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「水の王子・丘なのに」(23)/228

「水の王子・丘なのに」(第23回)

【満天の星】

あるかなきかの朝の風が、そよそよと畑の上を吹いていた。草の露がアワヒメの服のすそをぐっしょりと重くぬらした。それにかまわず畑の間を歩いて行くと、遠く見える岬の灯台を背にして、きげんよく鼻歌を歌いながら、小柄な女がただ一人、野菜を土から引き抜いてはたばねていた。丸っこい顔と身体、灰色の短い髪。くすんだ緑と茶の服をまとった、どこにでもいるような農婦だった。
 しばしためらった後、アワヒメは声をかけた。
 「アメノウズメさまですか?」
 女は元気よく身体をよじってふりむいた。陽焼けした顔が笑った。「そうだが、あんたは?」
     ※
 「申し遅れて失礼をいたしました」草の間にアワヒメは片ひざをついた。「タカマガハラの将軍で、アワヒメと申します」
 「ああ、そう言や、ゆうべ船が下りてきてたね」アメノウズメは首をのばして草原の方をちらと見やった。「何か用かい? まあ座って、このとれたての野菜でもかじって見るかい?」
 ついていた泥を袖でごしごしこすってから、あぜ道の石垣の上に腰を下ろしたアワヒメにウズメは太い菜を差し出した。よくそろった白い歯でそれをかじったアワヒメは、「まあ、おいしいこと」と目を輝かせた。「しゃきっとしていて、甘くって」
 「煮てよし焼いてよし、だが生でかじるのが、やっぱり一番うまいねえ」ウズメは自分もかじってみて、目を細くした。
 「もっと早くに一度お目にかかりたかったのですが」遠慮がちにアワヒメが言う。
 「ここんとこ、あたしの見た目がちがってたから、探しにくかったんじゃないよね?」
 「それも少しはございます」アワヒメは答えた。「髪もお召し物も、とても華やかとおうかがいしていたものですから」
 「このごろは、わりといつも、こんなかっこうなんだよ」ウズメは服の袖を左右に広げてみせた。「たまに派手なのを来てみせるとサルタヒコが喜ぶしね。裸で踊ってやると、もっと喜ぶけど」
 アワヒメは手のひらで口をぬぐい、声をあげて笑った。
     ※
 「タカマガハラはこのごろ、どうなんだい?」ウズメは聞いた。 
 「鏡を探していますわ」
 「新しい鏡ってこと?」
 「その作り手も、使い手も」
 アメノウズメは苦笑いした。「よもや、あたしに、また戦士になって鏡を使えと言うんじゃないよね?」
 「そのお気持ちはまったくおありにならないのですか?」
 「なすべきことはして来たよ」しばらく考えをまとめるように黙っていてからウズメは言った。「イザナギさまとイザナミさまが敵味方になって以来、タカマガハラを滅ぼすまいと、あたしたちはそれなりに皆で必死に戦った。ひどい死に方や、死んだ方がましな生き方をした者も限りなく見たし、自分たちもいつそうなるかわからないと思っていた。アマテラスにあれだけ信じられ、愛されたのに、裏切って、忘れて、そのせいで長いこと彼女を苦しめたハヤオとヒルコを、あたしは今でも許しちゃいない。だが、それもこれも、昔のことだ。それに、こんな恨みを抱いたままの者が、鏡を使うのは危険すぎる。タカマガハラにも、あたしにも、誰にとってもね」
     ※
 「誰もが気づいているわけではないでしょうけれど」アワヒメもしばらく黙っていてから、考え考え、口を開いた。「鏡の力の記憶はまだまだ、人々の心のどこかに残っています。それが世界を支えてもいます。けれども、それも、いつかは弱って、人々の心から消えて行くことでしょう。そうなったとき、不正と恐怖と暗黒が再び何かのかたちで、私たちにおそいかかるでしょう。たとえばキノマタのような、あるいはカナヤマヒメのような、一見無害な者たちが、それを生み出すのに自分でも気づかず手を貸すのでしょう」
 アワヒメは足もとの雑草を指で静かになでていた。
 「あなたの鏡が割れたのには、それなりの理由があったのでしょう。ヒルコやハヤオが生きて行ける世界にふさわしい、新しい鏡を私たちは作り出さなければならないのです。その作り手や使い手が、どんな苦しみを味わうにしろ、どんな危険をおかすにしろ」
     ※
 そろそろ畑に出て来る者たちがいるようだ。あぜ道の向こうに見える人影のいくつかに、ウズメは陽気に手をふった。ふり続けながらアワヒメに聞く。「それはどこまでタカマガハラの総意なんだい? 指導者たちの考えは一致してるの?」
 「タカギノカミさま、タカミムスビさま、オモイカネさま。お若いところではクニトコタチさま」アワヒメは指を折って数え上げた。「他の皆さまのお考えも、ほぼ一致していると聞いています。クラドの町や、その他の場所にいくつか、鏡を守ったり、使ったりしている人々がいるのもつかんでいます。それを手がかりにこれからも私たちは調査を続けて行くでしょう」
