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「水の王子」通信(160)

「水の王子  山が」余談 第三話「それぞれの愛」(4)

【ニニギの独白】

タカヒコネがいつからオオクニヌシのことを「父さん」と呼ぶようになっていたのか、私たちの誰もが気づかなかったのは笑止だ。特に人前でそう呼ぶのをさけていたというわけでもないのだから。もしかしたらオオクニヌシの家族やタカヒコネ本人も気づいていなかったのではないかと思うほど、いつからか自然に彼はそう呼ぶようになっていた。
 「あら、ずっと前からそうじゃない、気づいてなかったの?」と言ったのは妻のサクヤだ。「あなたもよっぽどぼんやりね。毎日いっしょに仕事してるのに」
 「そう言えばそうだね。いつからだろう?」と私に言われて初めて首をかしげたのは、そんなことにまっ先に気がつきそうなサグメだった。
 「ああ、そう言えばねえ」オオクニヌシの実の息子のコトシロヌシはこれまたのんびりうなずいて、特に驚くでもなかった。
     ※
 山がなくなって村が新しくなって以来、オオクニヌシ一家は前よりも小ぢんまりした家を湖のそばに建てて、そこでのんびり暮らしていた。オオクニヌシとスセリの夫婦に加えてスクナビコとタカヒコネもあたりまえのようにいっしょに住んでいて、見た目はまったく普通の三世代同居の仲むつまじい家族に見えた。特にタカヒコネはオオクニヌシにまめまめしくと言っていいぐらいよく仕えていて、何も知らない旅人たちは「いい息子さんですな」と感心していた。
 タカヒコネはだいぶ元気になって来てはいたが、まだまだ昔に比べると身体は本調子ではなかった。それでも畑仕事は一応こなしたし、草原の狩りも巧みだった。しかしオオクニヌシは彼の身体を心配して、いつも無理をさせないよう目を光らせていたようだ。「気をつけてやってくれ」と私たちによく言った。「私だって忙しいから、あれに目を光らせてばかりいるわけにも行かん」
 「あきれちゃわない?」と妻は笑っていた。「息子が怠けたり遊んだりするのを見張る父親ならいるだろうけど、働きすぎるのを心配してつきまとう父親なんて、それ何って感じよね」
     ※
 当のタカヒコネはどうかと言うと、畑や草原でオオクニヌシがひょっこり行く手にあらわれて、「おや、今日はこっちだったか」とか白々しく言いながら、それとなく彼の全身に目を走らせたりしても、おだやかに笑うだけで、迷惑そうでもおかしそうでもなかった。以前ほどではないにせよ、荒っぽい冗談も口のへらない悪口もあいかわらずだったのに、そんな時だけは、つつましくうやうやしく目を伏せている感じで、何を考えているのかさっぱりわからなかった。
 「今のあれ、何だったん?」と草の中に消えて行ったオオクニヌシを見送って私が聞くと、タカヒコネは何とも言えない複雑な笑いをにじませて「うーん」と答えただけだった。
     ※
 「あなたって無神経なことあるから、ことばには気をつけなさいよ」と私は昔から妻に言われている。私たちの間には幼い息子のホスセリがいるが、この子を生むとき、私は何か妻の気にさわることを言ったらしい。「覚えてないなら教えてあげない」と妻は言うから、何がいけなかったかは今でもわからない。妻がそれで子を産むときに私を近づけなかった。「家に火をつけて子どもといっしょに死んでやろうかと思ったわ」と今では笑って言うからおだやかではない。それで私もタカヒコネには何も聞かないようにしていた。しかし、そうなるとこれまた変な方向の言いまちがいをするもので、狩りで倒した鹿の皮を二人ではいでいた時、ついうっかりと私は「今日はもうこのへんで切り上げて帰ろうや。遅くなったらまたおやじさん心配するぞ」と言ってしまった。
 タカヒコネは平気で「うん」と言ったきり、山刀を動かす手をとめなかったが、私のほうが固まってしまった。そのまま「えーと」と言ってせきばらいしたのがなおまずくて、とうとう彼が吹き出して「聞けよ」と言った。
 「何を?」
