「水の王子」通信(177)
「水の王子 空へ」第十六回
【その人の望みとは】
「女の声がまた聞こえました。なぜ私の名がわかった?、と」
タケミカヅチはことばを切って、また低く続けた。
「ワカヒコさまは疲れ切った静かな声で言われました。死んだ男たちの顔は皆どこかイザナギさまに似ていた。あなたにさまざまな目にあわされる中で、ひとりでに皆、あなたが誰よりも愛した若い男の姿になって行ったのだと思った」
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「また沈黙がありました。そして女が聞きました。イザナギに会ったことがあるのか?と。私は少し驚いた。それではこの女は相手が誰かもまだ知らないでいるのかと。しかしワカヒコさまはそれも予想しておられたらしく、よくお目にかかりましたと、何でもないことのようにつぶやかれた。女は初めて相手に興味を持ったようでもありました。おまえは何者か、とたずねました。アメノワカヒコ。タカマガハラの将軍です。あの方がそう答えると女は少し黙っていてから、それにふさわしい男だね、とひとり言のようにつぶやきました」
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「そしてまた女は聞きました。イザナギを見てどう思った? ワカヒコさまはわずかに身じろぎし、ささやくように頼まれました。この剣を抜いて下さい。女は聞こえなかったように、同じ質問をくり返した。ワカヒコさまは黙っていて、苦痛でまた声が出なくなったのではと思いましたが、ただ考えておられただけだったのでしょう。むしろ前よりおだやかに、一言一言はっきりとおっしゃいました。いちずで勇敢で優しくて、けれど―そして一気に続けられた。臆病で弱くて、かたくなで残酷で」
聞いていた者たちが皆、恐れをなして身じろぎした。「何ということを」とタカヒコが声を震わせた。
タケミカヅチはかまわず続ける。
「あなたを失って傷ついていた。あなたを愛して苦しんでいた。どこかが欠けた空しいお顔。幸福そうには見えませんでした」
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「女は怒りませんでした。満足そうでもありませんでした。ワカヒコさまの声だけでなく表情にまで、そのころになると女の気配がどことなくにじみ出してくるようなのに私は気づきました。女はどこか悲しげに言いました。変わっていないのね。私が愛して、憎んだ男。そしてゆっくり、また聞きました。おまえはどう思っているの?あの人が憎いから、好きだから、私がこんなことを続けていると。どっちだと思っている?」
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「ワカヒコさまは、せきこみました。とても苦しそうだった。絶え間なく続く痛みと疲労の中で、手放すまいと、つかんでいる手がかりを必死でにぎりしめておられるようでした。そして、ゆっくり、くり返された。あなたの本当に望んでいるのは、こんなことじゃない。誰かを愛したり、憎んだりして、こんなことをしてるんじゃない。あなたはただ、ご自分が苦しくて、つらくて、恥ずかしくて、それと同じことを、相手の男に味あわせて、自分がそれから離れて、他人のようにながめては、忘れて、消そうとしているだけだ」
「そんなことまで言われて、女は何もしなかったのか?」
「何を言われておるのか、とっさにわからなかったのではないですかな。私にもよくわかりませんでしたから」タケミカヅチは言った。「それがかえってよかったのでしょうな。あの女はとまどって、考えこみ、ワカヒコさまは弱々しいがきっぱり、たたみこまれました。でも、いくらやってもそれでは消えません。だって、相手にいくら味あわせたつもりでも、それはあなたの苦しみじゃないから。あなたは一番大きな苦しみを、その男に味あわせられません。その男にあなたが味あわせられた苦しみを。だから、相手にはわかりません。あなたの痛みも苦しみも。イザナミ、これではだめなんです。このやり方では伝わりません」
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「力を使いはたしたようにワカヒコさまがぐったりしてしまわれたので、あの女は少しあわてたようでした」タケミカヅチは言った。「あの方が頼まれたように剣を抜いたのか、他に何かしたのかわかりませんが、とにかくあの方をもっと話ができるようにしたようで、そしてひとり言のように、ほとんど言い訳するようにつぶやきました。何かを伝えようとして、私はやっているのじゃないよ、と。細い糸のような声でワカヒコさまはささやかれました。知っています。あなたは自分の苦しみや憎しみを、一人で消してしまおうとなさっている。けれども、それは、まちがいです」
