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水の王子・「沖と」12(最終回)

第十章 オオヤマツミ

タカマガハラの白い船は人々を乗せて、朝の光の中をゆっくりと海岸の方へと向かっていた。甲板の上に村人たちはあふれていたが、ひしめくほどの数ではなかった。村が消え、変わり果てた海岸の様子を見る気になれなくて、丘の向こうに残った者も多かったのだ。
 さわやかな風を受けて、へさきで前方に顔を向けていたツドヘに、後から近づいたスセリが「ツドヘさま」と声をかけた。「昨日は夫が失礼なことを言ったそうですね。お許し下さい」
 ツドヘはふり向き、スセリの方に手をのばしながらほほえんだ。「気づかいなさるな。おれは弟を知ってます。どうでもおれを船に残そうと思ったら、どんなことでも言うやつですよ」
 「それにしたって、言っていいことと悪いことがありますわ」スセリは厳しい口調で言った。「ときどきあの人は、本当に自分以外のあらゆる人をさげすんでいて、つい本音が出るのじゃないかと思ってしまう」
 「わかってやらんといかんよ、奥方」ツドヘは言った。「本当にだめで、できそこないの、くずだと思っている相手には、あの男は決してそんなことは言わない」
 スセリはしばらく黙っていた。「夫のことをよくわかっていて下さるのですね」彼女はやがて、おだやかに言った。「あなたのような方がいて、彼は幸せ者ですわ」
 ツドヘは笑った。「彼は船室にいるのですか? 気にするなと言ってやって下さい」
 「伝えます。私が怒っていると知って、煙たがって、さけているのよ」
 「早く仲直りしてやって下さい。これから先は彼もあなたも、きっと忙しくなるでしょう。大変な仕事がいろいろ待っているはずだ」
 「そうですわね。せいぜい力を合わせませんと」
 ツドヘの腕に手をかけて、スセリは強いまなざしを、あらためて前方に向けた。
     ※
 高く飛ぼうか、低く飛ぼうか。
 シナツヒコは少し迷っていた。
 津波や戦いで住んでいた村や町が燃えたり波にさらわれたり、消えて荒れ果ててしまったりした人たちを、そこにつれ戻した時の経験は、ただの兵士としてさえ、彼にはなかった。
 そんな時の心がけを教わりもしなかった。
 今朝、船に乗りこむ村人たちの中に、明るい顔をしている者はほとんどなかった。
 それぞれに皆、ある覚悟を決めた顔だった。あからさまにおびえた悲しげな目をしている者もいた。
 もしかしたら助かっているかもしれないが、残して来た者の死を知ることになるかもしれない。もっと悪いのは、どうなったかさえわからないことだ。
 そんな思いの数々を、それぞれに抱えこんでいる顔ばかりだった。
 そんな人々にとって、まず目に入る村のあった場所の姿は、とりあえず高みから見るのと、近々と変わりはてた様子を目にするのと、どちらが耐えやすいものなのだろう?
 タカオカミはどう考えているのかわからなかったし、かじをとるトヨウケも、まだどの程度の高さで村に近づくか、聞いて来なかった。
 昨日とはうってかわって、あたりに鳥の影も見えない。
 タカヒメが昨日、丘の向こうに下ろして行った、オオカミとも犬ともつかない、イナヒとかいう名のけものの頭をなでながら、コトシロヌシが近づいて来た。
 コトシロヌシによりそっているが、そう言えばこのけものも、しっぽをたらして、どことなく元気がない。ゆうべはずっと丘の向こうの、人々がたいているたき火の間を走り回って誰かを探しているようだった。
 「飼い主が見つからないんですよ」イナヒを見ているシナツヒコに向かってコトシロヌシが、おだやかな声で教えた。
 シナツヒコはうなずき、ふとひとり言のように聞くともなしに口にしていた。
 「高く飛ぼうか低く飛ぼうかと考えているのですが。村を近くから見た方がいいのか遠くから見た方がいいのか」
 二人の目が合う。コトシロヌシの唇がゆっくり動き、「ご親切に」と彼は言った。「できるだけ低く飛んで下さい。できるだけ近くから、すべてを見られるように」
     ※
 海は青く、嘘のように凪いでいた。
 沖を調べて飛んだタカマガハラの船々からの知らせでは、二度三度と津波がよせて来る恐れは当分ないだろうということだった。
 入り江のかなたに白い帆をはった船が一二艘走るのが見えた。
 あの波を、乗り切ったのか?
