おれにまかせろ第一章 二人の密航者
第一章 二人の密航者
幼い頃は、何かつらいことやいやなことがあると、とにかく目を閉じて死んだように眠った。
何も考えず、何も感じず。
目がさめて、心の痛みや頭の中のもやもやがまだ消えてない、と思ったらひとりでにまた目を閉じて闇の中にひきずりこまれた。
そう、まるで誰かの白い腕が首に後ろからからまって、どこまでもどこまでもひきおとされて行くようだった。
何度も、それをくりかえす。目ざめては、また眠る。
そして、ある時目をさましたら、胸の痛みも頭の乱れもすっきりと消えていて、ああ、また生きていける、と起き上がる。
よみがえったように。生まれ変わったように。
彼のそんな癖に気づいていたのは母だけで、何度起こしても身体をまるめてひたすらに眠りつづける彼を最初心配したが、やがて笑ってキスをして、「死んだふりをする昆虫のようね」と耳もとでささやくようになった。「それか、冬眠中の獣のよう。いいですとも。春が来るまで、そうしておいで」
その母ももう死んだ。まだ彼が少年の時だった。
泣くかわりに眠った。ひたすらに、ただ眠った。
でも、どんなに眠って目をさましても母はいなかった。
さすがに大人になってからは、そういう癖は消えた。彼自身、自分にそんな癖があったことは忘れていた。
つい、さっきまでは。
いや、さっきなのかどうなのか。
例によってどれだけ寝たのかわからないから、過ぎた時間の見当がつかない。
ひとときか、一日か。
こんな事実を認めるのはいやだと全身で思ったとたん、強烈な睡魔が彼を襲った。
ほとんど気絶したように寝床に倒れこみながら、ああ、そうだそうだ、昔はいつもこうだったとどこか心の遠くで思った。
ときどき、ちらちら目をさますのも、それも昔と同じだった。
寝る前の現実を思い出しては、ああもういやだ考えたくない!!と再び仮死状態になってしまうのも、それも昔のままだった。
誰が考えたいものか。思い出したりしたいものか。
数年にわたる敵国との長い長い、和平交渉。神経をすりへらし、気をつかいあったかけひきとやりとり。捧げた貢物、うけとった贈り物。間に入ってもらった多くの人々。そしてとうとう、ついに、やっと、王子たる自分とあの…あの…あの…ああもう何といったらいいのか言葉も思いつけないたった一人の弟と二人で、家来たちとともに、敵国に訪れ、王と話し合い、信頼関係を結び、和議をとりまとめたその帰りの船の上。
大抵そのへんで、彼はまた眠りの中に吸い込まれた。
そしてまた目がさめると、また思い出したくない事実がよみがえるのだった。
ああ、夢ならいい。
船の上。さわやかな潮風。エーゲ海は紺碧に輝いて水平線まで雲ひとつなく、部下たちの漕ぐ櫓のきしむ音が眠りをさそう。何もかもまったく順調。土産を求める暇もなかったし、王がよこした宝物の数々は国庫のものだから手をつけることなど思いもよらなかった彼は、出発前に妻が産んだばかりの小さい息子にやろうと思って、へさきで風に吹かれながら、木彫りの獅子のおもちゃを削っていた。たてがみのところがうまくできないなあと思って工夫していたら、弟がやってきた。背が高いが、彼よりは少し小柄で、そのためいつもちょっと甘えて彼を見上げるしぐさをする。清々しい清らかな美貌で、人妻から生娘まで、この弟に笑いかけられるとひとたまりもなかった。
…と思ったとたん、また彼は眠った。眠らずにはいられない。
なのに目がさめると、そこにはやはり現実がある。
弟は天気の話などしたあとで、生まじめなあらたまった口調で「兄上、僕を愛している?」と聞いた。「敵から守ってくれる?」
愛していたし、守ってきた。それは弟もよくわかっている、二人の間では暗黙の諒解や公然の秘密といったものでさえなく、二人のわずかな年の差や、背の高さの差、同じ髪の色、うずまき方、どこか似た目鼻立ち、などなどなどと同じくらい当り前の習慣、むしろ属性だった。で、あらたまって念を押すのはよくよく特別な時だけで、前に弟がそう言ったのは、十歳の時に父の秘蔵の馬を盗み出してさんざん走らせ、へたばらせてしまって動かなくなったのを海岸のどこかに放って、泣きべそをかきながら走って帰ってきて、夜中に兄をゆすり起こした時だった。「動かないんだよ」と、何が何だかわからずに寝台の上に起き上がってまだ半分寝ぼけたまま目をこすっている彼に向かって弟は、泣きじゃくりながらくりかえした。「白い泡ふいて動かないの。ぴくりっともしないんだ。ねえ、どうしたらいい?動かないんだよ」
