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水の王子・「沖と」11

     ※
 たしかにまったく、安心するのはまだ早かった。
 特に、クシマトがおおえなかった部分にいた人々にとっては。
 ものすごい衝撃とともに灯台がゆれ、一瞬かしいで元に戻った。壁をとおして荒々しい水音がひびき、まるで一人ひとりが素裸で濁流の中に投げ込まれているようだった。
 子どもたちの叫び声、あちこちで起こる悲鳴。それを抑えてアメノウズメの声がひびいた。  「壁を見て! 水が入って来てないか、しっかり見つけて!」
 「ここ! ここ!」かん高い声がした。「穴があいて、水が吹き出してる!」
 「何でもいいから、つめこんで、押さえて、とめて! 服でも、布でも、そのへんにあるもので、何なら身体で押さえなさい! 皆で板をあてて、打ちつけて、とめなさい!」
 「こっちの板も割れかけてる!」
 「木切れでふさいで!」
 「丸窓の上の枠がはずれそうだ!」
 「二階の角の柱が危ない!」
 「あそこは、もともと気になっていた」コノハナサクヤがつぶやいて、ホスセリをゆりかごに入れ、華やかな色の袖に木切れをいくつも抱えて飛ぶように階段を走り上がる。
 最初の混乱が一段落して、人々の動きは少しずつ落ち着いて来た。畑仕事をする時と同じ要領で、次々に板や木切れを手渡しては、ゆがんだ場所や割れた部分を補強して行く。子どもたちも壁際を走り回って、水がしみだしたり、濡れたりしている異常な部分がないかどうか、手でさわっては確認し続ける。
 「ホオリ、ホデリ、食料を出して、すぐ食べられるものを配りな!」ウズメが声をかけた。「手のすいている者から交代で腹ごしらえをしとくんだ。仕事は長丁場になるよ。波は当分引かないからね!」
 「こんな時にニニギがいれば」コノハナサクヤが手首で額の汗をぬぐう。「あの声で、歌を歌って皆を力づけてくれるんでしょうに!」
 「そりゃいいところに気がついた」ウズメは皆に向かって呼ばわった。「歌おう歌おう!景気づけだよ、誰か歌いな、何でもいいから!」
     ※ 
 さすがに皆とっさに反応できず、返事がなかった。ククリヒメはそばでぼんやり壁をなでているミロナミをつっついた。「歌うまいじゃない? 何か歌ってよ!」
 「おれ?」ミロナミは目を泳がせた。「んなこと、急に言われたって…」
 「歌いなよ、ミロナミ! うまいじゃない?」回りの子どもたちも思い出してけしかけた。「声めっちゃいいじゃん! 何でもいいから歌いなよ!」
 そこでミロナミは、手すりにつかまりながら、おずおず声をはり上げた。細いが、きれいな澄んだ声が、皆の上を甘く流れた。

  時がとまってしまうまで
  あなたと熱いくいづけを
  海の氷もとけるほど
  あなたと長いくちづけを
  いついつまでもはなさない
  あなたを抱いて目を閉じて
  しびれるほどの口づけを

思わず聞きほれた人々は、次の瞬間どっと笑った。「こんな時にまあ!」とあきれた者や「誰よ、子どもにあんな歌教えたのは?」と聞く者もいた。「アメノワカヒコさまよ」と娘の一人が言った。「あたしたちも聞いたことある」「そうそう!」
 奇妙に華やいだ空気が流れて、それまでとはちがった別の活気が生まれた。「坊や、うまいよ。他のは知らない?」と誰かが聞き、ミロナミはまた歌った。

 沖とわしとはいい仲じゃ
  かかあがやきもちやいておる
  けれどもいくら追ったとて
  沖は遠くに逃げて行く
  くたびれはてて帰ったら
  かかあが笑ってめしをたく

まだどこか舌足らずのあどけない口調や、よくとおる澄んだ声と、歌の文句のちぐはぐさぶりが前にもましておかしくて、今度こそ大笑いが灯台中をどよもした。「あんた、そんな歌しか知らないの?」とククリヒメはあせったが、人々は「ハヤアキツじいさまの持ち歌じゃった」「長く聞かんで忘れとった」などと、なつかしがってささやきかわし、つられるように船乗りらしい男が太い声で歌い出した。