 「おれがいつからあの人を」彼は山刀を草でぬぐいながら私を見て眉を上げた。「父さんと呼び出したかって」
 「いや別におれはそんなこと」
 「おまえサクヤといっしょになってから、めっきりものの言い方に気をつけるようになったけどなあ。まあ前がひどすぎたってのもあるが」彼はあいかわらずずけずけ言ってのけた。「だが、顔に出さないってとこまでは、まだ行ってないよな。ずうっと前から、もうそのことを聞きたくてたまらないのが、顔に出過ぎだ」
 「じゃ聞くが、いつからなんだ?」私はあきらめて、彼を見てそう聞いた。
     ※
 「ああもう」彼は肩でため息をついて、また皮はぎに没頭した。「みっともない話さ。さっきのおまえと同じように、するっと口に出ちまったんだ」
 「と言うと?」
 「かれこれ一年も前になるかな。おれはまだ遠出ができなくて、家の近くで草刈りや垣根づくりをして、あの人を手伝ってた。あの人はそれでも心配して、おれがちょっと力を入れて縄を縛ったり石を運んだりすると、はらはらしているのがわかった。そんなこんなで、おれもちょっと気が散ってというか、ゆるんでというか、あの人が木づちを手渡してよこして、これを使うといいと言ったとき、うっかり、はい父さんと答えちまった」
 「オオクニヌシは?」
 「知らん顔でにこにこしてたよ。だからおれもそのまま知らん顔しとけばよかったのに、なぜかもうめちゃくちゃあわてて、さっきのおまえそっくりに固まっちまった。目も合わせられないし、口もきけない。身体も動かせず仕事にも戻れなかった。実際にはちょっとの間だったんだろうが、ものすごく長く感じて、とうとうオオクニヌシの方が、いいんだよ、そう呼んでも、と言った。それでもおれはまだ何も言えない。するとあの人はスサノオもそう呼ばせてたのか?と聞いてきた」
 「そうだったのか?」
 「まさか」タカヒコネはあざやかな手つきで鹿の骨を切り分けた。「その時もそう言ったよ。まさか。まさかそんな。いつも名前か、王と呼んでいました、と」
 彼はまた吐息をついた。
 「そうしたら、誰かこれまでにそう呼んだ人は?と聞いてきた。わかっているさ。おれに何かしゃべらせて気楽にさせようとしてたのは。なのにおれはまたあわてちまって、ますますどうでもいいことを次々口に出しちまった」
 「どんなことをだ?」
 「いわく、そんな人はいません。そう誰かを呼びたいと思ったことも一度もありません。人がそう呼んでいるのを聞いてうらやましいと思ったこともまったくありません。あああ、思い出してもうんざりするぜ」
 「それで?」
 「それでって、あの人は笑ったよ。本当におかしがってた。そして言った。いやならいいが、そう呼んでくれたら、私はうれしいよ、と、はっきり、あっさりそう言った」
 「それが最初か?」
 「うん。元に戻そうと思ったんだが、なぜかその次からはオオクニヌシと呼ぶのが逆に難しくなった。結局なるべく呼ばないようにしてたんだが、呼ぶときはやっぱり小声やら早口やらで父さんと呼ぶようになった。おれもバカだよ。つくづくバカだ」
     ※
 彼はもっと言うことがあったのかもしれない。そんな気がした。だが私の方もそれ以上何を聞いていいかよくわからず、話はそこでおしまいになった。二人は鹿を解体し、肉を分けて、皮は私がもらって帰った。

【作者の説明】

この挿絵、右肩にタイトルが入っているのでもおわかりのように、電子書籍で発売中の「村に」の挿絵集の中に今後書くかもしれない続編の予告として入れていた一枚です。そのときの続編の題名は仮に「村では」としていました。

つまり、この場面は「村に」を書いていた段階で、もう予定していたものです(笑)。ようやくここで文章がついて陽の目を見ることができたのは、ありがたいというか、めでたいことです。
 それにしても、ニニギはサクヤに何と言ったのでしょう。古事記では「私の子じゃなくて、この土地の他の誰かの子だろう」と言ったことになってるんですが。

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カツジ猫