…こっちが動きたくない。
そして彼は、また眠った。
夢かうつつかわからないように、映像や音がよみがえってくるのは、目がさめかけている証拠だった。いくら必死で抵抗しても。
動かないんだよ、と泣いていた弟は、そのまま大人の、今の、美しい青年の顔になり、同じように思いつめた顔で、「見てほしいものがあるんだ」と言った。彼が黙っていると、また子どもの顔になってくしゃくしゃの泣き顔になり「動かないんだよ」と訴えた。「見せたいものがあるんだ。船底に来てよ。僕を守ってくれるでしょう?」
彫りかけの獅子を帆柱のそばのかごの上に、小刀といっしょにおいて、船底への暗い狭い階段を降りた。先に立って下りて行く弟は、昔のあの小さい子どもの姿をしている。夜の宮殿の階段を手をとりあって息をひそめて降りたように、奈落の底へ通じるような梯子を降りて行きながら、かすかにたちこめた香料の香りが、彼にもしや、と目の前がまっくらになるようなある予感を与えた。
弟に関する限り、この手の予感はまずははずれたことがない。
暗い船底に人がいた。黒い外套にすっぽりと身をつつんで、彼が近づくと、それを頭からはずして顔を見せた。和議を結んだ敵国の…今は同盟国の若く美しい王妃。宴席で見たような化粧はしておらず、金色のまぶしい髪も肩に乱れかからせたまま、いちずな必死なまなざしで王妃は彼を見つめ返した。弟はそのかたわらに立ち、目をわずかに伏せていた。
ああ、もう。
眠るしかない。
いっそ、永遠に目がさめなければどんなにいいか。
トロイの若い王子へクトルは、そうやって眠っていた。
自分で思っている以上に、彼は半ば目が覚めていた。
だから、上の甲板で、さっき自分が命じたとおりに、故国へ、トロイへ向かうべく部下たちが帆を張り櫓をこいでいる物音や声を聞くともなしに聞いていたし、さっき甲板の上で、おまえは正気かとさんざんどなりつけた弟パリスが、自分を恐れるように傷ついたように、船底の隅でひっそり王妃ヘレンと身体をよせて何かなぐさめあうようにささやきかわしているのも知っていた。
その何もかもが、ますます彼を憂鬱にし、意識的な意識不明状態にしていた。
船はこのまま進むだろう。数日後にはトロイに着く。父の老王、愛する妻子、トロイの都の人々が今か今かと和議締結の知らせを待っている、美しい都へ。
ああ、パリス。よりによって何でもうヘレンなんぞと。
どこかで犬が鳴いている。
ヘクトルは犬が好きだった。だからと言ってこんな時、海の上で船の中で鳴き声を聞くのはおかしい。普通ではない。普通ではないことはふだんからヘクトルは嫌いだったが、特に今はいやだった。だいたい、何で犬なんかがここにいるんだ?
ヘレンの夫、和議を結んだ相手国の王メネラオスは自慢の猟犬をたくさん持っていた。パリスにも見せてくれて、子犬がいるならやると言ってくれたそうだった。ああもう、どうしてそんな好意をパリスは仇で返せるのだろう。信じられない。
信じられないついでにまさか、王妃と恋に落ち、さらって来ても、それとこれとはまた別だとかいう理屈だか心情だかで(もうあんな弟の感覚なんかわからないとヘクトルは思っていた)、犬は犬で船に積み込んだのだろうか。ああ、犬だけにしておいてくれたら、どんなによかったかしれないのに。
と思っていたら、はっはっと熱い息を顔に吹きかけられ、生ぬるい舌でぺろりと手の甲をなめられた。
ほんとに犬だ。それも大人の。
この船は実際もうどうなってるんだとヘクトルは思い、そのはずみにまたもや睡魔が襲ってきた。
「やや、これはどうもすみません。おやすみのところを、お邪魔をしまして」
恐縮したような低い声が、もぞもぞと足もとでした。
誰かが犬を抱き上げて、向こうへ連れて行こうとしている。ぼろをまとった乞食のようだ。
彼と犬の気配が消えてから、ぎょっとしてヘクトルは起き上がった。完全に目が覚めた。
今のは何だ?あれは誰だ?
