小説「テロル」感想
(これは、ブログに数回にわたって書いたものですが、ここのテーマに関わると思うので、まとめて、ここにも紹介しておきます。)
◇小説「テロル」を、どうしてもくり返し読んでしまっていたわけは、きっと最近時間つぶしに見ていたDVDの海外ドラマ「クリミナル・マインド」の影響かもな。
まあそれだけではなく、もともと私は小説でも映画でも現実でも、「なぜ、その人はそういうことを言ったのか、したのか」が、きちんとわからないと落ち着かないところがある。
「テロル」って小説は、アラブのベドウィン族の出身ながら、一族の中でたった一人エリート医師になり、イスラエルの国籍を得て、美しい妻と裕福に幸福にイスラエル文化圏で暮らしていた主人公が、いきなり妻が自爆テロをしたと知らされ、自分も関連を疑われたり、市民から攻撃されたり、いろんな目にあうが、何より妻がなぜそんなことをしたかが全然わからないので、混乱と不幸のどん底であがき続ける、聞いただけでどうかなりそうな話だ。
彼は妻の本当の姿や、こんなことをした動機を知ろうと、さまざまな危険を冒し、苦労を重ねる。アラブとイスラエル両陣営に囚われたりいろいろひどい目にあいながら、最終的には、まあ事実関係だけは、(以下ネタバレ)家に来ていた親戚の(当然アラブ人の)若者がテロ組織に関与していて、次第に妻も仲間になって行ったという経緯が明らかになって確認できる。
妻もアラブ人で主人公と同じ苦労をして育って来た。結婚して二人で努力して成功し、豪華な邸宅と豊かな収入とセレブの世界との交際を手に入れていても、実は妻は過去も民族の不幸も忘れず、苦しんでいたこと、戦うことが義務だと信じていたことがわかって来る。主人公はそれに気づけなかった自分を責める。
しかし、一方で、彼女をそういう世界に引き込んだ親戚の若者との不倫を一時疑って、ものすごく苦しんだので、その若者が「彼女は、見つめているのも恐れ多いほどの聖女だった」と断言し、その疑いは完全に払拭されたため、ほっとしたはずみに(だんだん私の意地悪さが出てくる)、他はもうわりとどうでもよくなってるみたいな感じもある。
(さらにネタばれ)主人公は一応それで立ち直って、長くつきあいを断っていた、故郷の大家族とも再会し、世捨て人のようなユダヤの老人とも交流して救われ、まあこのままハッピーエンドになってもいい感じになる。しかし、アラブとイスラエルの対立は続き、一族の若者たちの中からも自爆テロが出て、その報復で一族の中心だった老人たちの屋敷は破壊され、それに怒って、またテロ組織に加わろうとする者も出て、それを引き止めに行った主人公は、カリスマ指導者の集会へのイスラエル側(だよね?)のドローン爆撃のとばっちりで死んでしまう。そこで終わり。もうダイナミックすぎ乾きすぎ悲惨すぎ救いなさすぎ、これが多分現実そのものと思うからなおのこと、どうしようもない気持ちにさせられ過ぎ。
◇しかし、である。気になっていた謎が解け、冷静に読み直してみると、このラストはそうひどい結末じゃない。
主人公は、妻のテロにいたる心境を、親戚の若者から聞かされて理解しても、きわどく、きっぱり、共感はしてない。妻を奪われた、だまされた、という心情を消してはいないし、テロ組織に共感はせず、理解し合うことを拒絶している。
自分が外科医であること、人の命を救うことが生きる目的であることを、主人公は譲らない。たいがい迷って、よろよろふらついてはいるが、やはり彼は、そこをよりどころにして生きている。それは一族の中の変わり種で芸術家だった父の心を継ぐことでもある。
そういう気持ちを保ったままで、彼は疎遠だった郷里の家族とふれあい、イスラエルの世捨て人の賢人とも交流する。妻とテロ組織が自爆テロでかちとろうとした未来を、二つの民族の交流を、彼は融和や対話でかちとろうという方向に歩みだしている。