 今ぞ船出じゃ帆をあげろ
  東の空が明るいぞ
  わしらの腕は鉄の腕
  どんな嵐も屁でもない
  今日も大漁、いざ進め

すると沈んだ顔だったハニヤスも気をとり直したように、仕事仲間の女たちと声を合わせて、いつも畑で歌う歌を歌った。

 たがやせ、たがやせ、この畑
  種まけ、水やれ、こやしまけ
  どんどんのびて、広がって、
  どっさりとれる、芋と豆

板を打ちつける音がいちだんと拍子をとって、高まって行く。人々はいつにも増してきびきび動き、仕事の調子もそろって来た。
     ※
 ヌナカワヒメの病院の中は静かだった。岩山の頂上まで波はとどかなかったらしく、二階の洞窟の入り口からも水は入って来なかった。いつもとまったく同じように人々は行き来して、寝台に横たわる人々の手当てをしていた。ミヅハはハヤアキツの枕もとに座り、二人は何かとりとめのない話を、低い声で楽しそうにかわしていた。
 光を放つ巨木は、その色と輝きをますます強めて行くようだった。ときどきわずかに、もぞもぞと身じろぎするような気配さえあった。薬を調合しては人々の手当てをしていたスクナビコは、ときどき気に入らないといった目でそれをながめて、「おとなしくしておくんじゃぞ」と口の中でつぶやいていた。
     ※
 ツクヨミの店の中では、空になった酒樽や素焼きのつぼが、いくつも床にころがっていた。くぐもった笑い声やささやき声やあえぎ声は、店のあちこちからまだ聞こえていたが、多くの者は疲れ果てたように、裸の手足をからみあわせたまま眠りこけていた。老女たちもすみの方の寝椅子や長椅子で重なり合うようによりかかりあって、すうすう寝息をたてていて、それを守るかのように剣に手をかけたままのニニギも、さっきからうつらうつらしている。ツクヨミは店の中央でイワナガヒメをひざに抱き、その肩に顔を埋めて彫像のように動かない。その肩や背に流れ落ちる漆黒のひんやりとした豊かな髪をなでながら、イワナガヒメはぼんやりと目を宙にさまよわせて、廃船をぐらぐらとゆすり続ける津波の音をじっと聞いている。
     ※
 「ウズメさま! 木切れも板ももうありません!」ホオリが報告して来た。
 「こわれた個所は、まだ増えてるかい?」
 「いや、そろそろとまって来ました。だが、直す部分はまだまだあります」
 「食卓も椅子もたたきこわしなさい!」ウズメは命じた。「その板切れを使うんだよ。椅子も机もまた新しく作れるんだから! 階段の手すりも、何なら階段もこわして使いな!」
 歌声はさっきより落ち着いて、いろんな人がかわるがわるに歌い続けている。旅の娘から習ったという、スサノオの都の歌を歌う者もいた。

 遠い昔にスサノオさまがよ
  ヤマタノオロチの首をば切って、よ
  火の山の煙が消えたとさ
  灰がオロチの巣を埋めたとさ

 そして都が生まれたとよ
  タカマガハラにもヨモツクニも、よ
  この石垣は用がないとさ
  どの石も皆、そう言ってるとさ

「城壁の石を積むとき、これを皆で歌うんだそうだ」
 「なるほど、仕事の調子に合うな」
 祭りのときに、コノハナサクヤが歌う歌を、男たちが合唱した。力強い声で歌われると、もともと甘い淋しげな旋律が心をふっと、どこか遠くに解き放つ。

 悲しみに喜びにゆれ動く心
  羽のように時は過ぎる
  すべては消えてゆく

それに応じてコノハナサクヤが今度はニニギの歌う、やや重々しいおごそかなタカマガハラの歌を歌う。これもまた、彼女の甘いどこか心もとない声がニニギとはまた別の味わいがあって、固苦しい文句が静かに人の心にしみた。

 夜は暗く、敵は見えず
  それでも我らは前進する
  歴史を前に進めるために
  友と並んで命をかける

ミロナミにしつこくつつかれて、ククリヒメも他の少女たちと歌ってみた。

 かわいい坊や おやすみよ
  星がおまえを守ってる
  かわいいむすめ おやすみよ
  星がおまえを守ってる

  お目々がさめたら母さんと
  青いおふねであそぼうね
  赤いおうちをたてようね
  きいろい花を庭にうえ
  みんなでたのしくくらそうね

 「やー、かわいい!」大人たちが声をあげた。「子どもが歌う子守歌もいいな!」
 「聞いたことない歌ね、誰に教わったの?」
 「タカヒコネさま」とククリヒメたちが答えると皆がまたどよめいて、「かーわいい!」と娘や女たちがはしゃいだ。「そんな歌知ってるんだ!」
 「自分が歌ってもらってたとか?」
 こわれた個所は次第に残り少なくなる。ホデリやホオリがなべで料理を作りはじめた。餅や干魚をかわるがわるかじりながら、女たちが赤ん坊に乳をのませはじめる。誰かがしんみり歌いはじめた。

 あなたは今夜も来ないのか
  花ははらはら散って行き
  わたしの心はねずみ色
  帰ってきてよ またここに
  あなたを求める この腕に

「ああ、こりゃ、あの一人暮らしのばあさんが、日暮れに海岸や川べりを歩きながら、よく一人で歌ってた歌だな」誰かが思い出して言った。「古い白い肩掛けを肩にまいてよ。おしゃれなばあさまで、いい声だった。また旅に出てしまったが、今ごろどうしているかなあ」
 歌だけ残していなくなった、さまざまな人々の面影と、彼らをとりまく風景とがかわるがわるに人々のまぶたによみがえって来るのだった。そして、祭りのときのにぎやかな歌が、手拍子とともに歌われはじめた。

 わっしょいわっしょい! 生きてれば
  きっといいこと何かある!
  わっしょいわっしょい! 酒をつげ
  きっと明日は日が上る!

