?心配しているとは口実で、皆、笑いをこらえています」
「嘆かわしいことだがね。実は私もそうなんだ」でっぷり太った中年の指揮官が告白した。「あの新米の指揮官が、飛んで来て平謝りに謝る姿を見ていると、気の毒だがおかしくて、つい笑いたくなって困ってしまう。自分の昔も思い出してな」
「本人は一生懸命ですからな。謝る姿が何とも絵になる」皮肉屋の士官が眉を上げた。「どうも、私などは彼がテントに入って来て『申し訳ありません』と平身低頭するあの声を三日も聞かぬと、飯がまずい。そろそろ何かしでかしてくれんかとさえ思いますな」
「『今度は何だね』と、せいぜい重々しく聞き返しても、顔が笑いそうになりますからなあ」やせぎすの、口やかましい老士官も、むっつりと言った。「『困ったことだ』と説教して意気消沈させるのも、『よくあることだからしかたがない』となぐさめて、ますます恐縮させるのも、どちらも楽しくてやめられない。いかんです、我ながら」
嘘のような本当の話だが、この会話は皆、事実である。
──(11)──
私は何を賭けてもいいが、これはすべて、彼が計算してしたことではない。
これも断言していいが、彼は指揮官としての能力は高くなどなかった。
彼自身が悪気ではなくても、規律や軍隊というものを、あまり理解しきれておらず、統制や団結の重要性を充分に把握していなかった。
当然、部下たちのそういうところを見逃してしまうし、叱りつけても迫力がなく、詰めが甘い。
従う者たちの目は恐い、とは、私の父上がこれもしばしば、私に言われたことである。部下たちは、彼のそういう甘い本質を見逃さず、彼の言うことを聞こうとしなかったのだ。
だが、これもまた、不思議なものだ。
これだけ徹底して落ちこぼれてしまうと、逆の伝説も生まれはじめる。
「もともと、大変な扱いにくい連中が集まっている部隊なのだから、指揮官が彼だからこそ、あれでおさまっているのだ」などという話は、その最たるものである。
私に言わせれば、これこそ噴飯物の説だった。彼の部隊に乱暴者は数人いたが、よそと比べて決して多い数ではない。私が指揮官だったなら、あっという間に皆おとなしくさせている。その他の何人かは明らかに、彼がつけあがらせたにすぎない。
だが、その噂は広まって、次第に基地の常識となって行った。
また、これは私の隊の連中との喧嘩がきっかけで広まった話ではないかと思うが、彼の隊について、「暴れ者ぞろいだが、指揮官である彼のことは深く愛していて、彼の悪口を言われたら許さぬし、団結が非常に固くて、仲間が攻撃されたら黙っていない」との話も定着しはじめていた。
これもまた、そういうところがなかったとは言わないが、むしろ噂が先行し、事実がそれを追いかけたのだ。
彼自身がそのことを一番よく知っていた。「団結が固いって、評判だな」とある日の訓練の帰りに肩を並べて歩きながら小声でからかってやると、彼はかぶとを脱いで抱え直しながら唇をかみしめ、ちらりと後ろを騒々しくついて来る部下たちの方を振り向いて見ながら、「ちがうよ」とまじめに首をふった。「あんまりひどいから、いくら何でもどっかいいところがあるだろうと思って、無理にでも皆が見つけて、そういうところを、ほめるだろ?うちの連中、それ聞いて、ほめられるのに慣れてないし、調子がいいから、その気になってしまってるだけだ」
冷静な分析だった。そのとおりだったろう。だが、それに気づいていたのは、彼と私ぐらいのものだったのではあるまいか。
だから彼はむしろ、そんな噂を警戒して、私が見ている前でも何度も部下たちに、「ほめられても、いい気になるんじゃないぞ」と言っていた。「そんなの、ほんとじゃないんだからな」
だが部下たちは大声で笑い、「わかってますって」「心配しなさんなって」と、彼の背中をどやしつけていた。
全然、わかっているとは見えなかったが、彼も口下手で、それ以上的確に、何をどう、いい気になるなと言いたいのか、部下たちにうまく説明できなかったようだ。
だが、彼の心配をよそに、部下たちはもうその頃になると、はっきり調子に乗っていた。基地の皆に注目されていることに気づき、「荒っぽいけど、いい奴ら」「暴れん坊ぞろいだが、隊長のことは大好き」「ふだんはめちゃくちゃでも、やる時はやる」といった噂を意識して、それにふさわしいよう、ふるまいはじめていたのだ。
彼ら自身が、それで生き生きしてきているのが、もう誰の目にも明らかだった。微妙に彼らは変わってきて、子犬や年下の兵士たちをかわいがり、以前のすさんだ白目がちに人をにらむ目つきをしなくなり、他の部隊の指揮官である私たちが通りすぎても、陽気に大げさな敬礼をしたり、明るい太い声で冗談を言いかけたりして来るようになった。
何かその頃、基地の中を歩いていると、彼の部隊の兵士ばかりがやたらにいるような気がしたものだ。それは彼らが、自分たちどうしでよく集まってわいわいと水浴びをしたり、木登りをしたりして、ふざけて遊んでいることが多かったからだろう。指揮官の彼にも、これみよがしにべたべたなついて見せていて、「おれたちは家族同然だ」と、他の部隊の皆に見せつけるように、いつもどこかにたむろしては、じゃれあっていた。
「恐ろしいものだな」例の皮肉屋の士官が一度、そんな彼の部下たちを見ながら、私に向かってつぶやいた。「覚えておくがいい。虚像はああして、実像となるのだ」
彼の隊はあいかわらず、よく事件を起こしていた。だが今ではもう、それと同時に賑やかで陽気で、笑い声の絶えない隊でもあった。私の隊のまじめな若い部下が、広場の向こうでふざけて大騒ぎしている彼の隊の連中の方をながめて「楽しそうですねえ」と、少なからずうらやましそうにつぶやいたのには、私もさすがに、あいた口がふさがらなかったが。
──(12)──
とは言え、彼の隊のそういった団結ぶりが時々、度を越すと不快に見えることがあったのは事実だ。
指揮官の彼自身がそれを感じていたようで、皆が「おれたちの隊は」「おれたちの隊長は」と甘ったるい口調で周囲に聞こえよがしに言っている時、彼一人はあいまいな、気ののらない笑顔で、時にははっきり、苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。
一度、旅芸人の芝居か何かを見物する時の席の取り合いで、彼の部下たちが例によって自分たちどうしで固まって皆を追いのけ、一番いい席を占領してしまい、遅れて私たちといっしょに行った彼を呼んだ時、彼は、席取りの小競り合いで傷ついて血を流している部下たちや、周囲で不満そうにしている他の部隊の連中の様子から、たちまち事情を察したらしい。そして、本当に激怒し、そうまで怒らないでもよかろうと、私でさえがあきれたぐらい、「いい気になるんじゃない!」と、部下たちの真ん中に仁王立ちになって、雷のような声でどなりつけ、即刻、彼らを解散させて客席の最後列にばらばらに追いやってしまった。
彼の、その逆上したかと思えるような迫力にも驚いたが、部下の乱暴者たちが羊のようにおとなしく彼の言うとおりにしたのにも、私たちは呆然とした。それも、ただ指揮官の命令に従い、怒りにおびえたというのではない。部下たちは、彼を不快にさせたことを心から悲しみ、しおしおとしていて、肩を落として後ろの席に下がって行く様子は本当に見ていて哀れを誘い、誰も笑う者がなかった。
私たちにわびるように一礼して、その場から去ろうとした彼を、部下の少年兵の一人がかけよって、手をひっぱって自分たちのいる方に連れて行き、芝居が始まってから私がそっと振り向いて見ると、彼は後ろの方で、その少年兵や、さっき叱りつけた部下たちの数人に囲まれて座り、笑いながら皆とわけあったオレンジをかじっていた。その彼を見る部下たちの幸福そうな表情に、私ははっきりと感じた。虚像はすでに、実像となっていることを。
──(13)──
これらのすべては、何もかも信じられないことのようであるが、よく考えればそれなりに理屈に合った現象だった。
あの部隊がいることで、基地内の皆が安心していられた。自分たちの部隊が最低になる心配はないと。それは、他の部隊に負けられないと日夜緊張している指揮官たちの肩の力を抜き、ほほえましい気分にさせたのだ。
その上、自分たちに被害が及ばない限り、他人の失敗は見ていて面白い。戦いがなくてだれている日々の、かっこうの気晴らし、息抜きにもなった。
そうしたことが、基地全体の緊張をほぐすとともに活気づけ、日夜、物語の中に生きているような、楽しい昂揚感を生んだ。
「この基地は苦しい前線だということが信じられないほど、皆、生き生きしているな」たまたま訪れた将軍の一人が、歓迎の酒盛りの席で、我々の将軍に向かって、こう感想をもらしたぐらいだ。「兵士たちの目が輝いて、皆、きびきびと走り回っておる。うらやましいほど士気が盛んだ」
「何、それは毎日、笑うことが多すぎるからだよ」我々の将軍は人のいい老人だったが、吹き出しながらそう答えた。「騒動ばかり起こしてくれる、困った部隊がおってなあ。これをどうにかせんといかんと、皆が毎日、必死なのじゃよ。敵よりよっぽど、手こずるわい」
聞いた者たちの間から大きな笑い声が起こり、テントのすみの方にいた彼を皆がいっせいに見た。客の将軍が目ざとく見つけて言った。「あれは?」
「その部隊の指揮官で、毎日泣かされておる男さ」我々の将軍は呵呵大笑した。「呼ぼうか?」
そして、彼を手招きした。彼は、困ったような、とまどった様子で髪をかきあげながら、人々をわけて、こちらに近づいて来た。
その時、テントのたれ幕がはね上がり、兵士が一人、息せききってかけ込んで来た。
「広場で喧嘩が起こって、火事になりかけています!」そして、彼の名を呼んだ。「あなたの部隊です!」
彼はこちらに一礼すると、脱兎のごとくにかけ出して行った。
あまりにもタイミングがよすぎた。将軍たちは酒を吹き出し、食べ物を取り落として大笑いし、テント全体が吹き飛ぶほどの大爆笑があたりをゆらがせた。
「なるほどなあ」ようやっと笑いが静まった時に、客が涙をぬぐいながら言った。「これでは毎日、気が抜けまいて」
「何とも手のつけられない荒くれ部隊でな」我々の将軍は、珍しい動物でも自慢するような、少し得意げな顔をしていた。「しかし、憎めん連中なのだ」
「案外、そういう連中が、戦場では大活躍したりする」客がワインをつぎながら言った。「そうだろ?」
新しい伝説がまたひとつ、生まれかけていた。
──(14)──
たまたまその時期、蛮族との小競り合いは何度も起こっていたが、大規模な戦闘はなかった。テントで将軍たちがそんな会話をかわしてから数ヵ月後、我々が隊を指揮するようになってから初めての大きな戦いがあり、全軍団がかりだされて、森と谷とに布陣した。
私の隊は彼の隊とは離れており、森を隔てていたために、その状況は充分にはわからなかった。敵は中央を突破しようとして、幾重にも重なった分厚い歩兵の盾の列に阻まれ、横にあふれるように流れて、彼の部隊がいた左翼に突進したが、ここでもくいとめられ、渦巻くようになだれをうって、私と他の指揮官たちの隊が固めていた谷に入って来た。
最初の勢いはそがれていたものの、まだ敗走とか浮き足立つとかいうにはほど遠い、むしろ必死になっている分、手ごわい敵だった。幾何学模様のように美しく整列していた私たちの部隊はたちまちゆれて入り乱れ、かぶとや槍の先にたなびいていた鮮やかな色彩の房飾りはあっという間に四散して、激突する人馬の間に呑み込まれて行った。
私の部下たちもよく戦ったが、戦線は一進一退を繰り返した。それでも、夕刻には戦場は谷のはずれにまで移動し、私たちはじりじりと敵を押し返しつつあった。位置を確認するために私はよく左翼の崖の上の森に目をやって、木々のかたちを見ては、前進したか後退したかを判断していたのだが、今、その森のあちこちは火矢を受けてばちばちと燃え上がり、松の木の焼ける香ばしい匂いがここまでただよって来ていた。その中から絶叫やときの声が荒々しく聞こえて来て、彼の部隊が森に入って敵と乱戦を続けているのがわかった。上げる声がひときわやかましいので、どこにいるのかすぐわかるのだ。
朝まで続いた戦いは、結局わが軍の勝利に終わった。冷たい泥の上にへたへたと座り込んでいる兵士たちは、負傷しているのか、疲労のために動けなくなっているのかさえも、もはや定かではない。そんな彼らを叱咤して、私たちは逃走する敵を追い、空になった彼らの砦を大槌を振るって破壊していった。
私たち若手の指揮官の部隊は、この戦闘でいずれもよく戦った。彼の部隊も、ふだんのあのだらしなさ、いいかげんさからは想像もできないほど、よく戦った。しかし、言っておきたいが、決して他の部隊と比べてめだった働きをしたわけではない。それを言うなら、あの戦いで一番すぐれた活躍をしたのは私の部隊だったろう。死者も負傷者も少なく、谷に下りてきた敵の主力を長時間支えて防ぎ、突破されずに押し返した上、疲れ果てて動きの鈍い各隊の先頭にたって、敵の砦を制圧したのだ。
にもかかわらず、まあある程度予想できたことではあったが、戦いの後で話題をさらったのは、またしても彼の部隊だった。
──(15)──
最初に敵と遭遇してすぐ、彼の部隊は、敵味方の間で「金の狼」という名で知られていた敵方の長槍の名手をあっさり殺していた。恐いものしらずの連中だから、そのような有名人とは知らずに、その男が身につけていた金色の狼の毛皮ほしさに、よってたかって飛びついたので、相手が驚いて足をふみすべらしたのらしい。
「注意しようと思ったんだ」彼は後で私たちに話した。「あの金色の毛皮は危ないから、誰もがよけて通るんだから気をつけろって。けど、うちの連中だろ?そんなこと、耳も貸さないで皆で飛びかかって行ったんだ」
「相手だってとまどうよな、そりゃ」聞いていた一人が、変な同情をした。「ほんと、気の毒に」
「その毛皮、どうなったんだ?」別の一人が聞きたがった。
「どうなったんだろう、知らない」彼は首をかしげた。「誰かが持ってるんだろ。故郷の親父さんに送ってやると言ってたやつがいたみたいだから、そうしたのかもな」
有名な英雄が倒されたので、敵は度肝を抜かれて後退した。この時点では彼の部隊は、ほとんど被害を出していない。だが、その後、森に入ってからの戦闘での死者や負傷者は多く、私が顔を覚えていた乱暴者たちも何人もが死んでいた。
彼らのおどけた敬礼や、なれなれしい冗談に、一度ならずむかっとしたことのある私でさえ、「淋しくなるな」と、ちらと感じたぐらいだったから、皆が彼らの死を悲しんだのは当然だろう。それが反映したのだろうか、間もなく、敵の英雄の死と、森の中での戦闘はまとめて語られるようになり、彼の部隊は多くの死者や負傷者を出して、激しく戦った末に、ついに「金の狼」を倒して敵を敗走させたのだ、というように話が作り替えられて行った。「ふだんは、やっかい者の困り者でも、いざ戦闘となるとあの部隊は本当に強くてすごい」という評判はもはや不動のものとなり、まるで戦況を左右する大手柄を上げたかのように、皆が彼らをほめそやした。彼の部下たちもまたその気になって、誇らしげな顔をしているのが、私には腹立たしいのを通り越して、滑稽だった。
「理屈にあいませんよね、隊長」部下の一人が、ある時私にしみじみ嘆いた。「おれたちは、あいつらと違って、ふだん、まじめでちゃんとしてるじゃないですか。だから、立派に戦ったって、誰もあたりまえと思って、ほめないし注目もしない。あいつらは、ふだんがいいかげんだから、大した成果もあげてないのに、皆が『やるなあ、すごいなあ』っていう目で見る。まじめな者って損ですよね、隊長、くやしくないですか?」
「世の中、そうしたものなんだよ」私は彼の肩をたたいた。「おまえがそれを、ちゃんとわかっていればいいのさ」
──(16)──
戦いのひと月後、戦死者の追悼も兼ねて、今回の戦闘で功績のあった者たちを表彰する式典が行われた。私を初め、若手の指揮官数人も名を呼ばれて、古強者の隊長たちとともに、将軍の前に立った。
最後に彼の名が呼ばれたのは、冷静に戦闘の功績を判断している者たちにとっては…とりわけ彼自身にとっては、ちょっと思いがけなかったろう。繰り返すが、彼の部隊はこれといった戦績は決してあげていなかったのだから。
しかし、基地の大半の者にとっては、それとは逆に、彼の名が呼ばれなかったらそれこそ思いがけなかったろう。不満の声さえあがったかもしれない。
ある意外さと、当然さ…彼の名が呼ばれた後、一瞬広がった沈黙と、その後起こった、割れるような拍手喝采は、それをあますところなく示していた。
あっけにとられた表情の彼が、ひっぱり出されるようにして前に出て、壇上に押し上げられて将軍の前に立った時、彼の部隊の兵士たちが、もうこらえきれなくなったように、口々に彼の名を呼び、自分たちどうしで肩をたたきあい、抱き合い、飛び上がって喜んでいる様子は、一番気難しい指揮官たちの口元さえもほころばせた。そして、彼が顔をそむけながら、こぶしですばやくまぶたをこすったのが誰の目にも見えて、今度は部下たちの何人もがすすり泣きはじめ、他の部隊の連中までがつられてもらい泣きし、将軍その人も目をしばたたいていて、彼にかけることばが鼻声だった。まったくの話、不覚にも私までが目頭が熱くなったものである。
歓声と拍手は、いつまでも鳴りやまなかった。
──(17)──
だが、その数日後、彼と二人で食料の調達の件で近くの村に交渉に行き、うまく話がまとまった上に、みやげにもらったチーズとパンを、帰りに蛮族の古い砦の跡の、小さい井戸のそばに座って食べていた時、その話になると、彼はもう、しんからいまいましげな口調で、「あれは、くやしくって泣いたんだ」と言った。「あんまり情けなかったから。あんなの、皆、嘘っぱちだ。おれには何の功績もないのに、あれじゃまるっきり、見世物じゃないか。まるで道化者だ。皆のおもちゃだよ」
わかっているんじゃないかと驚いて、私が何も言えずにいると、彼はため息をついて、「おまえみたいになれるといいのに」と、ぽっつり言った。「ちゃんと部下たちを掌握して」
私がまた何も言えずにいると、彼は続けた。
「どうしたらああできるのか、いつもおまえのすることを見て、まねしようとしているのに、ちっともうまく行かない」
私は思わず苦笑した。
「おまえは、部下に好かれてるじゃないか。あれこそ、おれにも、誰にも、まねできないよ」
「好かれていたって、言うことを聞かせられないんじゃ」彼は、そばに飛んできた小鳥にパンのかけらを放ってやりながら、首を振った。「おれは彼らを守ってやれない。あの時、森に入っちゃいけなかったんだ。苦戦になるって、わかってた。だから、必死でとめたんだ。でも、言うことを聞かせられず、先頭が敵を追って森に入ってしまった。彼らを見殺しにできなくて、ついていくしかなかった。それであんなに死なせて…負傷者も…おれが指揮官じゃなかったら、きっとまだ皆、元気でいたのに」
声が震えて、そのままとぎれた。長いことたってから、彼は半分泣き声としか言いようのない声でつぶやいた。
「おれのどこが、いけないんだろう?どうしたら、言うことを聞かせられるんだろう?」
「先に入って行ったやつらを、見殺しにすればよかったんだ」私は静かに、そう言った。
彼は目を上げ、私を見た。「何だって?」
「おまえの命令に従わなかったらどうなるか、あとのやつらに見せなきゃだめだ。そいつらが、むごたらしく殺されるのを、森の外から、じっくりと」私は、パンくずを小鳥に投げてやりながら言った。「おまえの言うことを聞かなかったら、ひどい目にあうんだってことを、とことん、思い知らせなきゃいけないんだよ」
彼の目がはっきりひるんで、そんなことはできない、と言っていた。
「おまえは皆を、かわいがりすぎる」私は言った。「それじゃ皆を守れない。かわいがってもいいけどな、おまえの言うことを聞かなかったらひどいことになると、繰り返し言って聞かせろ。特に戦場では、おまえの命令に従うしか生き残る道は絶対にないことを、前もって徹底的に、やつらの頭にたたきこめ。おまえを信じて、ついて行くしか、生き延びる道はないんだと、はっきり教えておくんだ。おまえに逆らったやつ、命令を無視したやつは、たとえどんなにつらくても、守ろうとするな。守っちゃいけない」
彼は黙って目を伏せた。
「『金の狼』を倒したやつらも、おまえ、そのままにしてるんだろ?」私は言った。「あいつら、基地中、いばって歩いてるぞ。隊長は止めたけど、おれたちは聞かないで飛びかかって、あいつをしとめたってな。そういうのがカッコいいって風潮が広まるのは、他の隊にも迷惑なんだよ、わかるか?」
彼は私を見つめ返し、急いで何度もうなずいた。
「どんな手柄をたてようと、おまえの命令を聞かないでやったんだったら、戦闘が終わったとたんに叱りとばして、毛皮はその場で焼いちまわなきゃいけなかったんだよ。おれなら、そうした」
彼が、どうやって回収しようかと、毛皮の行方を考えこんでいるような顔をしているので、私は笑って、「もういいさ、何もするなよ」と言った。「今さら遅い。今になって怒っても、あいつらをとまどわせるだけだから。これから気をつけりゃいいんだ。おまえなら、できるよ」
彼はまた黙ってうなずいたが、やがて小さい声で「おまえ、そういうこと、どうしてわかるんだ?」と聞いた。「誰かに教えてもらったのか?」
「父上かな。同じ軍人だったから」私は答えた。「そういう風にしつけられた。おまえは?」
彼は首を振った。「父は早く死んだし、おれにいろいろ教えてくれた人は…とても、優しかったから」
「母上か?兄上?」
「陛下が…」彼は口ごもった。「でも、きっと、おれが他人の子だったから、あんなに優しくして下さったんだと思う」
皇帝が自分のご子息の皇太子殿下と、あまり親しくないという噂をふと思い出しながら、今度は私が黙ってうなずいた。
──(18)──
彼が、その時私の言ったことを、どの程度うけいれて、そのとおりにしようとしたかはわからない。
だが、確かに彼の部隊はそれ以後、一段と統制がとれはじめ、規律を守るようになって行った。もっともそれは、あの戦闘で、彼を一番手こずらせていた古参兵のやっかい者の数人が死んでしまっていたせいもある。そう、ここでもまた、運命の女神は彼に小さい微笑を送っていたと言えるだろう。
指揮官としての彼の名声はもはや定まり、出世の階段を文字通り彼はかけ上がって行った。
自分でも気づかず、次第に私はそのことに、いらだち始めたのを覚えている。
彼の中に一つでも、これは自分にはかなわないと思うものを見つけ出せたら、参ったと頭を下げたくなるようなことがあれば、私も納得できた。だが、どれだけ目をこらしていても、そんなものは見えはしない。ただ見えるのは、まぶしいほどの幸運と、めぐりあわせのよさだけだった。
そんなものに頭を下げるわけにはいかない。
同じ程度の能力を持ち、同じ努力を重ねていても、いや、もしかしたら、より高い能力を持ち、より努力をしているのかもしれないのに、彼ほどの結果を生むことがいつもできないという思いが、私の心を暗くしていた。
どうしてこんなに平凡で普通の男が、人にちやほやされ、ありとあらゆる幸運に恵まれるのかが謎だった。
それでつい、皮肉っぽくよそよそしい物言いを、彼に対してしたことがある。
そういう時、彼はいつもののんきさに似合わず、おやと思うほど敏感に反応した。もしかして私に対する時だけは、そういう勘が働くのかと厭味を言いたくなったほどだ。心配そうに顔を曇らせて、黙ってじっと私を見るので、「何でもない」とか「すまん」とか、結局いつも私の方から謝ることになった。彼もまた、それ以上何も聞こうとしなかった。言い訳めいたことばを私がつけ加えた時には、それなりの短いあいづちをうってくれたが。
「いやな天気だな、くさくさする」
「よく降るもんなあ」
「寝不足なんだよ」
「うん、おれも」
ぽつんと一言、いつも口の中で言うだけだった。それでも、彼なりのせいいっぱいの気づかいが感じられて、悪かったなと私はいつでも、あたったことを後悔した。やたらめったら運がいいのは、何もこいつのせいなのではない、と。
第一章 神々に愛されて (終)
(第一章のあらすじ
紀元一六七年、ローマ軍の少年兵としてゲルマニアの前線にいた「私」は、他の基地から来た、同じ年頃の少年兵と知り合う。身体は大きいが、のんびりと子どもっぽく見える「彼」は、スペインの田舎から、兄たちに連れられて、軍隊に来たらしい。前の基地では、その年齢の幼さが、たまたま皇帝の目にとまってかわいがられたり、皇帝の子どもたちともつきあうなど、不思議な運のよさに恵まれる少年だった。
ローマの軍人の家に生まれた「私」は、認められ、出世したいと思っていたから、「彼」には自然にライバル意識を持ち、絶対に負けないよう努力を重ねた。ところが、「彼」の方は、あまり努力もしておらず、特に才能があるとも見えないのに、異常なまでの運のよさに恵まれて、次々と「私」に水をあけてしまう。
出世のかかった大試合では、「彼」が足をけがして、いつもとちがう戦い方をしたために、「私」の周到な作戦は効果を発揮できず、「彼」に惨敗した。指揮官になると、部下に甘い「彼」の部隊は失敗やトラブルを繰り返し、落ちこぼれ部隊になるのだが、「私」が指揮する優秀でまじめな部隊より話題性があって、基地全体の人気者になってしまう。
「彼」自身は、それを恥と思って苦にしており、「私」の忠告も素直に聞くのだが、それでも、実力よりは確実に運がよいだけで、いつも自分を追い越して出世して行く「彼」に、ともすれば「私」は、いらだちをかくしきれなかった。)
第二章・ある種の冷たさ
──(1)──
ところで私は、命令を聞かない部下には厳しい態度をとれと彼に忠告した時、「おまえならできるよ」と口にしたが、それはあながち、外交辞令だったというわけでもない。
その気になれば、というか、もともと彼の中には、時々、私が見ていて舌を巻くような、奇妙な冷たさ、よそよそしさがあった。
誰もがまるでそれに気づかず、部下たちは、暖かい、優しいと言って甘え、上官たちは、単純で素直な熱血漢だと言ってかわいがるのが、私には不思議でならなかった。
彼のとてつもない運の良さと同様に、この底知れぬ冷たさが、どうして皆には見えないのだろう?
