「水の王子」通信(159)
「水の王子 山が」余談 第三話「それぞれの愛」(3)
【岬への道】
「ま、人も夫婦も愛し方はそれぞれなんだろうからねえ」コトシロヌシは桃の最後の切れはしをタカヒコネにすすめながら言った。「これ、うまかったな」
「うん」
「サルタヒコが寝台をすえつけるときに使ったかなてこを一つ忘れて行った」コトシロヌシは外を見た。「まだ早いから岬の彼の家まで返しに行こうと思うんだが、いっしょに来ないか? 遠すぎるから疲れるかな?」
「大丈夫。歩けなくなったら途中で休んで君が戻るのを待つから」
二人は肩を並べて家を出た。
「鳥の羽をためといたのを一袋持って行こう」コトシロヌシは小屋の奥から布の袋を取り出して、面白がったタカヒコネが、それをこぶしでついたり軽く投げたりして遊んでいるのを笑ってながめた。「ウズメがそれをふとんや枕に入れるらしい」
「色もすごくきれいじゃないか」タカヒコネはひもをほどいて中をのぞきこんで声を上げた。「これだけためるのに、どのくらいかかる?」
「けっこうかかるな。そこの空き地で鳥たちに餌をやるとき、落として行く羽を集めておくんだ。イナヒがときどきねらってるけど、つっつかれたり、逃げられたりして、一羽もつかまえられないでいる。でもまあ、そういう時には羽が散るから、こちらは助かる」
「あいつ、ほんとに、とろいからなあ」タカヒコネはため息をついた。「ツクヨミやスセリがえさをやりまくるから、このごろぶくぶく太ってきたし」
「君、首にまいて歩いてたそうじゃないか。冬の間じゅう」
「もう今はやってない。重すぎるんだ。一度へとへとになって汗かいて休んでたら、オオクニヌシに見つかって、とり上げられた」
「あらま」
「代わりに自分のえりまきをくれて、イナヒは今じゃ彼が首にまいてるよ」
「イナヒはそれでいいのかな?」
「知らねえよ。オオクニヌシの肩の方が広いし、居心地いいんじゃねえか?」
二人は雪が日陰に残る畑の間をつっ切って、岬の方へ行く道に入った。コトシロヌシの持つ羽の袋をタカヒコネはそばからつっついたり、下から持ち上げて見たりして、「ふわふわだなあ」と喜んでいた。
※
「さっきの話だけど」タカヒコネがまた言い出した。「コトシロヌシは、つきあってた女とかいなかったのか? いっしょに住んだこともない?」
「鳥を見てる方が楽しかったからなあ」コトシロヌシはすれすれに下りてきた大きなカモメに片手をさし出し、たやすく指にとまらせた。「カモメたちもにぎやかでいいけど、よく似た種類で、もっと気性の荒い、うす緑色のやつがいてね、すごく意地が悪くて、かしこくて、でも何だか憎めないんだよ。その一羽が私にえらくなついてね。でも性格が悪いから、こっちの困るようなことばかりするんだな。何度もう、洗濯物を汚されたり、干した木の実をごっそり持って行かれたことか。でも、おまえだろ、と言うと、白目を出して空を見て、人間そっくりに知らん顔を決めこむのが、おかしくて、かわいくてね、ついつい笑ってしまうんだ。結局、わなにかかったのか大けがをして帰って来て、いく晩も介抱したけど死んでしまったなあ。そいつの羽は別にとっておいたんだけどね。山が崩れたとき、なくなってしまって」
カモメはコトシロヌシの肩や頭にひとしきりとまって、また飛び去って行った。
「白い大きな渡り鳥のリーダーだった女性の鳥とも、長いことつきあったことがある」コトシロヌシは空を見上げた。「今もあの群れが空を横切って行くと、彼女のことを思い出さずにいられない。毎年たくさんの群れを見るけどね、彼女が指揮してた群れのように、びしっときれいに列を乱さず堂々と立派に進んでくる群れは、あとにも先にも見たことがないよ。遠くからでも、すぐそれとわかった。彼女は山の中腹の小さい沼に群れを休ませて、そこでひなも育てていたけど、皆を落ち着かせると決まって私にあいさつに来た。なれなれしいしぐさはしない。晴れた日でも雨の日でも、すっくと外に立って私が出て行くと、頭を高く上げて、じっと私を見てほおえんだ。本当にほおえんだんだよ。そして翼を大きく、ゆっくり広げた。息をのむようなみごとさだ。純白の中にも更に純白の胸が輝いて私を圧倒する。一度だけ、何のはずみだったか、首を曲げて私の顔にわずかにふれた。それだけで全身に火花が散るかと思ったなあ。冷たい羽と、その下の熱い血がはっきりと伝わってきた。ほんの一瞬、それきりだ。何年もたって、彼女も年をとったんだろうが、その気配も感じさせなかった。だがある年から来なくなった。彼女が育てていた若い一羽が代わりのリーダーになっていた。その鳥もあいさつに来たが、何だか悲しそうだった。彼女のことを何か伝えたかったんだろうが、さすがにそこまでは私もことばがわからないからね。でも、不幸な死に方じゃなかったんだと思う。何となく、そう感じたよ」
二人は岬に向かううねった道を進んでいた。コトシロヌシはしゃべりつづけている。