 信じられない思いでシナツヒコが目をこらしたとき、岬が見えた。その突端に立つ灯台が。
 反対側の岬の上の、うずくまるように地面に根をおろした廃船の回りには、ちらほらと人々の姿があった。こちらに向かって手を振っている。
 その時、帆柱に上がって帆綱にとりついていたタカマガハラの戦士たちの数人が叫び声を上げたのが甲板の人々の耳に飛びこんで来た。
 「残っている!」
 「そのまま残っている!」
 え?とふりあおぐ人々の上に、狂ったように手をふり回し、指さして叫び続ける戦士たちの声が入り乱れた。
 「村が! 村が!」
 「残っているぞ!」
     ※
 どっと船べりに人々が押し寄せ、船の向きが半回転しかけた。かじ取りのトヨウケ自身があわてて操作を誤ったのかもしれない。それほどまでに思いがけない風景が、船の真下に広がっていた。
 何もかもが、前のままにそこにあった。
 金色の葉がそよぐ木々。色とりどりの家の屋根。緑の野菜が並ぶうねの畑。川のほとりで墓地で走り回って手をふる人々。何ひとつ、昨日の朝と変わらないまま、陽の光を浴びて、雲の影の下に、風に吹かれて、そのままにナカツクニの村はあった。
 歓声は上がらなかった。幻を見ているように、人々はただ呆然と、永遠に失われたと思っていた村の姿を見つめていた。夢を見ているのかと誰かがうめき、自分たちはもう死んでいるのかと誰かがささやいた。叫ぶどころか、口をきけば、身体を動かせば、見ているすべてがこわれて消えて行くのではないかと恐れているように、皆がおずおずと息をしながら、甲板の上に、ただ立ちつくした。
 勢いよく船室から飛び出し、帆柱から飛び下り、甲板をかけ回りはじめたのは、タカマガハラの戦士たちだ。船底の船室の方でもざわめきが高まり、船が下って行くとともに下の村の方から喜びの叫び声や呼び声が聞こえて来て、それらに呼応するように、ようやく甲板の上でもまだどこか半信半疑のいろんな声が入り混じりはじめた。
 びしばしと音をたてて、はしごや綱が船腹から空を打って下ろされる。戦士たちに押しとめられながら、人々はそちらに押し寄せ、船が草地に着くやいなや、イナヒが激しく吠えながら船べりをとびこえて、かけよって来た人々の中に飛び下りた。鼻を土にすりつけてあたりの草をかぎまわったと思うと、たちまち荒々しく鳴き続けながら一目散に湖のほとりにある家に向かってかけて行く彼を、皆があわてて通してやる。
 そのあとはもう、誰にもとめようのない大混乱になった。村中からかけよって、集まって来た人たちと、船から下りた人々が、いたるところで抱き合った。くちづけをかわし、たがいの名を呼び、また抱き合った。灯台からも廃船の酒場の方からも、走って来る人の列がとぎれない。岩山の上の方の入り口がふさがれていたのがこわされて、はしごや綱でそこからも人々が下りて来ていた。
 「あなた、あなた!」泣き笑いのように、自分たちの家をのぞいて来たらしい妻が報告していた。「台所のなべの中に昨日作ったままの煮物があったわ! もうびっくりよ! 笑っちゃう!」
 「母さん、母さん、無事だったか!?」ひげづらの大男が小柄な老女を抱き上げてふり回した。「もう会えないと! てっきり死んだと!」
 「父さんが守ってくれたのよ。ニニギが皆をツクヨミの店に連れて行ってくれて、そこで若い人たちとお酒をいただいたりしていたら、あっという間に波は引いてね。恐くも何ともなかったわ」
 ハニヤスが満面の笑みを浮かべて、子どもたちと抱き合うミヅハを見守っている。ミロナミは仏頂面ながらまんざらでもない顔で、家族らしい数人の男女にとりかこまれてもみくちゃにされている。
 「ニニギ、タカヒコ、ありがとう」コトシロヌシが二人を見つけて声をかけた。「タカヒコネは見つかったか?」