──(2)──
たとえば、戦勝祈願や祝勝の儀式や集まりの時、おごそかに神官が神託を告げたり、きらびやかな色とりどりのマントや鎧に身を包んだ将軍や士官がずらりと居並び、いっせいに槍をあげてローマ帝国への忠誠の誓いを唱えたり、各隊の隊旗が風をはらんではためく下、兵士たちが一糸乱れぬ動きで整列し行進したりする、そのような様子を見ていると、誰もが血がわきたってくるのを感じる。誰の目も興奮と緊張に輝き、ひとりでに手にした盾や槍をかかげて歓声を上げる。私自身、そういう時は自分がローマ市民であり、この国を守る兵士の一人である晴れがましさと誇り高さに、無性に胸が熱くなり、自然と涙がこみあげてきたものだ。
そういう場で、隣や近くに立つことが多いから、いつからか気づいたのだが、彼はそういう時、いつも一人、みごとにさめた顔をしていた。
最初の何度かは、今日は何か気になることがあるのだろうぐらいに思っていたが、だんだん、そうではないとわかってきた。
彼は、根本的に、このような場に絶対酔えない人間なのだ。
皆が夢中で槍を上げる時、微妙に一拍遅れたり、感動的な将軍の演説が続いている時、顔は皆と同じ方向でも視線は空の雲を追っていたり、神官が祈りを捧げる間、うつむきながら足先でてんとう虫を草むらにそっと蹴りこんでやっていたり、その様子はまるで、行儀のいい子が、退屈な大人の話をじっと我慢して食卓に座っているような、そんな風情さえあった。
これは彼が、スペインの田舎から出てきたとか、生粋の軍人の家の出自ではないということなどとは、おそらくあまり関係がない。
どこの出身でも、どのような家柄でも、このような場で熱狂的に感動する兵士や士官はいくらでもいたから。
あまり聞くことでもないような気がしたし、第一、本人も意識してないようだったので、そのままにしておいたのだが、ある晴れて暑い日、基地の近くの滝壷で水浴びをしていた時、皆が私のことを「冷たくて冷静」としきりに決めつけたがるので、つい、「私よりよっぽど冷たいのは彼さ」と、笑いながら言ってしまった。「式典の時、皆が夢中で泣いたり叫んだりしているのに、いつも一人落ちついている、あの態度は何だよ?」
彼は果たして自分でも気づいていなかったらしく、平たい石の上に座って水の中に足をたらしたまま、びっくりした顔をして私を見、そして皆を見回した。そして皆もやはり全然気がついてなかったと見えて、私がそう言っても認めようとせず、彼の回りに泳いで行って、水の中に引きずり込み、ふざけて頭を水に突っ込んだりしながら、「こいつ、ぼうっとしてるんだよ」「鈍いからさ」「難しい話はわからんのだろ?」と、冗談まじりに彼を抱き寄せ、こづき回して、あげくの果てには、「そんなに冷静に友だちを観察しているおまえの方こそ、やっぱり冷たい」と、あらためて私のことを決めつけ直してしまった。まあ、そう言われればそうだから、私も苦笑して、その場はそれですませた。
──(3)──
だが、その後で水から上がって身体を拭いていて、たまたま私と二人きりになった時、彼がちょっと弁解するような口調で、「おれも、ああいうの、いいなって思わないわけじゃないんだけど」と言った時、私は何のことかすぐわかったので、「無理するな」と笑ってやった。
彼も笑って、そして、「昔はそうでもなかったんだ」とひとり言のように言った。「それなりに感動もしてた。でも、だんだん…何でなんだろうな」
「おまえが自分でわからないものを」私は言った。「おれにわかるわけもない」
彼は、その通りだと思ったらしく、身体を拭いていた手をとめて、またしばらく考えこんでいて、私がもう本当にまるきり予想もできなかったような…私はこれでも、彼の妙に突拍子もないところに、それなりに慣れているからまだよかったが、他の者が聞いたら、そのとんでもない展開にあきれはてて、腰を抜かすか、口を開けてものが言えなくなるような発言をした。
「女の人がいないからなのかな、ああいう場って」
正直言って、何をどう考えても、この時、私の頭の中では何ひとつ話の回路がつながらなかった。
「何?」そう聞き返すしかなかった。
さすがに彼も、自分で妙なことを言ったのに気がついたらしい。赤くなって「いや…あの…」と照れ笑いし、木の実を盗んだリスがごまかして身づくろいをするように、せっせと濡れた髪を布でこすり始めた。
「おまえ、女がああいうところにいたら感動するってのか?よくわからんが、普通、逆だろう?」
彼は、手をとめ、木々の向こうの明るい陽射しをながめながら、吐息をついた。「そういうことじゃないんだよなあ。ただ、おれ、ああいう場で、何かいつも、そこにいない人の顔を思い出すことが多くって、それで気がつくと感動しそこなってるっていうのか…あれ?今、何をしてるんだ?って感じになっちまうんだけど、よく…そういう時に思い出す顔って、わりと皆、女の人の顔だもんなあ」
そもそも、ああいう場で誰であれ、女の顔を思い浮かべるということ自体が、私にはまともと思えなかった。
「誰の顔だい?どういう女の?」一応、聞いてみた。
「基地に来る売春婦とか…皇女とか…妻とかね」
彼はその頃、ある女と、故郷のスペインでいっしょに暮らしはじめたばかりだった。その女や、二人で住んでいる家の話になると、彼があまりに幸福そうにそわそわして、誰かが立ち入って夜の営みのことでも聞こうものなら、それこそ小娘のように耳まで赤くなったりするので、「あいつ、ひょっとして、手ごめにでもされたんじゃないのか」と口の悪い連中が冗談を言い合っていたぐらい、彼はその女にぞっこんらしかった。その顔を思い出すのは確かにわからないでもないが、売春婦や皇女もいっしょに思い出すのが尋常ではない。
「妻は…貧しい家に生まれ、私と出会った時は山賊の一味だった」彼は髪を拭いていた布を、ていねいにゆっくりたたんでいた。太陽の匂いのする暖かくさわやかな風が木々の間を吹き抜けて来て、肌にやや冷たく、向こうの方で、他の連中の何か陽気に叫びかわす声がしていた。「皇女も、売春婦たちも皆それぞれに…不幸や不満を抱えていた。ある者は怒り、ある者はあきらめてた。絶望したくないから憎み続けるんだって、妻は私に言った。それを言うなら、あきらめたように見えた女たちは、きっと、憎みたくないから絶望し続けることにしたのかな…。女だからそうなのか、女には限らないことなのかわからないけれど、皆、とても冷たくて、意地悪なんだよ…まっすぐに生きるとか、何かに自分を捧げるとか、そういうことにさ」
「女たちには、わからんのだよ」私は昔、父上が言ったと同じことを言った。「まっすぐ生きるとか、自分を捧げるとか、そういう気持ちっていうのがな。気にしちゃだめだ」
彼は不思議な目で私を見た。困ったような、迷うような、どこか私をいたわるような目。一瞬、私は、彼の話した女たちが、更には私自身の母や妹たちが、彼の目を通してじっと私を見つめたような、奇妙な感覚にとらわれた。
彼の持つ冷たさの一部分は、そういう点では、女たちの持つ冷たさと似ていたのかもしれない。
そして、そうかと言ってまた、決して女ではなかった彼は、女たちとはまた違った別の冷たさをも抱え込むことになって行ったのかもしれない。
──(4)──
とは言うものの、それと関係があるのかどうか、彼は大抵の男たちよりたくましく、武骨で荒っぽいくせに、奇妙なぐらい、どこか女性を連想させるところがあった。奥さんに手ごめにされたという噂が、彼が軍団を指揮する将軍の地位についた後までも、なおかなり根強く皆の間に広まっていたというのも、それを示しているだろう。もっとも、それは、勇敢な少年兵の一人が皆のいる所で彼に向かって、「奥さんに無理やり犯されたって本当ですか、将軍?」と聞き、皆が墓場のようにかたずをのんで静まり返った時、「うん、まあ、そんなもんだった」とぬけぬけ答えて、皆を更に氷のように沈黙させた彼自身に、大半の責任があるのだが。
「ことばに気をつけろ。いくら何でもあれはまずいぞ」と、顔をしかめて後で私が忠告すると、彼はこともなげに、「だって、ああ答えなきゃ、あの子がかわいそうじゃないか」と笑った。
それ以前でも、上官たちの彼をかわいがる態度や、部下たちが彼を守ろうとする態度にはどことなく、世間知らずで無邪気でわがままな女を目を細めて見ているのと似た感じがあり、相棒をさがしたり、指揮官を待ったりする時の、「おれの花嫁はどこに行った?」とか、「お姫さまはまだお眠りかい?」といったたぐいの言い古された冗談を、彼ほどよく浴びせられていた士官はいなかったろう。
一度そのことが彼のいない酒の席で話題になり、「あいつのどこが女っぽいのか」という、実に世にもくだらぬ問題に私たちは頭をひねった。「笑顔だ」「すねたような目つきだ」「無口だから(女が無口なものか、とこれには大勢が反論した)」「変にきちょうめんで、きれい好き」「まつ毛が長い」「かすれたような、眠そうな声を出す時」など、あらゆることを皆が言ったが、結局、誰かが言った一言が皆の深い共感を呼んで、理由はそれだと決定した。(まったく、ローマ北方軍団はよほど暇だったのだと思われてもしかたがあるまい。)
いわく、「時々、先が読めないことを突然言ったりしたりする」。
「な、ふだんは別に変わったところもない、普通の人間と思ってこっちもつきあってるんだ。ところが、どうかしたはずみに、まったく予想も理解もできない反応をする。当人は普通のことしてるつもりらしくて、こっちが腰を抜かしそうになってるのを見て、逆に驚いてる。ううむ、こいつはおれたちとまるで違う、別の生き物だったのかと初めて気づく」
それを言った士官は得々として私たちにそう語って聞かせた。
「あいつには、そういうところがあるんだ」私たちは皆うなずいた。「それで、な。女たちというのも、その通りだとは思わんか?」
私たちはまた、皆うなずいた。
──(5)──
そういうことを言うのなら、私の経験で言うと、こういうことがあった。それはもう、彼が将軍になり、私が副司令官になってからかなり後のことだったが、もう一人の士官と彼と私の三人で話していた時、前に誰かが持っていたカルタゴかトラキアかどこかの鉄がか銅だかで作った剣の鞘の色がどんな色だったか、見たことのない私たち二人に説明しようとしてあせっていた彼は、突然私に向かって「おまえの目の色だよ」と言い出したのだ。「ほら、そう言ったらわかるだろう?」
私が思わず目をしばたたいて黙っていると、彼はじれったそうにまた、「おまえの目の色だよ」と繰り返した。「な?」
もう一人の士官がかたわらで、あいまいな笑いを口元に刻んだのを私は見た。何で笑ったのか、彼自身にもわかるまい。ただ、何か奇妙な気がしたのだろう。私も苦笑した。
「…女の言うようなことを」私は言った。
それで、もう一人の士官も、何がおかしかったか自分でやっと納得がいったように笑い出したが、彼は何がそんなにおかしいのだろうというように、軽く首をかしげて私たちの顔をかわるがわるに見た。
「自分の目の色なんか知りませんよ」私はこの頃もう人前では彼に敬語を使っていたが、この時はなぜかとりわけ、そういうよそよそしい口調を使う必要を感じて、しんぼう強く説明した。「あなたは、ご存じなんですか?」
「灰色だろ?」彼はあっさり答えた。「陛下がそうおっしゃった」
灰色と言えば灰色だが、青く見える時もある。しかし、そんな話を大の男が三人そろってするというのも、何か非常に変な気がした。
「わかりました」私はせきばらいして、話を切り上げることにした。「今度、鏡で見ておきます」
「うん。本当に、その色なんだよ」彼は満足そうだった。
もう一人の士官はにやにや笑っていて、私が予想した通り、このやりとりをその日の内に軍団中にしゃべり散らしてばらまいてしまった。それからたっぷりひと月余りというもの、基地の中には、「それは、おまえの目の色だろう?」という冗談が流行し続けたし、そのことで私がからかわれた回数と来ては、きっとコロセウムの柱の数よりも多い。
──(6)──
副司令官と言えば、これも、彼の例の冷たさといささかの関係があると思うから話すのだが、私は彼がなぜ私をその地位につけたのかがわからなかった。当然、そこには彼の意志が反映されているはずだったが、もう、その時点では、私なみの優秀な士官はいくらでも他にいたし、彼の人気はもはや軍の中では絶対かつ不動のものとなっていて、どんな男でも選べたはずだったからである。なぜわざわざ私にしたのか正直不思議で、とうとうある日、新しく来た馬を二人で調べて見ている時、私は彼に聞いてみた。
「何で、おれを副官にしたんだ?」
「何でと言って…」
彼はあの時、馬に夢中になっていたのか。それとも、いつもののんきさで大したことを言ったつもりもなかったのか。何でもないことを言うように、馬の首の下をくぐって私の方に来ながら、さらさらとしゃべった。
「いつも考え方がちがうから、こっちの気づかないことを言ってくれそうだったし、それに、何だか、他のやつだと皆同じで、どう言ったらいいんだろうな、おれのために死にたがってるようなやつばっかりで、それって何だか、いやなんだよな、うっとうしくてさ」
いろんな意味で、私はあきれた。
とっさに受けた印象は、こいつ、とことん、わがままなやつだなということである。なぜそう思ったか、とにかくそう思った。
次に思ったのは、油断ができないという、やや緊張した実感である。少なくとも私の中の、彼に対する距離感や冷たさを、この男は確実にとらえているとわかった。
最後に感じたのは怒りである。それも、いろいろな思いが混じっていた。こういうことを私に言うとは無礼だという思いがまずあった。それに気づいてもいないのは何という愚かさだといういらだちもあった。
つまり、わがままで、バカで、油断がならないといった、矛盾し混乱した印象がいちどきに押し寄せた。おそらくはそれが私のいつもの冷静さを、幾分、失わせもしたのだろう。
「それは、つまり?」私は静かに聞き返した。
彼は馬のたてがみを指ですきながら、のんきな、無邪気な目で私を見返した。そして、あいかわらず何の警戒もしてない口調で「だから」と言いかけ、そこで初めて「あ…」と口ごもった。「いや、そういう意味ではなく」
私は、今振り返っても一生の内であれが一度ではなかったかと思うぐらい、意地悪な気持ちになっていた。「そういう意味とは?」と、更に静かに聞いた。「どういう意味だ?まだ何も言っていないが」
彼はまつ毛を上げ下げし、居心地悪そうに身体を動かした。ちらと上目づかいに一度だけ私を見た目は、見のがしてくれないかと無言で訴えたように見えなくもなかったが、私は無視した。
私たちはどちらもしばらく黙っていた。それから彼がため息をついて、しぶしぶといった感じで口を開いた。
「つまり、おまえだったら、自分でちゃんと自分のことは考えていて、私が考えなくても自分のことは自分でちゃんと…」私が黙って見返していると、彼のことばは途切れてしまった。そしてまた、「別におまえが自分のことしか考えていないという、そういう意味なのではなくて」と言い出したが、またやめてしまい、何やらほとんどやけになった口調で、「おまえが一番、気楽なんだ」と言ってのけた。「何かずっと、おれのこと、あんまり好きじゃないみたいだし、そういうのって、安心だろう?」
笑っていいのか怒っていいのか、私はもはやわからなくなりはじめていた。
「いったい何が安心なんだ?どういう意味だ?」
彼は何かを言いかけてやめた。
「好かれるのが嫌いなのか?人に?」
彼は黙って、また馬の首を撫でた。
「それはしかし、しかたがないだろ」私は言った。「おまえの位置にいれば、人にあがめられ、慕われるのは当然のことだ」
「感謝してるよ」彼は口の中で言い、吐息をついた。「でも、重荷だ」
「それも、義務の一つだろうが。おまえの立場にある者の」
「だろうな」彼はゆううつそうに馬の首筋に軽く額をくっつけた。
「陛下や、奥さんにもか?それはいいんだろう、好かれても?」
わがまま者め、と笑ってやるつもりで言ったのだ。だが彼は頭を馬にくっつけたままで、一瞬聞こえなかったかと思ったのだが、すぐに私ははっとした。
「その二人の愛も重荷なのか?まさかな」
彼はまた吐息をついて顔を上げ、馬によりかかって立ちながら、私の方を見ないまま返事をした。
「重荷ではないが、陛下にはもう甘えてばかりはいられないし、妻の一番望むものを私は与えてやれないし。結局、そのどちらの前でも、私は自分でいられない。大切にしたいと、思えば思うほど」
──(7)──
「それは陛下が…」私は思わず声をひそめていた。「お年を召されたということなのか?」
彼はびっくりしたような目で私を見て身体を起こし、「そうじゃない」と、とまどったように言った。「そんなことは感じたこともない。ただ、昔なら、わからないことは何でも私は陛下にお聞きしていたのに、この頃は自分で考えてしまってる」
「それはそうだろうよ」私は言った。「子どもじゃないんだから」
彼は、首を振った。「自分で考えて答えを出して、それから陛下に聞いているんだ。これなら答えていただけるとわかっていることだけを。そして、自分で考えてわからないことは聞こうとしてない…お返事が返らなかったり、陛下が動揺されたりするのが恐くて。そんなことはあるはずがないとわかっていても、もし、ひょっとしたらと思うと」
彼はかすかに息をはずませていた。一言ごとに白い息が空気の中に広がっていた。
「それも、しかたがないんじゃないのか」私は言った。「おまえの方が、もう強いんだよ」
彼は何かに脅えるように、強く首を振った。「そんなことない。絶対に。あの方はまだ私よりずっと、いろんなことをご存じだし、何でも理解しておられる。私のことも、その他のすべても。なのに、気づくと私は、ひとりでに…」
「いつごろからだ?」私は聞いた。「そうなったのは?」
彼はちょっと目をさまよわせるようにして考えていた。「ここ二、三年…いや、四、五年」
「けっこう長いじゃないか」
「うん」ゆううつそうに彼は手綱をもてあそんだ。
あまり気が進んで話している風ではないものの、話すのが特にいやそうでもなかった。漠然と私は、彼が私相手だから話しているな、と気づいていた。他の者にはこんな話は絶対しないにちがいなかった。私だと気にならないのだろう。こんな話をしたからといって、親しくなる相手ではないとわかっているから。
本当にわがままなやつだな。またそう思って、何となくあきれた。なるほど私をこういう風に使う気でいるのかと思って、複雑な気持ちになりながらも妙に感心もした。
他の連中が馬を見に来たので、話はそこで終わってしまった。だから、彼が「大切にしたいと思えば思うほど」と吐息をついたもう一人の相手…彼の妻のことについては、聞くことができないままだった。
──(8)──
彼も私も二度ともう、その話はしなかった。あいかわらず彼は、妻のことを皆に聞かれると少年のように頬を染めてはからかわれていたし、老皇帝が前線を訪れた時は息子のようにまめまめしく仕えていた。部下たちの信頼を一身に集め、誰からも愛され、崇められ、畏れられ、あれほどに栄誉と幸福に恵まれ、満ち足りていた男はいなかったろう。
だが、私にはあいかわらず、彼がそれほどの地位や愛情に恵まれるほどのすぐれた素質を持つ特別の男だとは、どうしても思えなかった。彼が今、手にしている幸福の中で、彼が自分で必死になってかちえたものは一つもないようにさえ見えた。どの地位も名誉も愛情も、望みもしないのにひとりでに彼をめがけて腕の中にころがりこんで来る。だからこそ、そのありがたさを彼はあまり感じられないのかもしれなかった。
「おまえが一番、気楽なんだ。おれのこと、あんまり好きじゃないみたいだし」
思い出すとやはり腹の立つことばではあったが、それはそれとして、彼の言おうとしたことの意味が何となく私はわかるようになっていた。確かに彼は、私と二人きりの時は明らかにそれ以外の時とは態度が微妙にちがっていた。それは多分、他の誰かと二人きりになった時にはないことだろうということも、なぜか何となく、私にはわかった。気をつかっていないというか、警戒してないというか、彼が自分で言ったように、好かれる心配がないから安心しているというか。
ある意味では、彼は馬や犬ほどにも私の存在を意識しておらず、柱や椅子と似たものと思っているのではないかと感じることさえあった。机の上に地図を広げて打ち合わせなどしている時、断りもなく私の腕にひょいと図面をたてかけて熱心にながめていたり、高い棚の上にある何かを取ろうとする時に、声もかけずに私の肩につかまって手をのばしたり、長い間ではないが、疲れた時に平気で、隣にいる私の肩に頭や背中をもたせかけたりするしぐさは、どう考えても私を家具としか見ていない動作だった。
どうして腹が立たなかったのだろう。侮辱されていると感じなかったのか。おそらく漠然と私は、こいつは人間より家具の方が好きな時があるのかもしれん、とそういう時に理解していた。身の程を過ぎた運。自分の分に過ぎた幸福。それに疲れ、それにふさわしい人間であろうとしつづける辛さに耐えているような、当惑と哀しみが彼のそんなしぐさのひとつひとつから伝わって来て、うらやましいと思うより、かわいそうにと思ってしまうことが、不本意ながら多かった。
──(9)──
私以外に彼が気を許していた人間がもしいるとすれば、それは彼の従僕だったろう。端麗な顔に深い傷痕のある、背の高い無口な若い男で、彼といつもいっしょにいて身の回りの世話をしているにしては、むしろどこかよそよそしく、彼とは距離をおいたようにふるまうのが、かえって私にそう感じさせたのだった。
時々、人が彼について何か尋ねると、「さあ、あまりお話はいたしませんので」「いえ、私は言いつけられた仕事をしているだけでございますので」と短く答えるだけである。主人の悪口を言われても怒るでもなく、ほめられてもうれしそうな顔をするでもない。常にみごとなまでの冷静さを保っている。
だが、彼の方は見ていると、時々この従僕に、気を許して甘えるような、なごんだ目を向けることがある。そして従僕もまたそういう時は、いつもの無表情な顔にあるかなきかのかすかな笑みを走らせて彼を見返すことがある。
私がこの従僕と二人だけで長い話をしたのは、ただの一度しかない。紀元一八〇年の冬、雪が舞い散る中、老皇帝の指揮のもと、くり広げられた、辺境の蛮族との、これが最後になろうかという激しい戦いが、わが軍の完勝に終わった夜のことだ。全軍団の指揮をとって戦いを圧勝に導いた彼の功績を讃えて、基地全体が夜遅くまで勝利の美酒に酔った、その夜のことだ。
──(10)──
広い陣営をびっしりと埋めたテントの内外で、金色と赤の火花を散らして大小さまざまのかがり火が燃えていた。祝いの宴をかぎつけるように集まってきた旅芸人たちの奏でる陽気な樂の音に、酔った男たちの調子はずれの歌声や、あちこちでいっせいに上がる笑い声が入り混じっていた。もう夜中近く、したたかに飲んだ酔いをさまそうと、私はいったん、皆のいるテントの外に出た。
凍った土が長靴の下でざくざくと砕けるのが感じられた。昼間激しく降っていた雪は積もらないまま止んでいたが、空にはなお厚い雲がかかっているのだろう、見上げても星の一つも見えない。数々のテントから音楽や人声とともに流れ出ている光の筋を、ひとりでにたどるようにして私は歩いていた。
ふと、かすかに澄んだたて琴の音が喧騒を縫って私の耳に届いた。私は立ち止まって耳をすました。彼が時々、たて琴をひいているのは知っていた。甘い恋の歌を歌っていることが多く、柄にもないなとからかうと、これしか教えてもらわなかったものと、ちょっと口をとがらせるようにして、だが別に恥ずかしそうでもなく言い返したものだ。だが、彼はさっきテントの中で皇太子殿下につかまって、元老院議員たちにとりまかれるようにして何か話していたはずだが、と思いながら、音をたどって近づいて行くと、馬つなぎ場のそばの空き地に小さな焚き火が燃えていて、その前に積まれた丸太の上に座って、あの彼の従僕がただ一人、飴色に光るたて琴を膝に抱えて、弦の調子を直しているのか、とりとめもない調べをつまびいていた。
私を見ると、彼はすぐ立ち上がって、たて琴をかたわらに置き、一礼した。私は手で制して彼を座らせ、彼のそばの丸太の上に腰を下ろした。
「主人を待っているのか?」私は聞いた。
従僕はうなずいた。「先に寝てよいと、おっしゃったのですが」
小さい焚き火にあたりながら、私たちの話題は、おのずと彼のことになった。従僕が私に好感を抱いているのを何とはなしに私は感じ、それは主人である彼と私がよい関係にあると、この従僕が判断しているからだろうと察した。彼について互いが知っていることを、私たちは、妙にひかえめに遠慮しながら、少しづつ話し合った。私は彼が寝る前にいつも、妻子の小さな木像に口づけしていることを知らなかったし、従僕は彼が戦いの前に決まって土をひとすくい手にとってはさらさらこぼす癖があるのを知らなかった。そして話題は彼の妻子のことへと移り、彼が妻に対して何か後ろめたさを感じている、それは妻の求める何かを与えてやれないことのようであるという点で私たちは一致したものの、さて、それは何であるかということについて、二人で議論するはめになった。
──(11)──
私は、そもそも彼は、妻が自分をあまりに愛していることが重荷になっているのだと言った。かつては山賊の一味として自由な暮らしをしていた女が、彼への愛ゆえにそれを捨てたのが、彼にとっては苦痛なのだと。自分が生きている限り、妻は自由になれないだろう。それが彼には、悩みなのだと。
なぜ、あんなことを思いついたのか、今でも私はわからない。父上を深く愛しながら、いつも何かに耐える表情をしていた母上や、婚礼の後でほどなく自殺した末の妹の思い出の中から、ひとりでに私の中につむぎ出された、それは幻想だったかもしれない。
従僕はそれに反対して言った。あの方が奥さまに与えてやれないと苦にしている、奥さまが何より望んでおいでのもの、それはあの方ご自身です、と。
「あの方は皇帝陛下を、この国を、軍を愛しておいでです」従僕はそう言った。「ここの暮らしを、私たちを愛しておいでだ。それを捨てて、奥さまやお子さまとともに暮らす、身も心も奥さまだけに捧げる生活をする決心がおつきでない…あの方は、それでいつも、気がとがめておいでなのです」
「まさか」私は言った。「一人前の男子が、しかもローマの軍人が、そんなことを気にするものかね。それがうしろめたくて、妻に愛されるのが重荷になるのか?いくら何でも、それはあり得ない話だ」
「おことばを返すようですが」従僕は、うやうやしい中にも、てこでも動かぬ熱意をこめて言った。「それはあなたさまのおっしゃることも、そうなのではございませんか?一人前の男が、ローマの軍人ともあろうお方が、一人の女の自由を奪って、生き方を変えさせたことをそんなに気に病むものでございますか?しかも女は好んでそうしたのでございますのに」
「いや、そこがあいつだというのだ」
「ですから私も、そう申し上げておりますので」従僕は言い張った。
「どちらにしても、そんなことを彼に思わせるとは、途方もない女とは思わぬか」私は言った。「どんな女だ?おまえは見たことがあるのだろう?」
「手紙を届けに行った時に、二、三度お目にかかりました」
「美しい女か?」
「見るものの心をかき乱す、不思議な美しさをお持ちでした」従僕は思い出すように眉をひそめた。「ハヤブサのような目と、なまめいた唇の、どこか魔女のような」
「もと山賊の一味だったのだろう?」
「手だれの女戦士とか。あの方の隊が一味を討伐されて、奥さまは捕虜となり、それであの方と知り合われたとうかがっております」
「彼はその女に、それほど心を奪われているのか」
「奥さまの方がむしろ夢中なのだ…と、あの方は時々、うれしそうにおっしゃっていますが」従僕はそう言いながら珍しく、自分も顔をほころばせた。
「だいたい、おまえは、ローマ軍人としての暮らしを妻のために捨てるべきではないかとあいつが思っているというが、あいつの性格から言うと、そんなことを長くくよくよ悩んだりはせぬぞ」私は立ち上がって、焚き火に新しい木を投げ込んだ。馬つなぎ場の向こうの黒い森がしんと静まりかえっている。「せいぜいひと月も迷ったらいい方だ。さっさと決断して、軍人をやめて故郷に帰って、ブドウ作りにでも励むに決まっている。そうしないということは、あいつがどうしてもできないと苦にしているのは、それじゃない。自分が生きている限り、妻が自分を愛しつづけるのは、自殺でもしない限り、どうしようもないことだから、あいつにはどうにもできなくて、だから悩むのではないのか?妻を解放し、自由にしてやるには、あいつ自身がこの世から消えるしかないから」
従僕はうなずいた。「そういうことは、おっしゃいますね。ローマ軍広しと言えども、私ほど自分の死んだあとのことを心配しないですむ兵士はいないだろうと。自分がいなくなったら妻は、いましめられていた紐を切られたハヤブサのように、力強く羽ばたいて、高々と空に舞い上がって行くだろうと」
「そうら見ろ」私は指を鳴らして見せた。「おれの勝ちだな」
「いや、お待ちください」従僕は軽く片手を上げて制した。「あなたさまも先ほどおっしゃいましたように、あの方は、うじうじと迷われるご性格ではございませんよ。自分が死ななければ奥さまを自由にはできない。けれども、自殺するわけにはいかない。そう思ったら、もうそこで、すぱっと割り切られるでしょう。できないとわかっていることができないからと、奥さまへの愛をためらわれるような、そんなお方ではございません。あなたさまのおことば通り、ローマ軍人としての暮らしは、捨てようと思えば捨てられるのです。それがお出来になれないからこそ、うしろめたくて、悩まれるのではございませんでしょうか」
「おまえもなかなか、やるではないか」私は思わず、感嘆の声を上げた。「なるほどな。そのくらい強情で、理を分けて話せなければ、あいつとも太刀打ちはできまい」
従僕は無言で、頭を下げた。
「どっちかだろうな」私は言った。「どっちだろう?」
「お聞きになってはいかがですか」従僕は、ひかえめに言った。
「彼にか?おれが?」
焚き火の赤い光の中で、従僕はかすかに笑ったようだった。「あの男には何でも話せる、と、いつかおっしゃっておいででした。何でだろう、と笑っておいででした」
それきり会話は途絶え、さりとて気詰まりというのでもなく、私たちは黙って燃える焚き火を見つめながら、背後や周囲のテントから遠く近く響いて来る笑い声や話し声を聞いていた。
結局、その質問を彼にする機会は永遠になかった。
何となれば、その翌晩に、椿事が発生したからである。
──(12)──
その翌晩は、今でも覚えているのだが、風の強い夜だった。あちこちのテントの柱がぎいぎいときしんで、基地全体はどこか、荒れた暗い海に漂う船団にも似ていた。昨夜の宴の残り物が捨てられているのをあさって、犬たちがうなりあったり、何かをくわえて影のように走って闇を横切るのが見えた。