「これを忘れちゃいけないぞ」と誰かが言って、一同はオオクニヌシが祭りでよく踊りながら歌う歌を歌った。

 裏の笹山にクマがいて
  これがまたけっこう 酒が好き…

     ※
 「クシマトは、もつんですか?」人々が結び合わせた長い綱をそれぞれの身体や木々にしばりながら、タカヒコが心配そうにタカヒコネにささやいた。「もうかれこれ半日もたつし、ものすごい水の量だし」
 「何か食べ物をやらなくてもいいのかな?」村人たちも心配している。
 「さっきから、木々のてっぺんになっている実をかじったりしてるようだから、何とかなってるのかもしれない」タカヒコネがあやふやに言う。「あの木の実はかなり力がつくはずだよね、タカヒコ?」
 「うーん、タカマガハラでは薬に使うこともありますし、なにがしかの役には立つんじゃないかと思いますが」
 「あんなにゆらゆら波打ってるし、きっと大変な重みに耐えてがんばっているんだわ」女の一人が手をにぎりしめた。「何とかしてやりたいけれど」
 「ちょっと待て」タカヒコが言った。「波が引きはじめていませんか? ほらほら、流れはじめている」
 押し殺した歓声が広がる。「だが、それはそれで危ないぞ」タカヒコネが頭上に目をこらした。「いくら草原に何もないと言っても、根こぎにされた木々や石ころなど、津波は一気にいっしょにさらって引いて行く。ぺらぺらに薄くなってるクシマトの上を、それが引きずられて行くんだ。切り裂かれたり、破れたりしたら…」
 「それ以上言わないで下さい!」タカヒコが懇願した。
 「とにかく、まだ安心はするな。引いて行く時は多分、一気だぞ」
 その通りだった。
 轟音をあげながら、クシマトの上から水はみるみる減って行った。それにともなってタカヒコネの心配した通り、大小さまざまの石ころや、荷車や馬車の残骸や、たくさんの木々が影のように人々の上を横切って行き、そのたびにクシマトの薄い膜が大きく波打ち、ひきつって、ゆれた。あちことから水がしずくや細い滝となってしたたり落ちて来るのが見える。大きな裂け目のいくつかから、幕が降りるように海水が広がって下りてきた。
 「ああ!」人々の唇から悲鳴がもれた。
 そのとき、もう日暮れ近い、どこかから射す血のように赤い夕焼けの中、それまでなかった濃い緑色の影が、クシマトの草原に近い側をふちどるように広がって石や木の残骸をひっかけて、くいとめた。それは岩山のてっぺんから突き出した古い巨木の枝らしかった。長く伸びたそれがゆるやかに広がって水の中に沈み、クシマトの上に水以外のものが運ばれるのをさえぎったのだ。
 波の音が入り江のかなたに遠のいて行き、あっけないほど頭上には、暮れなずむ紫がかった夕暮れの空が広がって行った。
 クシマトの汚れた広がりを通して、灯台が現われ、廃船が見えた。二つの岬が浮かび上がった。そして、その曇ったかすみが、はしの方からぬぐわれたように消え、すべてがはっきり見えるようになると同時に、クシマトは再び前と同じように厚みを増して、狭く、小さくちぢまって、やがて畳まるようにひとつに固まり、どさりとタカヒコネの前の草地に落ちた。
     ※
 クシマトは、タカヒコネが自分たちの上におおいかぶさり、いたわるようになで回しているのをぼんやりと感じた。他にもいくつもの手がのびて、彼らのあちこちにふれて、いつくしむようにさすりつづけ、大勢の声が心をこめて何かを語りかけるのを聞いた。だがクシマトはとにかく疲れていたものだから、何も感じず、何ひとつわからなかった。
 「休ませてやらないと」とタカヒコネが言っているのを、かろうじて聞きとった。「うちに連れて帰る」とタカヒコネが言って、抱えあげてくれようとしたが、ふだんでも重すぎて、それは無理な話だった。さりとてクシマトは、草の上をすべってでも自分たちだけで移動する力は、今もう少しも残っていなかった。
 草を踏む重く力強い足音がいくつも近づいて来た。「おれたちが運ぼう」と汐さびた声で誰かが言い、「ありがとう、サルタヒコ」とタカヒコネが言って、身体をひくのがわかった。
 太くたくましい腕が何本ものびて、クシマトを丸めてまとめ、しっかりと抱え上げた。そして、人々に囲まれてクシマトは自分が今朝までいた、あの大きな窓のある小さな家の方角へ運ばれて行くのを感じて安心した。 

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カツジ猫