「水の王子」通信(90)
キギスは日本神話では、ナカツクニの村に居着いてしまったアメノワカヒコを呼び戻しにタカマガハラから行って、木の上で鳴いていたら、アメノサグメが「射てしまえ」と命令してワカヒコが射た矢で死んでしまう。その矢がタカマガハラまで飛んで行って、タカミムスビたちが、「これがワカヒコの射た矢なら彼を殺せ」とか言うんだっけ、投げ返された矢は地上に戻って、ワカヒコを殺してしまう。かなり印象的な話だ。
何となく、このエピソードは昔から私の中では「人を批判したり攻撃したりしたら、同じ基準でこちらも点検され評価され、断罪される。それを覚悟しておかないといけない」という処世訓になって記憶されていた。キリストの「汝ら罪なき者のみ、この女に石を投げよ」というせりふとか、人を呪わば穴二つとか、人のふり見てわがふり直せとか、そういう教えの数々と、どこかで重なっていたかもしれない。
その一方で、私の心には、そうやって敵や相手に自分をあえて攻撃させ倍返ししてたたきのめして完璧に葬り去るという戦法として、これを使えないこともないなあという、危険な防衛構想も、いつもどこかであった。少なくとも、いけ好かないやつがいたら、早く自分を攻撃しないかな、正当防衛や自衛権を口実に再起不能なぐらいひどい目に合わせてやるのにという、よからぬ期待をひそかに抱いていることが多かった。
それとは別にまた、私の物語ではトヨタマヒメやキギスは、私の最もへまでみっともない弱い部分の象徴だ。しかも譲れない、なくしてしまえないものの象徴でもある。格子の外へ出たいとか、空を飛びたいとか、ありえない身の程知らずな渇望の。
そこを攻撃されたらひとたまりもないという恐怖と、そこを攻撃されたら相手を絶対許さないという決意とが、世の中すべての、醜い弱い愚かで無力な存在のすべてへの共感となって、私の中にはいつもあった。強く正しく生きようとする力をなくした時、その思いだけを支えに自分の誇りを守っていたこともあった気がする。
ただ、「村に」を含めた「水の王子」全体が、どこかで否定したのは、そういう戦い方全般でもあった気がするのだ。息子を殺した者に復讐しようとした父にせよ、キギスの戦い方にせよ、キノマタが掲げたスローガンにせよ、「弱い者が傷つくことによって、力を奮い起こして強い者を倒す」という戦法は、決して最良の結果は生まない。「何がこんなに不愉快なのか私は自分でもわからない」とキギスの強さの秘密を知ったサグメがもらす一言は、そのままサグメの健全さとまっとうさを示すだろう。
正義の戦いは、弱い者がしいたげられることからパワーを得ようとしてはいけないのだ。いたずらに弱者や異分子を救うことを、ヒルコがためらうようになったのと同様に。
それでも、その中である意味、禁じ手の戦法で戦い続けたキギスはやはり、私の中では尊い。彼女の戦いが一時期のタカマガハラを支えたように、そのような存在がなければ私もまた生きられなかった。
彼女は私の物語では、青白いやせた、時にはむくんで太った、どう転んでもみっともない少女である。しかし、同じように醜い女性として知られたイワナガヒメは、そのパワフルさをどうにか絵にできたのに、私はキギスのその不健康なぶかっこうさを、結局絵にできなかった。彼女は私の中ではいつもどこか清らかで気高い。それを表現するしかなかった。
これも私の物語の中でだが、オオクニヌシの息子で山の上で暮らすコトシロヌシは鳥が好きで(これは神話にもある)、多分羽の生えたキギスも好きだったろう。いつ書くかわからない続編「回復期」の中で彼は、キギスと危険な森の中を進んだ一夜の思い出を「恐ろしかったが幸福だった」と語るだろうし、キギスもそうだったのかもしれないと思いたい。