馬たちが脅えていないか気になって、担当の士官と見回った後、けが人たちを収容しているテントにも立ち寄って、ランプの赤い光の中で眠っていたり、身体を起こして目礼したりする兵士たちを見舞ったりしていたため、私が自分のテントに戻る時は、すでに真夜中近かったと思う。風が雲をきれぎれに飛ばし、星が吹き落とされそうに細かくゆれながら空に輝いていた。
皇帝のテントはしんとしていたが、中には明るく灯がともっていた。それを横目で見て歩いたため、足が何かにつまづくまで、私は何かがそこにあるのに気づかなかった。身体をかがめて確かめると、テントの入り口を警護する兵士の一人で、手足にはまだぬくもりがかすかにあったが、すでにこときれている。あたりを見ながら剣を抜いた時、誰かが低く私の名を呼んだ。
皇太子殿下だった。
こわばった顔で唇を震わせ、子どものようにうろたえておられる。くずれるように私のそばにしゃがみこんで私の腕をつかんだその指も細かくわなないていた。「もう一人の見張りも、向こうで死んでいる」かすれて、うわずった声だった。「今、中を見たら、父上が…」
私は殿下を押しのけるようにして立ち上がり、たれ布を払って、テントの中に飛び込んだ。
ゆらゆらとゆれる灯火の光が、あちこちに置かれた皇帝や偉人の彫刻たちの重々しい表情を浮かび上がらせている。それらのうつろな目の数々に見下ろされるようにして、入り口近い敷物の上に、皇帝陛下はうつぶせに倒れておられた。雪のような白髪が乱れて広がっている。かがみこんでその白髪をかきのけると、目を閉じたお顔には、もはやまったく血の気はなかった。
「首をしめられておいでだ」後ろで殿下の、むせび泣くような声がした。「さっき、通りかかったら、見張りが死んでて、入って見たら…」陛下の声が少し明るくなったような気がした。「おまえはどうして?なぜ来たんだ?」
私は殿下を振り返った。よるべない、途方にくれた表情だが、それでも必死に落ちつこう、何かを考えようとしておられるのが手にとるようにわかる。おそらく自分もそんな表情をしているのにちがいない、と私は思った。星が、空から落ちたのだ。いや、太陽がというべきか。ローマの中心が失われた。何者かの手によって。それを知っているのは今、我々二人しかいない。
「どうして今ごろ?」何かにすがるように殿下はまた聞いた。
「馬を見回って、負傷者たちのところに行っておりました」私はぼんやり、そう答えた。「たまたま、通りかかったのです」
「たまたま、か」殿下は泣き笑いのような顔で笑い、涙の光る目で、明らかにどこか肩の力を抜いた、ほっとした目で私を見た。「おまえでよかった。おまえが来てくれて本当に…」
私は立ち上がり、殿下と向かい合ったが、殿下は歩み寄って私と肩を並べるようにして、陛下の遺骸を見下ろした。
「犯人が誰にせよ、狙いは帝国の混乱と滅亡だ」私の腕をまたきつくつかんだ殿下の身体から、武者震いのような熱い震えが伝わって来る。「何としてでも、それは阻止する。どんな犠牲をはらっても、この国が危機に瀕することは許さぬぞ。父上の国だもの。誰にも指一本触れさせてなるものか」
私は陛下を見た。「どうするのです?」
「この殺人を隠す。自然死されたと皆には言う」わなわなと声も身体も震えながら、殿下の声はそれでもようやく、どこかお父上譲りの断固とした響きをただよわせはじめていた。「軍団に動揺を生むことは絶対に避けなければ。それはたちまち、帝国の崩壊を招く」狂ったように突然、殿下は私の両腕をつかみ、かきくどくように繰り返した。「よく通りかかってくれた。よく、おまえが来てくれた。助けてくれるな?秘密を守ってくれるな?ローマのために。私のために。助けてくれるか?協力を約束するな?」
痛いほど腕にくいこんでくる殿下の指に、私は殿下の恐怖を感じた。これからしようとしていること、しつづけなければならないことの大きさに、この方は脅えておられる。音をたてて、私は剣を鞘におさめ、一歩下がって頭を下げた。
「皇帝陛下がお亡くなりになった今、私が従うのは殿下です」できるだけ落ちついた声できっぱりと私は言った。「何をすればよろしいのですか?」
「外の死体を片づけて、姉上と侍医を、ここに呼べ」殿下はあわただしく目を閉じたり開いたりしながら、考えをまとめておられた。「そして、その二人と、私とともに、この秘密を守ってくれ。おまえには気の毒だ。苦しい役割を負わせることになる。でも、言わせてくれ、おまえでよかった。おまえなら、できる…おまえにしか、できない。私にはわかっている。いつも、おまえを見ていたから。ここぞという時には誰よりも頼りになるとわかっていた。私の期待を裏切るな。信じていいな?この国の運命は、おまえにかかっている。この陰謀を阻止できるかどうか、すべてがおまえにかかっている」
「陛下のお身体を寝台に」私は言った。「そうして、ここでお待ち下さい」
──(13)──
皇女と侍医を陛下のテントに案内し、表の死体を片づけ、近衛兵たちに警戒体制をとらせた後で、私は彼を起こしに行った。目ざとい彼はすぐ起きて、私といっしょに皇帝のテントに行ったが、陛下が自然死されたという殿下のことばを、まったく信じた様子がなかった。寝台に横たわる陛下のなきがらの首筋に死因を確かめるようにそっと触れ、その額に口づけすると、殿下を無視してさっさとテントを出て行ってしまった彼を私は追いかけ、元老院の議員たちを呼び集めようとしていたところを、ただちに近衛兵たちに捕縛させ、翌朝、処刑するよう命じた。
彼が、どんな顔をしていたか、実は私は覚えていない。ずっと後になっても、すぐ後でも、何度も思い出そうとして、一度も思い出せなかった。彼は、妻子のことを何か私に言っていた気もする。それに自分が何と答えたか、それも私は覚えていない。
あの夜、私は必死だった。はた目には、どう冷静に見えたか知らぬが、あの夜中、皇帝のテントの前で、まだやわらかさを失っていない兵士の身体につまづいてから夜明け近くまで、自分が何をしていたか、ほとんど記憶がないぐらい、緊張し、夢中だった。ローマのために。帝国と軍団の、治安と秩序を守るために。それを脅かすもののすべては、たとえ友人でも家族でも容赦できぬという、はりつめた思いだけで行動していた。
…この国の運命は、おまえにかかっている。
…私とともに、この秘密を守ってくれ。
…おまえでよかった。いつも、おまえを見ていた。頼りになると思っていた。
…よく、通りかかってくれた。よく、おまえが来てくれた。
殿下のことばの一つ一つが、私をとらえて放さなかった。たまたま、あの時、テントの前を通りかかり、殿下と秘密をわかちあう唯一の人間になったのが、彼ではなく、自分であったということが、私を興奮させていた。生まれて初めて、選ばれた人間になったという、目まいのするような思い。自分の分には過ぎたほど巨大な使命を与えられ、そのためにあらゆる他者をふみにじることが求められ、許される人間になったという責任感と緊張。それが私に、他のすべてを忘れさせ、ただひたすらに、殿下に信頼された者としてなすべきことを強いたのだ。
──(14)──
眠ることも忘れていた、次の日の夕方近く、私は兵士たちから、彼の妻子を反逆者の家族として処刑せよという皇帝の命令書を持った使いが彼の故郷へ向かったという報告を受け、その書類の控えに目を通していて、殴られたような衝撃を受けた。
処刑自体はしかたがない。だが、このような命令書は罪の軽重によって種類がわかれて複雑で、すでに皇帝として印を押している殿下は、まちがった書類を出しておられた。彼の妻子に下された処刑命令はキリスト教徒や極悪人などに対する残酷きわまる極刑の場合に用いるものであり、たとえ反逆者であっても、いやしくもローマ市民で軍人で将軍の地位にあった者の家族に対して下される、名誉ある処刑に使う指令書ではなかった。
呆然とした私は、ほとんど椅子から飛び上がって、新皇帝のもとにかけつけた。息せききって机に手をつき、申し上げた。「陛下、書式をまちがっておいでです」
そして、説明するのももどかしい思いで早口に、そのまちがいを説明した。陛下は私が話し出してすぐ、ちらと私の背後と周囲に目をやられて、誰も聞いていないことを確かめられただけで、後は静かなまじめな顔で耳をかたむけておられた。
しかし、無表情で何の反応も示されない。わかっておられないのかと私はますます微に入り細に入り、詳しく説明しつづけた。
やはり、陛下は何もおっしゃらない。黙って私を見返しておられる。
とうとう息が切れて、途方にくれて、私が口をつぐむと、陛下は私に微笑みかけた。
「それでいいのだ。まちがいではない」
私はあっけにとられた。「何です?」
「彼の妻子には、そのような処刑でふさわしいのだ」鋼鉄のような冷たい目で私を見返して、陛下は言い放った。
「そんな重い罪を、彼は犯していはしません」私は叫んだ。「どうしたのです、そんなに彼が憎いのですか?」
陛下の目の中に何かが燃えてゆらめいたが、それが何かはわからなかった。とっさに感じとったことをそのままに私は口に出してしまった。
「陛下、このような命令の書式は種類が多くて複雑で、まちがえやすいのです。よくあることで、恥ずかしいことではございません。撤回命令を出されて修正すればすむことです」
陛下の顔色がみるみる変わった。
歯をがちがちと鳴らす音が聞こえそうな、追いつめられてせっぱつまった表情で、机のはしをわしづかみにして立ち上がり、美しい白い顔をひきつらせて、陛下は低くささやいた。
「もう一度、言ってみろ。おまえは私が、そんなつまらないまちがいをしたなどと、本気で考えているのか?そんな愚かなまちがいを、私がすると思うのか?」
私は、立ちすくんだ。
絶対に言ってはならぬことを言ってしまったことに、ようやく気がついたのだ。
もうこうなっては、死んでも陛下は、この命令を撤回はしまい。うっかりまちがったことは、ご自分でよくわかっていても、それだから、なおのこと。
──(15)──
なぜ、こうまでも、私はうかつだったのか。
「よく、そんなことに気がつくなあ」
無邪気で素直に感嘆する若々しい声が、耳の奥によみがえった。
「おれのどこがいけないんだろう?おまえみたいになれるといいのに」
震えて、泣きそうだった声も。
自分の面目や誇りなどには何ひとつこだわらず、部下や軍や国のためにはどうすればよいかだけを、いとも自然に常に最優先する指揮官。
それが普通と思ってきたのだ。それに慣らされてしまっていた。
陛下の鋭い声が耳に届いた。
「用と言うのは?それだけか?」
何とか、この相手の面目をつぶさずに、命令を撤回させる方法はないものかと私はまだ考えていた。だが、その一方で、処刑命令を手に彼の故郷へ向かって走る兵士たちの馬のひづめの音も、ひびいてくる気がした。こんな相手のきげんをとって押し問答している内にも、刻々と時は過ぎる。それよりも。
あの従僕の顔が浮かんだ。主人である彼のためなら、あの背の高い、顔に傷のある従僕は、軍を裏切ることなどものともしまい。彼の故郷へは何度も行っているから、道はもとよりよく知っていよう。
私は一礼した。
「いや、何もございません。退出させていただきます」
テントを出た時から、ひとりでに速足になった。それを抑えて私は歩いた。あちこちのテントから流れ出す光と闇のはざまをぬって、彼のテントのある方へと急いだ。突然、黒い影が現れて私の正面に立つまでは。声が誰何した。
「どちらへ?」
「そちらは?」
聞き返しながら、ちりちりと首筋のあたりで血が引いて行くのを感じた。影は一人ではなかった。全部で五人。近衛の士官だ。切り捨てて闇に葬れる数ではない。
「あなたをお探しし、ご自分のテントにお連れして、お護りするようにとの皇帝陛下のご命令です」士官は言った。その声も緊張している。
士官の広い肩越しに、私は彼のテントを見ていた。それはもう、そこに見えていた。かすかな明かりがともっているのまでが。あの従僕がいるのだろう。そこまでは、あと百歩もない。だが、永遠に行き着けないと、すでに私は知っていた。
「お伴いたします」
腕にかけられた士官の手を払って、私は向きを変え、歩き出した。落胆も動揺もしている暇などないと自分に言い聞かせた。これが最初の敗北であれ、陛下と私の戦いはもう始まっている。
──(16)──
囚人同然に見張りをつけられて、自分のテントに事実上閉じ込められていたのは三日間だ。その間、私は彼の死を忘れ、彼の妻子の死も忘れることを自分に課した。始めたことと、選んだ道を貫かなければ、私自身が、生き延びられない。
自分の選択はこれしかなかったと私は自分に納得させた。軍は平穏を保ち、先皇帝のなきがらは葬られ、正式の葬儀を行うために都へ帰る準備を、殿下はすすめているという。元老院の議員たちも殿下を次の皇帝として、正式に承認したらしい。新しい体制は整いつつある。最悪の事態は避けられ、国の治安は保たれた。
今はそれで、よしとしなければなるまい。新皇帝はまだ若く、未熟さはやむを得ぬ。あの時かいまみた心の弱さは、その地位が安定し、自信が生まれれば消えるだろう。
三日後に新皇帝は私を呼びつけ、閉じ込めていたことなどそしらぬ顔でにこにこしながら、直属の近衛軍の隊長に任命するから、自分に従って都に来るようにと命じた。
思っていたよりしたたかな若者かもしれない。彼の妻子を逃がそうとした私の内心を見抜いて、ていよく囚人扱いしておきながら、そのことに何もふれずに、いきなり私を抜擢して、恩をきせるとともに、手元において見張るとは。
さらさらのバカでないだけ、支配者としてはまだましか。しかし、彼が相手だった時のような、のどかな気持ちでは通用しまい。油断なくつきあって行かねばならぬ。
そんなことを考えながら、淡い陽射しの中を歩いて行くと、部下の一人が近寄って来て、心なしか青ざめた顔で、「ずっと、お目にかかりたくて、お探ししていたのです」と言った。「あの方の処刑を命じられて、お連れして行った士官たちが、一人も帰って来ておりません」
「何だと?」私は彼を見つめた。「どういうことだ?何で報告しなかった?」
「報告と申しましても、どなたに言えばよいのやら」部下は不安そうな目で言った。「いろんな噂がとびかっているし、指揮系統もずたずたで…誰がどう責任をとればいいのか皆目わからない状態なので」
強い風が、枯れ草のかたまりを巻き上げて吹き飛ばしている基地の中を、見るともなく私は見回した。一見、平穏を保っているようでも、この基地の秩序は完全に失われている。当然と言えば当然だ。正副二人の司令官が姿を消し、その後の体制を整えるまでには、新皇帝の力はまだ及ぶまい。
「私ももう、ここの指揮官ではない」私は部下に向かって言った。「陛下に従って都に行くことになっている」
部下はうなずいた。「ご出世ですね」
「そんなことより、その話」私は聞いた。「どのくらい広まっている?」
「ほとんど誰も知りません。何もかも本当に混乱しています」
「徐々に落ち着いて来る。あわてるな」私は部下をなだめ、つけ加えた。「そして、その話はもう、誰にもするな」
その日一日、身辺の整理をしながら見張られていないのを確かめた。そして翌朝早く、馬でひそかに基地を出た私は、古い街道を北へと走った。
──(17)──
思い出すのは、冬の空だ。
つきさすように黒々と、とがった枝をさしかわす木々の上に、一面に広がる、冬の空だ。
私の足もとに、古いしゃれこうべや白骨が散らばっていた。
街道のとだえる所、陣営を遠くはなれた、人気のない森の中。
我々はそこを、捕虜や、軍規を乱した者の処刑場に使っていた。
──(18)──
初めて彼と出会った頃、戦いが長く途絶えて退屈だった時、私たち二人はよく、森の中や、谷や崖で、猟犬ごっこと私たちが呼んでいた遊びをした。
オオカミやウサギや、その他の獣の足跡を追ったり、蛮族の野営した跡を調べたりして、木や草のふみにじられた具合、折れた枝の様子などから、そこで何が起こったか、何が通ったかを当てようとした。
「見ろ、ここで馬が足をすべらせて倒れたんだ」
「じゃ、この血の跡は?オオカミかな?」
「多分な。矢で射たんだよ、馬に乗ってた人間がさ。ほら、ずっとそこまで、血のしずくが続いてる。だんだん、間遠になってるってことは、大きな傷じゃなかったのかな。あれ、でも待てよ。どうしてここだけ、血の跡がとぎれてるんだ?」
「枯葉だよ。枯葉がさ、そこに風でたまったんだよ。手でそっとかきのけて見ろ、きっとその下に血の跡が続いているから」
太陽に暖められた黒い土の匂い。べったり腹ばいになって向き合って、夢中でそっと手のひらで少しづつ、二人で枯葉をかきのけた。太い木の根元に膝をついたまま、幹の回りをぐるぐる回って、がさついた樹皮に頬を寄せながら、見下ろしてはまた見上げて、何か残った痕跡はないか、読みとろうとした。そうやって、そこで演じられた動物や人間の動きを再現しようとし続けて、いつまでも飽きなかった。
私と彼が似ていた一つは、ああやって何かを調べ、考えるのが好きだったことだ。食事も忘れていつまでも続け、集合時間や点呼に遅れそうになっては全速力で後になり先になりして、転げるように森の中を走って基地まで帰ったことが、何度あったことだろう?
──(19)──
それが今ここで、こんなことの役にたとうとは思わなかった。
凍てついた土の上に、思い思いの方向に身体を投げ出して横たわる、四つの死体。
抜かれないまま落ちた剣。入り乱れる馬の足跡、点々と落ち葉を染める血、ふみにじられてでこぼこになっている土。
一人の男が、いったん大地に膝をついた後、つま先で土を蹴って立ち上がる。背後の男があわてて身体を引く暇もなく、奪い取られた剣がその喉元に突き刺さる。その向かいの男の剣は、おそらく寒さに凍てついて刀身が抜けないまま、持ち主はざっくりと正面から斜めに顔を切り落とされた。
そんな情景がありありと、私のまぶたに浮かび上がった。
少し離れた土の上に、剣を背中に突き刺されて倒れている男は、馬から落ちたらしい。小鳥たちがついばんだのか、ぼろぼろになったパンと肉のかけらが散乱しているのは、処刑の行われる場所から少し離れて食事でもしていたのか。更にそのやや先では、疾駆して来たことを示す、幅広い間隔の馬のひずめの跡と、人の足跡が交差し、おびただしい血が土と枯葉を染めていた。馬と人とがかけちがい、馬上の男と徒歩の男はどちらも重い傷を受けている。しばらくその場にうずくまっていた後で、徒歩の男は立ち上がり、馬を二頭とも捕らえ、それらを駆って一散に、森から走り去っていた。
ひざまずいて、血の跡に触れてみていた私は、立ち上がってもう一度、その小さいが激しい戦いの跡を見渡した。
彼の死体はどこにも見えない。
予想していたことではあったが。
──(20)──
だが、それよりも、私はその場一帯に、ぞくぞくとするほど強く、彼の存在を感じていた。
逃げ延びたにせよ、どこか途中で倒れたにせよ、もはや、ここには彼はいないとはっきりしているのに、それでもなお、空気の中に爆発しそうにたちこめている彼の怒りを私は感じた。
彼が斬り倒している四人の士官は、いずれもまだ基地に来て日の浅い皇帝つきの近衛隊の連中だが、皆、彼とは顔見知りだったはずだ。
士官たちは彼を尊敬していたし、彼もそのことはよく知っていた。
──(21)──
それなのに、この殺し方はどうだ。
どの死体の傷あとにも、一瞬のためらいも、かけらほどの容赦もない。
殺された男たちの方がむしろ、そうではなかったろう。
彼は当然、武器は持たず、手も縛られていたにちがいない。
それを、いくら不意をうたれ、髪の毛一筋のすきをつかれたとは言え、これだけ一方的に反撃されるとは、士官たちの方にはおそらく確実に、彼に対する同情があり、ひるみがあった。
それをあやまたず見抜いて、彼はそこにつけこんだのだ。
そして、虫けらを踏みつけるよりももっとこともなげに、かつての仲間を次々にほふった。
おそらくは私が相手でも、誰が相手でも、同じことだったろう。
冬の朝の陽射しは弱いのに、彼の怒りの熱っぽい匂いを、私はそこここに嗅ぐことさえもできるような気がした。
この怒り。
それはいったい、何だろう?
考えるまでもなく、馬を全速力で走らせて、まっしぐらに彼が向かった先が、私にはわかっていた。
彼の故郷だ。妻子の待つ。
…何よりも妻が私に望むもの。それを私は与えてやれない。
あの従僕が正しかろうと、あるいは私が正しかろうと、ひとつだけ確かなことがあった。
彼の妻から自由を奪ったのは、ローマの軍人である彼への愛だった。
それほどに妻が愛した彼を、妻から半ば奪い続けていたのも、ローマと戦友たちだった。
──(22)──
彼がここで、一瞬の迷いもなく、怒りをこめてたたき切ったのは、妻が求め続けていたものを与えることを彼に許さず、つなぎとめていたすべてのものではなかったか。
もっと早くそれらを切り捨てて、妻の広げる腕の中へ、飛び込んで行かなかった自分自身への、激しい怒りと譴責もこめて、彼は刃をふるったのではなかったか。
木々の向こうに広がっている、冬枯れの野を私は見つめた。
彼の故郷と、この地との間に横たわる山脈を、荒野を、大河を、思った。
…間に、あうか。
もし、兵士たちの方が、彼の先に着き、残酷な処刑が実行されたら。
自分自身のすべて。妻自身の自由。
私と従僕が考えた、二つのもののどちらをも、ついに妻に与えることなく、彼は妻を死なせることになる。
そうなった時、彼はまだ、生きている力があるのだろうか。
だが、とあたりを見回しながら私は思った。
この、絶対の、絶望的な状況を逆転させて生き延びるほどの強運の持主ならば。
もしかして、間に合って、妻と子を連れ出して、皇帝の力も法の目も届かない遠いかなたへ、かけ去るのではあるまいか。
頭上で鳥がけたたましく鳴き、何羽かが私をものともせずに、死体の上に舞い降りて来た。
自分でも気づかぬ内に私の手は剣を抜き、一閃した刃に鳥の一羽は切り飛ばされて、黒い羽が雨のように、私の回りに散りふぶいた。
──(23)──
…私と彼が再会するのは、それから半年後の夏になる。
第二章 ある種の冷たさ (終)
(第二章までのあらすじ
紀元180年の冬の夜、英明をうたわれた老皇帝は蛮族と交戦中の前線の兵営で没した。病死と発表されたが、真実はそうではなく、何者かに絞殺されたのである。たまたま、その直後に現場を通りかかった、軍の副司令官である「私」は、父の死体を発見して取り乱している皇太子に会って事件のてんまつを知った。
帝国に混乱を招いてはならぬという判断から、皇太子と「私」は、この事実を伏せることとし、あらゆる犠牲を払って秘密を守り抜くことを誓う。その結果、軍の平穏は保たれ、新皇帝となった皇太子は、「私」を側近の近衛軍の長に任じ、ともに都へと凱旋することになる。
しかし、その中で「私」は、ともに少年兵だった時からのライバルであるとともに、奇妙な友情で結ばれていた「彼」を、反逆者として断罪し、処刑命令を下さなくてはならなかった。
実力の点では、「私」に勝るとは決して思えないのに、常に信じられないほどの幸運に恵まれて「私」に水をあけ、全軍団を指揮する将軍の地位にまで上りつめていた「彼」は、処刑の直前に護送の兵士たちを倒して、脱走し、姿を消す。)
第三章・貴賓席から見た風景
──(1)──
さて、あの新皇帝は、名君であった父の名を汚す愚帝と呼ばれ、姉である皇女とその幼い息子を殺した暴君という噂まで今ではささやかれる始末なのであるが、その短い治世の間、近衛隊長として側近として常にそばにあった私は、今でもあの若者がそれほどの暗君であったとは決して思えない。
──(2)──
確かに新皇帝は、すでに私が語ったように、弱点を隠そうとする自信のなさが逆に高飛車な態度となって、しばしば相手を威圧することがあった。
しかし、あの若さと未熟さで、あれほどの圧倒的な権力を手にすれば、その重圧に多分誰でもああなったのではあるまいか。
皇女である姉への執着が近親相姦めいて見えるほど強かったのも、とどのつまりは彼がそれだけ孤独であったということだろう。
本来なら仕事の面では、もっと私を信頼してもよかったのに、新皇帝にはそれができなかった。
父の老皇帝の死が、自然死ではなく殺人であったという秘密を共有しているという思いが、私たち二人を結びつけるのではなく、逆に警戒させ、遠ざける役割を果たしたことも否めない。
それまで相手の人となりをあまり知らなかったこともあって、私たちはそれぞれに互いが裏切ることを恐れた。
──(3)──
そのような警戒心もあって、相手の能力や弱点をそれとなくはかりあい、うかがいあう時、それは少なくとも私にとっては、いまいましい苦痛というよりは息苦しい悲しみであったが、私たち二人は従う者、従われる者として実にしばしば「彼」と相手を比較したし、また自らが比較されていると感じていた。
彼ならば、こうした。彼ならば、こんなことはしなかった。
その名を一言も口に出さなかったが、相手の目の中に、声の中に、いつもそのつぶやきを私たちは聞いた。そして、何でもないことの一つ一つに、心のどこかでいつも互いが自分に言い聞かせていることも。
そう、彼はもういないのだ。この男は彼ではないのだ。
それは必ずしも、彼の方がよかったというだけのことではない。
たとえば書類の誤りを発見したり、議員たちの内心を読みとるといったことにかけては、新皇帝は明らかに彼よりはるかにすぐれていた。
都に凱旋した日、儀式用の戦車の通る道の両側で歓呼の声をあげている民衆たちを見て、冷ややかに「橋のこちら側からは金で雇われた連中だな。水たまりをよけて立っているだろう?」と私にささやかれたように。
私もまた、新皇帝が何度か巧みな言い回しでごまかして私に責任を押しつけようとした時、「その言い方では陛下のご威光が十二分に伝わりませぬゆえ、私の名はお出しにならぬ方がよろしいかと」と、やんわり拒絶して、相手の企みに気づいていることを教え、「やるな」というように陛下をにやりと笑わせたりした。
そのようにして私たちは次第に互いを認めあい、それなりの敬意も払いあうようになっていった。
ただ、時々、心を何かにかみ裂かれるような鋭い空しさや淋しさに襲われることがあった。
時にはあまりに間が抜けていて吹き出したくなったほどの、彼のあの一風変わったのんきさや、疲れてくると、新皇帝のようにいらだってぴりぴりするのではなく、ぼうっと眠そうな子どものようになる表情が、しきりと思い出される夜がある。
前線を離れ、兵士としての暮らしをやめた空しさでもあるのだろうと自分に言い聞かせながらそんな夜、私は仕事に没頭した。
──(4)──
そう思うとあらためて気づくのだが、彼は兵士たちの前では、いつも明るく陽気で、ぎらぎらと荒々しい熱気と精力にあふれているようにさえ見えたものだが、テントの中や、私と二人きりの時には、どこにいるのかと目で探しそうになるぐらい、ひっそりと静かに考え込んでいることが多かった。いや、何も考えていないのではないかと思うほど、ものうげで、何をするのも面倒くさそうで、「どうする?」と私が聞くと、しばしば頬杖をついて私を見たまま「どっちでもいいや」と答えて私をあきれさせた。「陛下や、皆に言いつけてやるからな」と冗談半分におどかしたこともある。彼はつまらなさそうに苦笑して、申し訳のように身体を乗り出しながら「だって、それ、どっちだっておんなじだろうが?」と、ぶつぶつ言った。「わざわざ決めなくってもさ、その時になったら、どっちかになるよ」
まあ、そう言えば確かにそういうことも多かったが、そういう彼を見ていると私はよく、こいつは本当は相当なだらしない怠け者ではないだろうかとか、生きているのもいやだともしや思っているのではないかという気がしたものだ。
きちょうめんで、回りをきちんとしておくのは確かに好きだった。本や書類は用途別にそれぞれ箱や棚に入れて、すぐ取り出せるようにしていたし、剣の刃を磨く砥石や灯火の油なども、かならず前に残った古い方から使っていた。私が適当にそのへんに投げ出した外套を、いつのまにか取って、決まった椅子の背にかけ直していたりするところもあった。しかし、食べ物や飲み物や服装には徹底して好みがなかった。彼の従僕は、私たち二人が話し合っている時、飲み物を何にするか私には聞いたが彼には聞いたことがなく、聞かなくてもわかっているのかと感心していたが、見ているとどうもそうではなく、ワインだろうがリンゴ酒だろうが、その時々で私と同じものを出しても彼が文句を言わないのである。服装も髪の手入れも、どう見ても従僕にまかせっきりのようだった。ある時、従僕が珍しく私のいる前で、ちょっと彼に抗議するというか、ほとんど叱るような調子で、「明日、皇帝陛下がお見えになると先ほど、人に聞きましたが、それだったら前もって言っておいていただかないと、礼装用の鎧や服をそろえる都合があるのですよ」と言い、彼が「ごめん」と謝りながらも、ちらとした目つきが従僕は気に食わなかったらしく、「陛下はお気になさらなくても、兵士たちは見ておりますし、私が何をしているのかと言われるのですから」と腹立たしそうに言いながら、向こうに行ってしまったことがある。彼は小さなため息をつき、何をそう気にするんだか本当にわからないというような、どこかあきらめた顔をしていた。
──(5)──
彼について、そんなことを改めて思い出すのは、新皇帝という人が、これとまったく逆だったからだ。
服装、髪型、装身具に徹底的にこだわる人で、そう言うと、洒落るのが好きなだけの愚かな女のようだろうが、決してそうなのではなかった。
元老院に行く時、コロセウムに行く時、どのような服装をすれば相手にどんな印象を与えられるか、そして、自分の望む効果を上げ成果をかちとれるか、陛下は細かく検討し、決定した。今日は、相手を圧倒しなくてはならないから、銀の彫刻をほどこした漆黒の鎧を。明日は華やかな儀式で、皇帝自身が最高の飾りともならねばならぬのだから、真紅の首飾りを。荘厳な場にふさわしく純白と薄紫のトーガを。まぶしい陽射しの下で映えるには冠はむしろ月桂樹をかたどった細い金の輪がよい。
戦場で私たちが、投石機の配置を考慮し、攻撃塔を建設するように、陛下の服装はそれ自体が、敵を威圧し、あるいは懐柔し、その場を支配するための要塞であり武器だった。それはある意味では正しかったと、私は今でも思っている。剣や矢で相手の肉体を貫いて雌雄を決する戦場とちがって、ここ、平和な都では、人の心をゆさぶる雄弁、目をひきつける外見こそがすなわち武器だったのだから。
自分が今日は勇ましく見えるべきか華やかに見えるべきか、優雅に見えるべきか、力強く賢く見えるべきか、陛下は計算しつくしていた。話し方、歩き方、声の出し方、手の上げ方、マントの腕への巻きつけ方、何もかもをその目的に沿うように工夫していた。
時には、隣に立つ私にまで、鎧の色を揃えろとか、逆にご自分が目立つように反対の色を着ろとか命令されて、最初は何のことを言っておられるのかわからなくてとまどったことがある。今思うと、同じようにそばにいることの多い皇女の服装にも、おそらくは細かい指示を出しておられたはずだ。