 「空から落っこちて来ました。元気です」タカヒコが笑う。「今は自分の家で休んでますが、もうすぐここに来るでしょう」
     ※
 明け方に湖で、ばしゃばしゃ水浴していたらしいクシマトが、戻って来て、前と同じようにぴかぴかに透き通って何ごともなかったように窓にはりついたので、タカヒコネもまだ眠い目をこすりながら起き出して、ていねいに乾いた布でクシマトのぬれた表面をふいてやっていた。けたたましい吠え声と荒々しい足音が近づいて来たと思ったら、とびかかって来たイナヒに体あたりされて、布を持ったままひっくり返され、気がついたらそのまま寝台に押し倒されて、顔中べろべろなめられていた。
 「イナヒ、イナヒ、淋しかったか」タカヒコネはふさふさしたイナヒの首の毛をつかんでゆさぶった。「心配かけたな、すまなかったな。え、でもおまえ、いつの間にこんな、ちょっと強くなりすぎ」
 イナヒはぬれた鼻づらで、ぐいぐいタカヒコネののど元を押しまくり、太い前脚で若者の両肩を押さえつけたまま、いつまでも彼を解放しなかった。
     ※
 さて、それから数日後。
 あいも変わらず、どことなくよそよそしく荒っぽく流れる川のほとりの草の上に、三人の若者が寝そべっていた。コトシロヌシ、タカヒコネ、そしてニニギで、このところタカヒコネのそばをかたときも離れないことにしているらしいイナヒが、彼のそばに腹ばって、太いしっぽを若者の背中に斜めにのせている。
 「それでスセリとオオクニヌシは」ニニギが気にした。「あれ以来大丈夫なのかい?」
 「ああ、まあ多分大丈夫だろ、一応ふつうに話しているし」コトシロヌシがのんびり答えた。「ツドヘおじさんがいてくれるから助かるよ。なあ、タカヒコネ?」
 「うん、二人のことよくわかってて、いろいろ上手にとりなしてくれるもんな」タカヒコネがうなずいた。「何というかさ、父さんもちっとも学ばないもんなあ。何を言ったらスセリが絶対許さないか、そろそろわかっていてもいいと思うんだけどなあ」
 「まあ、あの時は、いろいろせっぱつまってたし」
 「そんなことはおいといて、そろそろ今後のことをいろいろ話しとこうや」タカヒコネがイナヒのしっぽをつかみながら寝返りを打った。「今後の津波対策だけど、いろいろあれこれ見えてきたことがあるんじゃないか」
 「基本的にはクシマトがいてくれる限り、心配はないってことでいいのかな」
 「よせやい」タカヒコネは首をふった。「元マガツミのおれが言うのは変かもしれないけどさ、たかがマガツミにたよりきってる村なんて、何だかいやだよ。情けなくないか?」
 「そうかなあ?」
 「そうだよ!」
 「わかったわかった、一理ある」ニニギが笑いながらなだめた。「少なくとも灯台はあの波にもちこたえるってわかったよな。サクヤも言ってたが、つまりああいう建物をいくつも作って海岸に並べておけば、いざとなったら、いつでもそこに逃げ込めばいいってことじゃないのかな」
 「うん、あそこまで高くなくてもいいんだよ。あの半分ぐらいのやつをたくさん作っておけばいいんだ」タカヒコネはうなずいた。
 「ヌナカワヒメの病院も使えそうだよ」コトシロヌシが腹ばいになってイナヒの耳をひっくりかえして虫がいないか調べてやりながら言った。「ヌナカワヒメも言ってたが、あの入り口は一応、人が通れるようなかたちに開けたけど、いつでもまたふさげるような大きさにしておくらしい。それなら、ほら、あそこにもずいぶんたくさんの人たちが避難できるだろう?」
 「崩れたときに埋まっていた人たちは、もう全部掘り出したのか?」ニニギが気にした。
     ※
 「うん、全部見つけた」コトシロヌシが言った。「気の毒なことだった。大けがをして結局死んだ人もいたし、十人近くが命を落としたことになるかな」
 「今度の津波で死んだのって結局その人たちぐらいか」