 「それが現将軍のあんたの、当面の使命ってわけだ」
 「そうなるのでしょうかしら」
 朝風に散る金色の髪をかきあげるアワヒメの顔をウズメは見上げた。「何であんたが自分でやらない? 鏡作りも鏡使いも、あんたなら充分にやれそうだけどね。将軍よりも、その方が、きっとあんたにゃ向いている」
 「考えておきますわ」どこか遠くを見るような目で、アワヒメは笑った。親しい人が待っている、なつかしい場所を思い浮かべているように。
     ※
 「クラド王の妃カヤヌヒメは私の古い友人でしたの」アワヒメは野菜の残りを少しかじった。「子どものころも大人になってからも、草原でときどき二人、こうやって野草や木の実をかじりながら、こんな話もいたしました。ひょっとしたら、鏡はもう二度と、この世には現れないかもしれない。けれども、あちこちで一人ひとりが何かそれに似たものを持っていたり、作ろうとしたりしていたら、もしかしたら、それはそれで、うまく行くのかもしれないって。太陽は力強い。月は素晴らしい。けれど小さな星の全部が空いっぱいに輝けば、同じとまでは行かなくても、似た明るさは作り出せるのではないかしら。そしてそれはそれできっとまた、太陽とも月ともちがう、かけがえのないものになるのではないかしら。草原で夜空を見ながら、そんな話をしたことを、昨日のことのように思い出します。彼女はこの世にもういませんが、星の光のように、今も私を包んでいます。淋しさよりも暖かさを、いつも身体に感じます」
 「そんなもんだよ」ウズメはうなずいた。「遠くにいても死んでても、いつもすぐそばにいる人ってのは、息づかいまでわかるもんさ」
     ※
 「ああ、それで思い出しました」アワヒメは額に手をあてた。「私としたことが、それをご相談に来たのでしたのに、つい、お話に夢中になってしまって」
 「そのお友だちに関することかい?」
 「はい。実は彼女の娘を預かっているのです。父親は妻の死の悲しみのあまり、彼女と会いたくないそうで、新しい引き取り手をさがしてやらなければなりませんの。ミズハという名で、今はニニギとコノハナサクヤの家においてもらっているのですけれど」
 「お待ちよ、それはあの子だね?」ウズメは、うんざりしたような笑いをこらえているような、妙な声を出した。「村じゅうをかけ回っては、皆の目を回させてる、あのおてんば娘かい? たしか昨日はウガヤの背に無理に乗ろうとして、ざんぶり海に落ちてたよ」
 「多分、その子ですわね。直接お会いになりまして?」
 「何日か前、あたしをここでつかまえて言ったよ。おばさん、その服、地味だけど超カッコいい、前に着てたケバい服よりずっといけてる、ってさ」
 「よもやまさか、それで服装をお変えになったとか?」
 「まさか」ウズメはつんとした。「ほめてくれたお礼に大根をやったら、かじって苦いとか固いとか文句を言いながら、それでもがりがり食べ上げたよ。昔のあたしを見てるようで、少々めげたね。こんなにうるさい、回りにしんどい思いをさせる子だったっけと、反省したよ、柄にもなく。いっしょにいたハニヤスは目を細くしてかわいいかわいいを連発してたけどね。彼女何年か前に女の子を亡くして、ずっと淋しがってるんだよ。ああそうか、頼んだら彼女が親代わりになってくれるんじゃないかね」
 「よろしかったら、ぜひお願いして下さい。私からもお話に行きますから」アワヒメは声をはずませた。「あの子を幸せにしてやりたいのです。カナヤマヒメの不用意なことばで、母も、父の愛も失った子ですもの。こんなことを言っていいのかどうかわかりませんけれど、できることなら、私はカナヤマヒメという人の生きた痕跡を、この世にひとつも残したくないのですわ。彼女が生み出し、作り出した、どんな悲しみも苦しみも、この世からも私の心の中からも、あとかたもなく消し去ってしまいたいのです」
 「ひょっとして、それはあんたの、友だちを奪ったカナヤマヒメへの復讐なのかい?」
 「多分そうですわね」アワヒメは恥ずかしそうに小声で言って、ほほえんだ。「ささやかな、ささやかな」
     ※
 畑のあちこちに人がふえて、にぎやかになった。太陽は高く空にのぼって、あたりは光につつまれた。ウズメとアワヒメは、どちらも黙って空を見上げた。白い雲の浮かぶ青い空の上の夜空と、そこに輝く満天の星を思い浮かべているように。

 

水の王子・丘なのに 完     2023.6.25.

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