「自分に酔っておられた」と、それを評する者もいる。しかし、私はそう思わない。陛下はいつも冷静に、厳しく自分を点検していた。美しい衣装でも自分に似合わぬと判断されたら決して身につけなかったし、「今日の演説は情に流れすぎた。もっと短く力強いことばを選ばねばな」とか「最前列にいた赤い髪の女が最後まで泣かなかったが、感動しなかったのだろうか」「あの階段は長すぎるから、途中で一度立ち止まって振り向いて、私の姿をよく見せた方がよかったかな」などと、その日の自分の話しぶりや行動をいつも反省してみておられた。
民衆を喜ばせよう、その望みを知ろう、好みにあわせようと、あれほど必死で努力されていた人を私は知らない。そういう意味では、陛下は民衆を本当に大切にし、愛しておられた。そう、彼のあの冷たさやそっけなさ、無関心さやうっとうしがりように比べると、ずっと愛しておられたと思う。
──(6)──
生きることにしても、そうだった。
彼のあの、大らかと言えば聞こえはいいが、「そんなの、どっちでもいい」「別にどうでもかまわない」と、毛布の色から食堂の椅子の配置から占領した橋の呼び名まで、私や兵士たちにまかせてしまう、無気力に見えかねない無関心さに比べると、新皇帝は本当に朝から晩まで、生活のあらゆる面のこまごまと細かいことにこだわった。
都に凱旋されて間もなく、陛下は宮殿中の模様替えにずっと没頭しておられた。彫刻の位置を入れかえ、朝日の見える窓に書き物机を、月光の射し込む部屋に寝台を移動させ、敷物やたれ布を次々ととりかえさせた。その一方で、元老院の連中と日夜議論を重ね、そのための資料の整理や研究もきちんとなさっていたのだから、愚帝どころの話ではない。熱にうかされたような、とどまるところを知らない精力的な仕事ぶりは、彼よりもはるかに上だと言ってよかった。
ようやく、それが一段落すると、今度は都を見渡されて、あの神殿の庇の形はよくないとか、通りの並木をもっと増やそうとか、噴水が少なすぎるとか、広場のベンチの形が悪いとか、通りの階段が急すぎるとか、大きなことから小さいことまで実によく気をつけられて、たてつづけの工事にかかられた。
ご自分の毎日の生活にしても、さまざまなことによく気がつかれた。書類に押す印の大きさが書類全体に比較してつりあいがよくないと言われて、大変な手続きをいくつも踏んで、印をすべて交換されたし、寝間着を洗う時に使う香料の種類が変わったと文句を言われて、「私たちでさえ気がつかなかったのに」と、係の侍女や女奴隷たちを呆然とさせた。
私たちの多くと同じように朝食はほとんどとられないのだが、その一切れのパンに斜めに入れる切り込みの角度が少しでも違っていると不愉快になられたし、オリーブの実が大きすぎても小さすぎても気になさった。ましてや夜食となると、ワインの味や肉の柔らかさやソースの濃さには、もう口うるさいというような程度のものではなく、その食卓に飾る花や、横たわる長椅子の掛け布の色までも、料理の色に合っていないと味が落ちるとおっしゃって、その場でとりかえさせたりなさることがよくあった。
──(7)──
人によっては、新皇帝のこれらのすべてをもって、扱いにくい暴君と呼ぶことに何のためらいも持たぬだろう。
しかし、そういうことで機嫌を損ねられるたびに臣下や奴隷を鞭打たせたり、首をはねたりなどされたら、これは確かに暴君だろうし、あれがそのまま度を越して行けばそのようになった可能性もないではないが、少なくともあの時期には陛下はそこまではなさらなかった。不機嫌になったり文句を言ったりされていただけで、確かにその都度、家臣や侍女や奴隷たちはあわてて走り回っていたが、それが彼らを苦しめてばかりだったとは、私は決して思わない。
宮殿内の数知れぬ仕事には、皆それぞれの係があって、奴隷たちはめいめいの専門とする仕事には誇りを持っていた。陛下のような気難しい主人の注文に応えることを喜ぶ風さえなかったとは言えない。
先の寝間着の香料の件にしても、「陛下にはかなわないわ」と騒いでいる侍女や奴隷たちの間には、はりあいが生まれた活気が感じられたし、食卓に供したキジバトのパイや、鹿肉の包み焼きがうまかったとほめられたと感激していた料理番もいた。
寝間着の香料のことなど絶対に気にもしないだろうし、キジバトだろうがジュズカケバトだろうが、出されたものはぱくぱく食べて文句も言わないに決まっている彼よりは、新皇帝の方が奴隷たちにとって、ずっと生き甲斐や働き甲斐を感じさせる、よい主人であったかしれないのだ。
陛下はとにかく、起きてから寝るまで、小さいことまで気を配り、目を配った生活をされたかったのだと思う。好みの柔らかさの枕に頭をのせ、一番美しいと思う形のパンを食べ、満足の行く傾き加減の神殿の屋根がちょうどよい配置でおさまっている窓からの風景をながめ、理想的な順序で並んでいる彫刻を見ながら、快い歩数で階段を下りて、工夫をこらした服装で、満足の行くように整備された通りと建物を歩き、練りに練ったことばで演説をして、期待通りに人々の喝采を受け、帰宅して、ほどよい明るさの灯火の中、最高の味わいの夜食をとり、よい匂いのする湯に身体をひたし、気持ちのよい香りの寝間着と夜具に包まれて眠る。そういう風に、すべてを完成させるのに夢中で一生懸命だった。
民衆を愛されたように、そのような現実の生活の細かいひとかけらずつを大切にして、愛された。そういったことにこだわるのが、お好きだったし、手抜きができず、飽きるということもなかった。
彼の方は、しばしば、と言うよりしょっちゅう、現実を忘れていたのだが。寒い中、火もつけずに本に読みふけっていて風邪をこじらせたり(若い時から彼がけっこう体調を崩しやすかったのは、もともと身体は強健なのに、この種の不摂生が多かったからだと私は思っている)、戦いの合間に小鳥をながめて、「スペインの家の軒に巣をかけてたのと同じ種類だよ」と、いつまでも見とれていたり、一番ひどかったのは、苦戦つづきのある野営中、士官たちと薄い粥を鍋からすくって食べながら、空腹と寒さで彼も含めた一同が歯をがちがちさせていた時に、「千年後にもローマってまだあるのかなあ」とつぶやいて皆が唖然と顔を見つめたことがあった。
当人は例によって別に変なことを言ったつもりもないらしく、粥を吹いてさましていて、皆の顔には気がつかなかった。私は士官たちが怒り狂って、この脳天気な将軍をたたき切ろうとするのではないかと一瞬、本気で心配したが、あまりの飛躍した発言に誰もが度肝を抜かれすぎたらしく、むしろ何人かは必死で笑いをこらえているのがわかって安心したものである。
新皇帝にはおそらく、そんな発想はおありではない。書物や哲学はむしろ軽蔑しておられ、代わりに目に見えるものだけをどこまでも深く愛された。
──(8)──
前線から引き上げて、ローマに凱旋する時、都を見下ろす丘の上でしばし馬を止め、朝の太陽に輝く壮麗な神殿や大劇場の屋根屋根を、息をつめるようにしてながめておられた新皇帝の誇りと喜びに満ちた表情を、私は忘れない。深く息を吸い込んで、誰にともなく陛下は言った。
「これが、私の都なのだ。よい支配者でありたい」と。
今思えば、それは子どもが大きな新しいおもちゃをもらって、大切にすると両親に約束するのに似ていたかもしれない。
結局は自分が楽しむために、あれこれと手をかけて大事にするということでしかなかった、と言うのは簡単だ。だが、そもそも、それ以外にあの方は、愛する方法も大切にする方法もご存じではなかった。それは、あの方のせいではない。それで、あの方を責められようか。
他に方法を知らないなりに、あの方はご自分の知っているやり方でしかなかったが、熱心に都を、民衆を大切にしようとされたのだ。そこには何かが決定的に欠けていたことを、あの方とて薄々は気づいておられたかもしれないが、それはもう、あの方にはどうしようもなかったのだ。
そんな、何かが欠けた方法でも、時や場所のめぐり合わせがよかったら、よい支配者として最後までうまく行く場合もあったのではなかったかと、私は思うことがある。
現に、「空理空論を繰り返すだけ」と陛下が軽蔑し、対立していた元老院も、陛下の民衆に人気が高いことや、精力的な仕事ぶりに、次第に陛下を見直しはじめ、両者の関係も好転しはじめていた。
そして、陛下のそのような権力や地位に対する誇りは、同時に私のものでもあった。
世界に冠たる大帝国の、その中心である皇帝という、神に等しい存在。その人と都を守る誉れある近衛隊の司令官。自分がそのような頂点に立ったという思いが、時が経つにつれて次第に、私の心を熱くしていた。
陛下の昂揚した気分が、私にも幾分、のりうつっていたのだろう。彼といた時にはしばしば感じた、地位や名声は必ずしも幸福をもたらすものではないのかもしれないといった、ものがなしさや覚めた気分を、あの時期の私はまったく感じることがなかった。
父や母や兄たちや、親族一同の喜び。晴れがましい儀式のたびに皇帝と並んで最高の席につく時の、周囲の尊敬と羨望のまなざし。
それらに素直に呼応して、快く酔い、満足感と充実感を味わっていた。
彼のことは、考えなかった。
彼の妻子が処刑されたという報告を受けた時、私は彼の死を確信した。生きていたら、あれだけ運に恵まれていた男が、妻子のもとにたどりつけなかったはずはなく、救えなかったはずはない。
あの処刑場でうけた傷が悪化して、故郷へ帰る途中のどこかで、彼も死んだのだろうと思った。
私はその頃、こうも思っていたと思う。
立場が逆だったなら、新皇帝の命令に従い、ローマを守るために、彼だって私を殺していただろうと。
そのことを私も理解し、彼を恨みはしなかったろうと。
あの夜、皇帝のテントの前を通りかかったのが彼でなく、私であったことが、私たちの運命をわけた。
そして、初めて、幸運の神々は、恵まれて生き残る方に、彼ではなく、この私を選んだのだと。
──(9)──
新皇帝は、都に凱旋してからまもなく、父の先皇帝が禁止していたコロセウムでの剣闘士競技を復活させていた。
民衆には常に最高の娯楽を与えてやらなければならぬ、というのが陛下の口癖だったし、ご自分も剣闘士競技がお好きだった。
私も、皇女も、皇女の幼い息子も、しばしば陛下にお伴して、コロセウムに足を運んだ。
夏も終わりに近かったその日、コロセウムには、地方から最近、都に出て来た興行師の養成している剣闘士の一団が登場していた。
大げさで滑稽な、さまざまな形のかぶとをかぶらされ、異様で奇怪な槍や剣で、伝説の蛮族の集団のかっこうをさせられた彼らを、闘技場の支配人は、「難攻不落の砦を守る凶暴な戦士たち」と紹介し、それがこれから、ローマの名将によって全滅させられる光景をとくとごらんあれ、と声を枯らして説明していた。
しかし、広いアリーナの中央に雑然と、そしてぽつんとひとかたまりになって立っている、二十人ほどの剣闘士たちは、どう見ても難攻不落の砦などには見えず、いかにもみすぼらしく哀れっぽかった。これが、ローマ軍団に扮した連中に一方的に殺されまくるのを見るのは、さぞつまらないだろう、と私は思った。
ただ、鎧からのぞいている彼らの手足は、皆、色つやがよく美しくひきしまっていて、鞭や焼きごての痕なども見えず、彼らの持主の興行師は、よい待遇をして、彼らを大切に扱っているなと、すぐにわかった。どれだけの報酬をもらったか知らぬが、これだけ手をかけている彼らを、この晴れの舞台とはいえ皆殺しにするのは、持主にはつらいだろうなと、ちらと同情したのを覚えている。
──(10)──
まもなく、アリーナの四方の入口の扉が大きく開き、観客の熱狂が頂点に達する中、輝く金色の鎧かぶとに身を包んだ戦士を乗せた六台の戦車が突入して来た。
剣闘士たちの一団は動揺し、めいめいが、それぞれに近い方向の戦車の方へと身体を向けかえた。そこへ、うなりを上げて、戦車の上から長槍が飛び、たちまち一人がたたきつけられるように砂の上に倒れた。
続く数秒でまた何人かが倒れて観客の喝采が上がり、陛下も私のそばで笑っていたが、私の方は、信じられない情景が目の前に展開しつつあるのに呆然として、剣闘士たちの動きから目を離せなくなっていた。
わずかな混乱を見せつつも、彼らはアリーナの中央近くに固まり、盾で周囲を防ぎ、槍を構えた。ぎごちなく、整わないところは確かにあった。それでもそれは、基本的には、まがいもなく、整然として無駄のない、一糸乱れぬローマ軍団の動きだった。指揮官を信じ、仲間を信じ、鉄の意志で恐怖を克服した男たちだけにできる、専門の戦闘集団の行動だ。自分の腕だけに生き残る望みをかけ、観衆の喝采だけを求めて敵を倒そうとする、一匹狼の剣闘士の寄せ集め集団には絶対にできないはずの態勢を、瞬時に彼らはとっている。
信じられなかった。
こいつらの持主である興行師とは何者だ?とっさに思ったのは、それだった。
そして、この場で彼らをこれだけみごとに統率できる指揮官はどこにいる?
一団となって固まっている、異様なかぶとの男たちに目を注いだが、ここからでは見分けがつかない。
だが、その中の誰か一人の意志が、はがねにもまさる強さで全員をまとめあげ、襲いかかる戦車の前でも四散させずに、ひきとめている。
戦車は彼らの固まりを襲ったが盾にはばまれて近づけず、車輪にとりつけられた長い恐ろしい刃が盾をかすめてこする不快な金属性の音だけが、何度も高く響きわたった。あっという間に退屈する観客たちの、じれた不満のどよめきが巨大なうなり声に変化しはじめ、あせった戦車の一台が正面から蹴散らそうと盾に突進した瞬間、盾の位置が魔法のように移動して、これまたまぎれない、お手本のように見事なローマ軍特有の亀の甲羅の形を作った。強大で巨大な戦車が、走ってきた勢いをそのまま自分自身に受けて、嘘のような鮮やかさで、はねとばされて大きく宙に舞う。
思いがけなさと華々しさに、派手な見世物に慣れきっている大観衆が一瞬息を呑んで静まり、それから、嵐のような絶叫が起こった。
たちまち、剣闘士の一団が動いて、数人が転倒した戦車に向かって走った。馬をねらっている。私はそう思いながら、その命令を下したらしい、立ち上がって剣でそちらを示している男に目を注いだ。あれが指揮官か?
その時、さっきから一人、命令を無視して別行動をとり続けていた、ひときわ大柄な男が、足を矢で射られて、よろめいたところへ、別の戦車が突進して来た。車輪の刃が、その大男の身体をまっぷたつにする勢いで迫って来る。
指揮をしていた男は何か叫んだようだった。横っ飛びに大男に飛びかかって、重なり合って地面に伏せた、彼のかぶとの上すれすれを鋭い刃が通過して、別の戦車から転がり落ちた金色の鎧の女戦士の胴体を血しぶきとともに切断して行った。
予測もつかない、ありとあらゆる展開に、観客の中にはもう声を上げることも忘れて、かたずを呑んで見守っている者も多い。だが私は、指揮官らしいその男が、大男をかばって助けた時、自分でも気づかず口の中でつぶやいていた。
あ、直ってないな。
そして自分で、愕然とした。
──(11)──
直っていないとは、何が?
言うまでもない。
あれだけみごとな指揮をしながら、命令に従わなかった者を、危険をおかして救いに行ってしまう甘さ。
「おまえの命令に従わなかったら、どんなひどい目にあうかってことを、他の皆にとことん見せつけなくちゃだめだ」
「命令に逆らったやつのことは、どんなにつらくても見殺しにしろ。守っちゃいけない」
あんなに言って聞かせたのにな。
しびれたような頭の隅で、ぼんやりとそう繰り返しながら、私の胸はもう早鐘のようにとどろいている。
指揮官の男が誰か、すでに私にはわかっていた。
仲間たちに戦車から切り離させた白馬に軽やかに飛び乗って、戦車の間を彼が駆け抜け、それに翻弄された戦車が魔法にかけられたようにぶつかりあって、一台また一台と土煙と地響きをたてて横転し、粉々になり、観客席の壁にぶつかって座席をゆらがすあたりから、観客たちは再び声を限りにこぶしを振り、声援を送りはじめていた。戦車にではなく、剣闘士たちに向かって。その中心となっているのが、もう誰の目にも明らかになった、白馬の上の彼に向かって。
敗走する残った二台の戦車を、彼の馬が、荒鷲が小鳥に襲いかかる残酷なすさまじさで追った。途中で一度立ち止まり、仲間たちに戦車の退路を塞がせる命令を下す、容赦ない周到さも忘れずに。その、敵にとっては望みを断つ、冷酷な指示を下す、よくとおる声は、私の耳にもはっきり届いて来た。ゲルマニアの森で、草原で、何百回となく聞いた声だ。私を、数千の兵士たちを魅了し、その声のもとにつどわせ、敵に突進させた、あの声だった。
かけちがいざまに、あやまたず、彼の刃が馬上から二つの戦車の上の射手の首をはね、仲間が御者をひきずりおろしてとどめをさす中、白馬を走らせて仲間の方へとかけ戻って来る彼を、大闘技場の観客の、熱狂し、感動した、暖かい拍手と声が包んだ。それは、これまで私がこの闘技場では聞いたことがない、ある感謝と優しさがこもる声援だった。剣闘士たちの一人一人が、とりわけて彼が、観客に深く、強く、愛されて、その心をわしづかみと言える強さでしっかりととらえてしまったことを、否応なしに私は知った。
そして、場ちがいとも言える不思議な誇らしさが、自分の胸に去来したのも忘れられない。
息子か、父か、自分自身を観客に見せびらかしているのにも似た喜びで、私は白馬を走らせて来る彼の、堂々とした手綱さばきを見つめていた。
──(12)──
皇帝は私とちがって、まったく彼だということに気づいていなかった。
ことのなりゆきの思いがけなさ、見世物としてのみごとさに、観客といっしょになって快く感動し、興奮していた。
「これは歴史と違う展開だね」と、くすくす笑いながら支配人をからかい、彼に会ってことばをかけたいからと席を立って、アリーナへと下りて行った。
あれは彼だということを、陛下に告げる機会はなかった。
もしかして、かぶとを取らずにすめば、わからないままになるかもしれない、と、あり得ないことを自分に言い聞かせながら、私は陛下の後を追った。
観客たちの喝采の中、引き上げようとしていた彼らは、近衛兵の一団にさえぎられ、とりまかれて、やや緊張した表情で立っていた。
──(13)──
それから起こったことを説明するのは難しいし、気が重い。
何が私と、そしておそらくは皇帝にも起こったのか、充分にわかるように説明できる自信がない。
しかし、何とか話してみよう。
すでにもう、わかりすぎるほどわかっていたのだが、間近で見ると、顔をかぶとでおおっていても、彼だということは明らかすぎるほどだった。彼の肌には、他の者にはない、あるしっとりしたなめらかさがあって、固くひきしまっているのに、温かな柔らかさが感じられる。あんなに男らしいのにどうして時々女っぽく見えるのかと、戦友たちがひまつぶしのばかばかしい議論をした時、「肌のきめが細かくて、化粧ののりがよさそうだ」と言った士官も数人いた。
北方の戦場と違って、コロセウムの照りつける陽射しの下で、あらわになっている彼の手足は、他の剣闘士たちと違ったその艶やかな光沢で香油を塗っているようにさえ見えたし、かぶとの下からのぞいているまなざしの、鋭いというよりは、困って、いやがっているような表情も、ためらいがちに皇帝の問いに答えて動く唇のかたちの優しさと厳しさも、何から何まで彼だった。ある意味では、かぶとをかぶって隠している分、見えている部分の彼らしさが一層強調されるため、見ていてまぶしいほどであり、皇帝が気づかないのが私は信じられなかった。
彼も、そう思っていたのかもしれない。皇帝が上機嫌で話しかけるほど、困って、途方にくれているのが、ありありと伝わってきた。妻子を殺されたことを知っているのだろうか、と私が疑ったほど、その表情や姿勢には憎しみや攻撃的なものが感じられず、むしろ、見逃されたい、正体を知られたくない、と願っているのがよくわかった。
理屈で考えれば、そうやって正体を隠している方が復讐の機会があるわけだから、当然ではあるのだが、彼のこういう、ある種、人を拒絶する、いやがって自分を隠す姿勢は、逆に人をひきつけてしまうことがあり、世話好きの上官や、おせっかい焼きの部下などにつきまとわれて悩まされる原因になっていたもので、特に、皇帝のような好奇心の強い人物には逆効果だった。
どことなく、逃げよう、隠れようとしている彼の、謎めいた様子に、皇帝が子どものように興味をつのらせて行くのが、そばで見ていてもありありとわかった。まるで新しいおもちゃを見つけた子どもか、転がる糸玉に目を奪われる子猫のように、皇帝は彼に心を奪われてひきつけられて行き、かぶとをとるよう命じたのだが、何と彼はそれに従わず、くるりと背を向け、遠ざかろうとしたのである。
──(14)──
この愚か者が、と見ていて私は舌打ちしたかった。どうしても顔を見せたくないのなら、ひざまずいて、願をかけているのだとか、亡父の遺言だとか、何でも出まかせのもっともらしい理由をつければ、そういう劇的な話が大好きな皇帝は喜んで、あっさり納得して引き下がったに決まっている。
彼がわがままだとは時々感じることがあったが、その時の行動も、せっぱつまったとは言え、まるで服を脱げと言われた処女のようではないかと吐息をつきたくなったほどだった。皇帝に背を向けるなど言語道断なのは言うまでもないし、だいたい出口は皇帝の背後にあって、彼が向いた方向ではないのだから、そっちを向いたって立ち去れるわけでもない。
彼は、本当にごくたまにだが、私や、あの従僕の前で、子どものようにかたくなに「いやだ!」という顔をすることがあった。おおむね、どうということではない、つまらないことだったから、私も大目に見ていたが、一年に一度か二度は明らかに、たとえば彼が大嫌いなおべっか使いの士官に、皆の前でほめことばをかけてやるなど、指揮官として、してもらわなければ絶対に困ることもあり、「それはわがままだろう!?」と叱りつけて、言うことを聞かせたこともある。彼も自分の言っていることが無理とはわかっているので、しぶしぶそれには従うのだが、それでも、そうやって「いや!」と言いはる時の目つきや声には、ふだんの穏やかさやものうさとはちがった、てこでも動かないがんこさや激しさがあって、こいつはどうかしたら立派な暴君になれるなと私は痛感したし、こんな男を飼いならしている奥さんというのも相当にすごい女にちがいないと思ったりもしたものだ。
その時の彼の、まったくとんでもない行動も、そうだった。こちらに向けた広い背中から、あの「いやだと言ったらいやなんだ!」と、理屈も何もそっちのけで言い張る声が聞こえて来そうで、思わず苦笑しかけたほどだ。当然、皇帝は激怒して、かぶとをとれとどなりつけ、すると彼は、かぶとをはずして、振り向いた。
彼はその時本当に、機嫌が悪くて怒っていた。呆然として、地の底に落ちて行きそうな顔をして彼を見つめている皇帝に向かって、いやみたっぷりに自分の名前と肩書を名乗り、妻と子を殺された復讐を必ずするつもりでいると宣言してのけたが、だいたい、兵士たちの前で演説する時でも、「おまえの話はあっさりして短かすぎて、こくがなさすぎる」と私はしばしば説教したぐらいで、こんなわざとらしく、めりはりつけた芝居がかった言い方は、本来したがる男ではない。
それを実もふたもないほど大げさに、みごとな迫力でやってのけたのは、妻子を残酷に殺された怒りがあったというよりも、無理にかぶとを脱がされたのに、寝床から棒でつついてひっぱり出されたライオンのように不機嫌になっているからだなと、私はとっさに察した。妻子を殺された怒りだけなら、むしろ沈黙してしまう男だ。
だが、彼のこういう、あからさまの理屈抜きの不機嫌さは、私以外の人間はほとんど見たことがないはずであり、ましてや幼い頃には彼に甘えてかわいがられていたという皇帝には、彼だとわかった驚きとともに、衝撃以外の何物でもなかったろう。
あそこで皇帝がするべきだったのは、彼に負けずに激怒して、即刻処刑命令を下すか、民衆をおもんぱかって、それができないなら、余裕を持った笑顔で、さげすんだように彼を見て、さっさとその場を去ることだった。
だが皇帝は、どちらもしなかった。うろうろととまどい、明らかに途方にくれて、彼に対して横向きに顔も身体もそむけて、その場に立ちすくんだ。
こうなっては、事態を収拾できる立場にいるのはもう私しかいない。彼の妻子は皇帝の印の入った命令書にもとづいて、帝国の意志で処刑されたのであり、それに対して公然と復讐を誓った先ほどの彼の発言は、明らかに反逆罪に相当した。
「抜剣!」私は近衛兵たちに向かって叫んだ。
──(15)──
回りの近衛兵たちがいっせいに剣を抜き、幅広の刃が剣闘士たちの周囲で、ぎらぎらと陽の光を反射してきらめいた。
観客席から汐鳴りのような抗議のざわめきが起こった。彼のことばが聞こえていたわけではないだろうが、新しく生まれた人気者に危害が加えられようとすることに、不満と怒りを表明する、民衆たちの威嚇である。
それは私は予測していた。
だが、予測していなかったのは、自分のさっきの感情の爆発を、もうすでに我に返って恥ずかしがっているように、目を伏せている彼の前後を、はっきりと守るかたちで、他の剣闘士たちが進み出て、それとなくだが確実に、彼をかばったことである。
誰に命令されたのでもない。当然のように、いっせいに彼らは動いた。
皇帝がアリーナに出てきた時、兵士たちに命令されてすでに彼らは武器を皆、地上に落していて素手である。戦って勝ち目など、あろうはずはない。
それでも、何のためらいもなく、肌の色も姿かたちもさまざまな彼らが、目に見えない糸で引かれるように進み出て、彼の周囲を固めたのだ。
私は思わず息を呑み、更にその時、仲間たちのその動きに気づいた彼が、ちらと目を上げて私を見、すぐまた伏せてしまった、そのまなざしに、なぜか激しく胸を衝かれ、たたきのめされる思いがした。
それは勝ち誇ったまなざしなどではなかった。切なげな、訴えるような淋しげな目で、私は一瞬、あの寒い朝を、彼がなでていた馬のかすかに鼻を鳴らす音や、馬具のきしみや、革の匂いまでをありありと思い出した。
…感謝している。でも、重荷だ。
…しかたないだろう。おまえの立場にいたら、人に慕われ、愛されるのは当然だ。その地位にある者の義務だよ。
地位も、立場も、関係なかった。
最下級の奴隷となり、互いを殺し合って勝ち残る者たちの集団の中にいてさえ、彼のために命を投げ出す男たちは、こうやって存在する。
守るべき法もなく、従うべき規律もない世界でも、なお。
…おれのために死にたがってるやつばっかりで、何かもう、そういうのって、うっとうしくて。
彼の沈んだ目と何かに耐えているような表情は、今でもはっきり、そう言っていた。
あの時に、私の中で何かが崩れはじめたのだ。
──(16)──
ようやく我に返った皇帝は、私のかたわらで、彼らを処刑する合図の、親指を下に向けるしぐさをしようと、片手を上げかけていた。
しかし、それを観客席の、もはや怒号に近くなっている荒々しい抗議の叫びが押しとめた。民衆が、元老院議員が、ヴェスタの巫女が、いっせいに高く手を上げ、親指を上に向ける助命の合図を示して振り続けているのは、刈り入れ前の麦畑の麦が激しい風に波うっているようだった。誰もが熱狂し、声を枯らして叫んでいるため、それがかえって一つになって妙に静かに聞こえるほどの大きく巨大な、無気味なうねりが、我々めがけて迫ってきた。
凍りついたように上げかけた手をとめたまま、皇帝は向き直って、まじまじと彼を見つめている。
彼も、皇帝を見返していた。
静かな、水のように落ち着いた表情は、むしろどこか、かすかにけげんそうだった。なぜ皇帝が、これほど激しい恐怖と憎しみをこめて自分を見つめているのか、そしてそれなのになぜ、手首をひねって親指を下に下ろすだけのわずかな動作ができずにいるのか、不審がっているようにさえ、それは見えないことはなかった。
その皇帝の手首をつかんでいる見えない手が、観客席の民衆の声であり、だからこそ、皇帝はそれほどに怒りをこめた目で彼を見つめるのだということが、おそらく彼には充分にのみこめていない。
なぜなら、立場が逆ならば、民衆がどれだけ怒りの声を上げようと、彼は断固として処刑命令を下すにちがいないからだ。
その結果、民衆がいかに激昂しようとも、たじろぐことさえしないだろう。あれは、必要な処置だった。そう言い切って民衆を圧倒し、沈黙させるにちがいない。
そんな自分を、今、守ってくれている民衆の力の偉大さに、皇帝の手さえ押しとめている、その見えない手の巨大さに、彼は気づいてさえいない。
そんな彼を、民衆は守るのか。
私の中でまた何かが、砂のようにさらさらと砕けて崩れ落ちて行く。
この半年、皇帝と私が必死になって、求め、築き上げてきたものとは、いったい何だったのだろう。
──(17)──
皇帝は結局、親指を下に向けることができなかった。
客席の観衆と同じように、皇帝の指が助命の印をかたちづくり、私の命令で兵士たちの剣がおさめられた時、コロセウムは歓喜のうずに包まれた。誕生したばかりの人気者たちを、他ならぬ自分たちの手で守り抜いたという喜びが、全観衆を陶酔させ、まるで彼らの一人一人を、まなざしで、拍手で、抱きしめようとするかのように、わきおこる大喝采を背に、私たちは早々にアリーナを去った。
だが、その直後、皇帝が口を開いて最初に言ったことばは正直、私を仰天させた。
「あのかぶとは何だ!?」
それからほぼ半年後の死にいたるまで、皇帝は少しづつ確実に狂って行ったとしか言いようがない。そして、その最初の第一歩が、このことばだったのだと私はいまだに思っている。私が黙っていると陛下はまた繰り返した。
「彼の、あのかぶとだ!自分で、選んだのか!?」
「そんなことはありませんでしょう」私は言った。
「いや、絶対に選んでいる!」薄暗いコロセウムの地下通路で、陛下は足を踏み鳴らした。「見たか!?他のやつらのかぶとは皆、もっとありふれていて、みっともなかった。なぜ、彼だけが、あんなによく似合う、姿のひきたつかぶとをつけていたのだ!?絶対に、誰かの陰謀だ!」
何をそんなにこだわられるのかと、とまどいながらも、こうなっては納得ゆくまで陛下が言いやめられないことはわかっていたので、私はその足で陛下のお供をして、地下の武器庫にお連れした。そこで係の男から、今日の演し物は蛮族の殺される場面の再現と聞いていたので、それらしい無気味なかぶとと、異国風の槍と剣を全員に渡したことを確認した。陛下はそれでもあきらめず、しつこく問いただして、かぶとは棚に並べた中から剣闘士たちが自分で選んだことを聞き出すと、満足して「やっぱり、そうか」と繰り返し、「これからはそんなことはしないで、おまえが選んで渡すように」と、しつこく男に念を押して、宮殿へと引き上げた。
「あんなかぶとをかぶっていれば」陛下は長椅子に身体を投げ出し、何度も繰り返された。「誰でも、人気者になれるさ」
私はそうは思えなかった。彼があのかぶとを選んだのは、顔がほとんど隠れる型のが、あれしかなかったからであり、私たちに顔をさらしたくないから選んだだけのことだろうと思った。服装や武具が着た者に似合うかどうかについて、あれほど正確な判断をする陛下にどうしてそれがわからないのか、不思議でたまらなかったのだが、あのかぶとそのものが、決してそんなに人を立派に見せるかたちではない。頭上に突き出した角も、大きな目庇も、実は滑稽で、みっともないのだ。
