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水の王子・「川も」10

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 その夜も遅くにふと目をさますと、ツマツとモモソが低い声で楽しそうに寝床の中で何かしゃべっており、ヒルコはハヤオのすぐ横で、世にも幸せそうにぐっすり眠りこけていた。
 なぜかその夜は、ハヤオはとりわけ目がさえて、いつもはぼんやり聞き流す母娘の会話につい耳をすませてしまった。
 どうやら二人は、ツマツの死んだ父、つまりモモソの夫だった人の思い出話をしているらしい。
 悲しそうな調子ではなく、むしろ明るくのどかな声だった。
 「そんなに大きな人じゃなかったのよ」モモソが言っていた。「どっちかというと、やせてたわね。でも、身体はしっかりしていて、仕事も上手だったのよ。家の修理とか家具を作るのとか、黙っていつの間にか、ささっとやってて、それが出来が良くて使いやすくてこわれないの。今使ってる、この寝台や食卓や椅子なんかも、皆、父さんが作ったものよ」
 「髪の色は茶色だったのね?」
 「黒に近い茶色ね。長くて、やわらかで、ゆるく波打ってたわ。それを首すじまでのばしてた。ひげも同じ色でやっぱりやわらかで、さわったら、とても気持ちがよかったわ」
 「母さんとは小さいときからの知り合いだったのよね?」
 「そうよ。おたがいの家のことも育ちのことも、皆知ってるから、自分たちのことでは、あんまり話すこともなかった。いっしょにいろんな仕事をしながら、何だかとりとめのない話ばかりしていてね。父さんは少し変わっていたのかもしれない。よくたとえ話のような噂話のような話をしてくれたけど、それが何だかどれも似ててね。どうしてそんな同じような話ばかりするんだろうかと、ときどきふしぎに思ったものよ。だけど父さん、声がよくてね。話すときの、うっとりした目もきれいでね。それでついつい意味はどうでもいいというか、考えないで聞きほれてたの」
 「今ならわかるの、そのお話の意味が? 父さんの言いたかったことが?」
 「いいえ、やっぱり、あんまり、よくはね」モモソは笑った。「第一もう、かなり忘れてしまったし。でも、時々考えるのよ。あの人が結局言いたかったのは、どんなに突然でも、長いこと会っていなくても、大切な人が訪れたら、どんな大事な用事があっても、何をしていても、すぐに出迎えなさい、戸をたたく音が聞こえたら、何をおいてもすぐに開いて、さしだされたものを受け取りなさい。それをしなかったら、その瞬間を逃したら、もう二度と手に入らないものがある、失ってしまって、永遠に得ることはできない。そういうことを、あの人は、くり返し言い続けていたような気がするの。受け取らなかった荷物。出迎えなかった人。それはもう二度とあなたの前にはあらわれない。そういうことをね」
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 「それって…」ツマツは考えているようだった。「それって、あれかな。どんな生活をしていても、どんなに長く離れていても、いつも心にかけとくってこと? 訪ねてくるかもしれない人、届くかもしれない荷物のことを。でも、それじゃ、今の生活を、いつも上の空で生きてなきゃいけないってことにならない? 来るかどうかもしれないものを、ずっと心にかけ続けて」
 「そういうことだと思うのよ。いつも、そなえておけ、と、あの人は口ぐせのように言っていた。いつ離れても、いつなくしてもいいように、今の暮らしをせいいっぱいに生きておけ。何か、かけがえのない人やものが現れたとき、すべてを捨てて、すぐ飛び立ってもいいように、って」
 「母さんもそうして生きたの?」
 「私には、あの人が一番大切だったのだから、幸いなことにそんな悩みはなかったし、心構えもいらなかったわ」モモソは言った。「そう言えば、あの人は、いつか私にこう言ったことがある。人は忘れてしまうんだよ。どんなに心を通いあわせて、わかりあえたと思っていても、ほんのしばらく会わなかっただけで、その人はまたすっかり元に戻って、私の知らない他人になっている。あなたはちがう。どれだけ会わないでいても、いつも私の知っているモモソだ。だから好きだよ。あなたは決して、私の知らない人にはならない」
 「母さん、そのとき何て言ったの?」
 「人はそんなに変わりはしないわ。私はもともとこうだったのだし、あなたが元に戻ったという人は、もともとそういう人だっただけよ」
 「そしたら、父さんは?」
 「何と言ったか覚えてないわ。きっと笑ったのじゃないかしら」
