発表資料(11)
かつおさん
「江戸時代の人はぬれぎぬ好きか」について
①『武家義理物語』「死ば同じ浪枕とや」
(『対訳西鶴全集 八 武家義理物語』明治書院 1989年3月30日)
梗概
神崎式部は、主君である荒木村重の次男が蝦夷の景色を見に行くお供をすることになり、一人息子である勝太郎も同行する。また、同役・森岡丹後の息子である丹三郎もお供として同行することになり、式部は丹後から「息子を頼む」と言われていた。大井川にさしかかり、川は増水していたため式部は制止したが、若殿は制止を聞かずに強引に渡り、多くの家来が流された。式部は丹三郎を無事に渡すために、勝太郎を先に立てて渡らせ、その後ろを丹三郎に渡らせるも、丹三郎だけが流されて行方知らずとなる。式部と勝太郎は無事に渡ったものの、武士の一分が立たないとして、勝太郎に川に飛び込んで死ぬように命じ、勝太郎も躊躇なく実行する。式部は世の無常を嘆き、旅を終えると出家した。その後森岡丹後も事情を知ると、夫妻で出家し、式部とともに後世を念じて生涯を終えた。
「ぬれぎぬ」という言葉が用いられてはいないが、式部が丹後への義理を通すために息子・勝太郎を死なせたことは、勝太郎としてみればぬれぎぬだったと言えるのではないかと思った。ただ、勝太郎の心情が描かれていないのに加え、「躊躇なく実行」したことを考えれば勝太郎自身はぬれぎぬだと思っていない可能性は否定できない。
②「五 死ば同じ浪枕とや」(風間誠史『近世小説を批評する』17頁~28頁 森話社 2018年1月12日)
概要:西鶴や馬琴を中心とした近世小説について、いろいろな視点から批評していた。
「死なば同じ浪枕とや」について、「他人の息子を死なせてしまった自責の念を、自らが同等の苦痛を味わうことで紛らわしている(ごまかしている)にすぎないのではないか」(21頁)とあり、やはり勝太郎からすると、父・式部から受けた命令はまったくのぬれぎぬであると作者は主張していると取れる。
③「「死ば同じ浪枕とや」の解釈」
(勝倉 壽一,福島大学人間発達文化学類論集(10),106-98,2009-12)
概要:「死ば同じ浪枕とや」について、問題の所在や神崎式部の立場、義理の内実について分析していた。
ぬれぎぬについての記述は見られなかった。勝太郎が死んだことも、「信頼に対する呼応の義理」としているが、式部視点で見られているため「ぬれぎぬ」という考え方はないように感じた。
④『武家義理物語』「ほくろはむかしの面影」
(『対訳西鶴全集 八 武家義理物語』明治書院 1989年3月30日)
梗概
十兵衛という武士が美しい姉妹のうち、11歳の姉をいずれ嫁として迎える約束をしていた。七年ほど経ち、娘の親元へ手紙を送った。しかし、姉妹は疱瘡にかかり、妹は以前と変わらず美しいままだったが、姉はひどく醜い容貌となってしまっていた。姉自身も親も、これでは嫁ぐことはできないと思い、十兵衛に黙ったまま姉ではなく妹を差し向ける。妹も断りはしたが、親の言いつけに背くことはできず、そのまま從った。諸々の儀式を終えても十兵衛は気づかなかったが、寝間の燈火でほくろの位置が違うことに気づく。妹が事情を話すと十兵衛は妹・妹の両親の気遣いに感謝しつつ、やはり姉を貰うと筋を通した。姉は十兵衛の情けを忘れず従順に過ごし、男もまた一層武に励むことができた。
ぬれぎぬについての記述は見られなかった。
⑤『武家義理物語』「我物ゆへに裸川」
(『対訳西鶴全集 八 武家義理物語』明治書院 1989年3月30日)
梗概
青砥左衛門尉藤綱が滑川を渡るとき、火打袋をあけると誤って十銭足らずの銭を川に落としてしまう。そこで土地の者に三貫文を与え、落とした銭を探させた。なかなか見つからなかったが、一人の男が十銭見つけた。青砥は大変喜んで男に褒美をやった。十銭のために三貫文を渡したことに人々は笑った。青砥からもらった金で酒を飲もうとするとき、十銭探し当てた男が「それは私が自分の銭をやりくりして青砥をだましたのだ」と言い、感謝するなら青砥ではなく私だ、と言った。すると一人の男が「青砥の心意気を怪我すとは、とんでもない悪人だ」と言い、その場を立ち去った。その後自然とこのことが青砥の耳にも入り、不正をした人足をつかまえて監視人を付け、丸裸にして本当の銭が見つかるまで毎日探させた。秋から冬にかけてだったので苦労もあったが、97日にして見つけることができた。その後、正しい道理を主張した人足のことを調べると、由緒正しい武士で、事情があって身分を隠していたことがわかる。そこで青砥は時頼公に申し上げ、男は首尾よく召し出され、家を再興した。
ぬれぎぬについての記述は見られなかった。ただし、テーマは違うが「勧善懲悪」や「理屈っぽさ」があったのではないかと思う。
【まとめ】
井原西鶴の『武家義理物語』を中心に見ていったが、「ぬれぎぬ」についての記述を見ることはできなかった。ただ①で見た通り、現代の感覚で言えばぬれぎぬとも取れる可能性の表現はあった。これについては、「義理」という性質上、義理を通すために犠牲を払う状況になった場合、そこにぬれぎぬが発生することがあるのではないかと考えた。しかし、①のように心情が書かれていなかったり、被害者意識をうかがわせる表現がない限り、ぬれぎぬについて探すのは難しいと考えた。今後の課題としては、そういった表現に集中して見ていくということが挙げられる。