かぶとだけではない。白日のもと、四肢をあらわにむき出しにし、ちゃちな鎧とみすぼらしい槍と剣で、黒人や蛮族たちとともに立たされていた彼の姿は、どこからどこまで哀れな卑しい奴隷だった。手首に巻かれていた布をほどけば、つながれていた鎖の痕もくっきりとついていたはずだ。いくら見てくれにはこだわらない彼も、あの姿は我々には見られたくないはずだった。彼の機嫌が悪かったのも、沈んで見えたのも、そういった屈辱感のせいも確実にあったはずである。
陛下はそれに気づいていない。それも無理がない。彼のそういった、みじめなはずの姿が、少しもみじめに見えなかったのだから。
滑稽なかぶとが、どんな王冠よりも華やかに見え、粗末な服の破れたはしばしが、あちこちからはみ出した、けばけばしい鎧が、一分の隙なく整えられて洗練された皇帝の礼装よりも、はるかに自然に力強さと威厳とをたたえて見えた。
近衛兵たちが抜刀した刃のきらめきよりも、彼をとりまく男たちの素手のこぶしがまぶしかった。
彼の両足が踏みしめていたアリーナは、人間がけもの以下の扱いをされる見世物の舞台なのに、ローマの市民たちが惜しみなく注ぎかける賞賛と愛の視線に、光と花にふちどられたように、皇帝の玉座さえ色あせさせた。
何かが崩壊し、何かが逆転してゆく。
ゆっくりと、世界の姿が変わってゆく。
それに続く半年あまりの間、皇帝と私とが見続けさせられた悪夢の、それは、ほんの始まりだった。
第三章 貴賓席から見た風景(終)
「冬空」第三章までのあらすじ
皇帝直属の近衛隊の司令官として日夜勤務にいそしんでいた「私」は、ある夏の日、皇帝たちのお供と警護のために同行したコロセウムで、戦車相手に見事な戦いを見せた剣闘士の一団を見て、そのローマ軍団さながらの用兵ぶりを見せつけた指揮官の剣闘士が、かつて前線で「私」の友人でありライバルでもあった、「彼」にちがいないと見抜く。生まれつきかと思われる不思議な運の良さで、実力は大して違わないと思われる「私」にいつも水をあけ、出世して将軍にまでなっていた「彼」は、前皇帝が何者かに殺され、それを自然死と発表して軍団と帝国の動揺を防ごうとした、皇太子(現皇帝)にとって、事実を見抜く危険な存在として処刑されそうになったが、間一髪で逃亡し、行方不明となっていた。
謎めいた剣闘士の正体が「彼」であることを知った皇帝は愕然とするが、皇帝に殺された妻子の復讐を公然と誓った「彼」を、民衆の抗議を恐れて、処刑することができない。
民衆に愛されようと日夜努力し、皇帝であることに並外れた喜びと誇りを感じている皇帝の内に秘めたもろさと、剣闘士の卑しい姿でもなお圧倒的な品位と威厳を感じさせた「彼」のことを思って、「私」は、皇帝と帝国の今後に強い不安を感じるのだった。
第四章 からまる糸、ほどける糸
──(1)──
「何を見ていらっしゃいますの?」
宮殿のテラスの手すりにもたれて、私は遠く見えるコロセウムの灰色の影を見ていた。声をかけられて振り向くと、皇女つきの侍女の一人で、はしばみ色の目で私を見ながら笑っている。
私は目で、コロセウムを指した。侍女はそちらをながめて「たいへん強い剣闘士がいるということですね」と言った。「町でも、ここでも、皆その話でもちきりですわ」
「コロセウムを支配する者が、この国の真の支配者だと」私は皮肉な調子で言った。「陛下はいつも、おっしゃっていたのだがな」
「このごろ、あまり足をお運びではございませんのね、皇帝陛下はコロセウムには」
「支配者ともなると、公務が忙しく、剣闘試合どころではないのだそうだよ」
侍女は私の顔を見て笑った。
「何がおかしい?」
「このごろ、お疲れなのかしらと思って」侍女の目は少し気がかりそうだった。「いちだんと、おっしゃり方にとげがありますもの」
私は苦笑した。「いちだんと、か?」
侍女はうろたえなかった。「意地悪なおっしゃりようは、いつもは楽しいのですけれど、うかがっていても。このごろは本当にただとげとげしいだけ」
私は、片手で顔をぬぐった。「侍女たちの噂かね?」
「お話ぶりの辛辣さに、よく皆で喜んでおりました」
「では、こんな話はどうだ?」私は手すりに背中でもたれて、侍女を見た。「今朝、近衛隊の閲兵をしている時、私の号令に一糸乱れず動く彼らを見て思った。私でなく、他の誰でも、隊長としてこの位置に立って号令を下す男には、同じように彼らは従うのだろうなと。また、こうも思った。私が、この制服を着ておらず、彼らと同じ兵士なら、あるいは卑しい奴隷なら、彼らは私をどう扱うのかと」
侍女の目から笑いが消え、とまどって、やや脅えて探るように彼女は私を見返した。
「これは危険な考え方かな?」私は笑った。「どう思うね?」
──(2)──
侍女は返事をしなかった。ごまかし笑いをして、こそこそ立ち去りでもするかと思っていると、彼女は逆に私の方に近づいて来て、並ぶようにして、反対向きに手すりにもたれた。町の方に目をやりながら彼女は言った。
「あの剣闘士は、もとは将軍だったのだそうですね?」
「そうだ」私は答えた。「反逆者として、前線で処刑されたはずだった」
「それがなぜ、生きのびて、あのような人気者に?」侍女はからかうように、私を見上げた。「あなたが逃がしたのですか。戦友でいらしたのでしょう?」
「何と危険な冗談を」私は薄く笑って言った。「私を猛獣の餌にしたいのかね。陛下が彼を逃がした犯人を厳しく追及しているのを、知らないわけでもあるまいに」
「あなたは、近衛の長ですわ」侍女の目は笑いながらも冷静に、私を見ていた。「皇女さまがおっしゃっておられました。当時のことを調べようにも、あの時は先帝の崩御で前線基地は大混乱。何がどうなっていたか、今更わかるとは思えないと。ましてや、処刑にたずさわった近衛隊を調査するのがあなたなら、犯人はいくらでもかばえる」
「その最後のは皇女のお考えか。それとも、あなたの意見か?」
声をたてて侍女は笑った。「これは私の考えです」
「私に、犯人をかばってほしいように聞こえるぞ」
「あの剣闘士は、たいそう魅力的だとか」はぐらかすような、はしゃいだ口調で侍女は言った。「そんな男を殺さなかった犯人なら、女は皆、味方です」
「どのみち、犯人は見つかるまい」私は言った。「皇女のおっしゃる通りだ。あの当時はすべてが混乱していて、ものごとの再確認は難しい」
侍女はうなずき、今までのしたたかな宮廷人の表情からうってかわって、おやと思うほど無邪気な好奇心にあふれた、罪のない少女の顔になって聞いた。「私はコロセウムには行ったことがないから知らないの。その剣闘士、そんなに素敵なのですか?」
──(3)──
侍女の顔を見返しながら、私はふと、数日前、制服を脱ぎ、民衆にまぎれてこっそりとコロセウムに行って見た時のことを思い出していた。陛下が足を運ばれなくなってからも何となく気になって、時々そうして私は、彼の試合を見に行っていた。
貴賓席の皇帝の椅子が空でも、観客は気にしている様子はなかった。彼の登場が近づくにつれて、闘技場にはじわじわと熱っぽい空気が充満しはじめるのが、手にとるように感じられた。彼が姿を現したとたんに、それは爆発した。手をふる者、叫ぶ者、躍り上がる者、彼がアリーナの中央に進んで行くのを追って手すりに沿って走る者。
そして、彼が戦いはじめると客席は静まり、人々は固唾をのんで彼の一挙手一投足に見とれた。彼の動きを酔ったように見つめて、皆の頭がいっせいに右に左に動いていた。血に酔い、血を求める、いつもの観客のようではなかった。魔法にかけられたような緊張と静寂がコロセウムを満たしていた。
彼はその日、五人の敵を一度に相手にしていた。屈強な身体つきの男たちだったが、彼の力をもってすれば、さしたる強敵でもなかった。
それでも彼は油断なく、すきを見せずに戦っており、この種の見世物にはつきものの、大げさな動き、余裕を持ったふざけたしぐさは、どこにも、かけらも、見えなかった。
そもそも入場して来た時から、彼は観客の方をほとんど見ず、まるで戦う相手以外には周囲に誰もいないかのようにふるまっていたが、観客がそれを怒っている様子はなかった。むしろ、彼がそうやって、観客を無視し、まったく意識していないかに見える態度をとり、戦い方をすることが、不思議な効果を生んでいた。まるで、私たち観客と、戦う彼らとの間に見えない幕か壁があって、こちらからは見えても、あちらからは見えないような。そのために、戦いは見世物らしからぬ現実感を帯びて見えると同時に、どこか遠い世界で行なわれているような非現実感がただようのだった。
その、言い表しようのない不思議な感じは、ずっと客席を支配しつづけ、彼が最後の一人を倒すまで続いた。その日は曇って、雨模様だったが、ちょうどその時、霧のような細かい雨が降りはじめ、コロセウムの天井の日除けを広げる間もなく、アリーナの上にほのかな光のような雨の幕がかかった。
息を切らせながら、垂らした手に剣を下げたままで、片足を軸に身体を支え、わずかに首をのけぞらせるようにして、彼は雨にぬれて立っていた。しなやかに伸びた首筋からなだらかに広がる厚い肩が、激しい息づかいにゆるやかに上下し、なかば目を閉じた、疲れきって夢見るようにおだやかで優しい、どこか憂いを帯びた顔を、音もなく細やかな雨がぬらして行く。
灰色と茶色にかすむアリーナの上の、静かに動かないその姿は、どこか遠い国境の丘の上に一人立つ兵士の幻のようだった。見知らぬ戦場の一角が、薄い雨の幕の向こうから、ふっとこの都の奢侈と喧騒のただ中に浮かび上がって来たように見えた。
民は勝利に歓喜はしても、血と泥にまみれた戦線のことなど興味はないし、考えようともしないのだ、とさげすむように語られた陛下の言葉を私は思い出していた。
長い沈黙の後で拍手が起こった。静かに、やがて力強くそれが次第に広がって、コロセウムを満たした。その音に目覚めたように顔を動かし、片手で額をぬぐった彼が人々を見回すと、愛情と尊敬をこめた呼び声があちこちから乱れ飛んだ。
私の近くの席にいた年とった女は、終始、拍手もせずにくいいるように彼を見続けていた。そのしわだらけの顔に、とめどなく涙が流れ落ちていた。思い出していたのは息子だろうか、それとも夫であったのか。
多分、その日はたまたま特に、そんな雰囲気だったのだろう。私が行った他の時には、もっと騒々しい笑い声や歓声が、彼に向けられていた時もあったから。
それでも、その日のように、コロセウムに生まれるはずもない奇跡のようにおごそかなひとときを、ふと生み出してしまう力が、彼の戦い方にはあったのだ。
その日、客席で、私はまるで彼がもう、私などの手の届かない遠くに行ってしまったような、ふしぎな淋しさに包まれていた。
何をどう考えても徹底的に、それはおかしな、理屈に合わない感情だった。
世間の普通の基準で考えれば、どん底に落ちているのは彼、頂点をきわめているのは私である。
自分にはもう及ばない存在になってしまったと、私を見て彼が嘆くのなら納得もできようが、事実はまったく、あべこべだった。
──(4)──
そんなことを思い出しながら私は侍女の、はしばみ色の目を見ていた。「そうだな」と私は言った。「見た者は何と言っている?」
「それはもう、魅力的だけれど、絶対笑ってくれないのがものたりなくて、くやしいと」侍女は答えた。「もうこうなったら泣き顔でもいいから見たい、と言っている者もいましたわ」
私が吹き出すと、侍女は更に言った。
「あの方が皇帝になったらローマは滅びていたろうと陛下はおっしゃいますけれど、ローマなど滅びてもいいから、一日だけでも皇帝になっていて下さったら、お身の回りのいろんなお世話もできたのに、お酒は何がお好みかしら、寝間着は何色がお似合いかしらなどと、うっとり話している者まで」
いかにも宮廷の侍女たちらしい、いささか露骨な夢物語だ。笑いかけて、ふと何かが気にかかり、私は侍女の顔を見つめた。
「お気になさらないで下さいましね」私の表情の微妙な変化に気がついたのか、侍女はまじめな顔になった。「愚かな女たちの、他愛もない噂話でございますから、どうぞ見逃して、お怒りにならないで」
「いや、怒っているのではない」何が気にかかっているのか、まだ自分でもよくわからず、私は口ごもった。「それは、陛下がおっしゃったのだな?」
「寝間着の色のことですか?」
「そうではないよ。その前だ。彼が皇帝になったら?ローマが滅びていた?」
「ああ、それは」侍女は、けげんそうに私を見た。「皇女さまに陛下がそう言っておられるのを、おつきの侍女が聞いたのです」
「正確には、どのようにおっしゃったのだ?」
「さあ、それは」侍女はますます、とまどった目をした。「でも、とにかく、そういった意味のことでしたわ。自分ではなく、彼が父上のあとをついでいたならば、今ごろ、帝国は崩壊していた、と」
どういう意味だ?
なぜ、そんなことを?
侍女が心配そうに私を見つめているのに気がついた。「どうかなさいまして?」
私は首を振った。「何でもないよ」
「ご気分でも悪いのですか。お顔の色がよくありませんわ」
「大丈夫」私はまた首を振った。「すまぬが少し、一人にしてくれ」
侍女はまだ気がかりそうに、そして不思議そうに私を見守っていたが、頭を下げると離れて行った。
──(5)──
どうやって自分の部屋に戻ったのか、私は記憶がない。剣を外し、長椅子に身体を投げ出すと、さっき聞いたことばがぐるぐると、頭の中をかけめぐった。
彼が、皇帝に?
途方もない。
運命は、そこまで彼に微笑みかけようとしていたというのか。
実は、彼の運の良さについて、このごろまた、私はしばしば考えるようになっていた。みじめで哀れな剣闘士奴隷に対してそのような感慨を抱くのは、まことに理不尽であるとともに、いささか情けなくも思えて、気がひけながらも、神々はやはり、あいつを愛している、と。
奴隷に身を落すまで何があったかは知らないが、同じ奴隷でもカルタゴの鉱山にでも売られていれば、暗い坑内でこき使われて、あっという間に死ぬしかなかったはずだ。いくら彼が丈夫でも、長くは続かなかったろう。
それを、剣闘士という、彼の力を最大に発揮できる場所に、神々はまたしても彼を導いたのだ。しかも、残酷な興行師ではなく、それなりに思いやりのある良心的な持主に買われた。
自らももと剣闘士で人気者だったという、彼の持主のがっしりした白髪の男が、まるで息子を見るような気が気でない愛情こもったまなざしで、アリーナに出て行く彼をこっそり見送っているのを、私は見かけたことがある。
この男、人前で彼といる時には仏頂面で、商品を見るような冷たい目で彼を見ており、彼もそれに慣れているようだったので、ものかげから彼を見守る、そのまなざしの優しさに私はひときわ胸をつかれた。
あの老人の、あのまなざしが誰かを思い出させるとずっと思っていたのだが、今、私にはそれがわかった。
今の皇帝の父、殺された老皇帝のまなざしだ。あの方も我々の前ではそれほどでもなかったが、誰も見ていないと思われた時、彼を遠くからじっと見守るまなざしには、あの興行師の老人と似た、深く強い愛情があった。もっと洗練され、もっと冷静だったが、その分、信頼に満ちてもいた。
だが、だからと言って、まさか。
彼を、皇帝に?
いくら何でも、あまりにも、それは途方もなさすぎる。
──(6)──
次の日、陛下が私を呼び出し、彼の脱走を知っていて見逃したというかどで、二人の若い近衛兵を処刑させた。
私に取り調べさせていただきたいと私が抗議しようとすると、陛下は、「おまえにまかせていても、らちがあかぬ」と言うようなことをおっしゃり、更に「逃がしたのは、おまえかもしれぬな」と、これははっきり口にされて、じっと私を見ながら、いやな笑い方をされた。
私はそれ以上、抗弁しなかった。二人には気の毒だったが、言われるままに処刑命令を下した。
命を惜しむのではない。死ぬべき時に死ぬのなら。だが、誰を見殺しにしても、今は死ぬのはいやだった。自分にまだ見えていない何かがある。それがわからないまま、自分がどのような役を演じたのかさえわからぬような人生の幕はおろしたくない。誰から何と言われてもかまわない。このままでは、絶対に死ねない。
自分は何を、見逃しているのか。何と向き合うのを恐れているのか。
その日の午後、目を赤く泣きはらした若い近衛兵の一人が私を訪ねて来た。「どうしても、お話したいことがありまして」と言うそばから、もう、むせび泣きかけている。
落ち着け、と厳しく言うと、涙を呑みこみながら何とか兵士は語った。
処刑されたあの二人は、私と三人で、このごろ評判のあの剣闘士の噂話をしていただけなんです。私も、あの二人も、ゲルマニアなんか行ったことがないし、彼の処刑の時のことも、脱走のことも、何も知りません…と。
「三人で話していて、なぜ、おまえだけがとがめられなかったのだ?」
「自分は、彼のことを、ほめなかったのです」兵士はすすり泣いた。「あとの二人が、あんまり彼をほめそやすので、そうでもないだろうと言ったのです。その自分たちの話を陛下が聞かれていて、あの二人をいきなり捕らえられて、裁判も取り調べもないままで、いきなり…」
私は何とか彼をなだめて帰した。その後、一人、暗澹たる思いにかられた。平然としておられるように見えても、陛下の中で確実に何かが崩れはじめている。
それにしても、なぜそうまでに、彼を憎み、恐れるのだろう?
口実をつけて処刑しようにも暗殺しようにも、あれだけ民衆に人気のある彼に手を出すのは難しかろう。それは確かだ。だが、それだけか?本当にそれだけで、あれほど、いらだっておられるのか?
憎みながら、恐れておられる。それはいったい、なぜだろう?何をそう、ひけめを感じ、うしろめたくていらっしゃるのか。
──(7)──
この日を境に陛下はまた一気に、いろんなことに投げやりになられた。
繰り返すが、彼が現れるまでは、陛下は決してそれほどおかしな政治はしておられなかった。いささか、興味の持ち方や集中の度合いが片寄ったりむらのあるところがあったりはしても、おおむね、まともで献身的な仕事ぶりだったのである。
それが、広場の工事や神殿の改修の計画にも、めっきり興味を失われたようで、身の回りのことにもいいかげんになられた。その癖、以前は気にとめなかったような小さなことにいらいらとされて、係の奴隷を突然解雇したり追放されたりした。
何にいらだたれるのか、何を気にされるのか、見当がつかない分、周囲は不安である。近衛兵の処刑の話もどこからともなく広がっていたし、侍女たちの笑い声も心なしか減って、宮殿全体が暗く沈んで重苦しい、そのくせどこかぴりぴりとした空気に満たされはじめていた。
「どうせ私は嫌われているのさ」
元老院の会議さえ欠席されることが多くなり、私が「陛下が出席されませんと、民衆の気持ちを代弁する者がおりませんから、議員たちが人々の声を無視した、自分たちだけに都合のよい法律を決めかねません」と、ご注意申し上げると、陛下はお気に入りの椅子に身体を沈めて、房飾りを指でひっぱりながら、うつむいたまま、そうおっしゃった。
「何をどれだけ、こちらがして、熱心に民衆につくしても、そんな気持ちは彼らはわかってくれないんだ」
すねたような、お声だった。傷ついた子どものような、その口調を聞くとあらためて、この方は本当に民衆がお好きだし、彼らに愛されたくていらっしゃるのだ、と思う。コロセウムで、街中で、この宮殿の中でさえも、人々が彼に喝采を送り、注目し、彼への愛を口にすることは、この方にどれだけ淋しい、やりきれない思いをさせていることだろう。
「民衆は陛下を愛しております」と嘘をついてだませるほど、陛下は鈍いかたではない。では、どのようにお答えすればいいのか。私は、のどまでこみあげてきた言葉をのみこんだ。
…愛されるのも、重荷です。そうお思いになったことは?
私が聞かなかったのは、返事がわかっていたからだった。
よかれあしかれ、この方は、それが重荷だと感じるほどに、圧倒的に激しく強く、人に愛されたことも、愛したことも多分、おありではない。
愛されることを求めたことはおありになっても。
──(8)──
けだるげに椅子に身を沈めている陛下のお姿は、彼が疲れて、きげんを悪くしている時の様子にどこか似ていないこともなかった。椅子に身体をはめこむようにして足を投げ出し、ぼんやりと宙を見つめている、その姿勢だけで言うならば。
彼のそういう、無気力で投げやりな表情を、おそらく他の誰よりも多く私は見て来た。それでも、そんな彼と二人きりでいて、時にはいやがる仕事をさせようとして、叱りつけたりすかしたりしている時でさえ、私の心はどこか温かく、いらだったり困ったり腹を立てたりしながらも、基本的にはまったく安心しきっていた。今こうやって陛下を見ていて感じるような、寒々とした空しさや恐れは一度も感じたことがなかった。
彼は式典や儀式や形式ばった宴会が大嫌いで、出ないでいいかもしれないと思ったら最後、何とかして私に押しつけてさぼりたがる、というのが一番私を手こずらせたのだが、どうしても手を焼いた時の最後の手段は、「どこそこの部隊の誰それが、この頃元気がないが、顔を見せるのはこんな時しかないだろうな」とか、「士官たちが馬の配備のことで何かもめていて、おまえと話す機会をうかがってるようなんだが、なかなかそういう場もないからなあ」などと、さりげなくつぶやいて見せることで、聞くなり彼はたちまちしゃんとなって、文字通り、冗談はこれまでといった風情で、目が覚めたように活気をとり戻した。今までぐだぐだしていたのは、もしかして私に甘えて遊んでいたのではないかと疑いたくさえなるような、本当にあっという間の変貌ぶりだった。
要するに彼は、皆が幸福でうまくいっていて、自分がいなくても大丈夫と判断すると安心して、だれて、わがままになり始めるのだが、少しでも部下や村人が苦しんでいたり困っていたりするとわかると、即刻飛んで行かなければ気がすまないのだった。言いかえれば、幸福な連中が彼に感謝し、愛したがるところには行きたがらず、不幸で不満を抱えている連中が彼を傷つけ、怒りをぶつけようと、あるいは絶望して顔をそむけようとしているところには、何をさしおいてもかけつけようとするのだった。
「おまえが皆をうっとうしがったり、嫌ったりするわけを教えてやろうか」
ある時、二人で仕事の合間に、何をするでもなくぼんやりしている時、ふっと私がそう言うと、彼は吐息をついて笑いながら「別にうっとうしいとか嫌いとか思ってない」と、否定した。
「嘘つけ」私は決めつけておいて、強引に話を進めた。「そのわけはな、皆が一番、最低の気分で苦しんでいる時にばかり、助けようとしておまえがのこのこ出向くからだ。それで、相手のみっともなくて醜くて、いやなところをたっぷり見て、かみつかれて、さんざん傷つけられるから、それでおまえは人間がいやになるんだ」
「そうかなあ?」彼は自分のことを言われているというよりも、怪しげな学者の学説に耳をすませているような顔で、疑わしそうに私をじっと見返した。
「だからな、たまには幸福でたまらないやつのところに行って、感謝され、ちやほやされろよ。そうしたら気分がよくなって、人間がもっと好きにもなる」
すると彼は顔をのけぞらせて、まるで子どもがきゃっきゃっと笑い転げる時のような、おかしくてたまらないような声で笑い出した。
「そんな、ちやほやされたって、別に楽しくなんかない。おまえとこうしている方が、何も考えないですむし、よっぽど気楽でいいや」
いつも一言多いんだからな、と妙にむっとして私は黙った。彼は何で私が怒ったのかわからなかったようで、ちょっと不思議そうに私の顔をのぞきこむようにした。
──(9)──
そんなことを思い出しながら陛下の元を退出すると、私は彼に会いたくて、姿を見たくてたまらなくなった。
自分が処刑を命じて、今の境遇にたたき落とした人間なのに。今はその存在自体が私と陛下を顔色なからしめ、不幸にしている人間なのに。
見れば、気がとがめるし、いらだたしく苦しくなるのもわかっている。それなのに、彼が元気で生きている姿をどうしても見たくて、気がつくと私はまた、一人ひそかにコロセウムに足を向けていた。
そして初めて、そこでの彼の笑顔を見たのだ。
──(10)──
彼の戦い方は、この前とはちがった。
それほどではない相手に、明らかに手びかえて、観客を喜ばせる派手な技をくり出しては時間かせぎをしている。
芸人らしさが身についてきているのかと、最初どきりとし、少し悲しかったが、見ているとやはりどこか彼が必死なのがわかった。
敵にも見せ場を作ってやろうとしているのだ、と間もなく私は気がついた。自分だけでなく対戦相手にも観客が喝采を送れるように、工夫をこらして戦っている。
だがいったい、何のためにだ?
しのぎを削る技のかけ合い、火花を散らしてぶつかり合う刃に、観客たちはうっとりと酔っていた。
そしてついに彼が相手の剣をはね飛ばし、倒れた相手の喉元に剣をつきつけた時、大きな安堵と満足のため息がコロセウムを満たした。よい試合を見た、という、その人々の充実感がまだ消えやらぬその一瞬の間合いを逃さず、彼は剣を持った手を後ろに引き、もう一方の手をためらうように、ひかえめに倒れた相手の上にさし伸ばし、そのまま優美な美しいしぐさで観客席の方へとゆるやかに持ち上げて行った。首をわずかにかしげるようにして、訴えるように人々を見渡しながら。そのしぐさが、表情が、まるで声が聞こえるようにはっきりと語りかけてきた。
…殺さなくても、いいですか?
それに気づいて、私が、おそらくは観客たちもはっとした時、彼がいきなり、厳しく結んでいた唇をほころばせ、まなざしを甘くなごませて、世にも優しい人なつこい笑顔で笑いかけてきたのだ。
目で殺すとは、あのことか。
矢に心臓を刺し貫かれたように、全観衆の身体が一時に硬直したのを、私は感じたような気がする。
気がつくと私自身が歯をくいしばって客席に沈み込んでいた。
こいつ、もう、皇帝などとは役者がちがう。
それとも無意識なのだろうか。いったい、どこまで計算してやっているのだろう。自分の笑顔の、あの魅力を。
あの笑顔。暗い、寒い、ゲルマニアの戦場でも、あの温かい笑いを彼が向けるだけで、兵士たちは見違えるように活気づいた。いらだっていた指揮官たちも、静かにほほえみかけられると、ひとりでに心がなごんで、苦笑して我に返った。
そして、私は…
彼は、私だけには時々、他の者には向けない、子どもや女がするような、ちょっとずるそうな甘えた笑顔を明らかに意識的に向けることがあった。ろくでもない失敗ばかりする部下を、今度こそ絶対処罰すると決意した私が、とりなそうとする彼に「もう何も言うな」と言い渡した後とか、仰々しい話が好きな貴族たちの宴会に出るように私に代理を頼む時とか、明らかにだめとわかっている場合に、もしかしたら聞いてもらえるかもしれないというように、黙って私を見つめたまま、目元を笑わせ、ついで口元をほころばせてくる。
「だめだ、そんな顔して見せたって」と言いながら、いつも私は顔をそむけた。まともに見ていたら、言うことを聞かされてしまいかねないと思って。
──(11)──
コロセウムを埋めつくした大観衆の一人一人の身体から、力が抜け、闘争心が失せ、とろとろになって行くのが、空気を伝わってくるように私にはわかった。人々を見回し、ゆるやかに身体の向きを変えて歩き回りながら、信じきった子どものような、あけっぱなしのまっすぐな微笑みを彼が向けて行く方から次々に、コロセウムにはあるまじき、そよ風のような、とまどって恥ずかしそうな、低く笑いさざめくくすくす笑いが、客席にさわさわと広がりはじめた。拍手があちこちで、やわらかく、温かく起こり、最前列にいた貴族らしい美しい服装の少年の一人が彼の求めた助命を示して指を立てた手を高くあげると、皆がざわめいて笑いながら次々にそれにならった。
ほっとしたように、彼が肩の力を抜いて深々と一礼し、倒れた相手を助け起こすのを、人々はうっとりと見守った。彼が相手の手を握り、肩をたたき、相手もそれに応じると、拍手が起こり歓声があちこちからひとりでに起こった。
相手を先に行かせた彼は、さっきの少年の前に駆け足で戻ってきた。壁に片手を軽くあてて、少年の席を振り仰ぎ、親しみをこめた笑顔で、感謝を示して片手を高くさしのべる。少年はうれしそうに頬を染め、かたわらの母や姉らしい女性の一群が髪や衣装にさしていた花を外して投げ下ろし、彼は花の雨に包まれてまぶしそうに目を細めながら後ずさりした。
笑い声と拍手が高まり、彼の慈悲をたたえる叫び声があちこちで起こった。誰もが笑っている。互いに顔を見合わせながら、優しい、温かい、満足しきった表情で、いつまでも手をたたくのをやめない。
あろうことか。こんなことがあっていいものか。私は凍りついていた。
コロセウムそのものが、変質しはじめている。
血と殺戮の舞台から、温かさと優しさのあふれる世界へと。
死の悲劇に酔う場所から、生きる喜びを確認する場所へと。
皇帝のいる、あの暗く寒々として、不安と恐怖のすきま風が吹き抜ける宮殿より、このコロセウムの方がはるかに幸福と安らぎを人々の心に与えているではないか。
そんなバカなことがあっていいものか。もう、そんなバカな。
唖然として立ち上がれないまま、私は心のどこかでふと、彼が仮に皇帝になっていたとしても、ここまでうまく人々を支配できただろうかと思った。
元老院との気の抜けない政治的かけひき。煩雑で実り少ない事務仕事。神経をすりへらす数々の訴訟の処理。
それが皇帝の仕事のかなりの部分を占めている。そんな仕事の中では、たとえ魅力ある人物でも、その魅力を充分に発揮できる機会は少ない。そんなことを一切しないですんで、最も得意とする剣の技で、まっすぐにローマの民衆の心に飛び込むことができた彼は、考えて見れば一番効果的で無駄のない方法を使ったと言えるのではないか。
運命の神々が、またしても彼に微笑みかけている。
彼の姿はもう消えていた。それでも人々はまだ立ち去ろうとしない。楽しげに客席のあちこちで、何かしゃべりあっている。見ると、その中には近衛の兵士らしい顔がちらちらしている。軍人らしい男たちはもっと多い。貴賓席に目をやれば、ふだんはこんな競技をいやがって、めったに訪れることのない元老院議員たちの姿がいくつも見えている。
何ということだろう。
それはまるで、ここに、彼が支配するこの王国に、軍隊も、議会も結集しつつある姿のように見えた。宮殿に背を向け、皇帝に背を向けて。
だが、それも無理はない。私でさえが毎日の空しさの中で、彼を見たいとつい思った。生きる力を与えてもらえそうな気がしてここにふらふら来てしまった。この私がそうなのだ。他の者がどうして抵抗できようか。彼のあの笑顔の優しさに。戦う腕の力強さに。そこからコロセウム全体に広がって行く、この幸福感に、明るさに、平和に。
もはや、私の心にあるのは、敗北感でも絶望でもなく、恐怖だった。
彼を基点にコロセウムにうずまく、この圧倒的な力はやがて、都全体にあふれ出して行くにちがいない。
いったい、誰にどうやって、それが止められるというのだろう?
