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「水の王子」通信(50)

四十年ほど前、1978年、三十二歳の六月、「水の王子」の第四部までを書き上げて自費出版した私(と潮由美)は、一気に第五部を書いて完成させようとしたが、私が別の友人に誘われて、夏のシベリア旅行の旅に出ることになった。これまで海外旅行には三回しか行ったことがなく、あとの二つは韓国とニュージーランドだ。きっと死ぬまでこのままだろうな。

シベリア旅行は盛りだくさんで大変楽しかった。時刻表などあってなきがごとしで、列車は各駅で適当に停まって、適当に発車した。近くの村の人々が果物などを売りに来て、乗客たちはそれを買って車内で食べた。これはそんな一場面だ。あたりまえだが私が若い。

その旅で何があったというわけでもないのに、何だかだで、「水の王子」の第五部はそれきり書けなくなってしまった。以後四十年、何度か書いてはボツにした。その間に書いた「限りなくつづくあとがき」というノートが数冊あって、書庫の中から一冊だけが見つかっている。他のも、どこかにあるはずではある。

その一冊の記事から、少し抜粋しておこう。本当にとりとめもなく続きまくるおしゃべりなので、適当に選んで、適当に切る。どうぞ、あしからず。

     1
 小説を書くことによって人間が、どれだけ危険にさらされ、また堕落するかというのなら、この二年間の私はある意味では、まさにそうだった。今なお、そうでもある。
「水の王子」第五部を、私は五回かき直し、なお完成させられずにいる。たださせるのなら、できる。五回できたし、もう十回もできるだろうと思う。しかし、あの作品は、そのようには、完成させられない。おそらく、どうしても、やはり、このノートがいるのだろうー主として、第三部、第四部にもかかわってくる、このノートが。
 書きあげられない小説をかかえて、私は空しいこころみをくりかえした。決して育たない子どものように、それを世話しつづけて、国文の勉強を、教師としての仕事を、恐ろしいほど私は怠けた。今、私は追いつめられ、創作の泉自体も枯れはて、心の余裕もなくなり、自分に近づく回りの人々、すべてをともすれば憎もうとする。
 悪い徴候だ。回りの皆にとってではなく私にとって、これは危険信号である。
 かんたんなのは、すべてを放棄し、勉強にうちこむことである。もう少し放っておけば、私はそれをするだろう。それがかしこいやり方なのかもしれぬ。
 しかし、今、この年になって、もうそれはしたくない、と私は思う。一つから一つへと、ふりこのようにゆれ動くまねは。誇りや、他への憎しみをバネとして、なりふりかまわずがんばって、力をつけていくようなことは。
 もっとゆたかなもの、やさしいものをエネルギーとして、動いていく人間でありたい。苦しみや怒りや悲しみは、しょせん、不自然なものなのだ。それで動くのは、甘えだと思う。子どもだと思う。大人になり、これからも大人でありつづけるためには、かしこく、力づよく、ゆたかで、やさしくあれねばならない。たとえ、今の私が、そこからどれだけ、遠いにしても。結局はそこまで、歩みつけないほどの遠さでそれがあったとしても。

     2
 このノートを書きつづけることから、やはり私は、はじめよう。それは、確かな核心へときりこんでいくことであり、結局は、最短距離の目的へ向かっての走路だと思う。もうぐずぐずはしておれない。なりふりかまっているときではなく、もっと役にたつ方法をさがす時間も、もはやつきている。(つづく)

上の文章の日付は、もう少しあとで出て来ますが、1981年8月12日です。私三十五歳。ぶるぶる。

イラストは第四部「海の」のラスト近くの場面。陰々滅々のこの話の中じゃ、ようやくちょっと救われる部分。描いてて少し幸せになった(笑)。

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カツジ猫