あたりを見回したが、もうそれらしい人影はない。士官の一人がちょうど階段を降りてきたので、「テクトン!」とヘクトルは呼びかけた。「犬を連れた乞食を見たか?」
坊主頭の精悍な顔をしたテクトンは、ちょっと困った表情で階段の途中で足をとめた。「はあ…あれですか」彼は乞食がそっちに上って行ったらしい甲板の方を見上げた。「ゆうべ荷物の積み込みを手伝わせたあと、悪い仲間に追われているので、船が次に着く港まで乗せてくれと頼むものですから、つい…申し訳ありませんでした」
「いや」ヘクトルは首をふった。「いいんだ」
そういうことは時々あった。別にいちいちヘクトルの許しを得るようなことでもない。それでもテクトンが何となく後ろめたそうな顔をしているのは、乞食を乗せたことではなく、ヘレンが船に乗るのに気づかなかったことに責任を感じているのにちがいなかった。
だがヘクトルはテクトンに限らず誰も、このことでは責められないと思っている。責められるなら、それは自分だ。
ゆうべは漁師の娘や土地の女たちと別れを惜しむ兵士たちが、浜辺や船底で最後の夜を過ごしていた。それを見逃してやっていたのも、和平交渉が成功した後の自分の気のゆるみだったとは思えない。弟がそれにまぎれて王妃を連れ込んだのに誰も気づかなかったのも、あまりに想像もつかないことだったのを思えば、逆にやむをえないことだったろう。
ただ、せめて自分が出発前に船内をくまなく点検していたら、王と別れたあと、弟を手もとにひきつけて目を離さないようにしていたら…今さら悔いても詮ないことをぐるぐる思いめぐらせはじめると、髪をかきむしって叫び出したくなり、テクトンにわかったとうなずいて、ヘクトルはそれきり乞食のこともゆうべのことも、さしあたりまた、すべて頭から閉め出した。
***
「それでいいのですかな?」
低い声がかたわらでした。
ふり向くと、例の乞食だった。
乞食と言っても、どことなく、人品いやしからぬ顔をしていた。ぼろからあちこちのぞく手足や肌もひきしまって健康そうに日焼けしており、ぼろといってもやたらに破れているだけで、さっぱりとして、彼のそばにぴたとよりそって利発そうな黒い目でこちらを見上げている大きな猟犬ともども、悪臭などはしていない。
とっさの一瞥でそれだけ見てとったヘクトルは返事をせずに、また手もとの木彫りの獅子をほり続けるのに熱中した。
風が彼の、金の小さな髪飾りをあちこちにつけた豊かな黒い髪を吹き乱す。彼はまた甲板にいた。雲ひとつない空の下、波ひとつない海の上を順調に船はトロイに向かって走っている。
ヘクトルの心は鉛のようだ。
何か考えたり言おうとしたら、今まで一度も人前ではしたことのないこと…わめきちらすか、何かをこわすか、神々を呪うか、声をあげて泣き出すか、いっそその全部をいっぺんにしそうな気がする。
だからとりあえず、彼は獅子を彫る作業に没頭していた。部下たちに動揺を見せてはならない。
どうせ、さっき船底で王妃を見た後、眠り込む直前に、この甲板で、弟をののしってつきとばして、おまえは戦いも死も愛も何もわかってないとどなったのは、テクトンはじめ皆に見られているのだが。えりすぐってスパルタへの使節団に加えた精鋭だけあって、表向き部下たちはまったく不安な様子も見せず、落ち着いていた。落ち着きすぎていた…静かすぎた。ひと月ぶりに故郷に帰るのだから、ざわめきや冗談、叫ぶ声や笑う声があってもおかしくないはずなのに、皆、微笑を浮かべててきぱきと仕事をこなし、閲兵式でもしているように整然とひたすらに行儀よく、おとなしい。
ヘクトルの胸が苦しくなる。皆、不安なのだ。それを押しかくして、私を信じてくれているのだ。
なのに自分は…どうしたらいいのかわからない。
目を上げてヘクトルは、まぶしく輝く海を見た。
