発表資料(20)
(「はじめに」の部分に脱落がありませんか?
もしそうなら、明朝までにメールしてくれたら補充します。発表の際に口頭で補充してもいいです。)
みずすましさん
「江戸時代の人の理屈っぽさ」について
はじめに
「江戸時代の人の理屈っぽさ」について、まず
寛延の怪異と地震祈禱 : 賀茂別雷神社を中心に
間瀬 久美子
江戸中期寛延の三件の怪異と地震に対する朝廷祈禱は、賀茂・阿部・卜部等の卜占や先例を基に判断されたが、怪異は祈禱名目や祝詞の文言からは除去され、天皇の慎みや国家安全祈禱として、その災禍に対処した。一方、自然現象への合理的解釈も社会に浸透し、神社社家等は、怪異を神社造営や運営参加を要求する契機として利用するようになった。
しめこみ
1802 上方落語
分が悪くなった八五郎、口ではかなわないと、たぎった湯の入ったやかんを投げつけた、これが台所に転がって湯が床下にだらだらと流れ落ちた。床下に隠れていて煮え湯を頭から浴びた泥棒さん、たまらずに這い上がって来た。不思議そうに見る二人を尻目に、泥棒は夫婦喧嘩の仲裁に入った。
ついに風呂敷包みはこの泥棒がこしらえたと分かり、二人は喧嘩別れせずに済んだと泥棒に感謝、調子に乗った泥棒は、「これをご縁に、またちょいちょい伺います」なんて図々しい。
明治維新と修験道
鈴木 正崇
慶應義塾大学
修験道は、江戸時代には民衆の中に神仏混淆の形態で深く定着していたが、新政府による慶應四年(明治元年)のいわゆる神仏判然令以後、急速に崩壊へと向かった。神仏判然令で最も甚大な影響を被ったのは権現に社僧や別当として奉仕してきた修験道であり、その解体は神道国教化を進める新政府から見て必然であった。修験は政府の指令に基づき、寺院として存続する、復飾(還俗)して神主になる、帰農するなどの選択を迫られた。そして、明治五年に出された修験宗廃止令によって天台宗か真言宗への帰属を迫られて事実上、解体された。
教育行政政策と道徳教育-義務教育成立過程に視点を当てて-
松田 智子
明治以降、国民全体の道徳的価値の育成において、学校教育をコントロールする教育行政は、良い意味や悪い意味においても、大きな役割を果たしてきた。本稿では教育行政の中で、道徳教育=修身が義務教育成立期に、どのような政策のもとに推進されてきたかを歴史的に概観することとする。江戸時代の儒教主義的な道徳政策は、現象面においては、明治政府の欧化主義的な意向を受けて変化したが、その後「教育勅語」により、道徳教育=修身の基本的な中身が、文部行政により大きく方向転換される。明治維新後の教育行政は短期間のうちに、現象面では180度「保守」から「開明」に、またはその反対に揺れ動いていくように見える。しかし本稿では、道徳教育=修身の基盤となる思想には大きな変化がないことも明らかにする。天皇を中心とした復古主義と儒教倫理は、表面上の教育政策は変われども、内包され継続されているのである。
宗教及び道徳性は思考に関わるものである。これらには理屈好きである、という記述はみあたらなかった。
まとめ
江戸期というのは、ヒトやモノの往来が盛んになり、見分を広げること、そして文化を隔てた先の人間に伝えることが重視されだしたこの時代だといえるだろう。つまり、この時代の学者はそれまでとは異なり「不可解な事象に対して憶測や理由のこじつけを行うこと」を役割としない。しかし、その一方で、未だ江戸期の一般市民にとって天災、怪異はすべてそのような合理主義の対象ではないようだ。
しかし、落語のなかの人間は、「憶測で話すし感情的、物事を一括りにしている」というにはあまりに事実論的であると感じた。ただ、落語というのはある意味世俗的で庶民の要求に応えたもので、「笑いもの」の一つであったとするといささか風刺的すぎるのではないかとも感じる。
江戸時代の人は理屈好きである、というのは非常に面白く、納得できる部分が多かったのだが、それを彼らの立場と同様に、現在自分が理屈っぽく述べるには難しいと感じた。