──(12)──
秋も終わりに近い頃、皇帝が突然、久しぶりにコロセウムに行こうと言い出して、私や皇女も随行した。
この頃、心持ちやせて、目が鋭く光るようになっている皇帝は、人々の歓声に手を上げて応えながら、とぎすまされた笑いを浮かべてコロセウムを見渡していた。
そこにはそれなりに一種の妖しい魅力があって、人々を圧倒した。「皇帝万歳」を唱える声がひとりでに起こり、女が戦車に追われる場面を浮き彫りにした銀と黒の鎧をまとった皇帝が、高い席に立ちはだかって見下ろす下で、闘技場はまた昔ながらの荒々しい血の香りに満たされていくようだった。
彼のその日の対戦相手は、かつてコロセウムで不敗を誇った凶猛な伝説の英雄ということだった。体躯そのものが巨大で、大きな銀色に光るかぶとをかぶると、彼よりも頭ひとつ高く見えた。
大男がうやうやしく皇帝に誓いのことばを述べている間、彼はつまらなさそうにそっぽを向いて、足先で砂をつっついたり、剣を小さく手の中で回したりしていたが、私は珍しく彼が神経質になっているのに気がついた。観客席をろくに見ないのはふだん通りだったが、対戦相手の大男をちらちらと横目でうかがったり、アリーナの四方に目を配ったりするのが、いつもと違っていた。
観客のどよめきが大きくなった時、彼がいやそうに眉をひそめたのを見て、私は、何かの物音を彼が気にして、耳をすませているのがわかった。
「気がついたかな」
私のそばで、やはり彼にくいいるような目を注いでいた皇帝が、ひとり言のようにつぶやき、私と目があうと眉を軽く上げてみせた。
「知ってるか?あいつ、目もいいが、耳はもっといいんだぞ」
「存じております」私は彼の方に目を戻しながら答えた。私たちにはどうしても聞き分けられない、さまざまな野鳥の声が森の中から聞こえてくるたび、「何でわからないんだよ!?ほら、全然、ちがうじゃないか!?」とじれったがって、よく鳴きまねもして見せてくれていた彼の顔を思い出しながら。
「彼が、何に気がついたのです?」聞いてみた。
「すぐにわかるさ」陛下はそう答えて、満足そうに深々と椅子の背にもたれた。
──(13)──
彼と大男が戦いはじめ、彼の剣と大男の斧とがからみあっては離れる小競り合いが数回続いた後である。
アリーナの砂地の一部が突然すべるように動き、危うく足をとられかけた彼が飛びのいた前に、ぽっかり開いた地下通路への入口から、金色と黒の巨大な塊が躍り出た。長い尻尾が鞭のようにはためき、柱のように太い前脚が、彼の頭すれすれをなぐって、かすめて、空を切った。
ベンガル産の大トラだ。
地をゆるがして野太く上がる咆哮が、客席の悲鳴と喝采にかき消された。彼をのがしたトラは、相手の戦士に躍りかかったが、鎖をつかんでいた男たちに引き戻され、怒りに半ば立ち上がって、身体を大きくうねらせながら、まっ白い牙をむき出し、喉の奥から轟きわたる恐ろしい長い叫びをほとばしらせた。
トラと相手の間をぬって後ずさりながら、彼が左右の足元に目を走らせて、動く砂地が他にないか確認したのを私は見た。まったくどうして、こう落ち着いていられるのだろう。何が起こっても即座にそれに対応するというか、何があってもあわてないというか、しかたがないとあきらめるのが早いというか。
おそらくは、久々に皇帝の姿を貴賓席に見た時、自分を殺すためならば、どんな企みでも卑怯なしかけでもしてくるだろうと、彼は予測し、覚悟したのにちがいない。
──(14)──
そう言えば、もともと彼はそうだった。
知り合って間もない頃、彼と私は、他の少年兵数人と、上官の率いる偵察隊に加わって森に入ったことがある。ところが敵に発見されて、かろうじて逃げ出したものの、敵が我々の残していた目印をおきかえて道をまちがわせた上に、枯れ草に火を放って退路を断って我々を沼地に追い込み、何人もがひどい怪我をしてほうほうのていで逃げ帰った。何て卑怯なやつらだろう、あのやり方は汚なすぎる、そう言って口々に皆が敵をののしっていた時、彼一人は、自分も傷の手当てをしながら、何だかおっとりした調子で「だって、そりゃなあ」と、つぶやいたものだった。「向こうも必死なんだしさ」
「おまえ、腹たたないのか?」私たちはくってかかった。「あんなやり方って許せるか?いったい、どっちの味方だよ?」
彼は困って、私たちを見つめ、たじたじとした。それでも口の中で「でもさ」と言っていた。「ほら、おれたちだって、そうなんだし」
「何がだよ?」
「偵察に行ったんだし。それって、向こうにしてみれば、やっぱ、ひどいことなわけで」
「ほんとにおまえ、どっちの味方だ!?」
「だってそんなに怒ったって…」
彼は本当に困っていた。知り合ってまだ日の浅い仲間たちから嫌われたくはないし、でも、自分の言ってることはそんなにおかしくはないはずなんだけど、と言いたげに、長いまつ毛の下の青みがかった灰色の目をくるくるさせて、私たちを見つめていた。
「何があったって、あたりまえなんじゃないの?それは、言ったって、しかたないんじゃないの?こういう時ってさ…いつだってさ…あの…だって…」
彼のあまり自信なげな声は、激昂して口々に言いつのる、私も含めた他の少年たちの声にかき消されてしまい、とうとう上官たちが、けんかと間違えて飛んできた。私たちの言い合いのなりゆきを聞いた上官たちは皆、腹をかかえて大笑いし、「今年のちびすけどもは見込みがあるのかないのかわからん。けがをして死にかけながら口だけは達者らしい」と言って、我々を皆、寝床へ追いやったのだ。
あの時と同じことを、彼は今も思っているのか?
こういう時って…いつだって…何があったって…しかたないんじゃないの?
私の心の中で、何かが動いた。何か、考えなければならないことがあるような気がした。
その時、砂地が再びぱっくり二つに割れて、二頭目のトラが彼に向かって突進した。
──(15)──
間一髪、地面に転がってよけた彼の身体の、一瞬前まであった場所に、トラの鋭い前脚の爪ががしりと打ち込まれた。見物人の興奮は絶頂に達したかに見えた。三頭目のトラが現れ、彼の背後から飛びかかって背中にしがみつくまでは。身体をよじって彼はトラを振り落とし、盾でたたいて、突き放した。
荒々しい笑い声、喝采。その中で、私は、そばに座った皇帝が次第にいらだち始めているのがわかった。紅玉の指輪をはめた手がいらいらと椅子のひじをにぎりしめ、せわしなく唇にあてられている。
「何を手こずっているのだ」低い声で陛下はささやいた。「間抜けどもが!」
それで私も気がついた。トラの鎖を握っている男たちは、彼が近づいた時に鎖をゆるめて、トラを飛びかからせようとしているのだ。だが彼はもうそれに気づいていて、大男を盾にとるかたちで移動するので、うまくトラを彼だけに襲いかからせることができない。
うまくいかないでいる理由はそれだけではなかった。すでに観客の多くもそのことに気づいていて、鎖をゆるめようとするたびに、男たちに向かって激しい怒号が飛んでいる。「卑怯だ!」「卑怯だ!」の合唱があちこちで上がり、皇帝の席に向かって大っぴらに拳を振り回す者も見えた。その一方で、彼に迫っている、これまでにない危機に理屈ぬきで興奮し、喜んで夢中になって「トラを放せ!」「トラを放せ!」と声を限りにわめいている連中もいた。
騒然、混沌。この行き着く先は何だろう?近衛兵を非常時の警備体制につかせた方がいいと判断して私が席を立ちかけた時、四頭目のトラが再び彼に飛びついて、よけそこねた彼を地面に組み敷いた。
──(16)──
鮮やかな黄色と黒の毛皮に包まれた巨大なトラの身体の下に、彼は一瞬、すっぽりかくれて見えなくなった。だが次の瞬間、その毛皮がほとばしる血に染まるのが見えて、突き上げた彼の剣が、猛獣の喉をつらぬいたのがわかった。
その少し前、彼は大男の手にした斧を柄の中途から切り飛ばし、持っていた丸い盾を投げ捨てて、その相手の武器を拾って右手に握っていた。トラの下敷きになった時、それはいったん彼の手を離れ、振り下ろしてきた相手の剣をよけようと、彼は地面の盾を手さぐりしたが、トラが断末魔でもがいたはずみに、自分も地面をひきずられ、その時たまたま指先に触れた、さっき落した斧の柄をたぐりよせるようにしてつかみ、それ自体の重さを利用して、ふり下ろすというよりは、なかば落して、相手の足にたたきつけた。
トラと大男が、同時に左右に土煙にまみれて転がった。まるで少年のようにすばしこく、はしっこいしぐさで、彼が飛び起きて、立つのが見えた。
観客席は、狂乱の渦だった。彼に応援していた者たちは彼の勝利に酔いしれて、ただ興奮していた者たちは、その凶暴な気持ちを鎮められないまま、声を限りに目を血走らせて「殺せ!殺せ!」と叫んでいた。
その中で、彼はもう落ち着いて倒れた大男のそばに立ち、斧を手にしたまま、礼儀正しく皇帝に目をやって、指示を待っていた。
そして、皇帝が歯ぎしりせんばかりの表情で、人々の「殺せ」という大合唱に、目を伏せながらしぶしぶ親指を下に向けて、お気に入りの剣闘士の死を宣告し、満足と期待をこめた観客たちのうなり声がコロセウムに広がって行くのを確かめた後、彼は、ことさらにゆっくりと斧を頭上に持ち上げて見せてから、それを地上に投げ出した。
──(17)──
私は、わが目を疑った。
皇帝だって、そうだったろう。
大観衆の見守る中での、それは公然たる皇帝命令の無視だっただけでなく、今まさにその皇帝をも従わせたコロセウムを支配する民衆の要求への、真っ向からの反抗だった。
皇帝と、民衆。
ローマ帝国を支配してきた最高の二大権力。
その要望を二つ重ねて、彼はばっさり切り捨てたのだ。
命が惜しくないのか、などという問題ではない。
誰でも、自分をどうとでもできる力を持ち、しかもその意志が予測できないものは恐れる。
民衆は、皇帝を。皇帝は、民衆を。
それは、無条件の恐れだ。理由などない。抵抗できない。
だが、この男は。
こげくさいほどの興奮と混乱のるつぼと化したコロセウム。誰もが血に酔い、狂人となり、どのように残酷なこともしかねない場所。
その中で、なお、この男は。
冷静なのではない。優しさを失わないのではない。そんな生やさしいものとは違う。
この男の中には、狂った皇帝、怒れる民衆に対峙して、なお一歩も引かぬ怒りと熱さと、あえて言うなら、狂気があるのだ。
背筋の寒くなる思いで、私はそれを実感した。
彼こそが謎だ。彼こそが誰よりも危険だ。
自分をどうでもすることのできる存在を目の前にし、相手の意志ひとつで自分はどうでもされるままになるしかないことを知りすぎるほど知り抜いていて、それでなお、こうするしかない、彼の心の中にある、おそらくは彼自身にもどうすることもできない荒々しい感情、それを支える、生きる力。
それは狂気か。それは道化か。あるいは真の王者に値する者だけが持つことのできる誇りだろうか。
この絶対の感情と意志と生命力とには、同じ強さを持たない者は負ける。屈して、膝を折るしかない。
「…慈悲を、たたえよ!」
やや揶揄めいた響きもたたえて、それでも確実にそう叫ぶ声が客席から起こった時、私はそれを思い知った。
民衆は、彼に屈した。
皇帝すらを従わせる、ローマの、コロセウムの民衆が。
彼の慈悲をたたえる声はひきつづき上がったが、からかうような笑いもそれに混じって広がっていた。
私はもう気がついていた。それは、彼の頑固さや甘さを笑って見逃し受け入れてやろうとする揶揄やからかいだけなのではない。
彼に敗北するしかなかった自分たち自身への、いたわりと自嘲もこめた笑いなのだ。
そして、その揶揄や自嘲もこめたまま、その喝采と笑いの中には、同時にどこかうっとりと、勝者や強者に身をまかせる快感のようなものが、確かにこもっていた。
慄然としながら、私は知った。
ローマが、今、彼にひざまずいたことを。
元老院の議員たちも、粛然とした表情で、魅入られたように彼を見つめていた。
皇帝は突然立ち上がった。アリーナを去ろうとしている彼を見すえたまま、あわてて立った私が追いつけないほどの速足で、陛下は通路の方へと向かった。
──(18)──
私は陛下を追って走りながら命令を下して、近衛兵たちに彼をとどめさせた。だが、アリーナに出て行った陛下は、ついて行った私に、彼を取り巻く近衛兵たちの一番はしで待つように言って、ご自分だけで彼の前に行って、彼とことばを交わしていた。
私はもちろん、耳をすませていたのだが、風が反対方向に吹いていたこともあって、二人の低い声でのやりとりはほとんど聞こえず、彼が私に半分横を向く姿勢であったため、その表情も私の位置からはあまりよくつかめなかった。
やむを得ず、二人の近くにいた近衛兵たちを後で呼び出して聞いてみたのだが、これがさっぱり要領を得ない。隊長として私はまったく失望したし、自分の指揮官としての能力を反省させられた。皇女が聞いたら怒るだろうが、まるで噂話が飯より好きな、宮廷内の侍女なみの話しぶりである。
「殺そうとしても死なないやつを、どうしたらよかろう」と皇帝は彼に声をかけ、「あれだけ人を殺したおまえが、皆から慈悲深いと言われるのが笑わせる。私もおまえも大したちがいはないのに」と言った。
彼はそれに対し、「私はもう誰も殺さない。たった一人を除いては」と言い返した。
「それは私のことか。ならば今、殺すがいい」と皇帝は嘲り、彼は回りの近衛兵たちをゆっくりながめて、そんな挑発にのるものかと言いたげに、きびすを返して去ろうとした。
ここまでは、だいたい誰の話も一致しているのだが、そこからが食い違いはじめる。
もはや、彼が背を向けたのを、皇帝も誰もとがめなかったというのもあきれた話ではあるが、とにかく、皇帝は彼を呼びとめ、「おまえの妻子が処刑された時の話を聞きたくはないか」と言った。
──(19)──
「それで、奥さんの手足をひきちぎって、息子さんの目をつぶしたと言ったんです」近衛兵の一人は、声を震わせて私にそう報告した。
「爪を一枚ずつはがして、とろ火でじわじわ、足から焼いてやったなどと」別の一人はそう言いながら、ことばをつまらせた。
「奥さんを三日がかりで、二十人近くでかわるがわる犯したとか」そう話した者もいる。
「息子さんの目の前で」
「世にもうれしそうに、にやにや笑いながら」
「彼の顔を、見ていられませんでした」
「陛下は狂っておいでです。あんな話を彼に聞かせるなんて、人間とは思えません」
「彼は何も言いませんでした」
「死人みたいに青ざめただけで」
「ひどすぎます。聞いていて吐き気がしました」
近衛兵たちは、そんなことを次々に私に語り、言っている間にもこぶしをにぎりしめ、歯をくいしばる者もいた。
「彼は本当に立派でした」
「顔色ひとつ変えないで、静かに陛下を見返して」
「あなたがそのように勝ち誇っておられる間も、そう長くはないでしょう、皇太子殿下、と」
「本当に、あの方こそが皇帝になっていらして下さっていたら」
「彼だったら、心から仕えられる、命を捧げても惜しくはないと自分はあの時、思いました」
「お気の毒で、おいたわしくて」
「おい、いいかげんにしないか」さすがの私もその時は相手を叱った。「おまえたちは陛下をお護りするのが役目の、誇りある近衛軍だぞ。剣闘士風情に敬語を使うとは何事か!」
言われた方はきょとんとした。意識もしてないぐらい自然に使っていたということだろう。
こいつらの話をまるごと信用するならば、彼は顔色ひとつ変えなかった一方で死人のように青ざめていたことになり、陛下は彼の妻子の手足を切ってから爪をはがしたり、目をつぶした子どもに母親が犯されるのを見せつけたりしたと、彼に言って聞かせたことになる。いくら何でもばかばかしすぎるではないか。私は少し年かさの小隊長に、本当のところはどうだったのかと聞いてみた。
──(20)──
「ああ、若い連中が動揺するのは無理がありません。いやな話でしたからな」小隊長は苦々しげに言った。「彼の子どもを十字架に釘づけにして女の子のように泣かせたとか、奥さんを何人もの兵士に強姦させて悲鳴を上げさせたとか。陛下だって、ごらんになったわけじゃないから、彼を苦しめたくておっしゃったことなんでしょうが、聞いていて、こっちが恥ずかしかったですよ」
「じゃ、爪をはがしたの、目をつぶしたのというのは、兵士たちがでっちあげた話か?」私はあきれた。「まったく、何ということだ!」
「人に話している内に、頭の中で勝手に話が増幅してしまったんでしょうな」小隊長は吐息をついた。「叱っておきます。しかし、大目に見てやって下さいませんか。あの時、あそこにいた連中は皆若くて、つきあっている女に男の子が生まれたばかりで夢中でかわいがっている者や、病気で幼いひとり娘を死なせたばかりの者もいたんです。そんな連中があの話を聞いたら、どうなるかおわかりでしょう。皆、完全に、あの時は、聞かされている彼の気分になったんですよ。陛下はまだお子さまがおいででないから、そこのところがおわかりにならなかったんでしょうが、あれはまったく、まずかった。ここだけの話ですが、あの男があの時、陛下の挑発にのって、飛びかかりでもしたならば、とめるふりぐらいは誰かしたかもしれませんが、それより、どさくさにまぎれて彼に自分の剣を渡す者が何人かいたのではないかと思うぐらいで」
私は、もしかしたら陛下には、それもわかっておいでだったのではないかと思った。もはや、陛下こそ追いつめられて、一気に彼に殺されて、けりをつけてしまいたいと思っておいでのように見えてしかたがないのである。
「自分だって、あの時彼が、陛下に一礼して背を向けて去るのをよう止めず、思わず道をあけましたもんなあ」小隊長は目を伏せた。
たしかに私も、それを黙って見ていたのだから、大きなことは言えない。
──(21)──
「それで、彼が皇帝になったらいいと、皆は言っているのか?」私は聞いてみた。
小隊長はちょっと黙っていてから「そういう話はしないよう、厳しく禁じてはいるのですが」と言った。「ただ、そのことは私の方からも、おうかがいしたかったのです。お聞きするようなことではないのは重々、承知しておりますが、これだけ皆が口にしていると…真相は、どうなのか。どうも、侍女たちの間から広まってきた噂話のようですが、前皇帝は今の陛下にではなく、あの男に位を譲られるおつもりであらせられたとか」
何と言うべきかわからず、私が沈黙していると、小隊長はせきばらいして「噂というやつは、とんでもないですからな」と言った。「巷では、あの男が前皇帝の本当のお子で、陛下は剣闘士の子だとも、ささやかれておるようで」
早々に小隊長を追い返して自室に戻り、私はひとり思いにふけった。
昔と同じだな、と思った。
兵士たちといい、世間といい、いったいどうして彼の回りには、こうまで次々ひとりでに伝説が生まれ、話に尾ひれがつくのだろう。
そして、その中の、何がどれだけ本当か。
真実と向き合う勇気を私が持てずにいる内に、無責任な噂のかたちで、すでに幾分かの真実がさらけ出されはじめているのでは?
──(22)──
先帝は彼に、皇帝の位を与えようとしていたのか?
もはや私は、それはあり得ないことではなかった、と考えるにいたっていた。
この百年近く、ローマ皇帝は世襲ではなかった。だが、それは歴代の皇帝にたまたま男子がいなかったからであり、先帝には息子がいた。今の陛下だ。
だから、位はご自分の子に譲られるだろう。私たちは何となく、それを自明の理のように考えていた。
だが、名君で知られた先帝が、歴代のひそみにならって、息子ではなく、血のつながりのない優れた部下に帝国の運命をまかせようと決意していた可能性は、思えば充分すぎるほどある。
そこで生まれる疑問は二つ。
陛下は、それをご存じだったか?
彼は、知っていたか?
──(23)──
「父上の言う通り、彼が帝位をついでいたら、帝国は今ごろ崩壊している」
噂の、そもそものもととなった、この陛下のことばを考えるならば、陛下はご存じだったと思うしかない。
いつ、そのことを知ったのか?私は目を閉じ、老皇帝の死の前後のことを思い出そうと努めていた。
あの戦勝祝賀の宴の夜、まだ皇太子だった陛下は、快げに彼と談笑されていた。
ご自分ではなく、彼が皇帝になると知って、あの表情は陛下にはできまい。
老皇帝はあの時、前線に皇女や皇太子とともに、元老院議員たちも呼びつけておられた。あの宴会の次の日にでも、彼の皇位継承を発表し、皆に承認を求めるおつもりだったのか。
自分が想像していることの、あまりの途方もなさに私は首を振った。
しかし、途方もなく見えても、この話におかしいところはない。ならば、ここは、そういうこととして考えてみるしかないだろう。
では、その決定に不満を持つ元老院議員の誰かが、老皇帝を殺害したのか?
だが、彼が元老院に対し、どのような態度をとるかはまだ未知数ではないか。むしろ敵対しそうなのは今の陛下、当時の皇太子の方だった。
では、彼でなく、皇太子の皇位継承が近いと判断し、あせった議員の誰かが?
だとしたら、私にはもう判断ができない。議員たちの派閥や政治的傾向を私はまだ充分に把握していない。
ここで、行き詰まりか。
私は身じろぎした。何かまだ、見逃しているような気がするのだが。
第四章 からまる糸、ほどける糸(終)
(第四章までのあらすじ)
同じ少年兵として、私は「彼」と戦場で会った。素直でのんびりした性格の彼と私は、同じ軍で成長し、それぞれ、若い隊長として部下をまかされるようになって行く。だが、実力は決して自分と大差ないのに、いつも不思議なまでの運の良さに恵まれて、常に自分の一歩先に出世して行く彼に、私はいつか、こだわりを感じるようになっていた。
彼をかわいがっていた老皇帝の死をきっかけに、二人の運命は逆転する。将軍となっていた彼は反逆罪で処刑され、私は、皇太子が即位した新皇帝の側近として都に凱旋する。
だが、半年後、コロセウムで見事な活躍をした剣闘士奴隷が、処刑場から脱走した彼であったと知った時から、新皇帝は動揺し、その政治もすさみはじめる。それをどうしようもないままに、コロセウムに彼を見に行った私は、民衆が彼を皇帝のようにあがめ、彼が人々に幸福感や充実感をもたらしているのを知って愕然とする。
彼の人気を奪おうとする皇帝の計画はすべて裏目に出て、いまや「私」の指揮する近衛隊の中にまで、彼の人気は浸透し、巷では、老皇帝が次期皇帝に予定していたのは彼であるという噂も広がりはじめていた。
第五章 ひるがえる旗のように
──(1)──
あの日以来、陛下はまた、コロセウム行きをやめてしまわれた。
私や、元老院議員が国事についてご相談しても、まるで答えていただけない。
「ローマを支配するには、コロセウムを支配しなければだめだ」
そんなことを、ぶつぶつとつぶやかれたりする。
「彼は、幸運だ。宮殿ではなく、コロセウムで、剣闘士として民衆にあいまみえることができたのだからな」
そんなことも言われた。
宮廷のこの空虚さと暗さとは、次第に都全体にも広がって行くようだった。
元老院の大物が、彼のところに面会に行ったとの噂もある。
老皇帝の亡霊があらわれたとの噂もある。
これ以上、無責任な噂が広まるのは望ましくないと思ったので、警告の意味もかねて、例の噂の出所となった侍女と噂の流れた経緯とを調べて、注意していただくよう、私は皇女に依頼した。
「そのように、とりはからいましょう」
皇女も最近、やつれたようだった。青白く疲れた顔で、言葉少なにそう言ったあと、じっと私を見つめて聞いた。
「その噂を、どう思います?あの男が皇帝になるという噂です」
「他愛もなく、根も葉もない」私は切り捨てた。「昔から、あの男の回りには、そういう噂が生まれやすいのです」
「あなたは彼を、よく知っているのね」皇女は言った。「どんな男でした?軍隊では?」
「私と二人だけの時には、けっこうわがままな怠け者でしたが」
そう言いながらふと、彼は今、どんな男といっしょに寝起きしていて、どんな話をしているのだろうと思った。
皇女が立って、私に別れを告げた時、私はまた何かが気にかかったのだが、それが何かはわからなかった。
──(2)──
新皇帝が刺客をはなって、元老院の反対勢力だった議員たちを暗殺し、あるいは逮捕すると同時に、私に知らせることなく直接に近衛軍の一部を動かして、彼を逮捕させたのは、その数日後のことだった。
近衛軍に抵抗して彼を逃がそうとした、あの彼の持主の興行師だった白髪の老人は殺され、仲間の剣闘士たちも殺され、あるいは投獄された。
皇帝を退位させようとする元老院と軍の陰謀があり、その計画の首謀者は彼だ、というのが、この粛清劇の理由だった。
彼は、城壁の外で捕らえられ、地下牢につながれた。いっしょにいた従僕は、その場で殺されたということだ。従僕は馬を連れて彼を迎えに来ており、彼はそこから海岸に駐屯していた軍に合流し、指揮してローマに押し寄せるつもりだったという。
最初、私は、この陰謀計画の話自体が、陛下のでっちあげだと思った。しかし、その一部始終を話して聞かせる陛下の話が細かく具体的なので、これは本当に計画が進んでいたのかもしれないと考えはじめた。
「皇女も、彼の一味だった」陛下は、静かな声で言った。「愛していた者たちのすべてに、私は裏切られたのだ」
私が何も言えずにいると、皇帝は薄く笑った。
「だがな、許してやることにした。姉上は、私の情けに感謝している。私の慈悲深さに、足元にひれ伏さんばかりに。彼も、もうすぐ、そうやって、私に感謝するはずだよ」
ぼんやりと陛下を見守っている内に、この間から何が気にかかっていたのか、ようやく私はわかった。
皇女は私と同じぐらい長身だったが、あれはお父上ゆずりである。
老皇帝は、お年を召されてもすらりと背が高く、まっすぐに上体を起こした馬上の姿が、人並みはずれて絵のように美しかった。
死体の首は折れていたのだが、立ったままのあの方の首に手をかけて殺すのは、よほど背の高い者でなければむずかしい。陛下はそれほど大柄ではない。議員たちも同じだ。それを言うなら彼だって、老皇帝とせいぜい同じぐらいだろう。
そんな背の高い男が、あの頃、基地にいたろうか?いたら、それだけで目立ったはずだが。
あるいは、老皇帝はひざまずいていたのか?だが、あれは入口近くの、回りに何もない敷物の上で、ひざまずく理由などない場所だった。
誰かの前にひざをついていたのか?だが、皇帝がひざまずくような、そんな相手がこの世にいるか?それに、何のために?
私の足元に、ひれ伏さんばかりに…?
愛する者たちのすべてに、裏切られた…?
私は自分が、何かから目をそらそうとしているのを、ずっと感じていた。新皇帝と、彼の妻子の処刑のことで言い合った時も、侍女と話をした後も、コロセウムで彼と会った後の陛下の様子を見た時も、自分でも押し殺しているのを忘れてしまうほど、いつも、いつも、ある疑いを抱えて生きてきたことを。それを認めてしまったら、信じるものの支柱が砕け、私の生きる拠り所が崩壊する、あまりに恐ろしい事実。しかしもう、目をそむけられなかった。
老皇帝が、ひざまずくとしたら、相手はたった一人しかいない。
──(3)──
…息子であるおまえを、皇帝にしなかったことを許してくれ。
そう言いながらひざを折った老皇帝が、両手を伸ばし、陛下の身体を抱く。立ったままの陛下の手が、父親の白髪の頭をかきいだき、その手に次第に力がこもる。
あまりにも鮮やかに自然に浮かび上がったその幻に、私は思わず息をつめていた。
──(4)──
「彼は、いつも父上に愛されていた。姉上にも。民衆にも」陛下は、ひとり言のようにつぶやいていた。「それで、彼は?彼は誰かを愛したことがあったと思うか?彼は、誰にどう思われようとまるで気にかけないのだ。それで、愛していると言えようか。彼は孤独だ。それを気にかけておらぬ。それだから、人はつけいるすきがない」
彼も、私と同じ幻を見たのだろうか、と私は考えていた。
だとしたら、それはいつだろう?