乞食はまだそばにいる。ヘクトルの返事を待っているように。
どんな宴席でも街中でも、乞食だろうと子どもだろうと、声をかけられて黙殺したことのないヘクトルだったが、今はむしろかたくなに、仕事に熱中しているふりをしていた。
誰とも口をききたくなかった。今はまだ。もうしばらくは。できることなら永遠に。
テクトンと話をした後、さすがにもう眠る気にはなれず甲板に上がってきたのだが、することがなかった。
皆、それとなくヘクトルの顔を見ないようにして、せっせと働いているし、弟たちは船底にいる。
船だけは順調に走っている。いっぱいに広がった帆が風をうけて、ぱりぱり鳴っている。
さっき自分が荷物の上に置きはなしにした、彫りかけの木の獅子と小刀が、そのままにまだそこにあった。救われたようにヘクトルはそれをとり、さっきと同じへさきに行って、再び獅子を彫りはじめた。
弟が近づいてくる前、ここでこうして何も知らずにいた、あの時間に戻れたら、どんなにいいかと念じながら。
時が巻き戻せないかと祈りながら。
たてがみと耳の関係はどういう位置になっていたっけかとか、そういうことにだけ意識を集中しながら。
ふっと口をすぼめて息を吹いて、彼は木彫りの削りくずを吹き飛ばした。
「これでいいんだ」と声に出して言った。
「本当に」乞食はまた、おだやかに言った。「それでようございますかな」
ヘクトルは乞食を見、手の中の獅子を見た。「そんなに変かな?」
「獅子はよく彫れております」乞食はうやうやしくほめた。「今にもたてがみをゆすって、咆哮しそうだ。申しているのは、この船のことで」
「この船?」
「トロイに向かっておられますが、それでかまわないのですか?」
声の聞こえる近くに部下たちはいない。ヘクトルは再び獅子を削りながら、「他にどうしようがある?」と笑った。「起こってしまったことだ」
「考えてごらんになっているのですか?」乞食は言った。「これから起こるだろうことを」
「スパルタ王メネラオスは激怒する」ヘクトルは苦痛の極限に至って痛みを感じなくなった人間のようなうつろに明るい声を出した。「和平交渉は失敗、トロイとスパルタは再び戦闘状態に入る」
「それだけですむとお思いで?」乞食はおだやかに言って、犬の頭をなでた。「アガメムノンが来ますぞ」
ヘクトルはしばらく黙っていた。それからやはり無言のまま、用心深く小刀と獅子のおもちゃをかたわらの船荷の上におくと、立ち上がって舷側の船べりに行き、手すりに手をかけて身をのりだすと激しく吐いた。
どうせ朝からほとんど何も食べてなかったから、ゆうべの宴会の料理の香料の匂いが残る苦い胃液が出ただけだった。それでも吐き気はおさまらず、何度も何度も肩と背をのたうたせてから、やっとのことで顔を上げると、布と水のわんを手にしたテクトンがいて、その後ろにも数人の士官と兵士がうろうろしていた。あっという間に彼らがそこに飛んできたこと、誰も見てないように見えて、実はさっきから甲板にいた全員が自分に注目し、目を離さずにいたことを、いやというほど思い知らされて、うけとった布で口もとをぬぐいながらヘクトルは力なく苦笑した。「心配するな」と彼は言った。「少し船に酔っただけだ」
皆、熱心にうなずいた。船が少しもゆれておらず、来る時のしけで、皆がげえげえ吐いていた時もけろりとして平気なヘクトルだったことは、完全に断固として無視することに決めた顔だった。「薬をお持ちしましょうか」と一人が言い、「少しおやすみになられては」とテクトンが言った。
心配するな、とくり返し、手をふって皆を持ち場に戻らせて、元いた場所に戻ったが、もう彫刻などする気にはなれず、座ったひざの間で固く両手をにぎりしめてヘクトルは歯をくいしばった。
アガメムノン!!
