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「水の王子」通信(142)

「水の王子  山が」第三十五回

【息子と娘】

はじかれたようにふり向いた三人に、歯のない口で笑いかけて、スクナビコはよたよたと、かたわらの椅子に腰を下ろした。
 「だってそりゃ、無理もないでしょう?」タカヒコネは言い返した。「今のあなたのその姿から、自分の娘を連想しろと言ったって!」
 「お母さまは感じておられたわ」しわがれ声のまま、スクナビコは言った。
 「たしかにそうだ」オオクニヌシの声は打ちひしがれていた。「私はまったく、何ひとつ、おまえの気配を感じなかった。正直言って今でもだ。スセリがおまえを見て何かを感じられたということの方が信じられない。おまえの化け方はうますぎる」
 「しかたがないわ。お父さまは昔からいつだって、私よりタケミナカタの方に夢中だったから」シタテルヒメのスクナビコは落着いてそう言った。「今は兄はいないけど、その代わりに彼がいるでしょ。お父さまはそれに夢中でいらしたから、私の気配などに気がつくはずがない」
 タカヒコネが息をのんで立ちすくみ、オオクニヌシが即座に首を強く振った。
 「おまえがいたのが悪いんじゃない、タカヒコネ。これはおまえの責任じゃないぞ」
 「まだ何も言ってません」
 「しかし言おうとしただろう、今?」
 「まったく何でそう、いたわりあうのよ」スクナビコが首をすくめる。
 「―私、畑に行って来ます」タカヒコネがつぶやいて歩き出そうとしかけた。
 「何ですって?」スセリが聞く。
 「柵の修理が途中でしたし―これはご家族の問題だから私はいない方が」
 「今さら何を、ということばが、こんなにもあてはまる局面というのも、そうそうめったにあるものじゃないわね」スクナビコが冷静に評した。
 「まったくだ」オオクニヌシがうなった。「動くな、タカヒコネ。そこにいるんだ」
 「じゃが、座っておった方がいいぞ」スクナビコが忠告した。「そろそろ足がふらつくころじゃろ?」
 タカヒコネは壁によりかかって床に腰を落としながら、力なくスクナビコを見返した。
 「もしかして、だからあなたは私に腹を立てて苦しめようとしていたのか?」
 「何、治療のときのこと? まあ、見そこなわないで!」スクナビコは声を上げた。「あなたじゃあるまいし、そんな公私混同はしません。治療で少々手ひどいことをしたのなら、それはあなたのマガツミとしての性能に興味があって調べたかったからだけで、父に愛されまくっていることなんか、何も関係はないわ」
 「安心したよ。ありがとう」タカヒコネは思いっきり皮肉っぽく言った。
 「あなたやお父さまが、私とお母さまがオオクニヌシに何も教えないでバカにしていたのがいけないと言うのなら」スクナビコは話を戻した。「同じことばをそっくり返すわ。二人はスクナビコといっしょになって、お母さまをカヤの外にして、何も知らせず、楽しい暮らしをしていたんじゃないの? それを誰も気にしてなかったんでしょう?」
 「気にしてましたよ」タカヒコネが小声で抗議した。
 「そうも見えなかったけど」
 「何となく、だんだんおまえがシタテルヒメに見えてきた」オオクニヌシがつぶやいた。「ふしぎだな」
 「ゆっくりお話をしましょうか?」
 「いや、今はいい」オオクニヌシは片手をあげた。「すまんが少し時間をくれ。ちょっと、そのへんを歩いて来る」
 彼が疲れたクマのように足をひきずって出て行ったあと、三人はしばらく黙っていた。
 やがてタカヒコネが、壁にすがりながら立ち上がった。
 「申し訳ありませんが私も出かけて来ます」
     ※
 二人だけになった部屋の中で、母と娘は顔を見合わせた。
 「心配することなくってよ、お母さま」スクナビコがスセリの背中に手を回す。「お父さまはツクヨミの店に行くんでしょうし、タカヒコネは多分コトシロヌシの家だわ」
 「それはいいけど、あの二人ったら」スセリは首をふった。「コトシロヌシにはまだ何ひとつ話してないのを忘れているわ。まったくもう」
 「何から何まで、あいかわらずねえ」スクナビコがため息をついた。
     ※
 二度、後ろから声をかけられて、やっと気づいた。タカヒコネはふり向いた。
 夕日に輝く海を背にして、ツクヨミの姿は大きく見えた。サルタヒコのところで仕入れたのか、まだぴちぴちと生きのいい魚を、かごに入れてかついでいる。「何をぼんやり歩いてる?」と彼は愉快そうに言った。「ひどい顔だな。足どりもだが。オオクニヌシとは話したのか?」
 「話した」
 「それで?」
 タカヒコネは突然あっという顔になった。「そうか。そうだったんだ」
 「どうした?」
 「いやあの、それが」タカヒコネはいまいましげに舌打ちをして、足もとの石をけとばした。「そうだ。それがもともとの…何ておれは間ぬけなんだ。いやまだだ。まだ話してない」
 「どっちだ?」
 「話そうとしたんだが途中で何だか、それどころではなくなって」
 「それどころはって、何があった?」
 「どうでもいい。今はもういい。消えてくれ」
 「はあ?」ツクヨミはあきれたようにタカヒコネを見た。「言ってることがわかってるのか?」
 「ほっといてくれ。そもそもおまえは知ってたのか? スクナビコが…」
 「彼がどうした?」
 「いやいい。もういい。とにかくとっとと行っちまえ。ぐずぐずしてると魚が腐るぞ」
 何か言いかけてツクヨミはやめた。「たしかにおまえは」彼は感心したように言った。「おれがこれまで会った内でも、とびきり珍しい男だな」
 「大きなお世話だ」
 「まあいいさ。おれも今から忙しいんでな。満月までには何とかしろよ」
 鼻歌を歌いながら、彼は歩み去って行った。
 タカヒコネはそれを見送って、深いため息をついた。
 「自分で自分がいやになる」彼は砂に目を落として、いらいらとつぶやいた。

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カツジ猫