水の王子・「沖と」2
第二章 アマテラス
ほとんど同時に三人は目をさましたらしかった。
空に届くかと思われるほど、高い山々が重なり合った崖の間の、こじんまりした神殿で、アマテラスが寝台に起き直って耳をすましていると、隣り合う父母の部屋から物音と低い話し声が聞こえたのだ。
「アマテラス」やがて抑えた母の声がした。「起きていますか?」
時に娘に対しては少女のようにどこか甘えた調子も見せるいつもの声音はかけらもない。質問のかたちをとっていても娘が起きていることはとっくに確信しきっている、それは戦士の声であり、かつてタカマガハラの支配者の夫と、血みどろの戦いをくりひろげるのをいとわなかった、ヨモツクニの女王の声だった。
「はい、母上」と答えながらアマテラスも、夜着の帯を抜き捨て、髪を手早く両耳のわきで縛りながら、枕もとの大剣を引き寄せていた。「聞かれましたか?」
「ああ。虚空が鳴っている」父の声も緊張していた。「海の響きも普通ではない」
「山も何かを伝えています」
前後して回廊に姿を現した三人は、すでに完全武装していた。夜はまだ完全には明けておらず、山々の端が空をかすかに白ませながら、そこここに血のような真紅の筋を引いている。
「タカマガハラでは気づいていないのか?」空を見上げて父のイザナギは、つぶやくように一人ごちた。
「どうでしょう。あそこは地上と離れているし、直接つながってはいないから」アマテラスが答える。
「そもそも地上で起きることは彼らにとって最優先事項と言うのでもなし」どこか冷ややかに母のイザナミが指摘する。
「それにしても、これほどの動きが読みとれないということがあろうか」イザナギが眉をひそめる。「船の影さえ見えぬようだが」
まるでそれに応えるかのように、眼下に重なりそびえる山の間から、白い光のように小さな舟が飛び上がって来た。神殿の前の岩場にふわりと着地した中から、若い女戦士が一人飛び下りて来る。
「タカヒメか?」アマテラスが早足に階段を下った。
「御意」一瞬ひざを折って礼をした娘は、すぐに立ってかけよって来た。「西の海底で地震です。巨大な津波が間もなく海岸一帯を襲いましょう。全船団が今、海岸の各方面に向かっています」
「今からでは、大して手の打ちようはあるまいな」アマテラスは眉を寄せた。
「救えるだけは救います」タカヒメは答えて、きびすを返そうとする。
「ヒルコとハヤオは今どこに?」イザナミが声をかける。
「海岸から遠く離れた谷間の町に」タカヒメが言った。「当面心配ありません」
「ナカツクニの村は?」
「大船が向かっています。知らせもすでに届いているはず」
「私も向かおう」アマテラスはタカヒメのよりやや大きめの、崖につながれた舟にかけよった。「知らせをありがとう、タカヒメ」
「ではお先に。私も海岸を回ります」
タカヒメの舟が飛び去るのを目の端に見ながら、自分の舟に手をかけたアマテラスはふり向いて、すぐ後について来ていた父と母を見た。「何です?」
「知れたことを」イザナミがさっさと舟にすべりこむ。「私たちも行くわ」
「お二人ともが?」
「あたりまえだろ」イザナギがそっけなく応じる。「おまえ一人にまかせておけるか」
「いいですけどね」アマテラスは肩をすくめて二人の後から舟に飛びこみ、崖につないだ太い縄をあっという間に指でほどいた。「行きますよ!」
※
「全船団とはタカマガハラも大盤振る舞いだな」暗くうねる海上を見下ろしながら、イザナギが感心した。「このごろ、オモイカネやタカギノカミは、地上の動きからはなるべく手を引こうとしているかと思っていたが」
「いくら何でも西の方の海岸の町や村が全滅したら、それはタカマガハラにとっても打撃ですよ」イザナミが言う。「どれだけの人が救えるかは別として、タカマガハラの船がとにかく現われて自分たちを助けてくれようとしたことが皆の記憶にとどまれば、今後の地上の支配にとっても何かと都合がよくなるでしょうし」