「彼はメネラオスの兄、ミュケナイの王」乞食が歌うような快い声で続けるのを、ヘクトルは痺れたように聞いていた。「ギリシャ全土の諸国を事実上属国にして支配下におき、さらに周辺の地域まで領土にしようと虎視眈々とねらってきた。弟のメネラオスとは常に協力し、共同して戦ってきた。が、メネラオスは海を隔てた宿敵トロイ…あなたの国との戦いに、近年敗北つづきで嫌気がさし、兄と離れて別に、独自で、和平を結んだ。しかし、ことがこうなると…」
「言うな」ヘクトルはうめいた。「わかっているから」
「わかっていても、聞かなければいけない」乞食はやさしい声で続けた。「和平の宴に招いた敵国の王子の一人が妻を奪って逃げたと知れれば、彼の誇りは傷つけられる。どうでもトロイに復讐をしたい。だが、一人では戦っても勝てない。負ければまた、恥の上塗り。彼が兄に訴えて助けを求めようと考えつくまで一昼夜、いや半日もかかりますまい」
耳をふさいでしまいたかった。わけもなくヘクトルはあたりを見回し、帆柱に、帆に、太陽に目を走らせた。
「アガメムノンにとってもそれはまた、待っていた、願ってもないこと」乞食はあいかわらずのんびりと続けた。「ずっとあなたの国をねらっていた。手を出す口実をさがしていた。弟の名誉を回復するためという大義名分に、大喜びで彼は飛びつく。肉つきの骨を目にした、飢えた犬よりもっとすばやく。あなたの国が手ごわいということはわかっているし、この戦いには負けられない。おそらく、ギリシャ全土の属国から彼は兵を募る。王たちは今誰も、彼に逆らう力はない。テッサリア、アルカディア、メッサリア、サラミス、ピティア、その他あらゆる国々から王たちが軍を率いて集まるだろう。それがトロイに押し寄せる…勝てるのか?たとえ堅固な城壁があり、アポロン神の加護があっても?」
太陽が照りつけている。なのに、背すじが寒くなった。
「あなたがこのまま、なすこともなく、トロイに帰れば、まずまちがいなく、そうなるぞ」乞食は言った。「戦いがどれだけ長く続くかはわからない。だが、トロイが勝てる望みは少ない。あなたも知っているだろう。征服される町の悲惨さ。男は殺され、女は犯され、幼い子どもや赤ん坊は塔や窓から投げ落とされる。町は燃える。燃え上がる…灰になるまで。そんな風景を何度もあなたは見てきたろう」
「やめてくれ」ヘクトルはうめいた。「そうはならない。そうはさせない。そんなことには絶対にならないようにしてみせる」
「ならば今、何かをしろ」乞食は言った。「こんなところに座りこんで現実逃避などしてないで。一瞬一瞬が貴重だぞ。今の一刻は、十日後の一日、一年後のひと月、十年後の一年にも相当する。今、何をするかで、未来は決まる。それを見のがすのか。流れ去るのにまかせるのか?」
ヘクトルは乞食を見つめた。「あなたは誰です?」
***
乞食はにやっと笑ってみせた。「そんなことを気にしている場合ではないでしょう」
たしかにそうだ。それはそうだが。
ヘクトルはあらためて乞食を見た。最初思っていたほど年よりではない。まだかなり若い…四十にもなってないかもしれない。そんな年の男の形容としてはふさわしくないが、妙に人をうちとけさせずにはおかない人なつこい愛嬌が目元にある。その一方で奇妙に老成したしたたかさも。顔だちはととのっていて、どこかの国の王や貴族といっても通るかもしれない。
だがそれにしてはまた、あまりにも乞食の衣装がしっくりと似合いすぎる。仮にも王だの貴族だのという人間が、ここまで気さくに肩の力を抜いたしぐさや表情はできないことを、自身も王族の一人であるヘクトルはよく知っていた。
だったら、この男は何者だろう?伝わってくる印象のあまりのちぐはぐさにヘクトルは混乱し、ひょっとして神だろうか、と思った。
トロイは信心深い国だ。子どもも大人も神にあったの見かけたの、お告げがあったのと、わりと平気で口にする。壮麗な神殿では日夜神官がいけにえの獣のはらわたを割いては、神の言葉を読みとるのに余念がない。ヘクトルの父、老いたプリアモス王もトロイの普通の父親と同じく、幼いヘクトルやパリスによく、神々が人に…友人や侍女や羊飼いに姿を変えて身近に現れ、助けてくれた古い物語を話して聞かせた。
そんな話を面白がって夢中で聞いていたわりにはパリスは平気で神殿の儀式をすっぽかし、捧げるはずの供物を忘れ、あまつさえ巫女と寝るなど、罪の意識も大してないまま涜神としか言いようのないことをしていた。そういう彼を見ているせいか、ヘクトルもまた、トロイの人間にしてはそれほど神の声にこだわったり耳をかたむけたりはしない。だが、生来まじめな性格なので、神々を畏れる気持ちは常に心の底にあった。