そもそも、自分が皇帝に指名されることをいつ知ったのだろう?
彼もまた、あの宴会の時は、陛下と同様くったくのない顔をしていた。では、次の日か?聞かされたのは?当然、老皇帝は、陛下より先に彼に話したはずだから。
もとより驚き、辞退もしたろうが、最終的には彼は、受ける決意をしただろう。先帝を信頼していたし、妻のもとに帰りたいと願いつづけながら、軍にとどまっていたほどに、この国と老皇帝を愛し、託された義務を果たそうとし続けていたのだから。
もしかしたら、コロセウムで彼のとり続けてきた、誇りと威厳と愛情をもって、民衆のひとりひとりと向き合うあの態度も、老皇帝にこの国を託され、その民をゆだねられたと思えばこそ、自分のできることから、できる場所から、皇帝としての仕事を果たそうとした結果ではなかったか。
おそらくは、その延長線上に、今回の計画もあった。
「彼は決して他人に自分を与えない」陛下の声が耳に入って来た。「その結果、彼を愛した人間を皆、彼以上に孤独にするのだ。あのような者は私が殺さなければ、皆が孤独になり、不幸になる。私が皆を救ってやらねば。慈悲の名において、皆を、彼から解放することができるのは、この世に、私しかいまい」
「彼を、どうするおつもりです?」私は聞いた。
「どのように残酷に殺してもいいのだが」陛下は唇に指を当て、私の顔をじっと見た。「私は慈悲深いから、そんなことはしない」
何を考えておられるのか、正直言って私は予想もつかなかった。
「彼と、正々堂々と対決して、コロセウムで殺そうと思う」夢見るように陛下は言った。
「鎧の色はやはり白だな。裏切られても裏切られても、愛して、許して、人々のために戦い続ける私の心の清らかさを、最もよく示すためには」
──(5)──
身支度に余念のない陛下をそのままにして、一足先に地下牢へと私は急いだ。
遅すぎる確信かもしれなかったが、もはや、私は確信していた。彼が皇帝に指名されていたこと、陛下が父上を殺したことを。
彼は、私に起こされ、老皇帝のテントに行って、寝台に横たわる遺骸を見た時、一瞬にして真相を理解したのにちがいない。だからこそ黙ってテントを出て行き、直ちに行動を起こそうとしたのだ。
だが、それならばまた何で、あの時、逮捕に行ったこの私に、すべてを話さなかったのだ。
そうすれば私も納得して、彼の味方についたものを。
彼は、自分がそのような偉大な権力を与えられたことを、自分から口にするのがいやだったのかもしれない。
まさかとは思うが、私に気をつかったのか。
どちらにしても、それが命取りになったのだ。
地下牢の監房は、生き残って捕らえられた彼の仲間の剣闘士たちや、元老院議員たちで、ひしめいていた。彼をさがして監房をのぞいて回っていると、またどやどやと一団の兵士が誰かをひきたてて来た。そちらに目をやった私は驚き、思わず呼びとめた。ひきたてられているのは、はしばみ色の目をした、あの侍女だった。
「どうしたというのだ、この女も一味か?」
「ちがいます」兵士の一人が私に敬礼して答えた。「皇女さまのお言いつけで、侍女たちを調べておりましたら、この女の持ち物の中に、邪教の信仰を示す証拠が数々見つかったのです」
「邪教?」
「私は、キリスト教徒です」女は笑って、静かに言った。
彼女が連れ去られて行くのを、私は呆然として見送った。しかし、すぐ、それを気にしている時間はないと思い直した。ほとんど走るように私は、地下牢の奥へと進んだ。そして、ようやく一番奥の監房で、鎖につながれている彼を見つけた。
──(6)──
彼は近づいて来る私を、落ち着いて生き生きとした興味深そうな目で見守った。それはまるで、以前よく、テントで退屈していた雨の午後などに、外套のしずくを払いながら入ってきた私を見て、何か面白い話を聞かせてくれるのかなと期待している時の表情と、何の変わりもなく見えた。そのまなざしの若々しさ、しなやかな手足にみなぎる、みずみずしいばかりの生命力は、もうすぐ殺される人間とは到底思えない輝きで私を圧倒した。
歩み寄ってそばに立つとわかったが、彼は、捕らえられた時のものらしい傷のあとがいくつか、顔や肩にあったものの、それ以外にはいためつけられたあとが少しもなく、怪我らしい怪我もほとんどしていなかった。近衛兵たちは彼をよっぽど大切に扱ったのではないかと、疑いたくなるほどだった。
彼が私を見て、何かをうながすように軽く首をかしげたので、私も前置きもなく、すぐ口を開いた。
「本当のことを聞かせてくれ。絶対に嘘をつくなよ」彼の目を見つめて、私は念を押した。「先帝はおまえに、皇位をゆずると言ったのか?」
彼はちょっとためらって返事に間をおいた後、やわらかい声で聞き返した。「なぜ、そう思うんだ?」
「なぜも何も、都中に、そういう噂が広まっている」
「噂だろ?」
彼はものうげに、ちょっと唇をとがらせるようにした。眠くて疲れている時などに、書類の不備やその他のことを、私にこまごま問いただされて、うるさがっていた、あの表情だ。私は思い出を追い払った。感傷的になっている暇などない。
「その噂のもとになってるのは、陛下が、おまえが皇帝になったら国は亡びていたろうと話していたのを侍女が聞いて、皆に話したのが始まりだ」
「そうか」彼は小声で言った。「あの方らしいな」
どこか笑っているような、さえざえと静かなその口調に、私は突然気がついた。どのように彼の肌の色つやが美しく輝いていようと、その目がどんなに明るく力をみなぎらせていようと、確実に彼自身は、もはや自分の死を予感し、そちらに顔を向けている。あの若い従僕、彼をかばって殺された興行師の老人や仲間の剣闘士たち、妻と子ども、老皇帝が、微笑みながらたたずんで待つ方へと、身体をなかば向けかえて、私たちから歩み去る姿勢になっているのだ。そのことになぜか私はかっとして、思わず彼につめよった。
「なぜ、そのことを言わなかった?あの夜、私がおまえを逮捕しに行った時に、どうしてはっきり、そのことを私に言わなかった?おまえは、わかっていたんだろう?おまえが皇帝に指名されることを、父上から聞かされて、陛下が逆上して、お父上をしめ殺したことが、おまえはわかっていたはずだ。どうして、あの時、そう言わなかった!?そうしたら、何もかもが今と変わっていたんだぞ!」
──(7)──
彼は今度は、ためらわなかった。答えは即座に、静かに返った。長いこと、何度も思い出し、考え直してみていたことを口にしているようだった。
「私が言ったら、信じたか?」
答えを待たずに、彼は続けた。
「おまえが信じたとしても、元老院は信じたか?誰も、聞いていた者はない。殿下はもちろん否定する。何の証拠もないのだから結局は水かけ論だ。陛下に指名されたと主張する者どうしの後継者争いとしか、人には見えまい」
彼は静かに語り続けた。めったに長くしゃべることはないが、たまにしゃべると、いつも的確で無駄がなく、人を納得させずにはおかなかった、あの口調だった。
「陛下が殺されたか自然死かはともかく、急死ということだけを告げて、元老院と善後策を話したかった。後継者は誰でもいい。殿下以外だったら。そして、殿下にその権利を主張させてはならない。そのためには、父を殺したという証拠を握り、告発の用意があることをお示しすれば充分と思った。あの方は、それを押し切ってまで私と対決されるほどの心の強さはお持ちでない。あの方を今のような怪物にしてしまったのは、今の地位と、回りの人々だ」
最後のことばを口にした時の彼の目には、深い悲しみがあった。この状況でまだ彼は、あの新皇帝を哀れんでいる。そのことに私は強い衝撃を受けた。ほとんど唖然とするほどの。それはまた、はっきりと「回りの人々」の一人である私をなじることばでもあって、私は思わず、話を変えた。
「そんな証拠がつかめたと?」
彼はちょっとうんざりしたような、冷たい目で私を見返した。「皇女の顔を見たろ?彼女は気づいていたよ。後は侍医をおさえて、真実を証言させれば充分だ。殿下にとっても侍医は貴重な証人だから、おいそれとは殺せやしない。夜の内にでも保護して隠せば充分間に合う。その上で皇女を説得すれば、あの方はどちらにつくのが賢いか、すぐにわかって下さったさ。ご自分の子どもを皇帝にすることもできると思えば、なおのこと。あの方が味方について下されば、殿下なんてもう、どうでもなる」
私は彼を見つめた。
「あの時、とっさにそこまで考えたというのか?」思わず声をあげていた。「水ももらさぬ計画だな。何ひとつ見逃していない」
すると彼が、まつ毛を伏せた。かすかな苦笑が唇のあたりにかげったようだった。
「うん…たった一つを除いてはな」
「何だ?」
彼の唇が、はっきり笑った。目を上げて私を見た時、そこにあったのは、なぐられて傷ついた顔で、鎖につながれてはいても、あの小暗いドナウの森の、木漏れ陽がちらつく中で、私に笑いかけていた少年兵の顔だった。ひとつの遊びが終わったあとで、互いに手の内をさらけ出しあって降参だよと笑いあった時の、さばさばと明るく何のこだわりもない、かすかにすねて甘えたような、いたずらっぽい笑顔で彼は言った。
「おれ、おまえが、あっちにつくなんて、夢にも思ってなかったもん」
何を言われているのかわからなかったのは、その笑顔、その口調のせいだったのか?時が音もなく静かにさかのぼり、私はかすかに唇を開けたまま、何ひとつことばを発することができなかった。
「おまえが陛下と、そんなに親しいって思わなかったし、あんなに先の見えない状況の中じゃ、絶対に、おれの命令に従っとく人間だと思ってたもん、おれ、おまえのこと」
──(8)──
また、そういう、失礼なことをぬけぬけと。
鎖でつるされて死を待っている人間に対して感じるはずもないような、激しい怒りが私を襲った。その奥底には、確かに自分はそのとおりの人間だという苦い確信も混じっていたが。彼の目はもう明らかに笑っていて、この期に及んで私をからかっているようでもあったし、私をしばしば怒らせたように、ただのん気で鈍感で無神経なだけなのかもしれなかった。
冷ややかに私は言い返した。「それは、おれを見損なっていたな。見くびっていたというべきか」
「うん」彼は、まじめに、素直にうなずいた。「本当にそう思った。あの時は」
声も、顔も、もうはっきりと彼は笑いをこらえている。そして言った。
「それが、それだけが、誤算だったんだ。本当に、まるで考えてなかったから」
そんなにおれには油断してたのか、と言おうとしかけて、私はつばを呑みこんだ。そんなにおれを信用しきっていたのか、とも、それは言いかえられることにも気がついて。
──(9)──
廊下の方で、かすかなざわめきが起こり、それがこちらに近づいて来た。純白の鎧に身を包んだ皇帝の姿が監房の入口に現れた。従ってきた兵士たちを手を振って追いやると、一礼して壁際に下がった私には目もくれず、皇帝はまっすぐ彼の前に歩みよった。
彼を見つめるその目には、不思議なほどに敵意がなかった。頭上からコロセウムのどよめきが下りてきて、人々が彼の名を連呼しているのが、かすかにだがはっきり聞こえる。だが、そのことも皇帝は、もはや気にしている様子はない。むしろ、それほどまでに人々に彼が愛されているのを喜んでさえいるかのようにも見えた。人によっては陛下が彼のことをこよなく愛しているようにさえ見えたかもしれない。
だが、私はまもなく気づいた。陛下が彼を見るまなざしは、新しく注文して届いた鎧や、遠国から来た美しい衣装を、前においたり壁にかけたりして、うっとりとためつすがめつ見ている時の表情と同じであるということに。
この男に私がなれる。この男が今浴びている喝采は、賞賛、信頼、愛のすべては、そのまま私のものになるのだ。陛下の目はそれを予測して酔い、まるで彼の皮を生きたままはいで、それをすっぽり頭からかぶって顔も姿も彼自身になろうと本気で思っておいでなのではあるまいかと、私はぞっとしながら気をもんだ。
おわかりでないのか、この方には。彼のその栄光をひきうけることは、その苦しみも孤独も疲れも、ひきうけることになることが。
みがかれて美しい光を放つ鎧の肩当てを手のひらでさすり、高価な貝の染料で染めた紫色のトーガのなめらかな一端を指先にそっとくぐらせるのと同じしぐさで、彼の頬に指を当てて何か話しかけている陛下の声を聞きながら、私は、この方には決しておわかりにはならないのだろうという、絶望的な思いをかみしめていた。
それにしても、これはまことに何という奇怪な図か。世界を支配する帝国の最高権力を握る支配者が、徒手空拳で傷ついて鎖につるされた裸同然の奴隷をうらやみ、入れ代わりたいと望んでいる光景とは。
軍団の上にはためく旗の色が、空のわずかな光線の具合で突然まったくちがう色に見えることがある。すると、その回りの風景までもが、すべて今までとはちがってしまうことがある。森はそれまでの森でなく、山はそれまでの山でない。見えるものすべてが、その持つ意味を変え、進んで行く目印を失わせて、私たちを立ちすくませる。
彼と陛下をその時に包んでいたのは、そんな不思議な光だった。
──(10)──
「私自身がコロセウムで、おまえと戦ってやる」と宣言する陛下の声を、どうにか私の耳はとらえた。彼が明らかにけげんそうに陛下を見返したのも、同時に私の目はとらえた。
それは、私の疑問でもあった。皇帝も武芸の鍛錬にはつとめており、自信もあるのは知っていたが、正々堂々の戦いで彼に勝てると思っているとしたら、本当に狂っているとしか思えなかった。
「意外か」と陛下はあざ笑い、「おまえなど恐れてはおらぬ」と、またしても語るに落ちたことを言った。
おそらくはそれがおかしかったのだろう、彼はまるで母親が子どもの小さい時のことを思い出しているような、人を食った意地悪な目をして見せ、「いつも、ずっと、何もかもを恐がっていたくせに」と言い返した。
「どうせおまえは立派だから、死ぬのなど恐くも何ともあるまいな」と、陛下は更に情けないことを言った。いや、それは脅かしであったのだろうが、彼に対する弱気とひけめが一言ずつにすけて見えてきてしまうため、一向に脅かしに聞こえない。こうしてそばで見ていても、鎖でつるされている彼の方が、白銀の鎧に身を固めた陛下をみるみる圧倒して行くのが手にとるようにわかって、私は息を呑んでいた。
彼の死は悲劇的だった、と皆が涙して語る。しかし私は、あの時の彼の、陛下を見下しきった余裕の表情を思い出すにつけ、とてもそう彼に同情する気になれない。明らかに彼は、皇帝という、あの不幸な若者の弱点も急所もすべて見抜いた上で、手足をいましめられ、身動きひとつできなくてなお、剣の一突き以上に鋭利で残酷な攻撃を加えたのだ。まるで自分に言い聞かせようとしているように穏やかな口調で彼は「ある人が言っていたが、死は誰にでも微笑みかけ、我々はそれに笑い返すことしかできることはない」と言ったが、私は殊勝に覚悟を決めようとしていることばにしては、どこか彼がうれしそうで、上官たちが我々に試験をしようとしている時のような、あるいはまた、彼がしょっちゅうカモになっていた謎かけ遊びで私たちが相手をはめようとして喜んでいる時のような響きがあるのを感じとった。まったくもって、ああいう場だし、陛下が相手だからこそうまくいったようなものの、最後まで彼はそうやって白っぱくれて人をひっかけるのは上手ではなく、思っていることが顔や声に出たのだ。
陛下は死にゆく彼が心の支えにしているそのことばを、ふみにじってやろうとするように冷たくあざ笑った。「なるほどな。聞きたいものだが、そう言った本人は死ぬ時に笑ったのかね?」
誰が何と言おうと私は、あの瞬間の彼の目に「やった!」という、子どものように無邪気で残酷な喜びが輝いたと断言する。正直で、素直で、この手のことばのだましあいやひっかけあいでは、いつも皆にしてやられて、「おまえ、振った賽の目が何だか全部わかっちゃうよ」と私たちから注意され、「将軍、こんな簡単ないたずらにひっかかってらっしゃるようで、今回の作戦は大丈夫なんでしょうな」と部下に笑われていたぐらい、彼は、この種のささいなことで人をはめる遊びが苦手だった、それがあまりにも見事に成功したものだから、うれしくてたまらなかったのにちがいない。私自身もその時に、彼が引用したことばをしばしば口にしていたのが誰だったか思い出してはっとしていた。明らかにまだ何も気づいておいでではない陛下を、彼はことさら喜びを押し隠しているとしか思えない、すました目で見下ろした。「どうだった?」と彼は聞いた。「見たんだろ?言ったのは、あなたの父上だよ」
──(11)──
陛下があの時、なぜ彼をなぶり殺しにしようと決心しなかったのか、いまだに私は不思議でならない。わなわなと震えた陛下の手、みるみる血の気が引いてひきつって行く表情に、それまで私の中にかすかな疑いが残っていたにせよ、それはすべて吹き飛んだ。陛下は父の老皇帝を殺したのだ。その瞬間を彼の今のことばがまざまざと思い出させたのがわかった。
深く息を吸い込んで、陛下は彼に歩み寄った。「私は父を愛していた」と言いながら、彼の身体に腕を回し、彼の頬に顔を寄せて陛下が彼を抱きしめた時、私はその愛情と憎しみのこもった声と顔と、動作とに、はっきりと、陛下が父上を殺した時もこうだったのだと理解した。同じことがまた、くりかえされようとしている、と感じて私が、危ない、と目をこらした時、陛下の手にした細身の短剣が深々と彼の脇腹を刺していた。彼はまったく声を立てなかったから、皇帝が身体を離して下がった時に、支えを失ってよろめいた彼をつるしていた鎖が、わずかに鳴っただけだった。
「傷が外から見えぬよう鎧を着せて、昇降機に乗せろ」と私に命令する陛下の声を、私は水の中で聞くように、ぼんやりと遠くに聞いた。
──(12)──
近衛兵たちを呼んで彼の鎖をはずし、鎧を着せている間も、彼の傷口からはとめどなく真紅の血がしたたり続け、思わず手当てをしかけた兵士の一人を、そばで見ていた陛下の鋭い声が制した。「この出血では戦う前に死んでしまいます」と、ほとんど陛下にくってかかりそうにしたその兵士を、私は何とか目で抑えた。彼にそうやって鎧を着せながら、傷の程度をそれとなく確かめあって目を見交わしている兵士たちの表情の悲痛さと絶望の深さから、私は、この連中はどうやら本気で、いつか彼が皇帝になって自分たちを指揮してくれる日がひょっとしたらあるのではないかということを夢見ていたらしいと気づいた。それがもはや、永遠にかなわなくなったと思い知らされて、泣きたいぐらいに彼らがうちひしがれているのが、ひしひしと伝わってくるのだ。彼の血をぬぐった布を数人が床に捨てずに、ふところや剣帯の間に隠すようにしまいこんでいるのを目の端でとらえた時、私はかすかな恐怖さえ感じた。昨夜、自分を逮捕した兵士たちにまでこれだけ慕われてしまう彼の力とは、いったい何だったのだろう?
地下牢からコロセウムに上がる昇降機に、兵士たちに守られて、皇帝と私と彼は乗り込んだ。彼はまったく静かだった。うつむきがちだったが意識ははっきりしているようで、誰の手も借りずに歩いて昇降機に乗り、陛下と並んで私の前に立った。唇から次第に血の気がひき、顔色は目に見えて白くなってきたが、静かな息づかいは変わっていない。
…この顔を。この表情を。
ずっと以前、確かに一度、私はどこかで見たことがある。
しかし、どこでだったろう?
赤い房。黒い木の影。まぶたの奥にそれがちらちら浮かんでは消える。
その時、上方からコロセウムで鳴らすラッパの音がりょうりょうと響いて、届いて来た。
あの日のように。
あの試合の日のように。
私が彼の唯一のすきをつこうと工夫に工夫を重ねたのにもかかわらず、彼が突然、型破りの戦い方をしてきたために、みごとに裏をかかれて惨敗した忘れられない、少年の日の、前線基地でのあの試合。
対戦相手を告げる審判の士官が持っていた槍の先でゆれていた、赤い房。その向こうにそびえて、晴れ渡った空を背に激しい風にゆらいでいた黒いもみの木の梢。決戦の最終試合に興奮して叫ぶ、かん高い少年兵たちの声。朝から続いた試合で踏み荒らされて、でこぼこになっている広場の黒い土。
ラッパの音が響きわたり、そこに彼が歩み出て来る。私に向かって一礼する。その時の彼の顔を、私は今まで忘れていた。見ていても、その時は頭に入らなかったのだ。必ず、きっと、あの瞬間のすきを見つけてつくのだと、そのことばかりを考えていて。
だが、今、はっきりと思い出した。この、今と同じ顔だった。静かで、うつろで、何かに必死で集中しようとしているような。そして、たった今、彼が私の目の前でしたように、まだ意識がどれだけ残っているか、自分でそっと確かめるように足をわずかに踏みかえて、身体の中心をずらすようにしたしぐさも、あの時とまったく同じだった。
そして、瞬時に、私は理解する。
あの時の彼も、今と同じに、足の傷の苦痛で立っているのもやっとという状態だったことを。
それを、その時も、その後も、一言も口に出さずに、様子にも見せずに、彼は私と戦い、そして勝ったのだということを。
──(13)──
一つの記憶の意味を解く鍵が音をたててはまった時に、記憶の扉は次々に開く。それが私の目の前に、さまざまな事実を重ね合わせるように一気に投げ出してきた。
彼が戦いたがっている気分の時に限って必ず敵は攻めてきて彼は手柄をたてたと、私はずっと思ってきた。
だが、今思えばそれは、彼が上官にいわれのない罪で罵倒された日であったり、母の形見のお守りを誰かから盗まれた日であったり、兵舎の建設がうまくいかずに一人で徹夜の作業をさせられた日の翌朝であったのだ。
疲れ果て、動揺し、気落ちして、ふだんの力を発揮できずに敵に倒されても決して不思議ではない状態の日ばかりだった。
それでも彼がみごとな戦果をあげたから、荒々しい気分の時に戦えて運がよかったように見えたのだ。
身体の調子にしてもそうだ。敵が攻めて来なかった時、来ないとわかっている時にだけ、彼は気分の悪さを口にした。実際には、彼の体調が最悪の時にでも、敵は攻めてきていたのだ。だがそんな時彼は、熱があろうが腹が痛かろうが、目を輝かせて元気いっぱい戦っていたから、私にはそれがわからなかっただけだ。
──(14)──
彼は決して、幸運な男ではなかった。
属州の貧しい農民の子として生まれ、兄たちにひっぱられて軍に入り、その兄たちにも早く死なれた。
かわいがってくれた皇帝は、公正な人だったから、学問を教えて市民権を与えてくれた以外には何の特典も与えずに、正規軍の一員として彼を前線に投げ出した。
嫉妬もこめて決して甘くはなかったはずの周囲の目の中で、並外れた実力で頭角を現しても、私のようなローマの上流市民の出身の者とちがって、属州の訛りさえまだことばから抜けきれてない若い指揮官に、古参兵たちは決して一目おいたりなどはしなかったはずだ。
だから、部隊の掌握に手間どり、軍団のおもちゃとして滑稽な笑いものになるしかなかった。それが、どれだけ彼の誇りを傷つけていたか、やる気を失わせそうになっていたか、誰よりも私は見ていたはずだったのに。
そして、老皇帝の彼に寄せる信頼と愛も、血のにじむような努力の果てにかちとった将軍としての名声も人望も、それゆえに皇太子に憎まれて滅ぼされる原因のひとつとなっただけだった。
そのようにして突き落とされた地獄からも必死で彼ははい上がってきたのだ。
彼が皇帝の地位にあったら、ここまでは民衆をひきつけられまい、とそれぞれに考えていた皇帝と私。
何という、現実を無視した愚かな泣き言を、私たちは言っていたのか。
カルタゴの鉱山に送られようと、皇帝の玉座に座っていようと、彼は彼だったろう。
私たちには絶対にできない仕事をしてのけて、そして私たちはまたきっと言ったのだ。カルタゴの鉱山だからあれだけのことができた、皇帝の力があればこそやれたのだと。
こみあげてくるみじめさに、私は固く唇をかんだ。
──(15)──
頭上から舞ってくる花びらの中、若い皇帝はうっとりと天をあおいで、目を閉じていた。
自らの手で彼に致命傷を負わせ、動くのもやっとという状態にしておきながら、そのことはもうまるで、自分でも忘れているかのようだった。
もはや彼のぬけがらにも等しい、弱りきった男と戦うことで、本来の、栄光に満ちた強い彼と戦うつもりになっているのか。
それを、正々堂々の戦い、公平な勝負と思い込むつもりでいるのだろうか。
だが、皇帝をさげすみ、憎むような心の余裕は私にはなかった。恐ろしい事実がゆっくりと私の前に姿をあらわしつつあった。
私に、この皇帝を笑う資格があるのだろうか。
──(16)──
彼がいるから、私は損をしている。
彼がいるから、私の実力が隠されてしまってめだたない。
ずっとそう思ってきた。
はたして、そうだったのだろうか。
むしろ、逆ではなかったか。
ローマの上流市民の家に生まれ、父も兄も軍人だった私に、上官たちはいつも親切だった。
試合や大きな戦いの時に、怪我や病気をしていた覚えもこれといってない。今思えば、そんなことのある以前には私は決して無理な仕事をしなかった。誰がそれを肩代わりしてくれていたのだろう?平気な顔でそれらすべてを、誰ひとり気づかないほど何気なく、本人さえもおそらくほとんど無意識なまま、引き受けてくれていたのは、彼だったのではなかったろうか。
隊の指揮官となった時、父も兄も軍人として有名だった私の名は古参兵たちもよく知っていて、おのずと私は尊敬され信頼された。
そうやって優秀と言われるようになった私の隊と、私自身。だが、そういう隊に対してありがちな、しばしばそれが命取りともなる、落ちこぼれの連中からの嫉妬も、いやみも、いやがらせも、足を引っ張る画策も、私の隊はまったく受けることがなかった。なぜか。答えは明らかだ。
私の正面で、昇降機の振動に耐えるように、かすかに息を止めて身体をこわばらせた彼の、さっきより一段と血の気の失せてきた顔を私は見つめた。
落ちこぼれ部隊の指揮官が彼だったからだ。
彼だったからこそ、自分自身が私に対して終始そうであったように、自分の部下たちにも、ともすれば彼らをさげすむ風のあった私の部下たちを決して憎ませず、恨ませず、ひねくれさせもしなかったのだ。
むしろ自分の部下たちを、愛すべき存在にし、基地全体の雰囲気を明るいものにすることで、彼の部隊以外の部隊からも私の部隊がそねまれることなく、のびのびと活躍できるようにしてくれたのではなかったか。
──(17)──
第一、あれは決して、ただの落ちこぼれ部隊ではなかった。
あの部隊がいるから、自分たちが最低にならずにすむと単に皆が安心していただけなら、たださげすまれて、切り捨てられて、それで終わりだ。そして今度は、下から二番目の部隊にならぬようにしようと、また皆がやっきになるだけで、基地全体の雰囲気など何も変わりはしなかったろう。
だが、あの部隊は最低なのに、愛されていた。
どんな部隊にもそれなりにいいところはあると、身をもって示す存在だった。
そもそも、どんな大変な失敗をしても、ほとんど他の部隊に迷惑をかけず、とばっちりも与えていない。
どなりこんできた村人にも、騒ぎ立てる行商人にも、彼がきちんと対応し、処理していた。紛失した武器の発見、行方不明者の捜索、けんかの仲裁と後始末、すべて彼が調べて解決し、上官も周囲も、その報告を受け、彼の謝罪を聞くだけですんでいたのだ。
だから皆、彼の部隊の事件を、ひとごととして安心して楽しめ、面白がって愛することができたのだ。
そういう点では、いったい、あれは、本当に落ちこぼれ部隊だったのか?