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「私はワカヒコさまのことを、めちゃくちゃに好きで愛していたとは自分でも思いません」タケミカヅチは首をふった。「タヂカラオのように、あの方を全身で好いておったら、とてもあの様子を見て放ってはおけなかったことでしょう。いろんな意味で、あの方はすごすぎた。いつもどこかで私は気味が悪かった。その時も、心のどこかで感じておったのは、最初のころに感じたと同じ思いです。何なんだ、こいつは。いったいこいつは何なんだ」
彼は平手で顔をぬぐった。
「殺された男たちがどんな目にあっていたか、私はこの目で見ています。今も夢の中で、あの方がどんなひどいことをされているか、ある程度見当がつくのです。半身溶かされておいでかもしれない。人のかたちをとどめておられないかもしれない。それほどの状態の中で、落ち着き払ってあの方が、一歩一歩進めておられるのは、数え切れないほど私と訪れた村や町で、土地の長や有力者と重ねた丁々発止の取り引き、交渉、かけひきそのものだったのです。少しもそこに乱れはなかった。いつものように、落ち着いて、無駄がなく、もの静かでいらした」
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「あなたには、してほしいことがあるはずです、とワカヒコさまは続けられた。それを相手に、頼まなければ。イザナギにでも、他の誰でも。あなたは自分の苦しみや悲しみを、相手に自分のこととして、教えなければいけません。自分のこととして見せて、話して、何をしてほしいか頼むのです。イザナミ。あなたの本当の望みは何ですか。愛する人にしてほしいことは何ですか。断られても憎まれても恐れられても笑われても、それを言ってみようとは思いませんか。あなたの苦しみと痛みを、あなたの中からも、この世からも消すために」
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「やっと聞き取れるほどのかすかな、おぼつかない早口の声でした。それでも女は完全に聞き取ったようでした。私が口にしなかったと思うのか?と女は淋しげに聞きました。あの人にも、他の者にも。恐れられ、無視され、笑われるだけだった。これはと信じた者にさえ。男と言わず女と言わず、私は自分の望みを告げた。あれこれと工夫もした。愛もささげた。時間も手間も、かけて、かけて、かけたのだ。けれど皆が目をそらした。聞こえないふり、見えないふりをし続けた。私との快いまじわりや楽しい時間の喜びだけをたっぷり味わい、奪って、逃げて、裏切って、私の本当に訴えたいこと、見せたいもの、聞かせたいものにだけは、絶対に向き合おうとも、うけとめようともしなかった。もうごめんだよ。もう疲れたのさ、アメノワカヒコ。おまえはまだ足りないと言うのかい?私のやってきたことが」
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「あの方はまた黙ってしまわれました。女は悲しげに待っているようでした。私はその時に、なぜかワカヒコさまよりも女の方を哀れに思った。長い経験からわかったからです。ワカヒコさまは次の一手に絶対の自信を持っておられると。最終的にはどうなるにせよ、次の一手では勝利を確信しておられると。狩人が倒したけものを見下ろすように、とどめの一手をあの方が哀れんで、ためらっておられるのを感じたのです」
皆があわただしく顔を見合わせる。誰の目も、わからない、と言っていた。女たちが笑いさざめきながら連れてきたホスセリを、ニニギが上の空で抱きとる。タケミカヅチが頭をかいて、「今日はこのへんまでにいたしましょうか」と言ったとき、皆が前のめりにずっこけた。
「でも、もう少しなんだよね?」ニニギが子どものような顔でねだった。
「一気に話してくれた方が」コトシロヌシもひかえめに不満をもらす。
「かりに今夜か明日、戦闘があって、あなたが死んじゃったりしたら実際どうしてくれるのよ?」タカヒメが声を上げる。
「まあまあまあ、そんなことにはならんですよ」タケミカヅチはうけあった。
若者たちはいっせいに、不満のうめき声をあげる。
「ワカヒコに負けず劣らず、あなたも人が悪いなあ。やっぱり主従って似て来るんだ」タカヒコネがくやしそうに言い、タケミカヅチはひげをふるわせて大笑いした。