特に、こんな時には。もしも自分の生涯で神々が助けにあらわれてきてくれるなら、今をおいてはきっとないと思えるような、こんな時には。
でも、この男、アポロンにしてはちょっとくだけすぎている気もしないではない。知恵の女神のアテネか、商いや牧畜をつかさどるヘルメスなら、もしかしたら、こういう姿になるのかも。二人とも、いたずら好きと聞いているし。
「力をお貸ししましょう、私が誰であれ」乞食は涼しい目で笑った。「ゆうべは私が助けていただいたから。この船に乗せてもらって」
それから、かすかにきびしい目をした。「だが、そのためにはまずあなたが、やる気になっていただかないと」
「私はトロイのしもべです」ヘクトルは答えた。「あの国と、そこに住む人々を守るためなら何だってする」
「けっこうです」乞食はうなずき、指先であごをなでながらしばらく海に目をやっていた。
何をしろと言われるのかとヘクトルがかたずを呑んでいると、乞食はのんきな世間話をしている口調で「メネラオスですが」と聞いた。「どんな男でした?」
「…は?」拍子抜けしてヘクトルは口ごもった。「スパルタ王の?」
「あなたの弟に妃をさらわれた」乞食はゆっくりうなずいた。「そう、そのメネラオスです」
「どんな男といって…」
「ひと月、そばで見たのでしょう?どんな男でした?」
ヘクトルは考えこんだ。「戦いが好きで、陽気で…乱暴な…」彼は口ごもった。「でも人がいい、大らかな…」
明るい陽光に満ちた甲板に、ふっとゆうべの宴会のまぶしい灯りが重なった。メネラオスはあたたかい親しみをこめた笑顔でこちらを見つめて杯をあげた。「妻は寝床に、狼は森に!」荒っぽい、やや品のないその祝詞を楽しげに彼は叫んだ。その前に彼は、何度もトロイと戦ったが、プリアモス王は尊敬している、とも語った。その後、乱れて無礼講になった宴席で、半裸の踊り子の女と抱き合っていた彼はヘクトルを認めると大きく手を広げて抱きついてきた。肩を抱き合い、和平を祝って二人でまた杯をあげた。あれからまだ一昼夜もたってはいないのか。
自分でも気づかずにヘクトルはうなだれてしまう。予感はあったのだ。乾杯の時、弟は立ち上がるのも忘れて向かいの席の王妃に見とれていた。濃いめの化粧に表情をかくしているように王妃は目を伏せ、弟の視線をさけているようだった。さりげなく弟の肩を肩でこづいて立たせながら、もしかしたら二人はもう愛しあっているのかもしれないという不穏な予想がヘクトルの胸にきざした。宴が乱れるとすぐに王妃はへやにひきとり、まもなくパリスの姿も消えた。最後に見かけた階段のあたりに何度もヘクトルは行ってみた。さがしに行こうか。何度もそう思っては結局やめた。最後の夜だ、と自分に言い聞かせた。何があっても最後の夜だ。今さらことを荒だてまい。
あの時何かをしていれば。そうしたら、もしかしたら。
「それで?」おだやかにうながす乞食の声がした。
我にかえってヘクトルは乞食を見た。
「メネラオスは陽気で乱暴、大らかで人がよい。その他には何かありませんか?」
ヘクトルは考えてみた。さっき獅子を彫っていた時と同じように、何かをこうして夢中に考えていられることは妙に救いのような気がした。「兵士たちには、あの性格は好かれるだろう」彼は思いつくままに言った。「俗っぽくて、わかりやすい。気どったところがないし…けっこう細やかな思いやりもある」
「名誉を重んじる男だと聞いている」
「自分でもそう言っていた」ヘクトルはうなずいた。
「そういう男は得てして自分の噂に一喜一憂し、周囲にこびたり、自分よりすぐれた者に嫉妬したり、まっとうなことを言われると傷ついて凶暴になったりする」乞食は言った。「そういうところはなかったか?」
「そういうところはなかったな」ヘクトルは首をふった。「豪胆で自分に満足し、自信を持っていた。多分、誰かに悪口を言われても、正当ならば聞き入れたし、まちがっていれば笑い飛ばしたろう。そういうふところの広さを感じた」
「兄との関係はどうだ?嫉妬していたのか?心酔していたか?」
