彼らになくて、私にあるもの
筒井康隆も橋本治も、程度や種類の差こそあれ、私の非常に好きな作家である。
二人の能力を尊敬し堪能し、自分とは比べ物にならないと常に認めている。
それでも、時たま、この二人は、かなり根本的に私とはちがうと感じることがある。
そして、もし、この二人には決して書けない小説を私が書けるとしたら、多分、そのちがいだろうと考える。
二人にないものが、私にはあるのだ。確実に。
もちろん、それがあったからと言って、二人に書けない小説を書けると決まったものではないし、書けたところで、すぐれたものになるとは限らない。
それでも、恐ろしいことを口走るなら、これまで書いた小説も含めて、私が書くものは、彼らには書けない。
彼らになくて、私にあるもの。
それは、いったい何なのか。
テロリストになれる心である。
そして、日常生活でも、私は親しい人や愛し合っている人たちと、どうしても自分がちがうし、決してわかりあえないと思うことがあるのも、そこである。
テロリスト。殉教者。
それになろうと思えば、なれる人。
なれなくても、理解できる人。
そうでない人と、どんなに信じあい、愛しあい、楽しくいっしょに過ごしていても、結局私は孤独である。
だが、孤独でもいい、そういう人たちとともに、死ぬまで仲良く暮らすことが、暮らせることが、私にとってはきっと幸福なのだ。
そのことも、わかっている。
そのことについて、考えたことのいろいろを、ここに書く。
昔書いた文章も、まじる。
なお、雑誌「かまど」に書いた「ローマの夕暮れの歌」も、このテーマと関連する作品である。鳩時計文庫の中の「吉野の雪」や「水の王子」も、あるいはそうかもしれない。
写真は、多分、高校か大学のころの私。家の前にある川の土手で。撮っているのは母かな?