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発表資料(13)

いわしさん

宗教から見る「江戸時代の人の理屈っぽさ」について

 

「江戸時代の人の理屈っぽさ」について言及された論文を探しレポートを作成するにあたって、まずは理屈っぽい人とはどのような人なのかを確認する。

・理屈っぽいとは

「正論を並べて物事を判断すること」を意味する言葉。理にかなった正しい言い訳をもとに、自分の考えを展開していく人の性格である。

〈参考〉

理屈っぽい人の特徴とは?(最終観覧2020年11月19日)

https://domani.shogakukan.co.jp/305044

 

 この性格を江戸時代の人々に当てはめて考える際に、当時の人々が理にかなった正しいことと判断する基準として、宗教の精神があり、そこから言動や性格につながるものがあるのではないかと推測し、宗教に着目して論文を調べることにした。宗教としては、浄土宗、朱子学、キリスト教などを主に取り上げ、そこから江戸時代の人々の性格について考察していきたい。

 

〈参考・引用文献〉

1)渡邉弘「日本人の倫理観の変遷(その1)~江戸時代から明治時代まで~」 『作大論集10号』 作新学院大学 2020年 p.85~96

概要:日本人の倫理観や道徳観がどのように変容したのか、あるいは変容せずに現代でも脈々と意識され続けているのかについて歴史的に考察する。

 

 江戸時代の倫理観の特徴として、儒教の観点から、修養や養生などのことばを通して、あらゆる観点から自己の基礎をしっかりと耕し鍛えていくことが人間としての生き方の根本であるという考え方がある。さらに、少人数ではあるが、「天道」を思想的よりどころとした人々もいる。ここから、江戸時代の人々の倫理観が宗教の影響を受けていることが考えられる。

 

2)山口勝業「宗教、道徳と経済行動:日本における歴史的起源」 J-STAGE『行動経済学第5巻』 2012年 p.180~184

概要:日本における宗教および道徳と経済行動をその歴史的起源に遡って考察する。

 

国際比較調査によれば日本人の多くは「宗教は信じないが宗教心は大切だ」という外国人にはみられない特異性がみられる.この歴史的な背景は,我が国では古来の神道に加えて仏教・儒教・キリスト教を外来宗教として受容し,江戸時代に宗教と道徳が分離し,現世志向が強い信仰と利他主義を重視する経済倫理が生まれた.(p.180より引用)

 

浄土真宗の信者が多かった近江商人で,彼らは 近江の国を本拠地に全国各地を行商してビジネスを展開した.仏教では貪欲は基本的な罪であるが,商人や職人の経済活動から得られる利益に対して,真宗では「自利=利他」の教義にもとづいてこれを正当化した.商業や工業はいずれも顧客=需要者の利便(利他)のためになっているからである.他者に利便を提供して自分も利益を得ることを 「自利利他円満の功徳」という.(p.183より引用)

 

 宗教への信仰と利他主義を重視している経済倫理観により、商業を他人の利益のためとすることで、仏教を信仰していたとしても自分の利益となる商業行為が正当化できるようにしていることは、たしかに理にかなった言い訳をしているように捉えることができる。このような点から、江戸時代の人の理屈っぽさを考えることができるのではないだろうか。

 

3)大橋幸泰「16-19世紀日本におけるキリシタンの需要・禁制・潜伏」 『国文学研究資料館紀要』 国文学研究資料館 2016年 p.123~134

概要:日本へキリシタンが伝来した16世紀中期から、キリスト教の再布教が行われた19 世紀中期までを対象に、日本におけるキリシタンの受容・禁制・潜伏の過程を概観する。

 

 ここまでは宗教に基づく日本人の倫理観や経済観から理屈っぽさを考えてきたが、一方で視点を変え、キリスト教が禁制された背景から理屈っぽさについて考察していく。

 日本では主君と家臣などの契約関係を結ぶとき、国中のあらゆる神仏を対象として宣誓する起請文を作成するという作法があった。しかし、唯一神を信仰しているキリシタンはそれを受け付けない。キリシタンの流入を認めると、このようにあらゆる神仏への宣誓によって成り立っていた秩序が崩壊する可能性があり、そのことを危惧した当時の江戸幕府はキリスト教を禁制したのである。このことからは、キリスト教禁制にも、あらゆる神仏を信仰する日本の宗教と都合が合わないという理屈のようなものがあるように感じられる。

 

4)清水龍瑩「信頼社会の勤勉さ:その原因と崩壊(野口祐教授退任記念号)」 『三田商学研究35巻』 1992年 p.1~14

概要:日本人の信頼や勤勉さを評価する社会が成り立った原因を歴史的、宗教的に考察する。また、現代社会の若者の価値観によるその勤勉さの崩壊を訴える。

 

 再度儒教に着目し、そこから成り立つ社会の価値観について考えていく。儒教は、仏教の「関係」、とくに「よりよい関係」を作る事こそが人間の生きる道であるという大乗思想のしみこんだ日本人の心の中に、具体的な「信義」「礼節」「秩序」という形で明示した。そしてそれを実践することが共同体にとって不可欠であり、それによって個人は共同体の中、すなわち「まわり」から高く評価されるのだ、と主張したのである。この時代の人物評価の基準についても、「信義」などの宗教的思想が根拠となった理屈があることが考えられる。

 

 

 今回、「江戸時代の人の理屈っぽさ」について直接的に言及している文献を見つけることはできなかった。しかし、これまで述べてきたように、宗教的思想を根拠として言動や考え方を正当化していたと思われる当時の人々の一面を見ると、やはり自分の考えを言い訳をしながら推し進めていく理屈っぽさを推測することができるのではないかと考える。参考にした文献が少なすぎるため、今後より多くの江戸時代の人々と宗教について書かれた資料を読み、この考察に説得力を持たせていきたい。

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