「どちらにも見えなかった。兄の下積みになって働いてきたと言っていたが、そのことを特に不満に思っている様子はなかった。自分には兄の器はないと正直に認めていた。おのれをよく知っていて、うぬぼれも背伸びもしてはいなかった。兄のことは尊敬していて嫉妬などしてなかったし、だが、その兄と仲たがいもしないまま、我々との和平を独自に結んだ。まっとうで、冷静で、聡明で、頼りになるし、信頼できる…」
ヘクトルはとまどって口をとざした。乞食が腕組みをしたままじっと見つめているのに気づいてなぜか、ぎくりとし、あわてた。
「信頼できる?」乞食がゆっくり、くり返した。「そう思うのか?」
追いつめられた、わなにかかった、だまされた、しまった、と思いながら、だがそのどれもどこかちがう気がしてうろたえていると、乞食が静かに「船を戻せ」と言った。「スパルタに」
ヘクトルは首をふった。「できない」
「君は自分で、彼は信頼できる男だと言った」乞食は言った。「なら、恐れることはあるまい。船を戻せ」
「それとこれとは別だ」
「どう別だ?」
答えを考えていると目まいがした。乞食の声がまた聞こえた。
「最初に君は、そうしようとしたではないか。船底で王妃を見た後。船を戻せと命令した」
「たしかに」ヘクトルは認めた。
「なぜその後でまたすぐ気をかえて、再びトロイへ向かうことにした?彼女を返すなら自分も残ると弟君が言ったからか?」
「それだけじゃない」ヘクトルは言った。「戻って、メネラオスに会ったって、何を言っていいかわからなかった」
「つまり、逃げたと?」乞食は情け容赦なく言った。「そのあとは眠って、そのあとは獅子を彫った。まったく時間を有効に使ったものだな」
「やめないか」ヘクトルは怒った。
「アガメムノンのところに彼を行かせないためにはな」乞食はかまわず、言いつのった。「言うことが何もなかろうが何だろうが、君ら三人…君と弟と王妃とがメネラオスの前にあらわれることが絶対に必要なのだ。それが一番効果的だし、かつ、もうそれしか方法はない。そうすれば、彼の心に余裕が生まれる。君たちがとにかく目の届くところにいてどうでもできるのだから、あせらないで落ち着いてものごとを考えられるようになる」
「だろうさ」ヘクトルは吐き捨てた。「まったくだ。彼は私たちをどうでもできる。三人そろえて串刺しにすることだって、人質にして父を脅迫することだって」
「君はよくもそれで和平交渉などがつとまったな」乞食はさじを投げたような顔をした。「状況というものが読めないのか。メネラオスとて一国の王だぞ。自国の民や周辺の国の目もある。正々堂々戻った君らにそんなしうちをした日には、それこそ以後は他国から相手にされない。彼の手もとに今飛び込めば、君たちは逆に一番安全なのだ。彼を信じて来た者を裏切るのは、彼の誇りが許さない。そこに、つけこめ。それしかないのだ」
「危険すぎる賭けだ」ヘクトルは抵抗した。「絶対に大丈夫と保障できるのか」
「私はこれはそれほどに危険な賭けとは思わない」乞食はきっぱりと言った。「成功する可能性は非常に高いと思っているよ。しかし、絶対安全かと言われると、それは保障ができないな。…というか、そんな保障ができることがあるか?国と国とのこういったかけひきに?メネラオスが突然狂って君ら三人の目をくりぬくか皮をはぐか、そんなこともまったくないとは言えないだろうさ。しかし、そんなわずかな可能性や危険性を、君は恐れている時かね?この賭けには充分に勝ち目がある。そして、君がこの勝負に出なかったら、もう一つの結末は、ほぼ確実に訪れる…アガメムノンが介入する」
ヘクトルは抵抗した。「彼がアガメムノンのところへ行くとは限らない。行かないかもしれない…たかが女の話だぞ」
「たかが女の話だとも」乞食は鋭く言い返した。「だからあなたも、笑って返しに行けばいい。こんなことは何でもないことだという顔で、落ち着いて。誠心誠意わびるけれど、しかし相手が、いやー、たかがこのくらいのことで、そこまでしていただかなくてもと言わずにはおれなくなるような、そう言うのが当然なのだと思ってしまうような、そう言わなければこれはとても恥ずかしい状況なのだぞと骨身にしみてわかるような、そういう雰囲気のわび方をするのだ」
「何だそれは」ヘクトルは悲鳴をあげた。