 「でもないよ」ニニギが言った。「逃げる途中で、あわてて川に落ちた者や、動物たちといっしょに草原の方に徒歩で逃げて、丘の手前で津波に追いつかれた人や、最後に灯台や酒場めざして逃げて行って、クシマトの下に入りそこねた人や、湖のそばで巻きこまれちゃった人や、あれこれやっぱり十人以上にはなるかな、洞窟で亡くなった人以外でも」
 「まったく運不運としか言いようがない」
 「それでも少なくてすんだ方とは言えるんだろうが」
 「ミヅハはかなり皆を怒らせたようだけど、それ以後何もなかったのかい?」
 「まあ、ハヤアキツのじいさまが最後までそばにひきよせてかわいがってたし、息をひきとる前に、そのへんの主だった者を集めて、この子が入り口をくずしてふさがなかったら、皆が津波で死んでたかもしれんのだから、恨むどころか大切にしてやれと、きつく言い渡したらしいしね」コトシロヌシが教えた。
 「だけど、それってどうなんだろうね。どっちみちクシマトがかぶさっていてくれたら、入り口はあのままでもよかったわけだし」ニニギがこだわる。
 「そんなこと誰にもわからなかったわけだし、とにかくあの長老がそこまで言ったら、逆らえる者なんていないだろ」
 「最初にその話を聞いたときは、今度こそミヅハも年貢の納め時と思ったのに、つくづく運が強いなあ、あいつ」タカヒコネが感心した。「悪運なのかもしれんけどさ」
     ※
 「それにしても、ハヤアキツのじいさまも、とうとう亡くなったかって思うよ」コトシロヌシが空を見上げた。「私たちが子どものころから、もう髪はまっ白で腰も二つに折れ曲がって、それでも普通に一人で舟で魚をとっては酒を飲んでた。あの人が死ぬなんて実際考えたこともなかった」
 「昨日が葬式だったんだって?」
 「うん、他の人たちもいっしょに墓地に葬った。イワナガヒメがその内に、魚と舟のかたちの墓標を建ててくれることになってる。死んだ人たちの家族も、じいさまといっしょで、ちょっと満足してたようだ。父と母とがあいさつしたよ。じいさまの最後のことばも紹介した。…わしらは沖とともに、沖と向き合って生きていくしかないんじゃよ。何があろうとも、ここで、この村を守ってな。じいさまは回りにいた人たちに、そう言い残して死んだらしい」
 「それを言ったとき、じいさまは、村が無事に残ることを知らなかったんじゃないのか」
 「うん、まだ洞穴の中だったからね。クシマトのことは見てないし、何もかも津波であとかたもなく消えてしまったと思っていたはずだ」コトシロヌシはうなずいた。「それでも、あの人、そう言ったんだ」
 三人はしばらくまた黙って、川の流れを見つめていた。
     ※
 「ヌナカワヒメの洞窟のことだけど」やがてニニギが言い出した。「入り口を狭くして、中の明かりは、当面、あの木で大丈夫ってことかい?」
 「たしかにな」コトシロヌシがうなずいた。「あの木、何だかこのところ、いやに威勢よく光ってくれているんだが、いつまで頼りにしていていいのかな」
 「気になってるのはそれだけじゃない」ニニギが言った。「津波が引いて行くときに、あの木は枝をのばしてクシマトを守ったんだろ? いや、それはそれで立派だけどさ、どうもあの木が何か他にもいろいろ考えてるような気がしてさ」
 「あの木がか?」タカヒコネが聞き返す。
 「ミヅハの鏡のかけらで更に力をつけたかもしれない。ここ数日何だか見てると、タカマガハラから持って来た木の上におおいかぶさって、滅ぼそうとしてるように見えることがある」
 「あ、それはおれも」タカヒコネが顔をしかめた。「時々ちょっと、そんな気がしたことがある」
 「私は特に感じないが」コトシロヌシは考え込んだ。「言われてみればたしかにあの木も岩山も、山の生き残りだからな。よそものの木が増えるのは気に入らないのかもしれないな」