最後のドローン爆撃にまきこまれたのは運が悪いだけの話で(だけとか言うか?まあいい)、彼はテロリストになろうとした一族の女性をさがして、引き戻すためにそこに行ったのであり、向かう方向、めざす方向は、健全で元気でまっとうだ。彼は回復している。立ち直っている。だからさ、この話はハッピーエンドなんだよ。とってもそうは見えないけどね。
◇ただ私、そこに至る主人公アミーン・ジャアファリの、復活と再生のきっかけが、(1)妻は不倫をしていなかった、(2)妻が自爆テロをするほど民族の不幸を忘れられずにいた、という、この二つを確認し確信したこと、だけでは、ちょっと弱いし、いやー、決定的に不十分ではありませんかといいたいの。もうひとつ、何かが足りない。
だから、もやもやするんだよ。これ読んでて、多分、みんな。
だから、ネットで見るてえと、読者の多くが、こういう民族対立は理解できないとか、自爆テロなんて想像を絶するとか言っちゃうんだよ。ふん、折あらば北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)や中国や韓国を敵視させることで、自分の失敗と行き詰まりを隠そうとするアホな政府のみえみえな作戦にうかうかまんまと乗りまくって、他民族を攻撃しまくる国民が何を言うか。夏になったら毎度のごとく、特攻隊や人間魚雷の話をお涙頂戴のドラマにして、うっとりしまくる国民が何を言うか。
あ、この小説の中で、多分事実でしょうが、自爆テロは「カミカゼ」と呼ばれてるのよお客さん。特攻隊や人間魚雷って、普通に自爆テロなんだっていいかげんに自覚しろ。感動しても美化してもいいけど、それじゃ他国の自爆テロもちょっとは美化して感動しろよ。(あー、軍艦とかに体当りするのと、町のレストランで自爆するのは大違いってか。言っとくけど、軍艦にしか届かなかっただけで、レストランや市街地に行けたら届いたら、絶対そっちにも特攻させたよ、日本の軍隊と政府はよ。真珠湾攻撃のときはしっかり民間人殺してるじゃないか。できなかったこととしなかったことをごっちゃにしちゃいけない。)
◇私が、この小説読んで、一番イラついたのは、この自爆テロした美しい奥さんの気持ちが、結局全然わからないことでした。作者が下手なのか、わざと書いてないのかはわからなかった。実は今でもわかりません。
ただ、書いてなくても、しっかり推測はできるし、正解は導けるということに、ゆうべ気づいた。クリミナル・マインドもどきに、しっかりと。
つまり、直接書いてなくても、がっちり伏せていても、この小説の描き方、見える範囲での奥さんの造型に矛盾はないのよ。破綻もないのよ。
それがわかれば、この小説は、多分ますますハッピーエンドになるのよ。悲惨なことに変わりはないけど。
あー、時間がないから、続きはまた今夜にでも。書けたらね(笑)。
◇だいたい私ももう年取ったから、今ではどうでもいいけど、若い時は絶対に自覚もしていた困った趣味嗜好があって、それは、私を見つめて私を大事にして自分を捧げてくれる相手は基本的にどーでもよくて、どこか遠くを見て、理想とか信仰とか思想信条とか、カジキマグロとかチョモランマとか、何でもいいけど、何かにあこがれて自分を捧げて行ってしまう人というのが、もうどうしようもなく好きだった。そういう人でないと、今風に言うと、まったく「萌え」も「燃え」も感じなかった。
◇あーえー、ちょっと日曜の夜だし、どうでもいい長い横道の脇道の無駄話をするとだね、ここでちょっとまちがえてほしくないのは、私はそうは言っても、私をひたと見つめて、私を好きだ大事だと言って、下手すりゃ近づく他の人を追い払いまでしかねない人は、まあそれはそれで、しかたないと思うから、粗末にはしないし、大事にするし、その気持ちは傷つけないようにする。
だけど、カジキマグロとか神様とか古切手とか、そういう私とちがう次元のものに入れあげて夢中になるのではなく、私と大して程度が変わらない別の存在や、自分自身のことを、わりとつまらないことで、ちょろっと私より優先して、そっちもこっちもつなぎとめとこうみたいな態度を取る人がたまーにいて、これは私は願い下げである。