「更に運がよければの話だが」イザナギがつけ加える。「この機会に気に入らなかった町や村、目ざわりな王や長を、それとなく見殺しにして、これからの支配や交渉を何かとやりやすくすることもできる」
「興味をそそられるお話の数々ですが」アマテラスが口をはさんだ。「そうなると、ナカツクニにはどの程度の船なり戦力なりを、今回タカマガハラはさしむけるとお考えになりますか」
「難しいところだな」イザナギは考えこんだ。
「そして、その、私たちのやりとりの冷たさを、それとなくたしなめるような、それでいて、うやうやしく教えをこうような口調ったら」イザナミが優しい声でからかった。「さすがに私たちの子だわ。ねえ、あなた」
「ん? 何か言ったか?」イザナギは我に返ったように小さく頭をふった。「あの村は手強いし、その一方で頼りにもなる。どう扱ったらいいのかは、これまでもタカマガハラには悩みの種だ。そういう点では、どの程度残すか、救うか、たしかに考えどころではある」
「そのことは、多分あの村の者たちもわかっているし、自分で自分を守る方法もあれこれ考えているような気もするのだけど」イザナミは少しまじめな声に戻った。「そうあってほしいとも思っているわ、本当よ、アマテラス」
「疑ってなんかいないわ、お母さま」
「それならそんなに腹立ち紛れに、ぶんぶん舟を飛ばすのはやめて。目が回ってしまうじゃないの。ええ、ナカツクニは、あの村は、いつも予想がつかないのよね」
「アメノサグメやアメノウズメもいるんだろ? 一時は私の後継者と目されていたニニギも」
「ツクヨミだっているんですよ」イザナミがまぜっかえした。「あの村に長いこといたら、人はどうなるのかわかりゃしません」
※
「他の海岸はどうなんでしょう?」アマテラスが話を変えた。「ネノクニの都は別格として、クラド王の町や、フヌヅヌたちの二つの町は?」
「クラドの虹と花の町は、あれで案外難攻不落だ」イザナギが答えた。「海岸の下に頑丈な迷路のような洞窟があって、津波のたぐいはいつもそこで吸収してしまう。フヌヅヌたちの二つの町も、両方ともが高台にあるし、海岸からはよほど離れていたはずだから、さほどの被害はないだろう」
「タヂカラオの町はどうです?」
「あそここそ、山の中だよ。むしろ山崩れが心配だ。しかし普段からいろいろと用意周到な町だから、そのへんの備えにぬかりはあるまい。とすると今回最も危険なのは、やはりナカツクニの村ということになるか。どうしたのだ、アマテラス?」
「いや、今ちょっと、変なものを見た気がして。村はもう近いのですが、何かが空を飛んでいたような」
「タカマガハラの船団じゃないのか?」
「鳥でもないの? 津波や地震のときには、よく大群で移動しますよ」
「いや、鳥にしては大きいし、船にしてはかたちが変です。何か、すきとおっているみたいで」
「見えたぞ。あれか?」イザナギが目をこらす。
「よくはわからないが、マガツミの集合体のようですね」イザナミがつぶやいた。「恐ろしく大きいけどね。端の方に人がいるのかしら?」
「待て、とまったぞ」イザナギが片手を上げた。
「どうしたらいいのか、迷っているようね」イザナミが言いかけて息をのんだ。「そうか。あれを見たんだわ」
水平線いっぱいに、大きな壁のようにまっ黒い波がそびえ立っていた。流れるように雲の走る灰色の空の半ばをおおいつくすかのように、見ている間にもむくむくと盛り上がりつづけている。アマテラスも舟の勢いをとめて、走り去る雲の間にたゆたわせた。「すごいな。こんなのは見たこともない」
「これが押し寄せて来たら、どんな村も町もひとたまりもないわね」イザナミがつぶやいた。「それも、すごい速さで、こちらに向かって来ているわ」