「水の王子」通信(173)
「水の王子 空へ」第十二回
【謎の女】
タカマガハラの船のへさきに立っている、女将軍アワヒメの白い服のすらりとした姿を見て、タカヒメははあっと息を吸いこんで目を細めた。金色がかった長い豊かな髪を肩にうねらせ、空をながめているその姿は、いつもながら清々しい。
通りかかった若い戦士が、からかうようにタカヒメを見て笑った。「目の保養中か?」
「見ているだけで疲れがとれちゃう。いいなあ、おそばでいつも見ていられるなんて」
「彼女ああ見えて、けっこう人使い荒いんだよ。いつでも入れ替わってやるよ」
「でも、ついつい引き受けちゃうでしょ、いい気持ちになっちゃって」
二人は笑いあい、タカヒメは積み荷の間をへさきの方に走って行った。
「あら、タカヒメ」へさきの人影は振り向き、優しい声で笑った。「ナカツクニはどうでした? サグメさまはお元気?」
「あいかわらず、びしばし村の若者を鍛えておられました。新しい弓矢と剣がほしいそうです。村の木がまだ育たないので、材料が不足しているとかで」
「考えてみましょう。津波の対策の話はどうなりましたか?」
「今度、ウズメさまやサルタヒコと相談してみることになってます。コトシロヌシやニニギもまじえて」
「どうやら村の長は、オオクニヌシから若者たちに移って行っているようですね」
「そんな感じです」
「あなたの目から見てどうです? 彼らは頼りになりますか?」
細く長い眉の下の、やや青みがかって黒々と澄んだ目が、まっすぐにタカヒメを見つめる。タカヒメはうれしげに笑い返して、「今のところはまあ大丈夫でしょう」と保障した。「目下のところ彼らは、アメノワカヒコさまのことに興味を持っているみたいです」
※
雲がまたいくひらか二人のそばを横切って過ぎ、アワヒメはそっと指をのばして、そのひとひらをからみつかせて、再び流れ行くにまかせた。
「ワカヒコさまの、どんなところに?」
「ああもうそれは、いろんなところに。どんな女性がお好きだったのか、美しい人にはあまり興味がなかったのじゃないかとか」
「もしもそうだとしたら、それは私たちが悪いのよ」アワヒメはどこかなつかしそうに笑った。「私たちは、あの方の前では何となく、自分たちが女ということを忘れていましたからね。身なりにも髪型にもかまわなくなる一方で、女同士でしかしないような化粧や衣装の話をえんえんと、あの方にしゃべってしまったり。それを無邪気に熱心に聞いておられた。何だかふしぎな方でしたね。どんな相手とでも、いつの間にか溶けあって、ひとつになってしまわれる。ときどき、あの方と自分との区別がつかなくなるような気がすることさえありました」そしてアワヒメは、小さく首をふった。
「それでいて、気がつくと、どこかとても手の届かない遠くにおられるようなのですけどね。たったお一人で。誰にも知られないままで」
「たとえば、どんなところでしょう?」
「ひとけのない町とか。雪におおわれた草原のかなたとか」
「淋しい風景なんですね」
「どうしてなんでしょうね」アワヒメは船べりにしなやかな身体を軽くもたせかけた。「本当に、なぜかしら?」
※
「いくら何でも、もうそろそろいいだろう」ニニギはしびれを切らしたようにうながした。「さっさと言えよ。何がそんなに気になると言うんだ、タカヒコネ?」
「それがな、いったんやめてしまうと、なかなかあらためて口にする勇気が出て来ない」タカヒコネは顔をしかめていた。「あんまりとんでもないことすぎて」
「だってそろそろ日もかげって来たぞ」ニニギは海の方を見た。「さっきからどれだけしょうもない話を、あれこれしたと思ってるんだ? ウズメの山羊だのサルタヒコの船だのヌナカワヒメの薬だの畑のでかいかぼちゃだのイノシシのわなだの灯台の―」
「わかったわかった」タカヒコネはため息をついた。「君がいらいらしてるのは見りゃわかる。だが、おれとしちゃ、あのかぼちゃが…」
「タカヒコネ!」
「君が気になるというのは」コトシロヌシがゆっくりさえぎる。「ワカヒコのことか、トヨタマヒメのことか、どっちなんだ?」
タカヒコネはあきらめたように肩の力を抜いた。「…トヨタマヒメのことだ」
「娘たちが言ってたことの中で?」
「うん」
「どこが?」
「彼女が手足だけなんて思えなかったって言ってた娘がいたんだろ? それも一人じゃなかったようだが」
「おれは声しか聞いてないから、たしかじゃないが」ニニギが答える。「一人ってことはなかったな。二三人、ひょっとしたらもっといた」