おまえ何様だと言われそうだが、とにかく、別に私を特別扱いや崇拝やしてほしくはないし、してくれなくっても全然こちらはかまわないのだが、何かこう、自分は私にとって特別な存在だし、そうなりたいという、やる気まんまんを見せておきながら、ほんとにどーでもいいことで、ちらっと自分の都合を優先し、他の誰かとのつきあいを優先する。
この手抜きと適当さが、私はうんざりする。私相手でも何相手でも、やるからには手を抜くなや。その程度の気持なら、私に特別扱いされたり、私を崇拝したりすることなんか、はじめから望むなや。エントリーせんどけ、おたがいの幸福のために。
私なんか、母でも猫でも男でも女でも、この人を大事にする責任を持つと決めたら、常に絶対最優先したぞ。誰かと誰かがぶつかる時には順序を決めて、それを動かさなかったぞ。時には、そのことをきちんと相手に伝えたぞ。ちゃかちゃかその場で適当に、両方かけもち、ふたまたやって、自分がそれでも愛される魅力があるか、両方ごまかせる器用さと体力と能力と知力と器があるかどうか、いっぺん鏡見て(美醜とかだけじゃなく)自分とじっくり相談してからにせい。私と世の中なめるんじゃないわい。
もしかしてひょっとして、私が、そういうのになれてない人だったら、そこでペース崩されて足元すくわれて、自分が一番と思ってたのに、そうじゃなかったのかとか動揺して、逆にその相手にとっての一番になろうとあせったりし始めるんだろうね。そこで、立場を逆転させて、崇拝してた相手から崇拝されるようになるのを無意識にでもねらってるのかもしれないけど、どっちにしたって、私にそれやるのは、10億光年早いすよ、いやほんと。
◇ええと、んなことはどうでもよくて、要するに私は理想に燃えて自爆テロをするような人とか、出家して高野山に登っちゃう人とかに、弱いんですよ純然と。
どういうか、そうやって、とても自分がかなわない、偉大な存在の方に行っちゃう人から、おいて行かれる状況が、怖くて悲しくてやりきれなくて、もう死にそうに切なくて、多分それが私の中で「愛」という気持ちに一番近いんですよ。
だからですねえ、この「テロル」の、おいてかれたご主人、アミーンの気持ちというのは、もう考えただけで、やりきれなくて死にそうになる。
まあ私の子どものころや若いころ、おいてかれる人は「ピエタ」像のマリアに代表されるように、普通は女の方だった。男がおいてかれるケースって、私の中ではあまり想定したことなくて、だからそこもちょっと混乱した。
まあね、私が政治や社会や宗教に関心持って、いつも自分が殉じられる、捧げられる理想や思想を一応は持っておこうとしたのも、おいてかれる前に自分がおいてってやるという予防策でもあった気はするんだけど。この奥さんがそうとはとても思えないし。そうする必要もなかったわけだし。
自分を深く愛していたはずなのに、自分以外の何かに身を捧げて去っていく、その何かが自分にはどうしても理解できないという、その情けなさ、恥ずかしさ。それだけは私は味わいたくなかった。同じように、その何かを理解して愛するか、それがだめなら、せめて敵になって憎むか。どちらもできないままに、失った相手の死を悼み、涙を流すなんて、みじめすぎて絶対にいやだった。
◇だから、この夫の、アミーンの気持ちは完璧すぎるほどわかった。わかりすぎて辛くて、途中で何度も腹がたった。変わらず心配してくれるイスラエルの友人たちもいるし、財産も地位もある。だからもう、妻のことは忘れて、記憶にふたをして、海外にでも移住して暮せばいいとか、妻に関して得た情報を全部イスラエルの警察に渡して、テロ組織を壊滅させちまえとか、あらぬことをいろいろ考えた。
でも、そうしたら、どっちの場合でもアミーンは決して立ち直れなかったし、幸せにはなれなかったし、下手すりゃ廃人になったろうなとも思う。やっぱり、この小説のようにするしかなかった、それが一番賢明だったと、あらためて今は理解する。