「毅然と申し分なく、つけいるすきを与えないように心からわびるのだ。それでいて、どこかにほんのひとつまみ、これでつけ上がったらおまえはほんとに馬鹿だぞ、あとが恐いぞという気迫をにじませるのだ。メネラオスが愚かでなければ、そのくらい察する。君が今していることと言ったら、そのまったく反対じゃないか。逃げて、黙って、自分が申し訳ないと思っていることをどうかそっちで察して下さいと言わんばかりの、甘えたやり方、それでは相手になめられるばかりだ。あなたがそうやって逃げるから、話がだんだん大きくなる。あなたが顔向けできないという態度をとるほど、あちらはそうか、これは顔向けできないことか、それほどひどいことを自分はされたのかと判断して、どんどんどんどん被害者意識をつのらせる。賭けてもいいが、あの王が妃をどれだけ愛していたか知らないが、今ごろ彼の頭の中では、妃は自分にとって命にも代えがたいすばらしい女性になってしまっていよう。その美しさたるや、女神以上、この世で最高最大の美女だと思いこんでしまっていよう。これで実際に戦争でも起こってみろ、世界がそれを信じるぞ。戦争を起こすほどすばらしい女で、世紀の恋かと。それが歴史に伝わるぞ。愚かしいではないか。たかが世間知らずの夢見がちな若者と、箱入り娘の奥方の子どものような恋なのに。そんなことにしてしまったのは、ヘクトル、あなただぞ。あなたが卑屈に逃げまくるから、弟君の軽はずみがとんでもない大悪事に、世紀の恋になってしまう。船を返すのだ。そしてさっさとかたをつけよう」
ヘクトルは首をふった。「できない」
「あなたも相当強情だな」乞食はあきれたようだった。「メネラオスは信頼できる、そう言った自分を信用できないのですか?」
「彼は誠実だし、正直だと思う」ヘクトルは言った。「だが、どんな立派な男でも、怒りには我を忘れるし、欲には目がくらむものだ。今度のことで、弟が…我々が犯してしまった過ちに、弱味に、彼がつけこみたいという誘惑にかられ、それに負けたとしても、私は彼を責められない。我々の命をとるとか、傷つけるとかいうことは、おっしゃるとおり彼もまずしないでしょう。でも、もっと現実的ないろいろなことだったら…このことを盾にとられて、海上交易、領海確認、商取引、軍事協力、その他もろもろ、どんな要求を出され、どんな条約を結ばされるかわかったものではありません。対等のつきあいと言いつつ、実は従属的な関係に今後ずっとわが国はあえぐことにもなりかねない。たしかに彼はそんなことをしないかもしれない。でも、そんな善意や良心を信頼するのは甘えです。そんな権利は我々にはない。彼の決断に身をゆだねて、彼の手にこちらの運命をまるごと預けるわけには行かない。そんな危険はおかせません」
「戦争になり、トロイが焼き滅ぼされるよりは、それでもましかもしれませんぞ」
「負けるとは限らない」ヘクトルは海の方に目をそらしながらつぶやいた。
「またそんな」乞食は軽くたしなめる口調で言った。「目の前のむずかしい課題から逃げようとして、見定められない遠くなのをいいことに、あてもない可能性に希望をつなぐのはおよしなさい」
「先のことを言ったのはあなただ」ヘクトルは言い返した。「戦争で負けて滅びるよりはましだからと、屈辱的な関係をうけいれろなどとおっしゃらないでいただきたい」声がうわずりそうになって言葉を切り、一息ついて、ようやく続けた。「一国を預かる身としては、どちらも胸が縮みそうになるほど恐い。こんな気持ちがおわかりですか?」
「わかっていますよ」乞食はなだめるように言った。「戦争のことを持ち出したのは悪かった。たしかに私がまちがっていました」
彼の声にふと深い悲しみがこもったような気がして、ヘクトルは目を上げたが、乞食はもう笑っていた。「それでですね」と彼はさばさばした口調になって言った。「あなたが心配しておられる事態をさけるためにも、メネラオスがどんな人間で、今どんな気持ちでいるか、充分につかんでおきたいのです」
「そもそも彼は気づいているのか」ヘクトルはつぶやいた。「王妃がパリスと逃げたことを」
「その点については希望的観測はしないことだな」乞食は首をふった。「ゆうべ浜辺に人は多かった。王妃と弟君を見て、ささやきかわしている者もいた。誰かが王に注進した可能性は高い。その予測のもとに対策をたてねばなりません」
「まったくどうして」ヘクトルは頭をかかえた。「どうでも王妃をさらって逃げたくなったなら、せめてもう少しうまくやれないんだ?こんな、行きあたりばったりのやり方でなく」
「行きあたりばったりだから、うまくやれたのかもしれないさ。考えていたらできなかったろう」乞食は笑った。「いずれにせよ、メネラオスはもう知っている。そして激怒している。問題は、その激怒の中味だ。彼は何に一番傷つき、怒っている?そこを知らねば、対策が狂う」