1. TOP
  2. 岬のたき火
  3. テロリストの心
  4. 二本の柱

二本の柱

しばらく前に、私よりかなりか少しか若い人から、終活をどうしていますかと聞かれた。
 参考になるかはわからないが、何となく、日ごろ考えていることをまとめてみよう。

私が今、それなりに安定し、落ち着いた気分でいるのは、基本的に二本の柱に支えられているからだ。

ひとつは、まだ何もなしてはいなくても、死ぬ直前までには、何かができるかもしれないという希望である。
 田舎の村医者だった祖父は、死ぬ晩年までガンの新薬を発見したと言って、あれこれ雑誌をとりよせたりしていた。絶対に妄想だったと思うが、それはそれで楽しそうだったし、私もどこかそういうところは似ていると思う。

祖父より私が有利なのは、彼が理系で私が文系だからである。具体的には私が最晩年に人類の歴史に残るような作品や業績を残すのは、小説とか詩とか歌とかそういうもので、それはガンの新薬よりは、はるかに現実性がある。

どんな作品を残すかというと具体的なものはまだない。ただ漠然とイメージして理想となるのは、「赤毛のアン」シリーズとか「名探偵ホームズ」シリーズとか「シートン動物記」シリーズとか、そのあたりである。それほど数は多くなく、わりと大衆的で誰にでもわかりやすく、たくさんの人に親しまれるような。

実際にはそういうのでなく、ものすごく複雑だったり難解だったり新奇だったりする短い作品になるかもしれない。そんな予測はつかない。でもとにかく、それは絵画でも音楽でもそうだが、死ぬ最後にひょいと何かを作れる可能性は、ちゃんと生きてればあるかもしれない。それが実現しようとしまいと、それを予測し夢見るだけで、充分に生きているのは楽しい。それに向かって努力も苦労もする気はない。ただ、そのことを死の前の時間にちょいとおいておくだけで、私は落ち着いていられる。

もうひとつは、日本の戦後八十年を多くの人と築きあげ、まがりなりにも平和を守ってきたことだ。
 私はそれなりに、研究者としても教育者としても、それなりにささやかに満足している業績や成果はある。日本文学の研究や、いろんな人材の育成についても、いくつかの貢献は世界と人類にできたと思っている。
 しかし、私などとは比較にならない、優れた業績を遺した学者や教育者でも、その人生も業績も、本当にわずかにしか残らない。私のやったことなどは、今でもすでに幾分そうだが、やがて薄れて埋もれて消える。別に不満ではないけれど、それはしかたのないことで、そこに誇りや生きがいを感じながら死にたくはない。

結局そういうときに私が一番、たしかにやったと思える仕事は、顔も知らない会ったこともない多数の同時代の人たちと、力を合わせて築き守った、この時代と世界である。敵味方としてでも憎み合ったり対立したりしたことも含めて、そんなに意識もしないでいる人たちも含めて、私たちは平和を守った。不十分でも及ばずながらでも。それは私の誇りである。私個人の名前も記憶も同時代の人々の中に完全に埋没して、誰も知らないままになっても、それでも私の充実感は、ゆらがないし、消えない。

この二つが今の私を安定させ、あわてさせないでいる。「いつか書かれるかもしれない作品」と「無名の一人として築いた世界と時代」。この二つが今の私の手の中にある。それが失われることは多分ない。

Twitter Facebook
カツジ猫