あー、お風呂がわいてしまったので、ここで中断ね(笑)
(続きます。そんでもう、壮絶にネタばれしてます。)
◇この奥さん、シヘムの気持ちがわからんのは、最後まで夫のアミーンを、めちゃくちゃ愛してるんですよ、それはもう、まちがいなく。
自爆テロに向かう前に、ノートの切れっ端に走り書きした手紙で「こうしなくてはならないけど、私を許して」みたいなことを書いてよこしてるし、出かける前の晩には、夫の好きなものばかりでごちそう作って、「あなたをおいて行くのがつらい」と言って、アミーンが「三日で帰るのに?」と言うと「私には永遠なの」とか答えて、その夜は激しく愛しあったというのだから、どう考えてもご主人のこと愛しまくってる。
その気持ちには絶対嘘偽りはなかったはずで、だからこそアミーンも、シヘムが今の生活に不満を抱いたり疑問を感じたりしていることを、予想さえできなかったのだろう。つまりシヘムは、アミーンを、あえて言うなら、彼との生活すべてをも、多分決して憎んだり完全に否定はしていなかったのだろう。
否定できてはいなかったというべきなのかな。
◇小学生の子どもたちが誕生祝いの会をしてるレストランで、腹にダイナマイトまきつけて妊婦のふりして自爆して、子どもたちを含めて二十人近くを死なせ、何十人も負傷させた、もちろん自分もバラバラになった(なぜか顔だけはきれいに残って、安らかな表情をしていた)シヘムは、多分日本人の多くが読んでも「わからん」「ひどい」と感じるだろうし、イスラエルの人にとっては悪魔そのものだ。だからアミーンまでリンチされる。
でも一方で、エルサレムとかのアラブ人の住む地域では、シヘムは死後すぐに、もう聖女になっていて、庶民から指導者までの多くの人から、足の先にくちづけされるのにふさわしい女性だと賞賛され敬愛されている。
アミーンの気持ちを思うと私はこれを聞くのが、どういうか、もうやりきれない。
愛する者が、自分には理解できない集団の崇拝の対象になっている、無気味さ、おぞましさ、汚らわしさ、そして悲しみ。何という屈辱、孤独、絶望だろう。わかりすぎて本当につらい。彼女が悪魔扱いされて自分がリンチされる方が、まだしも、よっぽど耐えられる。
◇親戚の若者がようやく教えてくれたことによると、彼がアミーン夫妻の家に遊びに来て泊まっているとき、ピストルや秘密の書類の入ったカバンをシヘムに見られてしまい、せっぱつまって彼女を殺そうかとまで思いつめていたら、彼女が部屋に入ってきて、活動資金をカンパしてくれ、それから次第に協力をしてくれるようになったのだそうだ。
「彼女が自爆するのはいやだった。自分たちは皆反対した。生きていてくれる方が自分たちのためには助かるのだと説得した。彼女は屋敷を自分たちの会合に使わせてくれ、銀行口座を資金の授受に使わせてくれ、その他彼女の地位や立場でしかできない、いろんなことをしてくれていて、我々の活動の要だったから。
でも彼女の決心は変わらなかった。自分はパレスチナ人で、自分のやるべきことを他の人にやらせるわけには行かないと言った。指導者のマルワン師でさえ、彼女の考えを変えられなかった」(私がまとめたので、原文通りじゃないです。)
親戚の若者は、アミーンにそう打ち明ける。これほどの情熱的で献身的で、狂信的でさえある女性と、アミーンを最後まで心から愛する妻の像を、どう一致させればいいのだろう。
だからこそ、最初読んだときに、私はこの一番肝心な妻の人間像がさっぱり描けていないと思った。理想的な妻と、理想的な革命家。どちらも型どおりの描写に過ぎず、通り一遍の美化されたイメージにすぎず、徹底的に一致しない。与えられる情報が、一個の人間として実像を結ばない。
◇指導者も仲間も、自爆に反対した。そりゃそうだろうと私にもわかる。言っちゃ何だが爆弾かかえてレストラン吹き飛ばすのなんか、シヘムでなくてもできる(我ながら何という言い方だ)。彼女には生きていてもらった方が、テロ組織にとっては、ずっと利用価値がある。彼女だって、本当に組織やパレスチナの役に立ちたいと思うなら、そうすべきだとわかるはずだ。