 「ナカツクニの昔ながらの木と、タカマガハラからやって来た新しい木が争いをはじめたら、おれたちいったいどうすればいい?」
 「どうしようって、放っとくしかないだろ。木のことだもの」
 「それですむかな?」
 「すまないか?」
 「人間どうしがひょっとして、それぞれの木に肩入れして、村が敵味方に分かれちゃうことってないのかな」
 三人は息をのんで、しばらく顔を見合わせていた。
 「あああ、もう!」誰からともなくやがて三人は、あおむけになって大の字に草地の上にころがった。「どうしてこんなに次から次へと、考えなきゃならないことが出て来るんだよもう!」
 イナヒがそんな三人を見回して、頭をそらしてぱかっと大きく口を開き、思いっきりの大あくびをした。
     

     ※
 「珍しいこともあればあるものさ」ナキサワメがいつものように、ほろほろ涙を流しながら、せっせと米をといでいる。ヒルコとハヤオはそのそばで、とったばかりのみずみずしい豆のさやをむいていた。
 ここは、ナカツクニの村や海岸からは遠くはなれた深い森の奥の小屋だ。ヒルコとハヤオが昔住んでいた森なので、ときどき立ち寄ることがある。いつも泣いているナキサワメと、めったに目をさまさないオオヤマツミの夫婦が、そのころからもうずっと、二人きりで住んでいた。
 「目をさましたのは半年ぶりだよ」ナキサワメは小屋の外で、がさごそ木や板を組み合わせて何かこさえているらしい、たくましいオオヤマツミの背中を見やった。「ふつう、一年や二年は平気で眠りっぱなしなのに、まあどうしたってことなんだろ」
 「新しい魚も肉も、たっぷりあってよかったじゃないか」ハヤオは言った。「おれたちもまた明日出発しようと思ってたから、ちょうどよかった」
 オオヤマツミがのそのそ入って来て、藤蔓で編んだ小さないすを床においた。「どうじゃ、よかろう、おまえたちには、このくらいの大きさが。ヒルコの分ももうひとつ、今からすぐに作ってやる」
 「ご親切に」ヒルコは豆のさやをむく手を休めて白い衣のひざの上に置き、オオヤマツミを見上げてほほえんだ。
 「ねえ、何かあったのかい?」ハヤオはオオヤマツミに声をかけた。「明日出発の予定だったから、話ができるのはうれしいんだけどさ、今回、起きるの、ちょっと早くない?」
 「ううふ」オオヤマツミは、小さい小屋の中いっぱいにあふれるほどのたくましい手足をのばして、のびをした。「どことなく、手足がむずむずしたもんでな」
 「あたしは寝床も床も、ちゃんときれいにしているよ」ナキサワメが涙をぬぐって抗議した。「変な虫なんかわかせたりしちゃいないってば」
 「わかっとるわかっとる」オオヤマツミはなだめた。「ふとんも枕も、お日さんのいい匂いをさせておる。そうじゃないわい、むずつくのは、わしの身体の中のことじゃ」
 「どこかでよっぽど古い木が目ざめたんですか?」ヒルコがちょっと眉をひそめた。
 「おうさ、そうかもしれんわい」オオヤマツミは、しかつめらしくうなずいた。「もはや、とっくに死んで、枯れたと思っとった古い木が、何のはずみか突然よみがえりはじめたようじゃ」
 「それっていいこと? 悪いこと?」ハヤオが気にする。
 「何とも今は、まだわからん。木というやつは、時に思わん悪さもするでな」
 「でも、いいこともするんでしょう?」ヒルコが聞いた。
 「そりゃそうじゃ。何もかも、それはそのとき次第じゃよ」
 「まあいいさ、とにかくごはんを食べようよ」ナキサワメが言った。「ヒルコ、そこのかまどに火をおこしたから、このお魚を焼いておくれ」

 水の王子・沖と (完)   2024.2.17.

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