「あとそうだ、あのウグイスのこともある。毎年春になると山の上の林で鳴くんだが、ある年から、とびきり群をぬいてすばらしい声で鳴く一羽がいた。声も澄んでよくとおるんだが、何よりも節回しと歯切れのよさが段違いだ。最後のぴっと切り上げるみごとさと言ったら聞いていて身体がぞくぞくするようだった。声のいいウグイスたちはけっこう小屋の近くに来るから顔も覚えてしまうんだが、その鳥だけは姿を見せない。ただ毎日、その巧みな歌だけが、やぶの中からひびくんだ。一度でいいから見てみたくなって、私は仕事もうっちゃらかして、髪もひげものび放題で何日もやぶの中をうろつき回って声を追ったよ。手足は傷だらけになるし、もうさんざんさ。そして春も終わるころ、やっとその声の主を見た。何でもなさそうにハンノキの小枝にとまっていたよ。平凡な鳥だった。色も地味だし形も小さい。どうもメスだったんじゃないかな。信じられない思いで見守っている私の前で、しみいるように深く、すきとおるような声で、ひとしきり鳴いてから、飛び去って行った。それから毎年、その声を聞いた。山がくずれる時まではね。二度と姿は見なかったが」
※
そのあともひきつづき十数羽に近い鳥との思い出を怒涛のように話しつづけたコトシロヌシに、タカヒコネがようやく口をはさんだ。
「たしかにそれじゃ、人間の女なんて気にしているひまはなかったね」
「あ? うん、そうだね」コトシロヌシはやっと我にかえったようにタカヒコネを見た。「すまん。休もうか?」
「いいよ。君こそ疲れないのか?」
「いや別に。でもちょっと座ろう」
二人はウズメの牧場にほど近い道のはしの流木の上に腰を下ろした。
「そんな風だと、キギスといっしょにすごした夜なんて君にはけっこう楽しかったんじゃないのか」タカヒコネが思い出して言う。
「ああ、そうだなあ」コトシロヌシは夢みるような目になった。「キノマタたちの目を盗んで、トリフネといっしょにあの方をお守りして森を抜けたあの夜。あんなに恐ろしくて、あんなに幸福だった時間はない。そうだね。人間の女にわずかでも私が心をひかれたのは、あの方が多分最初で最後だよ」
※
まるで酒か薬に酔っていたようなコトシロヌシは、次第にいつもの冷静さをとり戻してきたようだった。「すまない。私に鳥の話をさせると、こうなるんだよ」
「うん、よくわかった。ちょっと安心したかもしれない。君にもそういうとこがあるとわかってな」
「で君こそどうなんだい? 草原ででも都でも、相手にした女はそれこそいっぱいいたんだろ?」
「寝たとか暮らしたとか言うなら、そりゃそうだよ。殺した男とどっちだろ」タカヒコネはうらぶれた声を出した。「でもその内の一人とだって、君が語った鳥たちの一羽ほどにも覚えてないや。サクヤがタケミナカタに入れあげたみたいな気分になったこともない」彼は口ごもった。「しいて言うなら」
「しいて言うなら?」
「スクナビコがそうかもしれない」
「は?」
「腹が立ってしょうがないんだが、あいつのことばかり考えてしまうんだよな、このごろずっと」
「それは好きだとか、そういう意味でか?」
「よく自分でもわからんけどな」
「君、ワカヒコが変な女ばっかり好きになるって、あんなに笑っていたのにな」
「言ってくれるな。反省してるよ」
「まあでも彼女もともと、若くてきれいな娘だったんだし、その気になればいつまたひょっと、そういう姿に戻るかもしれない」コトシロヌシはなぐさめた。「それを何となく君が感じてるとしたら、そうふしぎではないかもしれないね」
「でも、だから、そこなんだよなあ」タカヒコネはうめいた。
「何が?」
「だっておれ、シタテルヒメなんて会ったこともないし、いきなりあの人がそんな美少女になったとしても、きっと何にも感じねえよ」
「つまり君は」コトシロヌシは言われたことをじっくり考えているようだった。「あの姿の彼女が好きなんだな?」
「彼女か彼かわからんが、とにかくあの、いけすかない、いつ死ぬかわからないじいさんが、おれは好きなんだ。いなくなったらきっと淋しい。どうしていいかわからない。いくらきれいな女になって現れたって、そんなのどこかつまらない」タカヒコネはいきなり立ち上がった。「ああもう、いやだいやだ考えたくない。早くウズメのとこへ行こうや。暗くなっちまうぞ」
「そうだな」コトシロヌシもまだ考えこみながら立ち上がった。
※
そのまま二人は黙って歩いた。牧場の近くまで来ると、髪をたばねて大きな紫色の前かけを血だらけにした小柄なウズメが、片手に大きな山刀をひっさげて二人を出迎えた。
「山羊を一ぴき、ほふったとこでね」彼女は元気よく言った。「かわいかったんだけどねえ、どうせ肉にする予定だったんだからしかたがない。あら、羽を持って来てくれたの? ありがたいね。これから皮をはぐんだけど、待っててくれたら肉をわけてあげるよ」
「これ、忘れ物です」コトシロヌシはかなてこをさし出した。「皮をはぐんなら手伝いましょうか? 三人でやったらすぐすみますよ」
「じゃその前に羽の袋を汚さないよう洞穴にしまって来てよ。そして前かけも二つ取っておいで」
「サルタヒコは今日はいないんですか?」
「漁に出て帰るのは明日になりそう。どうせなら温泉にでも入ってく? 泊まってってもいいんだよ」
三人はいっしょになって、洞穴の方へ歩いて行った。