他の部隊なら隠して、部下を処罰したり、村人や行商人に泣き寝入りさせたり、自分たち以外の部隊や上官に責任を押しつけてすませたりすることを、全部いさぎよく大っぴらに公開して、逃げ隠れしないで反省していたから、失敗がやたらと多いように見えていただけではなかったのか。
あの時期、周囲の村々との関係が非常によく、将軍は「わしの人徳じゃ」と二言目には悦に入っていたものだったが、それは、彼の部隊の村人たちとの関係を、他の部隊も知らず知らず真似して、謝るところは謝り、文句も聞いてやっていたからだったのではなかったのだろうか。
そういう点では、基地全体の姿勢さえも左右していた、一番厳しい指揮官と、一番優秀な部隊だったのではなかったか。
口ではバカにして笑っていても、そのことを多分、皆が、心のどこかで感じていた。
だからこそ、彼の部隊は、あれほどまでに愛されたのだ。
──(18)──
あの戦いも。この戦いも。
彼の部隊がいなかったら。
彼がいなかったら。
すべての情景が、私の頭の中で、ゆるやかに、まっさかさまに、その姿を変えつつある。
彼の部隊が「金の狼」を倒さず、森に入らず、意気盛んなままの敵の主力を正面から私の部隊が受けていたら。
最初に会った、あの時に、私の背後にいた敵兵に、岩の上から彼が飛びかかってくれなかったら。
いや、そんなことより、何よりも。
彼が存在しなかったら、これほどの力を私は発揮し、ここまで出世できただろうか。
こんな平凡な男が、といつも思った。
こんなとりえのない男が、こんな普通の男が。
そう、彼はいつもそうだった。
すごいことをしていても、すごいと思わせたことがなかった。
ただ、運がいいだけで、誰でもその気になればできることをしているだけのような顔をしていた。
だから、私も、自分にできないはずがないと思った。
そして、夢中で、努力したのだ。
いつも、彼を追い、彼と肩を並べていようと。
彼の得るものを得、彼のようになろうと。
もしも、彼がいなければ、何をめざしたらいいのか、どんな人間になりたいのかが、そもそもわかっていなかったろう。
彼が目の前にいつもいてくれたからこそ、私はここまで走れたのだ。
自分と私の決定的な差を私に思い知らせることなく、決して私をたたきつぶし、たたき落として自信を失わせることのなかった彼が、前にいてくれたのでなかったら。
私のむきだしの対抗意識に少しも傷つかず、自分の欠点や弱点をいつも無防備に私の前にさらけ出して、私をうけいれ続けてくれた彼が、相手でなかったら。
名誉や地位にともなう苦しみや空しさ、肩書や栄光を求めて人をたたき落とす生き方の愚かしさを身をもって教えてくれ、人生とは決してそんなもののためにあるのではないことをおぼろげにでも私にわからせ続けてくれた、彼がいてくれなかったら。
私は決して、今のような人間にはなれなかった。高潔さも、優しさもどんなものか、永遠にきっと理解できないままだった。
私たち三人を乗せたまま、昇降機は上昇を続ける。舞い落ちてくる紅の花びらは雨のようにその数を増し、コロセウムの上の晴れ渡った空からは、まぶしい光がかっと射し込んでくる。その白く輝く光に包まれて、もう、彼の顔も皇帝の顔も私には見えない。ただ一つの、もう目をそらしようのない恐ろしいことばを告げる厳然たる事実と向かい合って私は立っていた。
…常に幸運だったのは、実は私であったのだ、と。
──(19)──
その事実が実は私を絶望させた。もはや、救いようのない貴重なものを目の前にして、それをふみにじり続け、苦しめ続けてきた自分の卑小さ、醜さが、ほとほと私をうちのめし、そのような自分自身に対する激しい嫌悪が、逆に私を残酷にさせた。奇妙に静まり返った観客たちの異様なまでの沈黙の中、一人にこやかに手を上げて、聞こえもしない幻の歓声に陛下が応えている間に、彼の剣を私は手渡さず、殊更に意地悪く地上に投げた。動揺も失望もした風はなく、傷をかばってぎごちなく身体をかがめて彼はその剣を拾った。
刃が打ち合わされた時、初めて潮騒のような歓声がコロセウムをゆらがせた。
彼の動きは美しかった。あの日、私と戦った時と同じように、傷を受けていることをまったく感じさせず、しかも、あの時のような荒々しい型破りの動きではなく、最大限に力を節約していることが明らかにわかる、なめらかな水のような剣さばきで、彼は二度、皇帝を追いつめた。だが、とどめの一撃が二度とも間一髪で遅れたのが、彼の目も、手足の力も、もはやいつものようではなくなりつつあることを示していた。
心はまだ衝撃から立ち直らないまま、私の目は審判役としてなかば機械的に、そんな二人を追っていた。
…それだけが
彼の声がふと聞こえた。
…それだけが誤算だった。
皇帝と彼の身体がぶつかりあって離れた。位置が入れかわって向き合った時、彼は足を傷つけられて前よりもまた動きが鈍くなったのがわかった。ただ皇帝に注いだその目は、まだ落ち着いた輝きを保ち、身構えた姿勢も崩れてはいない。
…おまえがあっちにつくなんて
笑いをこらえた、おかしがっている声が、またどこかで響いた。
…夢にも思ってなかったもん。
もしかして、そうだったのか。
何もかもが入り乱れる頭の中で、ふとそれだけが他とは不釣り合いなほどの、ある確固たる思いが生まれた。
運命を変える鍵は。
歴史を変える鍵は。
常に私の手の中に握られていたのではなかったか。
私が皇帝についたから、彼は失脚した。
私が彼の脱走を報告しなかったから、彼は生きのびた。
とるにたらぬこの私の手に、すべてを左右する鍵は、いつも握られていた。
再び、押し殺したどよめきが客席に流れ、皇帝が何か叫んでいるのが聞こえた。私を見つめて、何か、哀願するように。
私は黙って見返した。皇帝の手に剣はなく、彼にたたき落とされたのがわかった。「剣を」と、もう一度皇帝は私に、ついで回りを取り囲んだ近衛兵たちに向かって叫んだ。
兵士たちは動かなかった。彼らのかぶとの下の目が、問いかけるように私に注がれたのがわかった。それでも皇帝があと数回要求すれば、誰かが剣を渡すだろう。
私がそれを禁じればどうなる?
私は、彼の方を見なかった。倒れる音は聞かなかったし、皇帝があれほど必死になっているところを見れば、彼はまだ立っていて、おそらく剣も持っている。しかし、ただ、それだけだろう。とどめをさす力があるかどうかは心もとない。
もし、皇帝が彼を殺せば、剣を渡さず、兵たちに渡すことを禁じた私はただちに死刑、それも最も残酷な死刑を宣告されるだろう。
私はそれを、ただ考えていただけだ。恐ろしいとは思わなかった。
運命と、歴史を動かす鍵は、常にわが手の内にある。
あらためてそう思った時、父上のことばが耳によみがえった。
…たとえ、どこからでも、引き返すことは人間には可能だ。
…だが、誤ったと気がついて、それでも歩き続けるなら、その先の道は同じ道でもそれまでの道とは、まったく違ったものになる。
近衛兵の数人が、剣に手をかけている方へ、私は一歩踏み出した。
「剣をおさめよ!」私は命じた。
勢いよく音をたてて、いっせいに剣が鞘に戻る。私の声と、その音の強さに圧倒されたように、皇帝の目が大きく見開かれて、私をじっと見つめた。
──(20)──
その数分後、短剣をふるって彼に躍りかかった皇帝は、その短剣をつかんだ手を彼に押し戻されて、そのまま喉を刺されて死に、そのすぐ後で、元老院の信頼できる議員たちに全権をまかせるよう私に命令して、彼もまた倒れて息をひきとった。
──(21)──
皇女や元老院議員、彼の仲間の剣闘士たちと、彼のなきがらを安置して、人々の追悼するのにまかせた後、皇帝の死体のそれなりの処置も近衛兵に命じて、コロセウムの地下牢に下りてゆくと、とらえられていた彼の仲間たちが解放されて、がらんと人けがなくなった監房に、白い鳥のように一人の女がまだ鎖で壁につるされていた。
けげんに思って私は近寄った。
「なぜ、おまえだけ残っている?」
「私を、お忘れなのですか?」
落ち着いて涼しい、誇り高い声が返った。どことなく、彼を思わせるような。歩み寄って私はそれが、あの侍女だと気がついた。
「釈放されなかったのか?」
「信仰を明らかにしたキリスト教徒に釈放はあり得ません」私をまっすぐ見返して、女は笑った。「数日の内には獣のえさにされて、観客席の皆さまのお目汚しに」
「度胸がいいな」
「神が守って下さいますわ」
私は牢番を呼んで、女の鎖をはずしてやり、「どこへでも行くがいい」と言った。
「ローマの敵と言われているキリスト教徒である私を逃がすのは」女は静かに私を見上げた。「国と軍への裏切りです、近衛隊長さま」
「私の歩く道は明日からきっと」私は女を見つめ返した。「これまでのように、一筋ではない。何を一番先に守るかも、今、この瞬間にはわからぬ。明日になれば後悔するかもしれないが、今はおまえを助けよう。早く行け」
一歩下がって女は低い優しい声で言った。
「神が、あなたを守られますよう。そしてまた、お目にかかれますよう」
そして身をひるがえして、暗い廊下の向こうへと走って消えた。
息子よ。そして娘たちよ。
それが後に、おまえたちの母、私の妻、おまえたちが今これを読んでいるだろうローマの館の女主人となる人だった。
第五章 ひるがえる旗のように (終)
(第五章までのあらすじ)
私はかつて、一人の男を知っていた。
少年兵どうしとして、ゲルマニアの戦場で、私たち二人は会い、ともにローマ軍の兵士として戦ってきた。
彼は、平凡でごく普通の男。ただ抜群の運の良さで、常に私を一歩リードして、将軍の地位まで上りつめた。
皇帝の死と、新皇帝の即位という政情の急変の中、彼は反逆者として処刑されかけたが逃走し、まもなく奴隷剣闘士として、新皇帝と、近衛隊長となった私の前に現れる。
華々しい活躍をする彼の人気は、皇帝をいらだたせ、ついにコロセウムで二人は対決する。
しかし、直前に皇帝は、自分に負けるように、彼に致命傷に近い傷を負わせていた。
それでも変わらぬ態度で戦おうとする彼を見ていて、初めて私は、これまでずっと、彼がこのような不利な条件に耐えて、周囲や私自身のためにつくしていた、決して運などよくなかった男であることを初めて悟る。
彼は皇帝を倒したが、その直後に自らも倒れ、彼の遺言によって、帝国の権限は元老院にまかせられることとなった。
第六章 今、春の息吹の中を
──(1)──
私のこの長い話も、語ることはもはや残り少なくなった。
おまえたちも知るように、その後二十年近く、ローマ帝国は乱れに乱れる。
彼と新皇帝の死後、即位した皇女の幼い息子は結局元老院から正式な皇帝と認められぬまま亡命して、母子は今はひっそりと地中海の小島の一つで暮らしておられる。
それはまだ幸福な方であった。以後、次々に即位しては地位を追われた皇帝の中には、もっと悲惨な最期をとげた者も少なくない。
血で血を洗う内乱の中から、ようやくどうにか帝国の統一に成功した現皇帝の側近の地位に今、私はあるのだが、こうなるにいたったいきさつは、おまえたちの母上もご存じだし、人もよく語ることであるから今は省こう。
さて、彼の死後、人々は彼をたたえて巨大な碑や壮麗な廟を築こうとしたのだが、私はそれに反対した。私が彼に嫉妬してそうしていると陰口をたたく者も多いのを承知の上で、私は彼を偲ぶ建物も塔も何一つ作らず、コロセウムの片隅につつましい小さな碑だけを建て、彼のなきがらは私の家族の墓地に葬った。このことに関して私は父上に、彼との関わりと私の気持ちをすべて、お話した。父上は何もおっしゃらなかったが、その数年後、眠るように安らかにお亡くなりになる前日まで、しばしば彼の墓を訪れて下さっていた。父上の死後には兄上と妹たちが、それをひきついでくれている。
このように私がしたところでやはり彼の名は、伝説として口から口へと伝えられて残るだろう。いったんは消えたように見えても、ずっと後の時代に、何かのかたちで人々の記憶の底から幻のようによみがえることもあるだろう。だが、さしあたりはもうこれ以上、私は彼のことを人々に語らせたくなかった。
そっとしておいてやりたかった。
注目され、喝采されることをいつもいやがり、当惑し、最も彼を愛した人たちから寄せられる愛情さえも、いつもかすかに、つらがっていた彼。
対抗意識で目が曇り、彼の魅力にも偉大さにも気づかなかった私が逆に気楽で、他の誰もが近づけないそばまでも近づかせてくれた彼。
それを思うと、私は彼を、静かに休ませてやりたかった。無名のままで誰からも、忘れ去られるようにしてやりたかった。
私の、このような気持ちに気づいていたのは、私の家族を除けば、かつて彼と愛し合ったという噂もある皇女だけであったかもしれない。
ほとんど話す機会とてなかったが、息子の即位式の日も、亡命して都を去る日も、人々の向こうから私と目を見交わした時の皇女の目は、誇り高い自信にあふれて、何かを理解しあっているようなある輝きをたたえて、じっと私に向けられていた。
──(2)──
息子よ。そして娘たちよ。
最後にもう一度、まとめておきたい。
あの男から私がうけとった三つの啓示を。
それは、その後のわが生涯のよりどころともなった啓示であった。
あらためてそれを、おまえたちに伝えておきたい。
──(3)──
その一つ。いかなる戦いにおいても、不利な条件はあってあたりまえと覚悟せよ。
万全の態勢で条件で臨めるような決闘も試練も、この世にはかつて一つもなかったし、これからもないと知るがよい。
おまえに与えられた条件は常に不公平で理不尽であろう。
そのことを嘆くな。動揺してはならぬ。
意図されたものであれ偶然であれ、晴れの舞台には必ず何かが起こるもの。
おまえの剣は大切な時に折れよう。おまえの首飾りは肝心の時に見つかるまい。間に合わねばならぬ時に馬の脚はくじけ、しゃべらねばならぬ時におまえの喉は熱で腫れよう。涙を見せてはならぬ日に愛する者の死の報せをうけとり、支えが必要な瞬間こそに人はおまえを裏切る。
決して、運が悪いと思うな。
どの戦いもそうしたもの。勝つ者はそれを乗り越えて勝つ。
誰の目にも見えない傷から血を流しつづけ、予告されなかった襲撃に対応して、それで勝ち残ってこそ、人はその者を勝者と呼ぶ。
──(4)──
その二つ。おまえの居場所、与えられる位置、呼ばれる名、着せられる衣装に、決して自分を左右されるな。
どこにいようとも、何と呼ばれようとも、どんな姿になろうとも、おまえがすぐれた人間であり、それにふさわしい生き方を貫くなら、おまえのいる場所が宮殿となり、おまえの座る椅子が玉座となり、命を捧げて仕える者たちはおまえの回りに群がるだろう。おまえが着る衣装がたとえ奴隷や娼婦のものであろうとも、人々はそれに敬意を払い、鎖も烙印も十字架も恥の印から誉れあるものへと、人々の目の中でそのかたちを変える。
皇帝や皇女の名が忘れられても、おまえの名は真に偉大な人物として人々に後の世までも語り継がれる。肩書や、与えられた位置は、ただ、その人物がたまたまそうであったものとしてだけ、人の記憶に残るのだ。
──(5)──
その三つ。おまえがそのために戦ってきたもの、おまえが守ってきた生き方。それが、おまえ自身と、おまえの愛する者たちを裏切ったと思ったら、ためらわず即座に、それを捨てよ。おまえにとって大切なものを、それが傷つけ滅ぼそうとしていると感じたら、一瞬も迷わず、昨日までの味方と、仲間と、主君と戦え。
何のために戦ってきたか、その生き方を守ってきたか、本来の目的を決して忘れないようにせよ。戦ってきたから、守ってきたから貴重なのだと思ってはならぬ。
本来の目的が失われたら、それらのすべてを切り捨てよ。そして、おまえの何よりも大切なもののもとに向かって、ただひたすらに走れ、一散に走れ。
その行く先がどこかは、自らの心に問え。それがどこか、何であるかを決して忘れたり、見失ったりしないよう、常に心して生きるのだ。
──(6)──
そしてもし、おまえたちが、そのような偉大な人物ではなく、与えられた環境に支配され、人をひきつける力もなく、もろもろの束縛から逃走することもできない、卑小で弱く平凡な、過ちを繰り返し続ける、誰の記憶にも歴史の片鱗にさえもその名をとどめることもない普通の人間であったことが明らかになったとしても、絶望してはならぬ。
その時にこそ、自覚せよ。世界を動かし、歴史を動かす鍵は常に、そのような、卑小で、何の力もなく、誰の記憶にも残らない、あまたの弱く平凡な人間たちひとりひとりの手の中にこそ握られているということを。
どのように偉大な人物がいようと、恐ろしい悪人がいようと、歴史を動かすのは彼らではない。
彼らを信じ、支える者、彼らに脅え、たばかられて言うなりになる者、そのような一人一人が数知れず存在して、そして歴史は動くのだ。
おまえたちの父もまた、そのような、とるにたらない数知れぬ人間たちの一人であった。
息子よ。そして娘たちよ。
これは、「彼」の物語ではない。
これは、私の物語だ。
偉大な英雄の話ではなく、その偉大さに気づかぬまま、自分もその男も大して変わらぬと信じこんでいた、凡庸で愚かな一人の男の話である。
──(7)──
今朝、皇帝が私を呼んで、我々は戦況をつぶさに検討した。この地の敵はなお手ごわいが、春の終わりか、遅くとも夏には、戦いは一応の決着を見て、ローマへ凱旋できようと、二人の意見は一致した。
アフリカ人の血をひく、この皇帝の、がっしりとした身体つきと重々しい顔だち、それに似合わぬほどになめらかでしなやかな野獣のような身のこなしは、あまりにもしばしば私に「彼」を思い出させる。破顔一笑する時の子どもっぽくなる表情も、肩をゆすりあげるような歩き方も。夜、二人きりで暗いテントの中にいる時など、私はほのかな灯火をうけて、地図の上にかがみこんでいる陛下の横顔に、どきりと息をつめたことが何度かあった。
年の頃も私と同じ。ということは、彼ともさほどちがいはない。陛下の髪に私と同様、白いものが混じりはじめ、口元や目元にしわが刻まれていくのを見て、私は思うまいとしつつ、いつも思った。彼が生きていたら、このように老いたのかと。精悍さと野性味をみなぎらせたまま、円熟と老成をただよわせて。
だがもちろん、似てはいても陛下は決して彼ではない。そのこともまた、私はしばしば思い知らされる。戦況に関する判断の細心さ、政敵に対する処置の狡猾さなどといった大きなことよりはむしろ、ごく他愛もないささやかなことで、それを感じさせられる。
──(8)──
たとえば今朝のその話し合いの後で、陛下が、「これだけ長く戦線でともに生活しておると、もはや、わしはおまえのことは、おまえの家族以上にわかるぞ」と罪のない自慢をされた時、私は微笑して、ふと聞いてみた。
「そんなものでございますかな。それでは、お尋ねいたしますが、私の目の色をご存じですか?」
陛下はあわてたように私の方を振り返られたが、私が一礼したまま顔を伏せて書類を整理していると、間もなく豪快な笑い声が頭の上から降ってきて、「降参だ!」と叫ぶ声がとどろいた。「なるほどのう。確かにそういうところでは、長くいっしょに暮らしていても、かなわぬものよの。おまえの妻には…女には」
妻にも、どんな女にも、こんなことは尋ねたことはございません。私はそう言おうとしたことばを呑みこんで、ただ笑った。
──(9)──
陛下のテントを退出し、馬を走らせて草原に出ると、土と草の香りがかぐわしく広がる中に、ふと、人なつっこい、やわらかい声が生き生きと耳によみがえってきた。
…おまえの目の色だよ。な?ほら、そう言ったらわかるだろう?
深く息を吸い込んで、私は空を見上げる。
女の言うようなことを、と私はあの時、彼に言ったが。
だが、特にこの今の季節、丘や野を馬でかけていて、ふと、頭上に広がる灰色の空が、近まりつつある春を告げるように、わずかな青さをたたえはじめているのを見ると、私はいつも、ああ、これは、と思う。これは彼の目の色だった、と。そして今もなお自分が、その目にあたたかく包まれるように見下ろされている思いにとらわれる。
北方の荒野に、風はまだ冷たい。私を見守る彼の視線をどこかに感じつつ、今日もまた、その荒野に私は馬を走らせる。
「冬空」・完 (2001.3.25.)
「冬空」未収録場面
(これは、第四章の9あたりに、回想として入るはずが、いくら何でも雰囲気があんまりずっこけすぎると思って、入れずに省いた場面です。せっかく余韻にひたっておられる時に申し訳ありませんが、若い日の「彼」と「私」のひとこまを、もう一度なつかしんで、お別れになって下さいませ。)
…しかしまあ、考えて見れば、彼は苦しんでいる人のところにのこのこ出向いても、そうひどい目にはあっていなかったのかもしれない、ということはある。
今でも覚えているのだが、そのことで非常に腹のたった思い出がある。
たしか、彼の隊の兵士が一人、軍の馬の鐙をいくつか盗んで近くの村のある男に売り、しかもその仲介をしていた娘と寝ている現場を父親に見つかったとかいう、実にどうしようもない事件があって、何とか盗まれたものは取り返してかたはつけたものの、彼はその後、迷惑をかけた上官や村人への謝罪に、訓練も休みの雨のしょぼつく日というのに、朝から一日走り回っていた。昼食にも夕食にも帰って来ないので、さすがに私も気になって、ワインとパンを少しとっておいてやって、テントで待っていた。
村人たちは軍に対する日ごろの鬱憤をここぞとばかりにぶちまけるだろうし、我々若手が何か失敗しないかとふだんからいじめる機会をうかがっている口やかましくて気むずかしい上官たちのところに行けば、たっぷり説教をくらうのは目に見えている。さぞ意気消沈してしおれて帰って来るだろうと思っていたら、果たして夜中近く、彼は疲れきってぐったりした顔で、テントの他の仲間の目をさまさないように足音をしのばせて、そっと戻って来た。髪には細かい水滴が光り、鎧もチュニックもぬれて黒ずんでいる。テーブルの前の私と、おかれたワインとパンを見ると、息を呑むような表情になって彼はその場に立ちどまり、力のない声で「まだ起きてたのか?」と言った。
「ああ」私は椅子を引いた。「大変だったな。食事もしてないんだろう?」
彼は私を見返して、生気のない顔で小さくうなずいた。
「食えよ。とっておいてやったんだから」
背中を押して座らせると、彼は私が放ってやった布で髪と顔をふきながら、恐いものでも見るように黙ってじっとワインとパンを見つめていた。
「早く食えよ」
私が言うと、彼はかすかなため息をついてうなずき、パンをとってかじり、ワインをすすった。その手は心なしか震えていて、顔色もひどく青い。
「ゆっくり食えよ」私は注意した。
彼は私を見てうなずいた。笑っていたが、どことなく泣きそうな顔にも見えた。
雨の音が続いている。誰かのいびきの音と、寝返りをうちながらぶつぶつ言う声が、それにまじった。
彼は私に言われたとおり、用心深く少しづつ食べていたが、とうとう目をつぶって手をとめ、食べるのをやめた。
「どうした?」私は心配になって聞いた。
「何でもない」彼はつぶやくように言った。「ちょっと休んでから…ちょっと待ってくれ」
その時になってようやく、私は何かがおかしいと気づいた。テーブルの上の灯皿をとって、彼の方に押しやると、彼はまぶしそうに顔をそむけた。
「おまえ…」私は彼を見つめた。「酔ってるのか?」
「何で?」彼はとぼけた。「まさか」
いつものことだが、こんな時に白っぱくれるのはかわいそうなほど下手な男である。私が立って近づこうとすると、彼はどうせばれるとわかったのか、身体を縮めてつぶやいた。「少し…歩兵隊長のところで、さっき」
「あのやかまし屋のじいさんが?おまえに酒を出したのか?」
「奥さんの手づくりのワインを、薬がわりに寝酒にたしなむことにしてるから、どうせ遅いし、今、飲む時間だからつきあえと言って…」
「おまえは、謝りに行ったんだろう?」
「そうだけど、その前に行った騎兵隊長のところでひきとめられて、こんなに遅くなってすみませんと最初に言ったのが悪かった」
「何で?」
「あの二人、仲が悪いんだ。それで、あの騎兵隊長はしつこいから、さぞ嫌味を言われたんだろう、気にするなと慰めてくれて、ずっと騎兵隊長の悪口を言いながら、ワインをどんどんつぐもんで…」彼はまた吐息をついた。「そんなに悪い人じゃないのに、騎兵隊長は」
「しかし、長いこと説教されたんじゃないのか、その騎兵隊長に?」
「うん、長いのは長かったよな…夕食の間ずっとだったから」
「夕食?」
「従僕が食事を運んできたから、しめた、これで逃げ出せると思ったんだが」彼はうめいた。「そうしたら、おまえも食べて行けと言って、あぶった鱒だの、雉子肉のパイだの、ペルシャの酒だの、ぶどうだの…ぶどう嫌いなんだけど、断れなかった…」
「で、説教されたのか?」
彼は首を振った。「一日、皆にたっぷり怒られてきたんだろうから、もうここではくつろいで行けと言って、自分の若い時の苦労話をいろいろしてくれた。話は面白かったけど、何しろもう腹いっぱいで吐きそうで…その前に副司令官のところで、蜜菓子の大きいのを三つも無理矢理食べさせられて…あの人、酒は嫌いだけど、甘いものには目がないらしい」
「あの苦虫をかみつぶしたような顔でか?信じられんな」
「顔は、あのまんまなんだよ。ものも、ほとんど言わないんだ。それで、こっちがお詫びしてると、黙って聞いていてから、どしんと菓子をおれの目の前において、食わんか、うまいぞ、って。恐いから食うだろ、ふつう?」
「まあなあ」
「それで食って、また必死で説明して、以後は注意いたしますと言ったら、またどしんと…」
「その、どしんというのは何だ?」
「だから、それほど大きくて、みっちり重い菓子なんだ。木の実がいっぱいつまってて、ふだんなら、そりゃうまかったと思うけどな、焼肉とトウモロコシを山ほど食ってきた後じゃ…」
「おまえ今、何て言った?」
「焼肉だよ。村で…でも、蜜菓子の話がまだ終わってない」
私は椅子の背にもたれかかって腕を組んだ。
「やっとの思いで二個目を食べて、あと、こちらが気づいてないことで何かしておくことがありますでしょうかとおうかがいしたら」彼は思い出してもぞっとするというように目をつぶった。「三個目の菓子をどんとおいて、副司令官が言うには、都から特別に送らせている菓子だ、うまいか、と聞くんだ。大変おいしいですとお答えしたら、では食え、おまえもいろいろ大変だな、ってそれだけ」
「で、食ったのか?」
「死ぬかと思った」彼はあえいだ。「でも、副司令官はじっと見てるし。のどがつまってとうとう、ぶしつけとは思いますが、水を一杯いただけますでしょうかと言ったら、にこりともせずに、これは気がつかずに失礼したと言ってミルクを持ってきてくれた」
私はあきれて口を開けた。
「副司令官におまえ、給仕をさせたのか?」
「知らないよ。恐くて恐くて、初めて戦場で蛮族と刀を交えた時より、よっぽど恐かった」
「その前に村に行ったんだな?」
つい詰問口調になっていた。
「昼食はそこか?」
彼はうなずき、テーブルの上の食べかけのパンをそっと引き寄せた。
「食わなくていい」私は冷ややかに言った。「無理するな」
「ちょっと食べたい気もするんだ」
「死ぬ気で嘘をつかなくていい」私は言った。「それで?村で?」
彼はほっとしたようにパンから手をはなした。「どうしてあんなことになったのか」途方にくれたように彼はちょっと宙を見つめて考え込んだ。「最初は向こうもむっつりしてたし、重苦しい雰囲気で話が進んでいたんだが、いつからか、どうしてそうなったのか、村の長も、娘の父親も、変にきげんがよくなったんだ。それで…ちょうど牛を一頭ほふったところだから、ぜひいっしょに食事をして行けと言うんだ。断ったら気を悪くしそうだったから、つきあった。そうしたら、血のしたたるような肉をどんどん焼いて持ってきて、その内何だかわけのわからん地酒は出て来るし。それは、断ろうとしたんだよ。そうしたら、おれたちの酒が飲めないのか隊長さんよとからむだろ?ここできげんをそこねられたら、何もかもおしまいだと思って、さあ、あそこで何杯飲んだのかなあ…」
「まあ、でもその時は腹は減ってたんだろうからな」
「それがそうでもない」彼は首を振った。「おれが朝、馬で出かける時、ことを起こした兵士と友だちが、おわびのしるしに、これで腹ごしらえをして行って下さいと言って、大きなまんじゅうを五個ばかり持って来たからな。これがまたうまかったんだよ。馬の上でつい皆食っちまって、食い終わったところで村に着いたんだ」彼は目を閉じ、椅子にもたれた。「すまん、ほんとに…せっかくとっといてくれたのに。明日の朝、食うよ。そのままにしといてくれ」
「明日の朝?おまえが明日の朝、何か食えるとは到底おれには思えんな」私は冷やかした。「いったいどれだけ飲んだんだ?今日一日で?」
「さあ…わからん。特にあの地酒だ。火のようだった」彼はうめいた。「このテントにたどりつくのがやっとだった。テントの灯が皆、ぐらぐらゆれてて、どこ歩いてるのかもよくわからなかった」
「だいたい、おれにつきあって、もの食おうとする前に、鎧ぐらい脱げよ」私は言った。「そんなに気分が悪いなら」
「脱ぎたいけど、そんなことしようとして身体よじったら吐きそうなんだ」
私は彼が鎧をはずすのを手伝い、寝台に放り込んでやった。彼が相当以上に酒が強いのは知っている。とにかくこれだけしゃべれるのだから、吐くほどのことはないはずと思った。苦しそうではあったが、彼はいつもそうであるように、枕に頭をつけるがいなや、あっという間に眠ってしまい、もちろん私もさっさと寝た。
(念のために、解説を。この時点では、「私」は「彼」をのんきで運のいいやつとだけ思っています。また、「彼」も自分がとった処置や対策がどんなに良心的で行き届いていたか、そのためにどんなに自分が苦労したかを、充分に自覚していません。それは皆「彼」には、とてもあたりまえのことだったから。だから、「私」も気づいていません。
しかし、百戦錬磨の上官たちは、「彼」の説明を聞くだけで、即座にそれを見抜くのです。その判断の的確さも、そのためにした苦労も。だから、かわいいと思い、いたわりたくなるのですが、ふだん、部下をいじめてばかりいる彼らは、ほめ言葉や笑顔が下手です。だから、不器用に乱暴に、自分たちの大切なものを与え、自分たちの弱みをさらけ出してせいいっぱいに「彼」をねぎらおうとするのです。
村人たちの機嫌がよくなるのも、「彼」の対策や態度が誠実で、納得のいくものだったからです。だから、信頼し、迎え入れたのです。
でも、自分自身がそういう苦労をしない人間には、「彼」はただ変に運がいいだけに見える。そして、もっと困ったことには「彼」自身にも、そういう皆の親切の意味が、よくわかっていない。むしろ、ちょっと苦になっていたりもするのです。困ったやっちゃなあ。
「冬空」は、これで、いよいよ、ほんとにおしまいです。長いことおつきあいいただいて、本当にありがとうございました。この小説を通して、「私」とともに、たくさんの皆さんたちと「彼」の生涯を振り返り、暖かく優しい鎮魂と追憶にひたれたことを、何よりも幸せに思っています。もう一度、深くお礼を申し上げます。)