だのに、自爆の道を選んだ。カリスマ指導者でさえ、彼女を説得できなかった。
◇アミーンは最後まで気づいてないようだし、指導者マルワン師も気づかなかったか知らないが、私の考えではシヘムの自爆は、自殺である。
いや、そりゃ自爆は自殺ですが、つまり目的は自爆ではなく自殺である。自爆に見せかけた自殺と言ってもいい。その点では殺された被害者はもちろんだが、マルワン師もパレスチナも、シヘムに利用されコケにされている。ひどい話かもしれないが、シヘムにとってはそれだけ深刻だったから、しかたがないのである。
ええい、もうちょっとなのだが、夜中過ぎたし、一休みするか。
(続けます。)
◇アミーンを心配してずっと支えようとするイスラエルの友人キムは、シヘムは洗脳されて別人になり、自分の生き方を貫いたのだから、もう気にしてはいけないみたいにアミーンに言う。
親戚の若者や、パレスチナの指導者たちは、シヘムはアミーンとの暮らしは偽りで耐えられなかった、自分の民族としての誇りを忘れられなかったと言う。
立場や見方のちがいはあっても、両者の言ってることは同じですよね。アミーンはそれらの意見をある程度受け入れてはいるけど、完全に納得してる風でもない。
それでいいんだと思います。だって、これらの見解は多分まちがってる。私はシヘムは、もっと揺れてたと思うし、アミーンや彼との暮らしを愛してたと思う。彼女は楽しそうだった、幸福そうだった、とアミーンがやたらにくり返すからかえって嘘っぽく聞こえるけど、私はアミーンの見ていた通りだったと思う。
だからこそ、シヘムは苦しんで、にっちもさっちも行かなくなったんじゃないのか。そうとしか思えない。
◇私だって、今のささやかな美しい生活が、どこか夢のような気がしたり、わけもなくこれでいいのかと思ったり、虚しくなったり不安になったりする。これで自分が九条の会とか、それなりの社会的政治的活動をしてなかったら、もっと虚しくて不安だと思う。
比べるには差が大きすぎるけど、シヘムも夫との満ち足りた贅沢な生活に、虚しさや不安や罪悪感を抱くことはあっただろう。それが親戚の青年の反社会的活動への協力となるのもわかるし、自分の立場や地位を利用して、次第にぬきさしならぬまでの関係になって行くのもわかる。
何も気づかない夫との生活との落差が大きくなり、隠しごまかす部分が増えて行くにつれて、引き裂かれる苦しみも大きくなって行ったのではないか。
その場合、夫や今の生活を捨てて一人になるとか、夫に打ち明けないまでも少しずつ夫を洗脳して同じ思想を抱く仲間にして行くとかいう方法もあったはずだ。
だが、離婚や家を出ることは、むしろ組織の方が許さなかっただろうし、彼女自身も耐えられなかったのではないか。
次第に夫を説得して、自分と同じ思想を持ってもらうようにするのは、彼女自身にそれほどまだ確信や信念がない上に、ひょっとしたら彼女は夫には、このままでいてほしかったのではないだろうか。夫を自分と同じ生き方に引きずりこむのは申し訳ない、耐え難いという思いも含めて。
◇せめてキムは、その可能性をアミーンに示唆するべきだった。
一方でマルワン師は、「本当に厳しい戦いと犠牲を払うことから、あなたは逃げている。このまま二重生活を続け、夫を裏切る苦しみを耐え続けることが、あなたには求められている」とか指摘するべきだった。そうすれば、秘密の会議場所や銀行口座も、ひょっとしたら失わないでもすんだだろうに。
これは、勇敢な闘士が使命感に燃えて行った自爆テロなんかじゃない。
二つの世界に引き裂かれ、どちらも愛した女性が、どちらにも理解してもらえず、どちらも裏切り続けている苦しみに終止符を打とうとして、誰にも自分の本心を知られないようにして行った自殺だ。
だからって、悲惨さには変わりがないが、シヘムが組織や指導者もだまして出し抜いているという点では、私はこの方がよっぽど救いがある。
