「水の王子」通信(117)
「水の王子 山が」第十一回
【朝の酒場】
「珍しいお客だな」とびらを開けてのっそり入ってきたオオクニヌシを見て、ツクヨミは眉を上げた。「しかも、いやに早いじゃないか」
「夜はときどき飲みに来てるぞ」オオクニヌシはけだるそうに椅子を引いて座った。「ごったがえしてるから、おまえは気がつかんのだろうが」
「だがこのところはご無沙汰だったろ」
「まあ、店が繁盛で何よりだ」オオクニヌシは逆三角形の窓から見える銀色の浜辺と、うす青い真珠色の海の上にたなびいている朝の朱色の雲を見た。「酒をくれるか」
「ああ」ツクヨミは杯に緑がかった酒を注いだ。「サルタヒコが西の方の港から仕入れてきた上物だ」
オオクニヌシはうなずいて杯をひきよせた。「聞きたいことがあって来た」
「何だろう?」
「うちに今いるタカヒコネだが、もとはマガツミだって知ってたか?」
「知らん。何だと?」ツクヨミは食台を拭いていた手をとめた。「どこにもそんな風は―」
「ネノクニの都で私たちが地下の通路から逃走したとき、黒い川から都にまぎれこんだマガツミがいくらかいたらしい。スサノオと三人の女が、それを改造して合体させて、人間として育てたんだと」
「そして都の王にしたのか」ツクヨミは眉をひそめた。「想像もしなかった。あの都は見た目よりとんでもないな。君はどうしてそれを知った?」
「本人が話した。がれきの下で」
「信じたのか?」
「話の中心はそこじゃなかったのでね」オオクニヌシは吐息をついた。「彼は草原で多くの人たちを殺したのだが、その中に私の息子のタケミナカタがいたらしい。もっとも私はそのことを知っていた。息子が村を出て行くときに、私は愚かにも、もしも息子を殺す者がいたら許さないと思って、彼には黙って、ヌナカワヒメからもらっていた薬を酒にまぜて彼に飲ませた。殺した相手の身体をむしばみ、死にいたらしめるというやつだ」
「その薬なら聞いたことがある」
「使ったこともあるんじゃないか?」
ツクヨミは目を伏せて、うすく笑った。「いろいろと遊べたよ」彼は言った。「だがそれじゃタカヒコネは何であんなにぴんぴんしてる? とっくに腐って死んでるはずだぞ」
「スクナビコが治療の方法を知っていた。ヌナカワヒメと二人で今、次第に治して行ってる。もしかしたらマガツミならではの抵抗力もあったかしれん。とにかく見ての通り、かなり元気になってきている」
「それなのに君はまた、何でそんなにどんよりして、朝っぱらからここに酒なんか飲みに来るんだ?」
オオクニヌシは手のひらを広げて見つめ、また強く握りしめた。「彼は元気になって来ているのに、いっこう幸福そうにみえない。むしろ、どんどん暗くなってる」
「たしかに一二度見かけたが、沈んだ顔をしていたな」
「悩ましいのはわからんじゃない」オオクニヌシは言った。「彼はなぜかスクナビコは前からちょっと避けていて、それを毎日治療のために近づけざるを得ないんだから、それもたしかにつらいんだろう。だがそれよりも、スセリと話している時や、彼女にやさしくしてもらっている時が、一番悲しそうだ。しかも、とてもうれしそうなのに」
※
ツクヨミは考えこんだ。「あんたの息子、つまりスセリの息子を殺したことを、彼はまだスセリに言っていないのか?」
「ああ。やはりそこかな、問題は」オオクニヌシは平手で顔をぬぐった。
「君も話していないのか」
「迷ったんだがな。本人の口から言わせたかった。また、すぐ言うと思ってたんだ。がれきの下で話をしたとき、彼は心を開いていたように見えた。スセリにもきっと同じにしてくれると思っていた。しかし話した様子はない。一度それとなく聞いてみたが、あんまり追いつめられたような顔をしたものだから、二度と聞けなくなった」
「スクナビコは知ってるのか?」
「治療しているぐらいだからな。あのご仁のことはよくわからんが、うすうすは察していそうだ。それにヌナカワヒメが話したかもしれん。一度そのことで相談をうけてな」
「そうか、彼女はあの薬の効果を知ってるからな。当然わかっていたんだろう」
「いっしょに治療をするからにはスクナビコには話しておきたいと言った。もっとものことだ。ただそうなると家の中で知らないのはスセリ一人になると言って、そのことを彼女は気にしていた」
ツクヨミは肩をすくめた。「それで?」
「スクナビコに話すかどうかは、私は彼女にまかせたよ。しかしスセリには告げないよう、スクナビコにもたのんでくれるように言った。理由はさっき言ったとおりだ。スセリにかくしごとはしたくない。だが本人の口から話させてやりたい」オオクニヌシは首をふった。「ちょっと荷が重すぎたかなあ。わりとかんたんに行くと思ってたんだがなあ。私のカンではスセリは聞いても許すよ。平気とまでは行かんにしても」
「そりゃタカヒコネには、そこまで安心はできんだろう。まあ、ただ単に、きっかけを失ったのかもしれんがな」
「それだったらまだいいんだが」
「何だ?」
「彼はまだ私に何かかくしてるような気がする」
「あんたの息子を殺して、自分は実はマガツミで、そこまで話してそれ以上、何をかくさねばならんことがあるのかね?」
「そもそも、息子と友人だったとか、いっしょに盗賊じゃない普通の仕事を一時期いっしょにしていたとか、そのへんはまあいいとして」オオクニヌシは難しい顔をした。「つまらんいさかいの、金をめぐってのいざこざで殺したというのが、どうもわからん。想像できない」