「そうか…」
「だから何だよ?」
タカヒコネがまた黙りこみそうにしたので、ニニギは手をのばして、その肩をゆすった。「おい!」
「いや、おれも時々、そんな気がしたんだよ」
「どんな気が?」
「トヨタマヒメは手足だけじゃないって」
「そりゃ皆、そう思ってたさ」
「でも実際には手足だけで、見てた者も多いから、それで皆納得したわけだけど、おれも納得はしたけどな」タカヒコネは言った。「でも後になるほど、いつもとは言わんが、時々絶対に彼女には身体も顔もあったとしか思えないんだ」
※
「君たしか彼女が村に来て早々、衣のすそをめくろうとして、けっとばされたんだったよな」ニニギが言った。「そのときの実感かい?」
「いや、あれはただけっとばされただけだよ。足しか見てないし、手足しか実はなかったと言われたら、そうかと思うだけのこった」タカヒコネは首をすくめた。「ただ、それからずっと村で暮らした間に、何かのはずみで彼女のそばに座ったり立ったり身をよせたりすることがあった。そんなとき、いつもじゃないが絶対に、今考えても誰かがいた。五体そろった生身の女が、あの黒い衣の中に」
二人は顔を見合わせる。
「トヨタマヒメとは別の女がってことか、それは?」ニニギが思わず声をひそめる。
「そこはわからない。でもトヨタマヒメじゃないって気もする」
「もちろんワカヒコは知ってたんだよな?」
「多分。と思うが、よくわからん」
※
「私はそもそもトヨタマヒメとそんなに近くにいたことがないしなあ」コトシロヌシが考えこむ。「ニニギは?」
「何度か並んだり、ふれあったりしたことはあるが、特にこれと言って―」ニニギも首をふる。「そもそも手足しかないなんて考えてもないから」
「それがあるから、おれも自信がないんだが」タカヒコネは口ごもる。「ただニニギの話してた女の子たちの話を聞くと、やっぱりあれは気のせいじゃなかったんじゃないかって」
三人はまた考えこんだ。
「君はなぜそう感じたんだ?」コトシロヌシがそっと聞く。「覚えてないか?」
タカヒコネは首をふる。「思い出そうとしてるんだが」と彼は言った。「いつそう感じたのかってことさえもう覚えてないからなあ。ただ本当に何となく、うすらぼんやり感じたんだよ。あれ、トヨタマヒメ、いつもとちがうな、って」
「だから、どこが?」
「そう問い詰められると、魚が網目からするっと抜け出すように、記憶がふうっと抜けてっちまう」タカヒコネは目を閉じ、息を整えた。「何だろう…ワカヒコに身体をくっつけるときの身のこなしとか、立ち上がる足の動きとか、いろいろ、どっかちがうんだよな。うまく言えないんだけど」
「声じゃないよな、彼女しゃべらなかったんだから」
「うん。声じゃない。ああ、ひょっとして―香りかな」
「香り?」
「ワカヒコやニニギには、どこかしら、タカマガハラの香りがすることがあるんだよ。このごろ村にタカヒメが植えて、増えてきてる、あの木の香りかもしれない。ぴりっと涼しい雪のような。タケミカヅチにもタカヒメ兄妹にもどことなく。本当にわずかで、かすかで、時々だが。当然トヨタマヒメにはそんな香りはしなかった。でも本当にときどき…都の香りがした」
「スサノオの都の?」
「うん…故郷だから、なつかしいというか、わかるんだよ。潮風のような、石垣のような。でも、それともまったく同じじゃない」
「マガツミの香りか?」コトシロヌシが静かに聞いた。
「うん。というよりも…」
「ヨモツクニの?」
「うん。ツクヨミとも少し似てるかな。海の匂い―砂の匂い―」
「ちょっと―」ニニギがさえぎる。「じゃワカヒコはヨモツクニの女を、そばにおいてたってことになる?」
「ないよなあ、いくら何でも」タカヒコネは髪に指をつっこんだ。「だから言いたくなかったんだってば」
※
「で、その女は今どこにいるんだ?」ニニギがせきこむ。
「あわてるな。いたかいなかったかもわからないんだぞ」タカヒコネが言い返す。
「だってさ―」
「たしかに気にはなるね」コトシロヌシも言った。「まだこの村のどこかにいるのか、それともすっかり姿を消してしまったのか」
「二人ともそんなにおれのことを信じていいのか」タカヒコネはむしろ不安そうだった。「本当に、ただのかすかな、ほんの感じみたいなことだぞ」
「それはそうだが何となく、たしかめてみたいじゃないか」
「どうやって?」
「いやそれは―今まだちょっと思いつかない」どこやら情けなさそうにコトシロヌシが手を広げた。