アミーンにとっても多分、この方が苦しいなりに救われるだろう。むしろ、漠然とでも、事実はこうであることを彼は理解しているだろう。(終わり)
(おまけです。)
◇書いてしまうと、あらためてすごくふしぎなのは、こんなあたりまえのシヘムの気持ちに、最愛の夫のアミーンも、二人のよき友人の女性キムも、同志の若者もカリスマ指導者マルワン師も、まったく思い至らなかったのかということである。ついでに言うなら、作者も気づいてないんだろうか。それとも、わざと伏せたんだろうか。
ある意味、シヘムのこの心情は、ものすごく陳腐であたりまえすぎるから、書いてしまえば、なあんだ、そりゃそうよねと読者は納得して、彼女を身近に感じるが平凡でどうってことない話として読んでしまって忘れかねない。
ここの部分が描かれず、わからないままだから、この小説の気持ち悪さと後味の悪さはマックスになる。だからこそ私がそれを何とかしないと眠れない気がして、何度も読んでしまったというぐらいに、この小説が人の印象に残るのは、多分この、一番の核になるシヘムの心理が、徹底的に隠されたままでいるからだ。
◇作者の気持ちや技巧はさておき、物語の中に入って考えると、アミーンは生きていたら早晩このことには気がついたと思う。彼の再生と復活は、その方向に向いている。
ひきかえ、キムやマルワン師たち、つまり憎み合い遠ざけあい殺し合うこともある両陣営の人たちは、永遠に気づかないままかもしれない。シヘムのように、両者を愛し、どちらも捨てられない心情なんて多分想像を絶するからだ。そもそも相手や敵方の世界に、そのような魅力を感じる余地がない。
ただ、私も悪辣だから、よからぬ空想をすると、カリスマ指導者のマルワン師などは、やっぱり人を見る目があるから、シヘムのこの自爆への熱意と渇望が、夫との豊かで恵まれた生活を捨てられない苦しみ、それから逃れたい、もうこれ以上は今の状態を続けて行けそうにない、自殺願望、逃走本能に過ぎないことは、ひょっとしたら察したかもしれない。
そりゃまあ何しろ私はパレスチナのカリスマ指導者の人柄など、ほんとに何もわからないから、そんなことなどまったく予想もできないぐらい、純粋に清廉潔白にシヘムのことばを信じたし、自爆への決意を信じたし、そういう人だからこそカリスマ指導者であるのかもしれない。
◇でも、ひょっとして、もっと複雑でしたたかな面も持つ指導者で、シヘムの中にある、彼女自身も気づかないかもしれない、「二つの世界に引き裂かれて、どちらの味方もできない苦しみに、もう耐えられない」という疲労と混乱を感じとったら、そしてそれが、たとえば夫にすべてをぶちまけるか、イスラエル警察にかけこんで自白するか、そういう方向の「自爆」にもつながりかねない、ぎりぎりの状態にシヘムがいることを察したとしたら、ぶっちゃけ、わざと最悪の表現をすると、「あー、この女もう使い物にならない。家や銀行口座やその他の利用価値はすごくあるから、失うのは残念だし、損失も大きいけど、そんなこと言ってられないぐらい危険だわこりゃ。本人もそれをわかって自爆志望してるんだろうし、そういうかたちで処理するのが一番いいわな、誰のためにも。特に味方のためには、それしかないわな」とか思って、結果としては「マルワン師でさえ、彼女を説得できなかった」と親戚の若者がいうような結果になったのかもね、知らんけど。
罰当たりなこと言いすぎて、この私がテロの対象になるのもいやだけど、びびりながらも更に言うと、私はシヘムの本心が見抜けなくて、彼女の熱意に押されまくって自爆を許可するしかなかった、本当に、たかが新参のメンバーのブルジョア奥さんの情熱に負けて、有利で便利な隠れ家や銀行口座を手放すのをあきらめてしまうような指導者よりは、彼女の本心見抜いた上で、政治的戦略的判断して彼女を「処理」する指導者の方が、よっぽど好きだし理解できるし魅力的だし信頼できるし、ついて行ってもいいって気になれるわー。(多分ほんとに、これで終わり。)