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 …そう言うけれど、きっと皆が忘れてしまう。
 涼やかな澄んだ力強い、それでいてどこか淋しげな声が、そのとき突然、ハヤオの耳に聞こえたような気がした。
 …私はきっと忘れられやすい人間なのでしょう。私も、そして、タカマガハラも。
 おれは忘れないよ。こんなにはっきり、見たことなのに。
 …そう、はっきりしていて、かんたんなことなのにね。
 …多分、かんたんすぎるのね。
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 おれは、忘れた。
 気がつくと、ふとんの中でハヤオは息を殺していた。
 おれは、アマテラスを忘れた。
 彼女を出迎えなかったし、彼女の戸をたたく音を聞こうとしなかった。
 スサノオの都の、あの暗い道で。
 死にかけたヒルコを抱いて、ヤマタノオロチの影を見た、あの夜に。
 その結果アマテラスは都の地下で、三人の女に改造され、広場でヤマタノオロチにひきさかれ、やがてわにざめの姿となってナカツクニの村の入り江で、人や生きものを食らい続ける怪物となった。
 おれが忘れたから。自分が生きのびるために、彼女を忘れたから。
 おれが迎えに行かなかったから。探そうとしなかったから。
 彼女は待ち続け、化け物になった。
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 ハヤオは静かに、ただそっと息だけをし続けた。
 アマテラスはやがてよみがえった。昔のままのりりしく力強い輝かしい姿で。そして再びタカマガハラの大将軍として君臨した。
 彼女は少しもハヤオを責めず、昨日かさっき会ったばかりのように昔のままに接してくれた。わにざめの姿の時も、昔に戻った時も、同じようにハヤオを受け入れ、救い、見守って愛してくれた。
 あまりにそれが自然だったから、ハヤオは多分気づかなかった。
 今あらためて、思い知る。
 アマテラスの方がどうでも、自分はもう二度と彼女と昔のようにはなれない。
 永遠にハヤオは彼女を失ったのだ。
 これからの彼女の人生で、ハヤオはもう昔のような存在になることは決してない。
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 そして、もう一人の女の顔が、華やかな色彩の渦とともに、闇の中に浮かび上がる。
 時に少女、時に中年女。大げさで、かんしゃく持ちで、おしゃべりの、ころころ太ったこっけいな女。タカマガハラのアメノウズメ。
 いついかなる時も、アマテラスが昔のままによみがえることを固く信じて決してゆらがず、ただひたすらにわにざめを見つめつづけて、生き続け、待ち続けた女戦士。
 今、ハヤオは、自分とヒルコとに対するアメノウズメの軽蔑と憎悪の深さをはっきりと知った。
 彼女がそれを表に出すことは決してあるまい。ハヤオたちの存在など彼女は歯牙にもかけないだろう。復讐や罰を与えることでさえ、自分の手を汚すことだと思うほど、ハヤオたちのことなど眼中にないだろう。
 それでも、今や、ハヤオにはわかる。
 アマテラスに愛され、そして忘れて裏切った自分に対するアメノウズメのさげすみと嫌悪と憎しみは、どんなことがあろうとも、決して薄らぐことはない。
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 でも、アマテラスとタカマガハラを忘れなければ、あのとき、自分は生きられなかったのだ。
 生きなければよかったのだろうか。生きなくてもよかったのだろうか。そうすることで、新しいことが何かはじまったのだろうか。
 でも、そんなことはわからない。
 イザナギだってイザナミだって、生き続けようと思ったからこそ、育てられないとわかっているヒルコを海に流して、忘れた。そして、自分たちの世界を作り続けることにしたのだ。
 そのヒルコを、あの都で守るためには、自分が生きて行くしかなかった。
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 いつの間にか、ツマツとモモソも話し疲れて眠ってしまったのらしい。小屋の中はしんとしていた。
 ヒルコがむにゃむにゃ小さく何かつぶやいて、ひんやりとしたすべすべのほおを、ハヤオの肩先に押しつけてきた。
 思い出の数々に押しつぶされそうになっている間に、妹娘のことでいらいらしていた思いなどは、どこかへ行ってしまった気がする。
 それが、せめてもの慰めだとハヤオは眠りに落ちて行く前に思った。

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カツジ猫